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葉擦れの地

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「ひとつの祈りを」~tameiki

詩ページ(2005/7/24現在):「ひとつの祈りを」
作者サイト:ためいき
 私は「北方」というイメージに、常に強く惹かれる。

 私の中の「北方」のイメージは、水で薄められたような淡く、しかも透明で瑞々しい色彩、青味をおびた白、乾いた空気、太古の氷で削られて鋭さを失った大地の輪郭、空の広さ、冬以外の季節の短さ、冬の長さ、・・・等々。

 そういったイメージを無意識に探していた私を捉えたのが、この詩を書いた作者のサイトだった。  冬のイメージをもつ詩というのは多く見つかるのだが、「北方」のイメージをもつ詩にはなかなか出会えない。それが、このサイトに掲載されている詩のほとんどまるごと全てが「北方」のイメージを持っているのだ。

 私は、作者が北海道に住んでいるということの呪縛を受けているのだろうか?それによってイメージを膨らませて読んでしまっているのだろうか?

 いや、正直私自身にもわからないのだ。それらの詩で描写されている風景や事物などについて、特段に「北方」特有のものが多用されているとは言えないのに、 なぜこうも「北方」のイメージを強く感じるのか・・・。

 紹介した詩を読んでもらえばわかるだろうが、この詩にも何ひとつ「北方」特有の風景や事物は含まれていない。ここにあるのは、 非常に重い喪失のイメージと重なった情景、感情・・・。

 特に1連目の

 ”ひとつの祈りを
  生きるのではなく
  ただほろぼすために
  これだけの時を
  賭けてきたのか”

と、それに続く2連目の

 ”鏡よ
  もうわたしには
  砂漠すらいらない”

という部分に、私は強く強く惹かれたが、ここだけ取り出して書いてみると、北方のイメージなど微塵もない。

それなのに、この詩全体から、ひんやりとした、そしてうす青い北方の大気を肌に感じる。

 そして、この詩だけではなく、他の多くの詩もそうなのだが、作者の視線の向こうに、あるいは作者の傍らに、 常に別の「誰か」が居るのを感じる。それは亡霊のようなものではなく、もっと身近で、普遍的な何者かなのではなかろうか。 ここで取り上げた詩の最後に見出される「未生の寝息を繰り返す」子猫も、実はその「何者か」なのではなかろうか。

 それだけではない。もしかしたら、その「何者か」こそ、北方のイメージを含む霧のようなヴェールで、詩を包んでいる張本人なのかもしれない。

2005/7/31