音楽の話

このページは BLUE Before-そっと心の中を風のように優しく切なく通り過ぎてゆく音楽HPの一部です。

(ジェフ・ベック)
HINEさん(音楽評論家?)の方の評論です。

 

 

ジェフ・ベックは、エリッククラプトンと共に天才ギタリストとして60年代半ばから活躍しながら、性格やギターに対する姿勢は まったく違っていた。"神様"と呼ばれながらも、常にフレンドリーで誰よりも人間的であったクラプトンに対し、ベックは性格も利己主義で自分勝手、 非情だとまで言われ、どこか近寄りがたい存在であった。ギター奏法も、独創的でトリッキーなことから、後継者になるようなプレイヤーも現れず、いつしか「孤高のギタリスト」と呼ばれるようになっていた。しかし、それにも関わらず、ギタリスト達の間で未だにカリスマ的な人気を保っているのは、やはり他の追随を許さないテクニック とセンス、並々ならぬギターへの情熱が伝わってくるからであろう。ジャンルを無視したミュージシャン達が選ぶギタリストの人気投票でも、ベックが最も活躍していた70年代には、ジャズやブルース・プレイヤー達を押さえてずっと1位に君臨していた。これだけの人気者、本来なら誰もがそのテクニックをマネし、取り入れたがるはずだ。しかし、そう簡単にベックのギターを マネすることはできない。


(イーグルス)

1971年にリンダ・ロンシュタットのバックバンド(Linda Ronstadt & Her Band )編成のためにミュージシャンが集められ、ロンシュタットが所属していたアサイラム・レコードからイーグルスとしてデビューした。
メンバーのグレン・フライが、シンガー・ソングライターのジャクソン・ブラウンと共作した「テイク・イット・イージー」が、1972年にデビュー曲でいきなりシングル・ヒットを記録。続く「魔女のささやき」も全米ヒットとなった。デビュー当初は一般にはカントリー・ロックのイメージが強かった。
マルチプレイヤーであったレドンが演奏するテレキャスター、バンジョー、スティール・ギター、マンドリンのサウンドが、バンドのイメージを決定付けていた。特に、バンジョーをフィーチャーした「早起き鳥」などの楽曲にみられるブルーグラス要素をロックのダイナミズムと融合させた点は斬新であった。

2枚目のアルバム『ならず者』はコンセプト・アルバムで、タイトル曲の哀愁を帯びたバラード「ならず者」は、後にリンダ・ロンシュタットやカーペンターズに至るまで、数多くのアーティストたちにカバーされるスタンダード・ナンバーとなっている。

1975年、大ヒット・アルバム『呪われた夜』を発表。タイトル曲「呪われた夜」をはじめとし、グラミー賞、ベストポップボーカル賞を獲得した「いつわりの瞳」、ランディ・マイズナーがボーカルをとる「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」と3つのヒット曲を生んだ。オリジナル・メンバーの音楽的なルーツであるカントリー色の濃い楽曲も依然見られるものの、全体としてはよりロック色を強め、またタイトル曲ではAORやファンク、ダンス・ミュージック的要素を盛り込むなど、音楽的な幅はさらに広がった。

1976年、彼らの代表作となるアルバム『ホテル・カリフォルニア』を発表。当時のロック界ひいては都市社会の矛盾を揶揄したかのような歌詞と13本ものギターを重ねた完璧なサウンド・ワークによって、1970年代のアメリカン・ロックを代表する曲のひとつとなったフェルダーの曲にヘンリーが詩をつけたタイトル曲「ホテル・カリフォルニア」、かつての勢いを失いつつあったウェストコースト・ロックの凋落を皮肉るように、田舎町にやって来た新参者へ向けられた地元民の一時的な強い好奇心と彼が飽きられていく様を唱った「ニュー・キッド・イン・タウン」、エゴ社会に警鐘を鳴らすかのように、好き勝手にふるまう無頼者が実は虚勢に満ちており内面に苦悩を持つことを言外ににじませた「駆け足の人生」など、単に人間の性(さが)や振る舞いを唱っているように見えながらも暗に根深い社会問題を提起するような深みのある歌詞を、角度を替えた音響アレンジに乗せて展開した曲に散りばめてバンドとしての頂点を醸成し、全世界的な大セールスを記録し、バンドを押しも押されもせぬロック界の代表格にまで押し上げた。

 

 


1979年には2度目の来日公演を果たす。
この頃、バンドは人気絶頂期だったものの、相変わらず不仲や、曲作りのスランプなどからバンドは1980年に活動を停止。そして1982年、正式にバンドの解散が発表された。
1994年に、第1期最終メンバーによって再結成。4曲の新曲とライブ収録曲を併収した変則アルバム『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』を発表し、以後世界規模でのツアーを繰り返し展開。
2011年3月1日から6日にかけて、実に7年ぶりとなる5度目の来日ツアーを東名阪ドームで実施した。
2016年1月18日、創設メンバーのグレン・フライが死去。3月10日、ドン・ヘンリーが解散を表明した。



(Deep Purple)

Jon Lord ジョン・ロード/キーボード
Ritchie Blackmore リッチー・ブラックモア/ギター
Nick(Nicky) Simper ニック・シンパー/ベース・ギター
Ian Paice イアン・ペイス/ドラムス
Rod Evans ロッド・エヴァンス/ヴォーカル

70年代前期のブリティッシュ・ハード黄金期、レッド・ツェッペリンと共に常にその頂点にあり、いまだ生きながらにして伝説化しているのが、ブリティッシュ・ハードの一方の雄ディープ・パープルだ。
1967年にイギリスで結成されたラウンドアバウトというバンドが彼らの前身。このバンドには、元アウトローズのリッチー・ブラックモアや元フラワーポット・メンの2人、ジョン・ロードとニック・シンパーも含まれていたが、68年にはサウンド強化のためメンバーチェンジを行い、 元メイズのロッド・エヴァンスとイアン・ペイスが加入。それと同時にバンド名も改め、ディープ・パープルと名乗るようになる。

68年にはアルバム「ハッシュ~ディープパープル1」でデビューした彼らは、いきなりそこからのシングル「ハッシュ」が全米4位の大ヒット を記録し、キーボードを前面に出したアート・ロックとして、大きな注目を集めた。アメリカでは同年中にリリースされたセカンド・アルバムからも、カヴァー曲の「ケンタッキー・ウーマン」がスマッシュ・ヒットし、前作以上の成功を収めた。しかし、ポップなシングル曲とは裏腹に、このアルバム や次のサードではしだいにクラシック音楽色を強め、プログレ・ハードの原型とも思えるような、ストリングスを多用した組曲などが増えていった。
だが、初期の彼らは、アメリカでの好調ぶりに比べ、イギリスでの評価は低く、まだまだ無名の存在であった。折しもこの頃、イギリスでは レッド・ツェッペリンが大ブレイクし、ハードでヘヴィなロックが脚光を浴びつつあった。リッチーは自分たちも、もっとハードなアプローチを するべきだと主張しはじめる。このリッチーのアイデアに対し、ジョンやイアンも賛同し、以降サウンドをハード路線へと切り替えていった。

Highway Star Deep Purple

 

ドロックの代名詞、第2期ディープ・パープル

70年、新メンバーを迎えて初めてのアルバムは、1期サウンドの集大成とも言えるクラシック・オーケストラとの共演であった。当時このアルバムは「ロック」と「クラシック」の融合を成功させたと世界中で絶賛された。このあと大手のアトランティック・レコードへ移籍した彼らは、いよいよリッチーの構想通り、よりハードでヘヴィなサウンドへと変貌を遂げる。その第1弾である70年発表のアルバム「イン・ロック」では、同じバンドとは思えないほど ヘヴィなサウンドで、リッチーのパワフルなギターとギランのハイトーン・ヴォイスが冴え渡る。このアルバムはみるみるうちに全英チャートを4位まで駆け上り、なんとトップ10に26週間もランクイン。先行シングルだった「ブラック・ナイト」も見事全英2位に輝いた。この大成功で、ツェペリンと肩を並べる存在にまでのし上がった彼らは、 以降リッチーがバンド内でのイニシアチブを取り、ハード路線をまっしぐらに突き進んでゆく。 同じ頃、イギリスではブラック・サバスも産声を上げ、そのサバスやツェッペリン、パープルらが生み出すハードとしか言いようのないロックは、いつしか「ハード・ロック」と呼ばれ、彼らの歩みと共に栄枯盛衰することになる。
2期パープルはその後も、アルバム「ファイアボール」(71年)が全英No.1、「マシン・ヘッド」(72年)が全米7位/全英1位と快調に大ヒットを飛ばし、72年ついに初来日を果たしている。。73年にはアルバム「紫の肖像」をリリースしたものの、 同年の再来日公演を最後にギランとグローバーは脱退してしまう。
すでにハードロック界の最高峰シンガーと称えられる存在となっていたイアン・ギランの後任を見つけ出すことは容易ではなかった。ヴォーカル捜しは難航を極めた。ふと何の気無しに聞いたデモ・テープから、なんともソウルフルで深みのある独特の声がメンバー達の耳を釘付けにした。その声の持ち主こそ、その後パープルを背負って立つことになる名ヴォーカリスト、David Coverdaleデイヴィッド・カヴァーデイルその人だった。第3期パープルのリード・ヴォーカルとして迎え入れられた。
そして、パープル・ファンならずとも、すべてのハードロック・ファンが見守る中、74年メンバーチェンジ後初のアルバム「紫の炎」(Burn)が発表された。
2人の新メンバーによって、ブルース(デイヴィッド)やファンキー(グレン)といった、それまでのパープル・サウンドにない要素が加わったことで、音の幅と深みが増し、このアルバムは彼らの最高傑作と言っていいほどの仕上がりをみせていた。もちろん、アルバムは大ヒットし、全米9位、全英3位、ドイツを始めとするヨーロッパ各地でも軒並み1位と、2期と同等の成功を収めた。中でも、押しも押されぬビッグスター・バンドのリード・ヴォーカル という重責を見事に果たし、すでにこのアルバムから全曲を共作するなど、新人らしからぬ存在感を見せつけたデイヴィッドの働きは、その後の パープルの方向性をも大きく左右することとなる。同74年、早くも次のアルバム「嵐の使者」(stormbringer)をリリースするが、このアルバムでは新メンバー2人のカラーが大きく反映され、よりファンキーでブルージーなサウンドに変化していた。それまでサウンド・リーダーであった リッチーは、パープル脱退を決意する。結局75年のヨーロッパ・ツアーを最後にリッチーは脱退した。
新たにデイヴィッドが捜してきたアメリカ人ギタリスト、Tommy Bolin
トミー・ボーリンを迎えることとした。

75年には、このメンバーでのデビュー作「カム・テイスト・ザ・バンド」を発表。3期のデビュー同様、かなりの話題作となった。
しかし、おおかたの予想通り、パープルの顔ともいうべきリッチーの穴を埋めることは難しく、9曲中7曲を共作するなど、コンポーザーとしての才能は高く評価されたが、ギタリストとしては、パープルの築き上げてきたブリティッシュ・ハードのスタイルとはまったくかみ合わず、ファンを がっかりさせた。また、ライヴでも観客に受ける曲は2期や3期のものばかりで、各地でリッチー・コールまで出る始末だった。

翌76年、ジョン・ロードはついにパープル存続を断念。記者会見で正式にディープ・パープルの解散を発表した。



(日本のロック)
日本のロックの大きなピークは、80年前後に訪れた。ニューウエーブ、パンク、テクノなど多彩な分野で歴史に名を残すバンドが登場した。
中でもひときわ輝きを放つのが、ワールドツアーを成功させ、社会現象化したYMO。 田山三樹編著『NICE AGE YMOとその時代1978—1984』は、渡辺香津美、土屋昌巳ら周辺にいたミュージシャンや関係者へのインタビューを通して、その存在の大きさを浮かび上がらせている。細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏のメンバー3人へのロングインタビューを載せた、田中雄二インタビュー・文『イエローマジックオーケストラ』(アスペクト)と併せて読むと、YMOのことがより深くわかる。


今の日本のROCK
Glay、L'Arc〜en〜Ciel 、ミスチルをはじめとして才能のあるグループが海外でも続々羽ばたいている。
でも、難しい!リズム、音感、スピード感、メロデイ、全てが優れていて素晴らしい。でも、言葉が聴き取れない時もある。日本語なんだけど日本語でない時もある。 時折、意味のないEnglishが混じってくる。でも、しょうがないいんだ、ROCKと日本語が調和しきれないから。リズムもいい、メロもいい、ノリもいい。言葉の問題だけです。
昔からある「日本語ROCK論争」に対してとても興味ある下のブログを発見しました。読んでみてください。
http://d.hatena.ne.jp/yagian/20110408/1302209920

 


(ローリング・ストーンズ)
評論家JIMMYさんのSTONESの紹介

ローリング・ストーンズは、長い間ビートルズと並び称され、現在でも活動を続けている怪物バンド。
70年代半ばまでのブルース基盤のロックはストーンズと共に動いていた。62年のデビューから順調にヒット曲を出す。メンバーチェンジを経て黄金期に突入。最高な出来映えのアルバムを連発し、78年にはディスコ音楽を取り入れた「ミス・ユー」が大ヒット。
時代の音楽を取り入れてバンドはどんどん巨大になる。表面的に見たらとても順調に成功したバンドの様に見えるが決してんなことは無い。
ドラッグ不法所持でキースが捜査されたり、コンサートで死者がでたり、そしてなによりもブライアンが脱退、死亡するなど、何かとトラブルが多いバンドなのだ。
それらのトラブルを乗り越えて、成功をつかんだ所が一番このバンドの凄い所だと思う。




LED ZEPPELIN

ヤードバーズ解散後、ニューヤードバーズとして自らのバンドを率いて活動していたジミー・ペイジは1968年にバンド名を「LED ZEPPELIN」に改名、アトランティック・レコードと契約、本格的に活動を始めた。
彼らは69年に「レッド・ツェッペリン」でアルバム・デビューすると、そのスケールの大きなサウンドが話題となり、大ヒットを記録した。次の「レッド・ツェッペリンII」では、シングル「胸いっぱいの愛を」の大ヒットもあり、早くも全英チャート7週間1位の偉業を達成している。
ビートルズの「アビイロード」を抜いたアルバムとして、キング・クリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」が有名だが、この「レッド・ツェッペリンII」もまた「アビイロード」を抜いたアルバムであることは、あまり知られていない・・・。また、この1969年という年は、後にイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」で「~ナインティ・シックスティナイン~♪」と唄われたり、映画「1969」などもある通り、ロック界にとってもたいへんな激動の年だったのだ。

その後のZEP.(ツェッペリンの略)はもう、飛ぶ鳥の勢いで、出すアルバム毎、全英か全英で1位という凄まじいセールスを記録し、名実ともに70年代を代表する ロック界のキングとして君臨した。
日本においてのZEP.は、ハードロック御三家と呼ばれ、人気は絶大でありつつも音楽的に正当評価されたのはかなり遅かった。

70年代初頭、日本ではディープ・パープルの方が人気があったぐらいで、ギタリスト志望なら、誰もがリッチー・ブラックモアのマネをしてポーズをとったりしていた。これは、 音楽的にパープルのもつクラシック音楽を取り入れたメロディアスなサウンドとスピード感が、当時の日本人に合っていたということが考えられる。ZEP.はどちらかというと、もっと泥臭い、ブルース、カントリー、ファンク、レゲエ、スワンプ・ミュージックなどをサウンド・ベースとしており、まだその頃の日本人には早すぎた。 ZEP.が日本でも正当評価され、他を寄せ付けないほどの絶大な支持を受けるようになったのは75年あたりからだ。
アルバムで言うとフィジカル・グラフィティがリリースされた頃で、ちょうど巷の音楽シーンでもソウル・ディスコ・ブームが勃発。それとともに、あらゆるブラック系ミュージックがポップ・チャート上位を賑わすようになり、日本国内でもそれらを聞く機会が格段に増えていった。

また、1つのカリスマ的ヒーローであったディープパープルが実質的には崩壊したことで、今まであまりZEP.を聞いていなかった人までがZEP.の方を注目し始めた。こういった状況の中で彼らが放った「フィジカル・グラフィティ」は、ZEP.の最高傑作と思われるくらい素晴らしい出来で、 一気に全てのハードロック・ファンの心をつかんだと言える。その後も「プレゼンス」、「永遠の詩」と名盤を立て続けにリリースした彼らは、日本においても ハードロック界のキングとしての地位を揺るぎないものにした。リズム重視のサウンドが全盛である現代、彼らの評価はさらに高まる。

 


80年代後期に隆盛を極めるヘヴィ・メタル・バンド達が、ほとんどこのZEP.サウンドを基礎としている事は言うまでもない。 ZEP.のサウンド・スタイルは、ハイトーンのヴォーカル、 重厚感とスピード感が一体化したギターリフ、ブルース・ロックを基調としたギターソロなど、ヘヴィメタの様式美として多く取り入れられていったものだが、ドラムだけは、いくら音を重くしてパワフルに叩こうとも、ボンゾ(ジョン・ボーナム)のようにはならないのだ。
それは、もちろんボンゾが並はずれた天才ドラマーだったからに他ならない。
ジミー・ペイジのギターは、3大ロック・ギタリストと呼ばれるわりに、何かと他の2人と比較され、そのほとんどは酷評を受けているが、それは他の2人が80%の力で弾き、残り20%で音を綺麗に出す方へ力を入れるギター・スタイルなのに対し、ジミーは常に100%全力投球で息着くヒマもなく、リフを刻んだり、アルペジオを弾いたり、音質を変えたりとバタバタしていて、多少のミスや他の弦の音が少し入ろうとおかまいなしなため、音が多少汚いこともにも起因している。



YES イエス (論評 byHINEさん)

70年代ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、EL&Pらと共にプログレ四天王と呼ばれ、プログレ界で絶大な人気を誇ったイエスは、分裂と統合の繰り返しによって成長しつづける特異なバンドだ。
イエスはこの4つの、どのバンドよりもプログレ的で、今日では“プログレ・サウンド=黄金期のイエス・サウンド”とも感じられるほど、ロック史上に与えた影響力は大きい。
そんな彼らの黄金時代、すなわち70年代にサウンドのkeyマンだったのは、スティーブ・ハウであり、リック・ウェイクマンであった。
イエス・サウンドといえば、たいがいの場合この2人がいた頃に築き上げた大作長編志向の曲を思い浮かべる。
しかし、下に記したオリジナル・メンバーにはそのどちらの名前も見つけることはできない・・・。

Jon Anderson ジョン・アンダーソン/リード・ヴォーカル
Chris Squire クリス・スクワイア/ベース・ギター、ヴォーカル
Tony Kaye トニー・ケイ/キーボード
Bill Bruford ビル・ブラッフォード/ドラムス
Peter Banks ピーター・バンクス/ギター、ヴォーカル

 

 

1968年にイエス としてデビューする。当初のイエス・サウンドはジョンとクリスの色が濃く、 フォーク・ロックやR&Bをベースとし、コーラスやハーモニーを大きくフューチャーしたもの であった。69年にはファースト・アルバム、翌70年にはセカンドもリリースし、ヒットこそしなかったものの、その独創的なサウンドが評論家たちに絶賛され話題になった。
70年2ndアルバム・レコーディング終了直後、1人目のKeyマンとなるSteve Howeスティーヴ・ハウが加入する。そして、翌71年にリリースしたサード アルバムはこの新加入のハウによって、今までのバンドとはまったく違うサウンドへと変化を遂げていた。ハウの持つクラシックやジャズのセンスが融合されたサウンドと彼の恐るべきギター・テクニックはただちに全英を揺るがすほどの話題を呼び、アルバムは全英7位の大ヒットとなった。
さらにこのハウの存在感に圧倒され、影の薄くなったトニーは脱退を余儀なくされ、代わりにハウの凄まじいプレイに対抗できるキーボード・プレイヤー、元ストローブス のRick Wakemanリック・ウェイクマンが加入。このメンバーで同71年に発表したアルバム「こわれもの」は全英7位、全米4位を記録し、彼らは一気に世界規模で活躍するビッグ・バンドへとのし上がったのである。波に乗る彼らは、72年ロックの歴史的名盤となる「危機」をリリース。これも全英4位/全米3位の大ヒットとなり、いよいよ名実共にプログレ界のトップ・グループにまで上り詰めた。ところが、このアルバムをリリース直後ビル・ブラッフォードも脱退し、キング・クリムゾンへ加入してしまう。
ブラッフォードの後任には、パワフルな敏腕ドラマーAlan Whiteアラン・ホワイトが加入し、長いイエスの活動期の中でも最強のメンバー・ラインナップとなった。
このメンバーで全米ツアーを敢行し、その模様を73年に異例の3枚組ライブ・アルバムとしてリリースした「イエス・ソングズ」も全英1位/全米12位の大ヒットを記録した。
しかし、このイエスの黄金期もリック・ウェイクマンの脱退によって崩れ落ちていくことになる。
このあとツアー中“アンダーソンがいないバンドはイエスにあらず”という厳しいイギリスのファンからの酷評を受けて、ついに81年イエス は解散してしまうのであった。


「(U2)」

1980年のデビュー以降、政治的な信条と渇愛を力強く歌い上げる作風で世界的に数多くのファンを持ち、依然トップクラスの人気を誇っている。
アルバムの総売り上げは、1億7,000万枚を超える。グラミー賞獲得数22は、ロックバンド最多である。
2005年にロックの殿堂入りを果たし、「Vertigo Tour」が同年のコンサート収益1位を記録、2011年6月、米経済誌フォーブス誌が「世界中で最も稼いでいるミュージシャン」を発表し、1億9,500万ドル(日本円で約156億円)を稼いでトップになった。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第22位。」

「U2」のbest10と言われている曲を紹介します。

With Or Without You
I Still Haven't Found What Im Looking For Live From Milan
New Year's Day
Sunday Bloody Sunday
Pride (In The Name Of Love)
Sweetest Thing
Where The Streets Have No Name
Discotheque
Beautiful Day
Vertigo




Aerosmithの歴史  BY KEN(評論家)

70年代、アメリカはニューハンプシャー州サナピー湖のザ・バーンというクラブで演奏していた、ジョー・ペリー(G)とトム・ハミルトン(B)のバンド、ザ・ジャム・バンドを見たスティーヴン・タイラー(VO)は、彼らと新たにバンド組む事を決意。既にバンド、チェイン・リアクションでプロとしてデビュー していたスティーヴン・タイラーは、このまだ見ぬ架空のバンドに友人のジョーイ・クレイマー(DS)を、そしてもうひとりのギタリストに複数のバンドでの経験を持っていたブラッド・ウィットフォード(G)を迎えた。この5人がエアロスミスのオリジナル・メンバーとなった。

エアロスミスというバンド名は、空気を意味する“Aero”と、職人を意味する“Smith”を合わせた造語であるという。
デビューしてから、独自の感覚でブリティッシュ・ロックのフレイヴァーをアメリカンに仕立て、徐々に自分達のスタイルを築いていった。

77年には初の日本公演も行われ、キッス、クイーンと共に「日本3大人気バンド」のひとつとして数えられるようになる。しかしバンドはドラッグに まみれており、第5作『ドロー・ザ・ライン』の完成も遅れる。100万ドル以上の制作費をつぎ込まれたこのアルバムは間もなくプラチナ・ディスクになり、 最高11位をマークするが、シングルはあまりヒットしなかった。
中心メンバーであったジョー・ペリーが79年に脱退。
81年にはブラッド・ウィットフォードも脱退。スティーヴン・タイラーもバイク事故により入院し、バンドは実質活動停止状態となる。

よもや解散か、というムードが強まる中、脱退後のセールスのふるわなかったジョー・ペリーとブラッド・ウィットフォードが84年に復帰。

 

 


 87年、ドラッグと決別したバンドは『パーマネント・ヴァケイション』という傑作を生み出す。シングル・ヒットを連発し、アルバム自体も11位まで上昇。
エアロスミス完全復活を印象付けた。二度目の来日公演を挟み、89年には『パンプ』を発表。こちらもシングル・ヒットを連発、アルバムは110週に わたってチャート・インするロング・セラーとなった。
そうして、93年にエアロスミス初の全米首位を獲得する名作『ゲット・ア・グリップ』を発表。
アルバムは世界各地でプラチナ・ディスクに輝き、全米で700万枚、全世界では1200万枚を売り上げる大成功をおさめた。シングル・ヒットを数曲 飛ばし、第二の黄金期を築く。翌年にかけて全20ヶ月にも及ぶツアーが組まれ、世界各国でエアロスミスの過去作のセールスも上がった。
その後のエアロスミスの活躍は、語るまでもない。97年に『ナイン・ライヴズ』が全米1位になり、98年には映画『アルマゲドン』の主題歌となった「ミス・ア・シング」がシングル初の全米1位になり、全世界でトップの座に君臨する。2001年には『ジャスト・プッシュ・プレイ』、2004年には ブルース・カヴァー・アルバム『ホンキン・オン・ボーボゥ』と順調なペースで活動を続けており、001年にはロックの殿堂入りを果たし、98年の洋楽アーティストで初となる4大ドーム制覇などに代表されるような偉業をいくつも成し遂げている。アルバムの トータル・セールスは1億枚以上とも言われている。 聴いたことのないロック・リスナーには「ローリング・ストーンズの真似」などと呼ばれていた
エアロスミスだが、その独自のポップスを昇華したロック・スピリットは、未知のリスナーには一度味わってほしい。さらに言うなら、決して馬鹿売れした「ミス・ア・シング」だけの印象で終わってほしくない。これからもエアロスミスは偉大な功績を残していくだろう。



ERIC CLAPTON

Eric Clapton with Paul McCartney While my guitar gently weeps

 

 

ジェフ・ベック、ジミー・ペイジと並ぶ世界3大ロック・ギタリストの一人とされている。ローリング・ストーン誌が選ぶ「最も偉大な100人のギタリスト」2位に選出されている。

1945年イギリス、サーレー州リプリー生まれ。幼い頃から独学でギターを身につけ、63年にヤードバーズに加入。66年にジャック・ブルース(b)、ジンジャー・ベイカー(dr)とクリームを結成。69年にはスティーヴ・ウィンウッドらとブラインド・フェイスを結成。70年に初のソロ・アルバム制作をはさみ、続いてデレク&ザ・ドミノスを結成し、歴史的名盤『レイラ』を世に送り出した。74年、アルバム『461 オーシャン・ブールヴァード』を発表。当時はまだほとんど知られていなかったボブ・マーリィの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をカバーして全米1位に送り込んだ。77年、「ワンダフル・トゥナイト」収録の『スローハンド』を発表。
81年にワーナーに移籍。89年のアルバム『ジャーニーマン』収録の「バッド・ラヴ」によって、個人として初のグラミー賞を獲得。92年、息子を失った悲しみから立ち直る過程で書かれた「ティアーズ・イン・ヘヴン」を映画『ラッシュ』のサウンドトラックとして発表。この曲を含めて新旧の代表的作品を演奏した『MTVアンプラグド』がアルバム化され、驚異的なヒットを記録、6つのグラミーを獲得。97年、映画『フェノミナン』のために吹き込んだ「チェンジ・ザ・ワールド」が世界的ヒット。第39回グラミー賞で年間最優秀レコードに選ばれる。99年、ベスト・アルバム『Best Of』を発表し、日本でもミリオン・ヒットを記録。
2000年以降も、B.B.キングと録音した『ライディング・ウィズ・ザ・キング』、2001年『レプタイル』、2004年『ミー&Mr.ジョンソン』、翌2005年『セッションズ・フォー・ロバート・J』と『バック・ホーム』、2006年には盟友J.J.ケールと録音した『ザ・ロード・トゥ・エスコンディード』、2010年には『クラプトン』を発表。2013年自身のレーベルを立ち上げ、アルバム『Old Sock』を、2014年には前年に亡くなった盟友J.J.ケールへのトリビュート・アルバム『ザ・ブリーズ~J.J.ケイルに捧ぐ』をリリースした。2015年5月14日から、生まれ故郷英国はロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにて生誕70年を祝うコンサートが7日間にわたって行われた。



Queen  by<HINE>

グラフィック・デザイナーであったフレディと天文学者ブライアン、歯科大学生ロジャーが1970年に巡り会ったことから、クイーンの軌跡は始まる。これに電子工学を学んだジョン・ディーコンが加わり、71年にクイーンはスタートした。
このインテリ集団クイーンは、サウンド面においても、当初からまったく新しいロックのスタイルを模索していた。そして、早くもセカンド・アルバムでは、その類希のないオペラ・ロックという音楽スタイルを打ち出し、3枚目からのシングル「キラー・クイーン」と「炎のロックンロール」を大ヒットさせた。
4枚目の「オペラ座の夜」ではついに“クイーン・サウンド”完成させ、その計算し尽くされた曲展開と幾重にも重なる完璧なハーモニーを最大の売り物にした。
この頃になると、デビュー当初はアイドル・グループ扱いしていた、評論家達も手のひらを返したように、こぞってブリティッシュ・ハード最後の大物だと絶賛していた。
また、パフォーマンスにおいても彼らは独創的で、あの例のフレディのタイツ姿や、ブライアンの100年近く暖炉に使われていた材料で、2年間かけて自作したシンセ・ギターの奏でる100通り以上の音のマジックや時折聞かせる、ドスのきいたハスキー・ヴォイスのロジャーのヴォーカルなど、まったく飽きさせることがなかった。
しかし、フレディのイメージする音楽コンセプトを一丸となって具現化してきた彼らにとって、「シアー・ハート・アタック」「オペラ座の夜」「華麗なるレース」の3枚で、ほぼ全てをやり終え、完成させてしまったことで、これ以降はサウンド的にも、迷いが生じていった。
この間、ジャズ、ファンク、ワールド・ミュージックなど、さなざまな実験的サウンドを試みるが、思うようにかみ合わず、しだいに昔からのファンは離れだし、クイーン自体も失速するかに見えた。
だが、このピンチを救ったのが、それまで影の薄かったジョンとロジャーの2人であった。まず、中期クイーン最大のヒット曲「地獄へ道づれ」を80年にリリース。これがジョン・ディーコンの作品だったことに誰もが驚いた。昔のイメージを捨てたことで、新鮮でかっこいいサウンドに仕上がった。その後、 フレディはこの間もまだ迷いを振り切れず、 名曲は書くのだが、アーティスティックな面では精彩を欠いていた。
84年今度はロジャー・テイラーの手によって“クイーンらしさ”を持ったポップ・サウンドの「RADIO・GA・GA」が大ヒット。
この曲が「その後クイーンの向かうべき方向」を指し示したと言えるだろう。そして、翌85年に参加した、80年代最大のロックの祭典「ライヴ・エイド」での大成功。これで、本来のクイーンらしさも息を吹き返し、再び「カインド・オブ・マジック」「ザ・ミラクル」とヒット作を生むことになる。
だが、この喜びもつかの間、フレディが病魔(エイズ)に侵されたことが発覚、88年にバルセロナ・オリンピックで歌う筈だった名曲「バルセロナ」を残し、91年にフレディは突然この世を去った。オリンピックまで、あと1年のことだった・・・。
クイーンもこれにより解散したが、95年、フレディの遺言で死後に発表して欲しいと頼まれていた曲を含む「メイド・イン・ヘヴン」をラスト・アルバムとして発表。ここに収められていた曲達は紛れもない、クイーン・サウンドそのものであった。フレディ渾身の歌声は、まるで最後に、やはり自分の目指してきたサウンドはこれだと再確認するかのように・・・。

I was born to love you by Queen

 

 



クイーン・サウンド分析
クイーンのサウンドは前期、中期、後期、それぞれにおいて変化しているので、一概にどれがクイーンだとは言えないが、大きく分けて2つに分けられる。1つはフレディのもつイメージ・コンセプト をメンバー全員で構築していった結果生まれた、オペラ・ロックとも呼ばれるサウンドで、もう1つは他のメンバーを中心とした、ポップ志向の強いサウンドだ。
前期クイーンはドラマティックな曲調とオーヴァーダビングによるコーラスや楽器の完璧なハーモニーが特徴で、ほとんどの曲をフレディとブライアンで書き上げ、そのすべてがトータル・コンセプト・アルバムとなっている。
中期は迷いが生じたフレディに対し、着実に実力を付けてきた他のメンバーが曲作りでも台頭し、ジョン作曲の「地獄へ道づれ」をはじめ、ポップなシングル向きの曲が増えていく。

そして、フレディが再び目覚めた後期クイーンでは、他のメンバーと自分の音楽を自然な形で融合させていくことに成功する。いわば、前期と中期のサウンドを合体させたものが、後期の サウンドだと言えるだろう。しかし、やはりクイーンとして一番輝いていた時期は前期であり、最高傑作は?と聞かれれば、間違いなく「シアー・ハート・アタック」と「オペラ座の夜」をあげるだろう。
そして「ボヘミアン・ラプソディ」は時を越えて永遠に聴き継がれる名作でありつづけることだろう。