
詩人たちよ叫べ
かつて産業革命の際に
煙を吐き出しながら
冷徹な力で人間たちを使役した ...詳細
詩人たちよ叫べ
かつて産業革命の際に
煙を吐き出しながら
冷徹な力で人間たちを使役した ...詳細
今や
神の被造物としてではなく
人間自らの被造物となった―――人間
これを何と呼ぼう ...詳細
現代社会が向かおうとしている地とはどのような場所なのであろうか。
ダーウィンが提唱した自然淘汰による進化の法則は、人類の起源を明らかにしただけではなく、 今や人類自身の進化の法則として、 資本主義社会どころか、社会主義や共産主義社会までをも巻き込み、激しく突き動かす原動力となっている。 人類は、自然法則に忠実であろうとしているのだろうか・・・。
そしてマルクスが、階級闘争を基本とした社会法則を説明するために発明した「疎外」という概念は、 現代においても資本主義的な競争、 資産保有の大きさによる新たな階層分化、2極化という現象を説明し、 生き続ける普遍的な概念となり得るにもかかわらず、 完全に忘却され、無視されている。何故だろうか・・・。
その理由はともかく、この「疎外」という概念は、恐らく近い将来、人類が味わうであろう衰退を予言したところの、 極めて重要なものである、と私は感じている。
我々は、科学技術において、ニュートンの発案した「微分」という概念を経て「近似」という手段を手に入れ、 20世紀後半において「Digital」という強力な技術に発展させた。限りなく近似することによって再現すること ―――その原理が「計算」による支配を可能にした。
「Digital」技術は、人間の脳を次々と代替し始め、速さにおいては遥かに人間を超えるまでに進化し、 すでに「近似」とは言えぬほど正確に「再現」し、さらには「予測」とは言えぬほど正確に「未来を実現(?!)」していくようになった。
その一方で、脳の一部を「Digital Computer」に委託した我々自身は、知らず知らずのうちにそれらに守られ、 同時に監視・制御されながらも、ゆったりとソファでくつろぎ、あるいは指先だけで仕事を楽々と片付け、 あるいは仮想的に得られた「近似物」によって五感を満たしている。
いや―――本当に満たされているのだろうか・・・。そして、将来さらに豊かに満たされてゆくのだろうか。
あらゆるものをコントロールするために組み込まれたCPU。その原資であり創造物である記憶装置。 それらは、驚くほど多数の、いや、殆んど全ての創造物を制御している。 すなわち、我々の手足の代替物である、飛行機、自動車、鉄道などの乗り物。我々の自律神経の代替物である空調装置、生命維持装置など。 我々の脳の代替物であるCPUや記憶装置そのもの。などなど・・・。最後に残された「意思」とて、それ単独で存続し得るはずもない。
これこそ、マルクスが産業革命の中で見た悪夢たる「疎外」の究極の姿―――「疎外された生命」でなくて何だろう。 今や死神は権力でも、産業大資本でもない。カフカが恐怖した社会や制度、共同体、そしてそれへの所属―――そういったものでもない。 数式であり、それを従えた無数の外部生命体なのだ。
あらゆるものに拡大する「Digitalize」、そして同時に進行する「疎外」。 人類はやがて、自ら創造した「生命近似物体」に取り巻かれ、 それを操ることからも撤退し、衰退してゆくに違いない。
私は、”葉擦れの地”の解説にも記したように、常に幾つかのテーマを念頭において詩を書いてきた。 しかし、実は10年以上も前から、何をテーマに書いたらよいかわからないままに、書きたいと感じるテーマを見出せずにいた。
今回私が見出したテーマは、恐らく私の残りの半生を費やして余りあるものである、とひそかに感じている。
既に死し、地下に眠っている、偉大な詩神(ミューズ)の御加護のあらんことを。 2006.1.20