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「橋 あるいは晩夏の目醒め 」~岡部淳太郎
詩ページ(2013/6/23現在):「橋 あるいは晩夏の目醒め 」 |
作者サイト:21世紀のモノクローム |
初めて読んだときは、この詩の若々しいエネルギーのようなものを感じた。 詩にエネルギーを与えるものとは何だろう。というより、読む者にエネルギーを与え得る詩とはどんなものだろう。 この詩を最初に読んだとき、そういうことを考えた。 激しい言葉を連ね、叫ぶような表現を使っても、いわんや「!」を使っても、煽動的な内容であるだけでも、 エネルギッシュな詩はできない。少なくとも、それは詩作の技(わざ)の問題ではない。 現に、現代の詩を自分なりに訪ね歩いてきた中で、このようなエネルギッシュな詩には、ほとんど出会えなかった。 現代という時は、そのような詩を拒絶しているのだろうか。 次に読んだときは、この詩における「森」「脚韻」の意味に思い至った。 この詩における「森」は、それまでの作者(彼)自身の詩世界――― というより、それまで彼を暖かく取り囲んでいた世界であり、 彼が目を向けてていた旧世界である。あるいは「受け取る」世界である。 そして「脚韻」は、彼自身の詩遍歴――― 誤解を恐れずに言えば、それまで作者自身が歩んできた人生である。 より具体的に言うならば、それらから受け取った様々なものであり、そこから培われた彼の詩の素地であり、彼自身の人間的な素地である。 3度目に読んだときには、僕はヘッセの小説を読んだ後と同じような気持ちになった。青く、高く、 広々とした空を見上げたくなった。海辺に出かけ、水平線を抱き寄せたくなった。 作者自身が、雉に導かれて抜け出た世界は、草原であった。遮るもののない世界。すなわち、自由であるが、 しかし、自ら「探し、創造する世界」である。 最初に読んだときの問いかけに戻ろう。読む者にエネルギーを与える詩とはどんなものだろう。 この詩は、それに対するひとつの答えである。 2005/11/25 |