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「S」「海辺」「血」~掛川 享嗣
詩ページ:「S」
「海辺」
「血」 |
作者サイト:slight-coma(閉鎖) |
彼の作品について再び書く。 「S」を読んで、私はまず、ランボーの「酔いどれ船」を思い浮かべた。スケールの違いこそあれ、 その速度感覚のようなものは共通している。そして、何ものかへと向かう、その方向性の強さ、あるいは視線の強さ、 さらには乗り手の執念のようなものも・・・。 この作品の最後は、次のように書かれている。 ”さあ 彼の地へと この抜け殻を連れて行け!” そして2連目末尾には、次のようにも―――。 ”手を離すな 自我の結合力” 自我の遊離、分裂―――そうした破壊が進行しつつある、あるいは、自ら破壊しつつある―――そういう意識。 辛うじて繋がっている自我には、まだ結合しようという引力が残っているとは言え、疾駆する馬の速度は、既に制御できるものではない。 その先に待っているものは、原子核の周りを不規則に周る電子のような、そんな意識である。もはやそれは意識ではなく、 原子崩壊して無数に分裂、飛散した自我の軌跡、振動―――そんなものである。 同時期と思われる作品に「海辺」という詩がある。 この詩だけ取り出して読むと、単なる日記帳の中の呟きである。けれども、「S」のような詩と並べて読んでみると、心を打たれる。 詩とは何だろう。「血」という詩の中で、彼は次のように書いている。 ”このぼくという在り方において 最も重要なことは こうして文字を綴ることに他ならない ノートに向かいペンを走らせるということは 即ち 自身を産み落としていくことに他ならない 染み込んだ このインクの分だけ ぼくは生きることができる ” 彼の作品が私に投げかけてくるものは、確かに、産み落とされた彼自身である。そして、それ故にこそ、私は彼の作品に強く引き付けられる。 詩が、詩だけの世界に閉じこもり、詩であるだけのものとなったとき、詩は死ぬ。現代詩は、そういう意味で既に死んでいる。 実は、私はその亡骸を抱えながら、おめおめと泣いているだけなのかもしれない。 2006/11/27 |