人間の詩


人間の詩

このページではnatsu-mikanさんが集められた人間エピソードを紹介しています。

『母の最期の味』

私が8歳で、弟が5歳の頃の話です。
当時、母が病気で入院してしまい、父は単身赴任中であることから、私達は祖母(父方)の家に預けられておりました。
母や私達を嫌っていた祖母は、朝から夜遅くまで舞踊のお稽古に行き、私達の世話は一切しませんでした。そこで、私達はいつも近所に住む
Aさんという人のいいかたの家でご飯をいただいておりました。
ある日、母が一日だけの許可をもらって退院してきました。
本当は体がとてもきつかっただろうに、母は甘えつく私達を何回も抱っこしてくれました。
夜は、三人で歌いながらハンバーグをこねて作りました。
「今日はお母さんが帰ってきたから、ご飯はお家で食べます!」
Aさんの家に挨拶に行った時の弟の、何か誇らしげな表情を見て嬉しくなった私は、その紅潮した頬っぺたに何度も自分の頬っぺたを擦りつけて家に帰りました。


家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。
しばらくすると、着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。
「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、
「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」
と言って、母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。
「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、ごみ袋から母の作ったご飯を手ですくって食べ始めた。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。
小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。悲しさと悔しさの恨みの味…

(想い)

どんな人間にとっても自分の母の存在が掛け替えもなく大きい。だから、自分が大人になるまで母がいた人と幼くして亡くした人は、余りにも違う人生を歩むのだろうと思う。切ないけどどうしようもないんですね。

 

『罪』

私の母は未婚の母です。父は本妻さんと、私の腹違いの兄姉夫婦と暮らしてます。
二人はもうそういう関係ではありません。
が、私がたまに郷に帰ると、電話が来ます。
「酒のもう」と。で、指定された店に行きます。
と、席に付いた途端、酒から刺身から寿司、テンプラと、ものすごい量の料理がテーブルに並びます。
父が予約で、料理を一から注文しておくのです。
父はもうとうに還暦を過ぎて、身体の調子も良くないというので、料理にほとんど手を付けず、私の方に押しやります。
「食え、食え、もっと食え」とエンドレスに言います。
父は、自分の酒は必ず手酌で、私にばかりお酌します。
私の酒杯は常に満タンです。
食べきれない・飲みきれないでふうふう言って、店を出る頃、父は
「何か困ってることはないか」と言います。
旦那の仕事は上手くいってるか、暴力なんて受けていないか、体は大丈夫か、金に困ってないかと続きます。
「なにもかも大丈夫」と答えます。
最後に父は、目をそらして
「お前には何もしてやれないで、申し訳ない」
と必ず言います。
「世の中には償えないことがある。」
と言うのが父の口癖です。
父は、私の祖父の前で、
「誰に何を言われても別に何も構わないが、娘は俺に文句のひとつも言わない。それが俺のした事の罪だ」
と言って、泣いたそうです。


(想い)

親は子供に対して、取返しのつかない失敗をしても、そのことに対して子供が何も言わずにけなげに育つことが親にとって本当に辛いことだと思う。そして、そんな子供が本当にかわいいのだろう。


 


『パパからのメール』

姉と妹は母と、私は父と、それぞれ仲がいい。 去年の秋、父が亡くなった。 父の携帯は解約したけど、家で話す相手のいない私は父のメアドにメールを送った。 「パパに会いたい」「パパ助けて」「もう死にたい」… 宛先不明で返って来るのに、バカみたいに泣いて何通も送っていた。 受験前、母からメールが入った。 タイトルは「パパより」 もう正直、最初は「はぁあぁっ?」って感じで本文を読む気にもなれなくて放っておいた。 でも、なんか、試験の前日になってメールを開いたら 「パパはいつでも君を見ています。  パパは今も君の傍にいます。  君はパパの宝物、  いつまでもいつまでも愛しています。」 「なんだよ、パパのフリしてんじゃねーよ、バーカ」って言いながら、涙が止まらなかった。 家に話す相手がいないのは、私が話しかけなかったから。 話しかけられても、私が無視していたから。 本当はみんなわかってたけど、自分からは何も変えられなかった。 このメールはそんな私を心配して、パパがママの心を通じて送ってくれたメールなんだ。 母のアドレスの父に、私は返信した。 「パパ、私は大丈夫だよ。大好きな家族がいるからね」


(想い)
どんな形の家族であれ、みんな誰しも家族のことが一番心配で、一番大事に思っていると思う。事情があってそれを素直に言うことができない人もたくさんいるけど、心の中はそうなんだろう。そして家族が自分のことを本当に心配していてくれること。誰もそれが一番うれしいことなんだと思う。

 

 



『兄貴』

中学の入学式が終わっ2日後、突然母親が蒸発したんだ。 理由は分からない。女手1つで俺と兄貴を育ててたから生活は楽ではなかったんだ それは分かるが、それでも俺は楽しかったし、母も兄貴も楽しくやってると思ってた でも本当に突然、母がいなくなった 最初は2、3日帰ってこないだけだど思ってた。兄貴が何も言わずに普通にしていたから・ 1週間2週間たっても母は帰ってこなかった。その間俺の食事や家のことは、 当たり前のように兄貴がやっていた。何もいわないで、ずっと以前からそれが日常だったみたいに。 当時高2だった兄貴には付き合い始めたばっかりの彼女がいたはずだった。 放課後一緒にいたかったはずなのに、スグに学校からかえってきて、 家の事をして俺の食事を作ってくれて、俺の弁当も毎日作ってくれてたっけ・・・ それから県内1の進学校に通っていたから、夜遅くまで勉強もしていたみたいだった。 そんな兄貴の苦労も知らずにいたおれは今までどーリ学校にいって、 放課後は好きなバスケに打ち込んで、本当に今までどーリだった。母親がいない寂しさを感じないくらいに 兄貴が俺にかまってくれたりしていた。 それでもある日俺は言ってしまった 「母さんどこ行ったの?もう帰ってこない?そんなんいやだ・・なんで帰ってこんの?」 一度泣き言言い出すともう止まらなかった。自分でも気づかなかったけどやっぱり 無理してたんだと思う。兄貴は俺が泣き止むまでずっとそばにいてくれた。 その後、母親が蒸発したこと・理由は分からないこと・1度だけ母から電話があったこと を教えてくれた。もう帰ってこないことも教えてくれた。おれは又泣いた。 すると兄貴はこういった 「寂しい思いはさせない。兄ちゃんがいるから大丈夫だ。御飯だっておいしいのを作ってやるさ」 本とはもっと違う言葉だったかもしれないけど興奮していた俺はよく覚えてない。 もちろんガキだったおれはその言葉で泣き止むことはなく、ずっと泣いていた。泣きつかれて眠るまで兄貴はずっと そばにいた。 それからの俺は荒れた。 別にタバコとか警察沙汰とかはなかったが学校で教師ともめたり同級生と喧嘩になって相手に怪我させたりもした そんな時いつも兄貴が学校にきて謝っていた。同級生の親に謝りに行った事もあった 本当に迷惑かけたとおもう そんな感じで1年が過ぎた。当然の疑問だけど生活費はどうしているんだろうと思っていた。 聞いて見ると前からもらっていた生活保護金とバイト代を使っているって答えが返ってきた。 俺に内緒でバイトをしていたらしい。 どうも母が蒸発した翌月から始めていたらしい。 何のバイトなのかはどうしても教えてくれなかった。 でも生活保護金とバイト代だけで生活を支えてたんだから ホントに大変だったと思う。 おれは高校に進学した。兄貴が勉強教えてくれたから特待生で入学して 費用は一切かからなかった。 兄貴は進学せずに就職して生活を支えてくれていた 俺はバイトして少しでも兄貴を助けたいと思った。でも兄貴がそんな時間があるならバスケと勉強してろって言ってくれた。俺はそれに甘えた。今思い返してみれば俺はどれだけ駄目な弟だったんだって思う・・・ そんな俺たちの生活を見かねた親戚が離婚していた親父を連れてきた。 今からでも一緒に暮らそう。そういった親父に兄貴はこういった。 俺たちを1度捨てた人間には頼らない。でも弟には苦労をさせたくない。 弟だけでよいから一緒に暮らしてやってくれ。 兄貴は泣いていた。後で聞いた話だが自分ひとりで俺の面倒や大学進学費用を支えられないのが 悔しくてたまらなかったらしい。そんな兄貴の気持ちが嬉しかった でもこれ以上兄貴に迷惑をかけたくなかったおれは、親父と一緒に暮らし始めた。 それでも兄貴とは手紙で連絡をとってた。1月に2、3通ぐらいきてたっけ 次第に兄貴からの手紙が少なくなり、最後には来なくなった。 最近昇進して忙しいって手紙に書いてあったのと 大学受験2ヶ月まえだったことからそんなに気に止めてなかった 晴れて大学に合格して兄貴に報告の手紙を出したら、3週間後知らない女の人がたずねて来た 兄の恋人だったと言った。その人はこういった。 「あきおさんね、もう君には会えないんだ。あえないだけじゃなくて、手紙もかけない ううん、君だけじゃなくて私ももう会えないんだ」 そういって3つの封筒をだした。1つは兄貴の遺書だった。 兄貴から手紙が来なくなったのは、兄貴が入院したからだった。 入院なんてかくとお前心配するから、大学受験控えてるから 昇進して忙しいってウソついた。ごめんな。 医者が言うにはもう助からない見込みが高いって。 お前の卒業式とか入学式とか見に行けないかな。ごめんな そういえばお前の引退試合も仕事で見に行けなったな。ごめんな お前さびしがりやだから俺がいなくなって大丈夫かな? でももうずっと俺がそばにいなくても大丈夫だったから大丈夫か? 何か文章おかしいな。いざこんな事書こうとしたら中々かけないもんだね。 もっといっぱい書きたいことがあるはずなのにな。なんでかな、言葉が出てこないよ。 いまさらだけどこの手紙をお前が見てるときは、俺はもういないんだよな。 お前の成長をまだまだ見たいし、お前が本気でほれる女の子も見てみたい。 なんて自分の子供に言う言葉みたいだな。 それなんだ。お前に言いたいのは。 母さんがいなくなってから俺がお前の親父代わりで母親代わりだったつもりだ。 それでもやっぱり寂しい思いをさせたよな? 最初の頃は料理も下手くそだったよな? 全然駄目な兄貴でごめんな 頼りになんない親父だったな、ごめんな お前の悩みひとつ聞いてやれない母親だった。ごめんな 身内自慢になっちゃうけど、こんな俺の弟なのにお前は最高にいい男だよ お前の兄貴だったこと、親父だったこと、母親だったこと 全部がおれの自慢だよ。これから先もっといい男になって、立派な父親になってくれ あ~何書いてんだろう俺、馬鹿みたいだな これ以上書くと情けないこと書いちゃいそうだから そろそろ終わりにするよ じゃあ元気でな。 いつもの手紙とちがって、子供が書いた手紙みたいな 兄貴の遺書がとても暖かった。残り2つの封筒は兄貴の日記と、 兄貴が恋人に宛てた手紙だった。 手紙を読んで分かったんだけどこの女の人は兄貴が高2の時から付き合ってる人だった。 その日記や手紙には俺のことがたくさん書いてあった。 俺のことで悩んでる兄貴がそこにいた 俺のことをとても考えてくれてる兄貴がいた 俺の前では決して見せなかった弱い兄貴がいた 兄貴の苦労が始めて分かった 兄貴が抱えていたつらさが初めて分かった もう兄貴に会えないと思った 悲しくてたまらなかった。 いままで長々書いてきたけど結局おれは兄貴にありがとうが言いたい 6年間で兄貴にありがとうなんて言った覚えがないんだ。恥ずかしい話だけど ほんとだめだな俺。 なあ兄貴 こんな俺が自慢の弟だなんて言ってくれてありがとう 俺を6年間守ってくれてありがとう それから兄貴を6年間支えてくれたナナさん どれだけ感謝してもたりないけど本当にありがとう

 

(想い)

親を失った兄弟の絆っていうのは強いんだろうね。またその時の兄や姉の弟・妹に対する愛情は計り知れないほど強くなるんだろう。それはもしかして本能的に自分が守らなければいけないという感情に襲われるのかもしれない。そして自分が犠牲になっても小さい子を守らなければという愛情が芽生えてくるのだろう。

 

 

『病気の彼女を見舞う彼』

まだ1年ほど前の事なのですが・・・。 彼女がこの世を去りました。病死です。 その彼女と出会ったのは7年程前。 相手はその頃大学1年生でした。 持病があり、あと5年生きられるかどうか?と寂しく笑っていました。 それを承知で私たちはつきあい始めました。 つきあい始めたのは良いのですが、私の仕事の関係で遠距離(関西-東 北)になってしまいました。それでも、彼女は笑いながら逢えるついで に旅行も出来ると言い、月に1度のペースで会いに来てくれました。 相手は実家に住んでいて、私は貧乏サラリーマン。それを察して、相手 が私の所に会いに来てくれていたのです。最初の3年は、その様な感じで普段は寂しいながらも、お互い幸せに 過ごすことが出来ました。そして相手は卒業。東北から関西に就職す るのは無理でした。彼女は地元で就職し、お金を貯めて関西に来 ると言いました。私も彼女を迎えるため、必死で貯金を始めました。彼女が就職して1年が過ぎたころ、遊びに来る頻度が、それま で毎月だったのが、2ヶ月3ヶ月と間延びし始めました。毎晩電話で話をしていましたが、丁度1年半ごろ前から、たまに彼女 が電話に出ないことがありました。そのころから、ふと私に嫌な予感が わき起こっていました。私は両親がいません。物心ついた時には、父親は蒸発。そして高 校の時に母親が病死しました。そのため、彼女の両親には嫌われていま した。彼女はそれなりに良いところのお嬢様だったので、どこの馬の骨 とも分からない私は、最初から相手にされていませんでした。ある日、そんな彼女の父親から私の元に電話がありました。彼女の持病が重くなり、来週から入院することになる。だからもう電 話はかけてくるな、もうほっておいてくれとだけ言われ、一方的に電話 を切られました。私は来るべき時が来たと思い、しばらく悩みましたが、思い切って上 司に掛け合ってみました。東北に転勤させてくれと。答えはNOでした。 しばらく会社と話し合いをしましたが、結局私は会社を退職、故郷に 戻りました。荷物も売れる物は売り、出来る限り身軽にして彼女が入院 した病院の近くに、小さな部屋を借りました。そして、彼女に会いに行きました。彼女はかなり驚いていました。そしてひたすら「ごめんなさい」と謝っ ていました。私は会社をリストラされたから故郷に戻ってきたと言い、 新しい勤め先も近くだから、仕事が終わったら会いに来るよ、とだけ伝 えました。昼間は彼女の母親が居るので、私は病室に入れてもらえませんでした。 そして週末には父親も面会に来るので、もちろん病室に近寄ることも許 してもらえませんでした。昼間や週末はコンビニでバイトして、 平日の夕方彼女の母親や父親が帰った後、残された僅かな面会時間に会 いに行くという日々を送っていました。そうする間にも、彼女は目に見えて衰弱して行きました。柔らかかった手は骨が浮き出て、頬はこけ、足はすっかり衰えてしま い、ベッドから起きあがるのも難しいくらいでした。彼女は私が会いに行くとよく泣いていました。元気じゃなくてごめん なさい。ちゃんと両親に認めてもらえなくてごめんなさいと。私は そんな事気にしたことはありませんでした。ほとんど食欲がなく、もっ ぱら点滴と管で栄養をとる彼女でしたが、時々大好物のリンゴを持っ て行き、すり下ろして絞って作ったリンゴジュースをなめさせたりしま した。そのときに見せる笑顔で私は十分幸せでした。私に出来ることは、そうやって彼女を元気づけることだけでした。短い面会時間だったので、あまり話も出来ず、ただ彼女の手を握り、 帰り際にキスするくらいしか出来ませんでしたが、私は十分幸せでした。去年の3月の末、いつもの様に彼女に会い に行きましたが、彼女は眠っていました。病室に響く規則正しい電子音 に私も睡魔を感じ、つい1時間程眠り込んでしまいました。目が覚める ととっくに面会時間は過ぎており、あわてて病室を後にしました。すると、エレベータの前のベンチに誰かが座っていました。別に気に せずエレベータのボタンを押そうとした私に、その人が話しかけてきま した。「話がある。」 その人は彼女の父親でした。「何でしょうか?」「君はどうしてここにいる?」「あの娘のお見舞いに来ているのです。」「そんな事を聞いているのではない。」「と言いますと?」「会社を辞めて、フリーターになってまで、どうして帰ってきたんだ?」「ご存じでしたか。」「どうしてそこまで出来るんだ?」「どうして? 好きな相手の側にいるのに、何か理由が必要ですか?」「・・・・。」「私の事を認めてくれとは言いません。ですから、せめてご迷惑をおかけしない様にと・・・。」「分かった。今度からは私たちに気兼ねすることなく、あの子に顔を見せてやってくれ。」「え?」「それではこれで失礼する。」 たしかこんな会話だったと思う。それからは毎日彼女に会えるようになりました。彼女の母親も面会時 間の終わる1時間前に病院を出て、私が彼女と会える時間には席を外してくれるようになりました。彼女の話によると、父親が母親にそうするように言ったそうです。そ して私とのことは彼女の好きにするようにとも言ったそうです。でも、それから1週間ほどのことでした。夜、自分の部屋で寝ていると彼女の父親から電話がかかってきました。低く落ち着いた声で、今から会いに来てやってくれ、そのかわり覚悟 して来てくれと、彼女の父親ははっきりとした口調で言いました。私は、大急ぎで彼女の病室に行きました。看護婦や医師に囲まれたベッドの中で、うつろな目をした彼女が居ま した。薬の影響ですっかり髪の毛は抜け落ち、頬はこけ、青白い手を医 師が掴み、脈を取っている様子でした。夕方彼女と会った時、確かに衰弱は進んでいたが、それでも話が できる程度の元気があったはずでした。その変わり果てた彼女の様子に、 私は身動きも出来ませんでした。一歩下がった所で、目を真っ赤に腫らして立っている彼女の両親が居 ました。私を見た彼女の父親は、黙って母親を促しました。母親 は私の手を取ると、この子の手を握ってあげて、と言いながら、彼女の やせ細った手を取り私に握らせました。そのとき、うつろだった彼女の目に一瞬光が見えた気がしました。そして、彼女はゆっくり口を動かしました。ほんの僅かでしたが、はっ きり動かしていました。私は急いで彼女の口元に耳をあてがいました。微かでしたが、彼女は、ごめんなさい、と繰り返して言っていました。私は涙が止まらず、そして何もいえず、ただその子の手を握り返し、この子の言葉を聞き逃すまいと必死で彼女の口に耳を当てていました。頭が真っ白で、どうして良いのか分からず、ただ手を握り 返す事しかできませんでした。突然私は肩をたたかれ、我に返りました。振り向くと彼女の父親が私 の肩を掴んでいました。そして彼女を真っ赤に腫れた目で見つめていま した。私はその手を取り、彼女の手を握らせようとしましたが、彼女の 父親は首を横に振り、君が握ってやってくれ、私はここで良いと言い ました。それからどれくらいの時間がたったのか、私には分かりません。しか し、それまで僅かにごめんなさいとつぶやき続けていた彼女が、一言、 別の言葉をつぶやきました。「○○ちゃん(私の名前)ありがとね。すごくしあわせだったよ。」 確かにそう私には聞こえました。それが彼女の最後の言葉でした。私はあわてて彼女の両親の手を取り、彼女の手を握らせました。気丈 だったご両親でしたが、彼女の手を握った途端、涙を流しました。それからどのくらいの時間がたったのか分かりませんでしたが、突然 それまで不規則に響いていた電子音が、連続音に変わりました。医師が彼女の目に懐中電灯を当て、ゆっくり「ご臨終です」と言いま した。その言葉を聞いて、彼女の母親が声を上げて泣き始めました。気 がつくと私も、そして彼女の父親も声を上げて泣いていました。握りし めていた彼女の手がゆっくり確実に冷たくなっていくのを感じました。次の日、彼女の父親から喪服を渡されました。そして、二通の手紙を 手渡され、今夜は君もあの子のそばにいてやってくれと言われました。私はひとまず部屋に戻りました。部屋に入った私はしばらく力無く部 屋に座り込んでいました。ふと手に握らされた手紙を思い出し、二通の 手紙を見ました。一通は彼女の父親からでした。中を見ると一枚の便せ んにしっかりとした字で、すまなかった、そしてありがとう、その二言 が書いてありました。もう一通は彼女の字で、私に当てた手紙でした。 中には、私と出会った頃から彼女が入院するまでの事が、びっしり書き 込まれていました。そしてその内容一つ一つに、自分がどれだけ幸せだったか、どれだけ救われたかが書かれていました。その手紙を読みながら、 私はまた声を上げて泣きました。その手紙の最後には、こう書かれてい ました。私が居なくなっても、○○ちゃんは元気でいてね。私のすごくすごく 大切な人だから、沢山幸せになってね。新しい彼女見つけなきゃだめだ よ。私のこと好きなら、○○ちゃん、絶対に幸せになってね。約束。  私はシャワーを浴びながら、声を上げて泣きました。いつまでもシャ ワーを浴びながら泣き続けていました。シャワーを出た私は、彼女の父親から受け取った喪服を着ました。なぜか私にぴったりのサイズでした。まだ涙は乾いていませんでしたが、喪服に着替えた私は、彼女の家に 行きました。彼女の家には少しずつ親類や知り合いの方々が集まって来 ている様でした。私は彼女の両親に連れられ、彼女の安置されている部 屋に通され、彼女のすぐ側に席をあてがっていただけました。彼女の両親は、親類縁者の方々に私を彼女と付き合っていた青年だと 紹介されました。通夜と葬式にも出席させてもらえました。そして常に私があてがって もらえた席は、彼女に一番近い席でした。彼女の両親よりも近い席でし た。私はその席を辞退しようとしましたが、彼女の父親に諫められまし た。君がその席に座らなくてどうする。私たちに気遣うならその席に座っ てくれと。  今は彼女の父親に紹介された会社で働いています。いったんは断りま したが、彼女の父親と直接関係のある会社ではない事、そして仕事が気 に入らなければ自由に辞めて良いと説得され、その好意を受けることに しました。  彼女の思い出はまだ鮮明に心に残っています。

 

(想い)

当たり前のことかも知れないが、人間にとって打算のない愛が一番美しい愛です。人間はそのために生きているのかもしれないと思う。