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目次

1 はじめに

2. 旅程

3  旅日記

ドイツ南部(1)

ドイツ南部(2)

■  ドイツ南部(3)

ドイツ北部

4. 旅の情報

 

 

第7日 ■10月28日(木):ホーエンシュバンガウ・フュッセン 

今日はノイシュバンシュタイン城を昨日と同様にプライベートツアーで見学し、午後はフュッセンに行く。

朝のホーエンシュバンガウは深い霧のなかにすっぽり埋もれ周囲は何も見えない。ホテルで朝食を取っていると隣席の日本人夫妻が話しかけてきた。夫妻は東ドイツから各地を訪ねながら2週間ほど旅をしているとの事。住まいはなんと隣町の八千代台の人で奇遇としか云いようがない。お互いに旅の無事を祈って別れた。

昨夜ガラーンとしていた駐車場に次から次へと観光バスが来て日本人、中国人のツアーの団体を運んでくる。静かだった村が急に日本語、中国語などが行き交い今日一日の幕開けになった。団体客の中に西洋人は居ない。まだホテルでゆっくりしているのだろう。

9時15分、ホテル前から出るマイクロバスに乗ってマリエン橋に行く。日本人のツアーの人たちがこのマイクロバスに乗り込んできた。マイクロバスはたちまち一杯になり出発。霧に包まれたカラマツ林の坂道を進み、やがて山の中腹にあるバス停に着いた。バスはここまででここからマリエン橋、ノイシュバンシュタイン城まで徒歩で訪れる。

schvangau4.jpg (40558 バイト)バス停から山道を標識に従って登ると眼前が急に開け、深い谷に鉄橋が架けられていた。ここがマリエン橋。

ノイシュバンシュタイン城を眺める絶好の場所で観光客が必ず立ち寄り、ノイシュバンシュタイン城をバックに写真を撮る所だ。

しかし、今日は朝靄が周囲に立ち込め城が見えない。

この橋は城を建てる前からあった様で、この橋から城を攻撃するのには好位置と思えるのに何故壊さなかったのか...など考えている内に、霧が晴れ出しておとぎの国にある白亜のお城が霧の中に浮かびあがった。絵葉書にある快晴の中の城よりこちらの霧の中の城の方が幻想的ですばらしかった。

schvangau6.jpg (37540 バイト)マリエン橋から徒歩10分足らずで、ノイシュバンシュタイン城に着く。見学用のゲートには沢山の観光客が見学の順番を待っていた。

待っている観光客は殆どが日本人のツアー客だ。日本人はノイシュバンシュタイン城が好きなんだ。

予約の見学時間になり、城内に入る。今回はツアー客と同時間でがやがやと入城した。入り口近くに背の高い女性の従業員がいたので、我々はプライベートツアーでお願いしていると伝えた。

彼女は承知していて、日本語のオーディーガイドを使うのであれば、自由に見学してよいとの事で、一緒に入城したツアー客とは別にマイペースで見学した。

旅行ガイドブックに掲載されている城の内部は写真より多少薄汚れ、各部屋の装飾や間取りはやや細か過ぎる感じがした。ミュンヘンで見学したレジデンツのスケールの大きさ、内部の装飾を見学した後であったので余計その印象が強く、余り感動がなかった。

人口わずか5千人足らずホーエンシュバンガウの小さな村が世界的に知られているのはホーエンシュバンガウ、ノイシュバンシュタインの二つの城のお陰である。

当時ドイツはプロセインが主導権を握り、周辺国のデンマーク、オーストリア、フランスと戦争が絶えず、バイエルン王国はプロセインの宰相ビスマルクに振り回され実権のないルードヴィッヒ2世は自分の世界に閉じこもり、城を築く以外に自らの存在を示す方法が無かった。

「国王は狂気である。バイエルン王国の国費を浪費している」と非難され、その後謎の死を遂げた。しかし、現在では高い見学料にもかかわらず、世界中から多くの見学者が殺到し、賑わい、この地区の財政を潤しているのは確かだ。

ノイシュバンシュタイン城を見学してから、徒歩で山を下り、バス停からフュッセン行きのバスに乗る。丁度授業終了時だろうか、大勢の小・中学生が乗り込んできた。この子供達の学校は先日間違えて行った学校から来たようだ。急に賑やかになる。子供達はバスが停車する度に少なくなりフュッセン到着時には誰もいなかった。

フュッセンはドイツ最南端にありオーストリアとの国境近くにある。15〜16世紀にイタリアとアウグスブルグを結ぶ重要な商業拠点として栄えた。このことから、フュッセンの紋章は「3本の足」を表した珍しい形をしている。

fuessen1.jpg (39706 バイト)フュッセンの駅から徒歩2〜3分にある歩行者天国のライヒェン通りを進むと丘の上にカラフルな城が目に入る。そこでバックパッカーの日本女性が我々に声を掛けてきた。

[「ロマンティック街道の終点」と書いた門を探しているのですが、何処にあるのでしょうか]
「我々も今日が初めてで、フュッセンに着たばかりでよく判りません。我々もその門を見学したいと思っています。ご一緒に探しませんか?」


fuessen2.jpg (24672 バイト) バックパッカー嬢「こりゃダメだ」と思ったのか道行く地元の人らしい人に聞いていたようだがその地元らしき人も知らないらしい。バックパッカー嬢は「ご一緒させてください」と我々に付いて来た。

我々は当初の予定通りホーエス城に行き,それから旧市内を散策しながら例の門にも行く予定であった。

彼女はホーエス城の坂道を早足で歩き始め、やがて引き返してきた。「列車に乗るまで時間がないのですみません先に行きます」とばかり旧市街に消えていった。

ガイドブックを片手に時間に追われ、ただ見て周っている様だ。せわしない。女性は一人旅で大丈夫かな〜と余計な心配をしてしまった。

14〜15世紀に建てられたホーエス城はアウグスブルグ大司教の離宮であった。今も綺麗な姿をとどめている。レヒ川に出る。川幅はそれほど広くは無いが流れが速い。当時は重要な交易水路で、川のほとりに聖霊シュビタール教会があり、レヒ川を渡る旅人はこの教会で安全を祈願した。

fuessen4.jpg (17888 バイト)レヒ川に沿って更に進むと聖シュテファン教会があり、その裏手の民家の門に「ロマンティック街道の終点、Ende der romantischen strasse」とある。付近にはなんの案内表示も無いので、ここにたどり着くのはちょっと難しい。

フュッセン市内を散策した後駅前からバスに乗る。バスの到着時間が近づくとフュッセン駅から学生が大勢出てきた。

小中学生であろうか。耳にピアスをしている学生や乗車前にタバコをすっている子もいた。バスの中はまるでスクールバスのようになり、屈託のない子供達にバスは占領された。子供達は途中の村々で下車して行く。我々は子供達の陽気さに圧倒された。10分足らずで、再びホーエンシュバンガウに戻った。

schvangau5.jpg (38910 バイト)今夜もホテル・リスルでホテルアレンジのフルコースディナーを楽しんだ。レストラン内に流れるBGMは音が悪く、無い方が良かった。

バイエルン料理のディナーの味はもうひとつであったが、ホテルの設備、雰囲気、今回のホテルのアレンジは最高であり、優雅な2泊であった。

第8日■ 10月29日(金):ディンケルスビュール

07時55分 :ホーエンシュバンガウ発(ヨーロッパバス)
12時45分 :ディンケルスビュール着

今日からヨーロッパバスでロマンティック街道を北上し、ディンケルスビュール、ローテンブルグに滞在しヴェルツブルグまでゆく。

前の晩に頼んでおいた5時のウエイクアップコールで起床、パッキング、7時朝食、7時30分精算、7時50分バス停着と忙しい。天候は曇が多いが青空から満月が辺りを照らす。

まだ日の出まで時間がかかりそうで周囲は薄暗く、人通りの無い坂道を我々はスーツケースを引いてバス停に急ぐ。バス停にも誰も居ない。8時近くなると辺りはすっかり明るくなった。ローカルバスが着いた。沢山の子供達が降りてきた。もう通学時間だ。

やがて定刻の8時7分にバスが来た。客席は真っ暗。誰も乗っていない。ドライバーにディンケルスビュールまでのチケットを渡し、誰も居ないバスの最前列の席に座る。

バスは先日オーバーアマガウから来た時に通った道を戻るように、シュタインガーデンの村を通り、ヴィーズ教会に向かう。背後に荒々しい山並みが遠くに見える。我々はあの山々を越して来たのだ。

ロマンティク街道は良く整備されている。道行く車はフュッセン、インスブルック方面の方が多い。街道の小さな村は綺麗に手入れされ気持ちが良い。

wies1.jpg (33317 バイト)ヨーロッパバスは当初、主な村・町などをドイツ語、英語、日本語で説明したテープを流していたが、乗客は我々、日本人2名だけなので、途中から日本語の解説テープのみが流された。

ヴィーズ教会に着いた。ここで20分程度の停車。その間に世界遺産に登録されたヴィーズ教会を見学する。

教会は田園地帯の中にポツンと建ち、教会前に土産物屋兼レストランが一軒あるのみで他に何もない。シーズンオフの早朝の為か観光客は我々のみ。

wies2.jpg (26640 バイト)教会内に入る。教会内は外観とは全く異なり、宮殿のように目を見張るような立派な装飾であった。教会内はまだ照明が入っていなかったので薄暗かったが、照明が入ったらさぞかし絢爛豪華であろう。

バスは見渡す限りに広がった田園地帯を走り、30年戦争以来無傷で中世の姿をそのまま残すランツベルグを過ぎ、広いバイパス路を進むと急に車の数が増え、やがて大きな町の中に入ってゆく。

ここがアウグスブルグ。バイエルン地方で3番目に大きい都会で、市電が市内を走り、交通量が多い。レンタカーを運転しなくてよかった。

バスはアウグスブルグの駅で10分間のトイレ休憩。ここで2組4名の日本の若者が乗り込んできた。

バスは再びバイパスに入る。晴れていた空が曇ってきた。天気予報ではドイツ北部は連日雨らしい。そういえば数日前から新潟県長岡の地震によるがけ崩れ、日本青年がイラクでテロリストに捕まったこと、アラファトがパリの病院に入院、ブッシュとケリーの大統領選挙など様々なニュースが入ってくる。

バスはドナウ川に流入するヴェルニッツ川を渡るとドナウヴェルトの町中にはいる。メインストリートは中世そのままでの姿を良く保存している。バスは更に北上し、ハールブルグの小さな町を過ぎた辺りから青空が見え明るくなってきた。

nordlingen2.jpg (22860 バイト)やがて、城壁にある狭い入り口をくぐるとネルトリンゲンの町の中心に着く。ここで休憩。この町はかつて隕石で出来た盆地にあり、円形の城壁内は中世の面影を充分に残している。

街中を散策してみた。道行く人たちが当時の服装であったら、完全に中世の町にタイムスリップしたような感じになるであろう。聖ゲオルグ教会や城壁の回廊を訪れたかったが、時間が無いので眺めるだけになった。

nordlingen1.jpg (32726 バイト)バスの出発時刻になった。我々のバスに同乗していた若者たちはバスを降りたとたん消えてしまったので、どこか特別な見所があるのだろうかと思っていた。

そうしたら、彼らは缶コーヒーやお菓子を入れたビニール袋を提げて戻ってきた。到着と同時にスーパーマーケットに直行したのだろう。街中では会わなかった。

ネルトリンゲンを離れ、しばらく走ると大きな城壁に囲まれた町に入りバスは町の中心にある市庁舎の裏手に停車した。ドライバーから「ディンケルンスビュールに着きましたよ」と知らされ、バスから荷物を降ろしてもらい、今夜の宿、ドイチェスハウスに行く。

dinkelsbuhl2.jpg (28121 バイト)ホテルはバス停から直ぐにあった。6階建ての堂々たる国宝級の切り妻屋根の木骨組み家屋で1440年に建てられ、現在もホテルとレストランとして利用され健在だ。

客室は10部屋のみとのことで早めに予約して置いたのでここに宿泊することが出来た。

バー兼受付でチェックイン。ホテルの若い従業員が階段を上って重い荷物を軽々と担ぎ上げてくれた。部屋に入る。部屋はあまり広くはないが、家具調度品は当時のままのようで趣がある。バス、トイレは広く、近代的で綺麗。

街中のケーキ屋さんで簡単な昼食を済ませ、市内を散策する。町を囲む城壁には沢山の見張り塔が当時のまま残され、城壁に沿って作られ道を歩いてみた。静かだ。この町は木立が多い。紅葉した木の葉が一部落葉し、晩秋の風情を一層醸し出している。

dinkelsbuhl1.jpg (28297 バイト)ディンケルスビュールは「小麦の丘」の意味で穀倉地帯の中心であった。第二次大戦の被害を受けなかった。17世紀の30年戦争(1617〜1647)により荒廃したドイツは多くの餓死者、病死者が出た。

この戦争の最中にスウェーデン軍がこの町を攻撃しようとした時に子供達が「町を壊さないで」と願い出て町は破壊から免れたことから毎年、7月に子供祭りとして演じられる。

実際は「食糧と冬季の宿営地を提供し、破壊と略奪から免れた」らしい。町には大きな穀物倉庫の建物がいまも残されている。

今夜はホテルのダイニングルームで食事を取る。太い柱で組まれ、紋章などが描かれた天井、彫刻が施された分厚い板の壁面はチョコレート色に変色し長い歴史を感じさせる重厚な部屋だった。

我々はその窓側の予約席に付いた。宿泊客ではない外来の客でダイニングルームは瞬く間に満席になった。後から来た客は席につけず帰って行く。我々はここでビールとステーキでディンケルスビュールの夜を味わった。

dinkelsbul4.jpg (16059 バイト)あるイベントを見るために夕食後ホテルの前に出た。ホテル前のマルクト広場の教会前にかなりの人が集まっている。

しばらくすると豆腐屋さんが吹きならしていたようなあのラッパを吹きながらランターンと杖(槍?)を持ち、中世さながらのいでたちで一人の老人が現れた。

彼はディンケルスビュール名物の夜警である。現在はショー化し、観光客をひきつれ、あちこちのホテルに立ち寄り、夜警のお礼として出されるワインを飲み、付いてきた観光客におすそ分けをする。このようなイベントは旅行者にとって楽しい。

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