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葉擦れの地

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「夢に見る町」「わたしの町が 欲しい」~刑部憲暁

詩ページ(2006/11/11現在):「夢に見る町」 「わたしの町が 欲しい」
作者サイト:Nanospace
 数多い彼の作品から、「町」というテーマを扱ったものを取り上げてみる。

 これらの詩において「町」は、憧憬の対象として描かれているが、それは、そこに住む人、 そこを吹く風が一体となって溶け合った「町」であって、単なるエリアとしての町ではない。

 「夢に見る町」という詩では、作者が希求する、そのような町の姿が描かれている。

 「わたしの町が 欲しい」という詩では、生気を失いつつある町を出て、新たな町を求める視線。

 最近、昭和30年代を取り扱ったテレビドラマや映画が多く作られた。その中で、町は、 そこで暮らす人々を包み込む空気そのものとして、ノスタルジックに描かれている。

 考えてみれば、現代人は、町ではなく、「住居」という空間に住んでいるだけである、と言うことができる。 交通網の発達や車社会の進展によって、買い物はどこででもできる。法律や社会保障制度が完備され、 あらゆるサービスは向こうからやってきてくれるような社会であり、コミュニティーなど必要がなくなり、 どんな人間が近くに住んでいようが、特に気にする必要はない。インターネットは遠方の気の合う仲間を探し出してくれる。

 あらゆるものが「個人」を中心に考えられているのだ。戦前の「家」中心の社会がもたらした弊害を思えば、 それも無理からぬことではあるが・・・。いつの間にか忘れてしまった「町」と言う存在に、ようやく人々が気付き始めたのだ ―――そして、同時に、隔離されてしまった「個人」のわびしさを・・・。

 中心市街の空洞化を止める必要がある、として、最近は街づくり計画の手法を見直そうという動きが盛んだ。 郊外型の店舗の出店を抑え、開発も抑制する。郊外の美しい田園環境を守ると同時に、駅前商店街をもう一度盛り上げる。 コンパクトシティと称されるその概念は、いわば都市機能と田園環境とを分離し、町に秩序を戻すという考え方であり、 それらの動きにつれて、コミュニティ―――すなわち、そこに住む人々の輪というものも見直されつつある。

 ある意味では、稼ぎまくった金によって維持してきたシステムが、経済が下火になるにつれて崩壊に向かい、 再び自らの手によって、すなわちコミュニティによって支えなければならぬ時代になりつつある、とも言える。

 昭和30年代への憧憬に満ちた視線も、その延長上にあるのだろう。

 もちろん、この二つの作品における「町」とは、もっと抽象的で広い空間であろう。すなわち、我々自身の心が 「暮らすところ」であり、あるいは作者の詩作遍歴上の「寄港地」である、と読むこともできるだろう。

 これらを読みながら、僕は、そんなふうに「ひと、かぜ、まち」というものを想った。

2006/11/11