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葉擦れの地

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「孤独の間」「朝のこない団地」~石畑 由紀子

詩ページ(2006/12/21現在):「孤独の間」 「朝のこない団地」
作者サイト:言葉のアトリエ
 「孤独の間」に記されたテーマは、現代人全てがごく普通に持っている、ありふれたものだ。 それにもかかわらず、この作品は私を惹きつける。

 ”暗くて寒くて寂しくて 私は膝をかかえてうずくまる
  ああ、自分の涙が頬にあたたかい
  たった独りで産み出すぬくもりはこんなにも痛く なのになぜか愛おしくて”

これは、現代人の多くが忘れている、もしくは全く知らないもののひとつであるにちがいない。 猫が身体を震わせて熱を出し、自らを温めるように、我々にもぬくもりを生み出す力があるのだ。 しかし我々はひたすらそこから抜け出るために、暖を取ろうとする。 あるいはテレビを見て、あるいは電話をして、あるいは友人を求めて―――。

 「朝のこない団地」では、逆に、「私」は部屋のカーテンを閉じて、暗い部屋に閉じこもっている。 毎夜階段を上ってくる男は、既に「先週の午後」に死んでしまっているはずの者。

 怯える「私」は、涙を流すことさえ忘れてしまっている。まるで、孤独であることが罪悪であるかのように。 そして、そのように「孤独」というものを断罪したのは、皮肉にも、個人の解放と自由を目指してつくり上げられてきた、 他ならぬ現代社会そのものなのだ。容赦のないそいつは、孤独者を見出した途端に、牙を剥く・・・。 男を「降らせ」たもの、そして「私」が無意識に怖れているものは、実は、そのような社会である。

 一体、この国の人間の多くを孤独の中に追いやってきたものは何なのであろうか。戦後のわが国は、 アメリカから輸入した「自由」というものを、何の吟味もせずに、ただ食い漁ってきただけなのではないだろうか。

 気が付くと、Massという名の画一的な社会に溶け込めぬ者は「孤独者」のレッテルを貼られ、 反抗できぬものは徹底的に叩き潰されてしまう。しかも、叩き潰す側の者たちも、 何かの拍子で躓いた途端に逆の立場になってしまう。年老いて、金が底をついてしまえば、誰でもそのような深みに陥り、 社会はそれを平気で置いてきぼりにしてしまう。それが伝染、拡大してしまった―――それが現代の日本である。

 この詩の中に次のようなリフレインがあって、形を変えながらも繰り返されている。

 ”自分の身は自分で守るのだ”

 さりげなく記されたこれらの作品は、現代における「孤独」というものの、と胸を突く一連の肖像画であり、 作者が現代社会に提示した疑問符なのだ、と私には思える。

2006/12/21