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「電話線」「夕べの空洞」「手紙」~武田聡人
詩ページ:「電話線」
「夕べの空洞」
「手紙」 |
作者サイト(2013.6.23現在):えいえんなんてなかった |
かつて、電話は音だけを伝えるものであった。現在は、写真や短い動画などの映像も伝えることができる。近いうちに、画面を見ながら相手と会話することが当たり前になることだろう。そのことが我々に与える影響は、計り知れないほど大きいに違いない。その時には、顔の見えない相手から、決まった時刻にかかってくる無言電話―――それは、別の形で訪れることになるだろう。私たちのコミュニケーションは、更に機能的で、かつ希薄になるかもしれない。 「電話線」という詩では、作者(彼)が、受話器の向こうから聞こえてきた音のようなものから、無言電話の主の居る場所、世界、大気といったものを感じている。 もちろん、そこから感じ、受け取ったそのような世界が、受話器の向こう側に現実に広がっているかどうかは、彼にとってはどうでもよいことだ。この詩に描かれている情景は、彼自身の心の中にあるものだから。 以前、他の詩人のreportの中でも書いたように、私は「北方」というイメージに強く惹かれる。この「電話線」という作品でも、荒涼とした北方のイメージが強く支配している。しかも、この作品に描かれた光景は、吸い込まれるような奥行きの向こうから、強く何ものかを訴えかけてくる――― 単なる情景描写を超えて私の心を大きく揺り動かす。それは何故だろう・・・。 「夕べの空洞」という、別の詩の中には、次のような一節がある。 ”クレバスの奥深く 宙吊りのままに間氷期をやり過し 生き延びることが ただ生き延びることが 生というものであったなら おまえのための門には記されていよう おまえが見るだけの者であるならば もはや見るな おまえが聞くだけの者であるならば もはや聞くな おまえが書くだけの者であるならば もはや書くな ” 彼が常に、現代人に向けて、そして同時に自分に対しても、常に強く訴えかけているのは、このことではないだろうか。 「電話線」で描かれた、荒涼とした北方のイメージは、実は、まるでぼろ布のようにうち棄てられ、物質世界に隷属している現代の「人間性」そのものである。だからこそ、その詩は深く心に沁み込んでくるのだ。 希薄になりつつある、生というものの本当の力、美しさ、温かさ―――、ひたむきな人間同士が出会うその時だけに実現する魂の交感――― 彼は、そういったものを求め、描こうとしていた、数少ない者のひとりだった。 アプローチは異なっていても、彼もまた、現代と真正面から向き合った詩人なのである。現在、詩作の筆を折って久しいことが惜しまれる。 「手紙」という作品の中には次のような一節がある。 ”この街の空の下で ぶつぶつ呟いている人たちに 手紙のような詩を 僕は書きたい ” 2005/12/12 |