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目次

1 はじめに

2. 旅程

3  旅日記

ドイツ南部(1)

ドイツ南部(2)

■   ドイツ南部(3)

■ ドイツ北部

4. 旅の情報

 

 

第14日■ 11月04日(木):ツェレ

09時25分 :ハイデルベルグ発(IC2374,プラットフォーム#4)
14時19分 :ツェレ着
14時30分 :ホテル・ボーチャーズ

今日は悪夢のような体験をさせられたイメージの悪いハイデルベルグを後にして、国際都市間特急列車、ICでゲーテ街道、メルヘン街道を北上し、ツェレに向かう。

anlage.jpg (34945 バイト)ホテルで朝食後チェックアウトする。あれ宿泊料が半分だ。このことは列車に乗ってから気が付いた。

睡眠不足で頭がぼーっとしていたのだろうホテルのオーナー夫人の計らいで宿泊料を半分にしてくれたのに、その時直ぐお礼を言うべきだったのにしなかった。

御免なさい!帰国後直ぐにお詫びとお礼の手紙を出した。

ハイデルベルグ駅4番フォームでIC2374を待つ。この列車も一等車はコンパートメントタイプで他の客が無くゆったりと車窓を眺める。昨日の苦い経験が今も後を引き、旅行気分がもうひとつ乗らない。

列車はフランクフルト、カッセル、ハノーファーを過ぎ、定刻の14時19分に到着。毎回感心するがドイツの鉄道ダイヤは正確だ。全て時間通り。

ツェレ駅からタクシーで旧市街の中心にあるホテルボーチャーズに行く。ホテルは木骨組みのがっしりとした建物で、部屋は道路に面し、眺めが良かった。

celle2.jpg (33635 バイト)ツェレはドイツ北部のリューネブルグ原野の南限になる。アッラー川に沿った町でこじんまりしているが人口は7万人と多い。公爵領でハノファー種の馬の飼育で有名。

900年ごろ町はケルと呼ばれ、「川畔の居留地」という意味で、後に訛りツェレになったといわれる。

ツェレは中世時代に立てられた建物がそのまま残っている。最も古いのが1292年で殆どが16〜17世紀にかけて改装されている。当時、馬上試合が行われたシュテッヒバーン通りからツオルナー通りを行くと時代の異なる500軒あまりの木骨組みの家が立ち並んでいる。まるで木骨組みの家の展示会場のようだ。

英国に来た観光客は必ず訪れる木骨組みの家の町として有名なチェスターとは比較にならない程の規模の大きさであった。町の中を散策するだけで充分楽しめる。

celle3.jpg (35482 バイト)シーズンオフであり、時刻も夕刻なので、観光客は無く、地元の人たちが忙しく買い物などで歩いていた。街角で大道芸人が演奏をしていた。

コミカルな服装で、履いている木靴で調子をとっていた。木靴の甲高い音が今でも耳に残っている。

昨日の後遺症が今も残り、二人とも食欲が無い。ウイーンでも、フュッセンも利用した酢漬けの料理が中心のテイクアウトレストラン、ノルドで夕食を済ませ、ホテルに戻った。

第15日■ 11月05日(金):ブレーメン・リューネブルグ 

08時19分   :ツェレ発(IC2470 #5)
09時00分 :リューネブルグ着(ホテルに荷物を預ける)
10時29分 :リューネブルグ発(ME81427 #3)
10時50分 :ハンブルグ着
10時56分 :ハンブルグ発(IC2305 #4)
11時45分 :ブレーメン着
17時19分 :ブレーメン発(ME81427 #10)
18時31分 :ハンブルグ着
18時39分 :ハンブルグ発(IC2379 #6)
18時55分 :リューネブルグ着

今日はツェレからリューネブルグに行き、ホテルに荷物を置いてから、ハンブルグ経由でブレーメンまで日帰り観光をして、夕刻リューネブルグに戻る予定。

ツェレからこの旅でお世話に成っているICでリューネブルグに行き、駅からタクシーでホテルに行きチェックインし、フロントに荷物を預けるつもりであった。

ところが、フロントの中年女性は我々の予約を受けていないという。そのようなこともあろうかと、E-メールで予約したコピー見せた。確かに予約の申し込みを受けたが、最終確認の返事を受けていないので予約取り消しと判断したとのこと。

当方は予約確認をリセンド・メールでホテルに送っているのでホテルが受信をしていないはずが無いし、メール送信エラーも無い。しかし、ホテルからのコンファメーションがないのでおかしいなと思っていた。フロントの女性は受けていないと言い張る。今回の旅行でホテルの宿泊予約確認は必ずどちらかで行っている。勝手に予約取り消しはあり得ない。このホテルはこの点問題だ。

「What shall we do ?,じゃーどうする」と聞くと、ホテルは一杯でちょっと高いが一部屋あるとのこと。サラリーマン時代残業で遅くなり、深夜ホテルに宿泊しようとすると、殆ど高い部屋なら空いていますと云われたことを思い出した。部屋を見せてもらった。広い綺麗な部屋なので内心OKだった。

フロントに予約していなかったのは双方の不手際だと思うので、部屋代の差額の半分を負担して欲しと申し入れたが、頑として「Sorry」の一点張り。このフロント女性は雇われで権限は無く、予約の不手際を認めれば、女性のフォルトになるのだろうと思い、女性の言うとおりにこの高い部屋でOKした。

荷物を部屋に置き、急いで駅まで歩いてゆく。ホテルから駅まで徒歩10分程度だろうか。一本道で判りやすい。

10時29分発、中距離都市間特急、ME81427も一等車はコンパートメントタイプ。ハンブルグでICに乗り換える。カミサンは勝手知ったるハンブルグ駅のようにスタスタと10番ホームに向かう。もう列車の乗り換え方を理解し、慣れたようだ。

ブレーメンに定刻の11時45分に到着。ブレーメンの駅は大きい。沢山の乗降客で一杯だ。駅から外に出ると雨だった。路面に水がたまっている。駅から旧市街の市庁舎までタクシーで行く。

bremen1.jpg (66422 バイト) ブレーメンはハンザ同盟の中核都市で、ハンブルグ、ブリュージュ、ロンドン、リューベックなどを主な取引先とし、フランスのボルドーに穀物を運び、戻りはワインを持ち帰った。

現在でも年代物の上質ワインがブレーメンの蔵に沢山眠っているらしい。

ハンザ同盟はしばしばブルゴーニュー公国などの列強と利権をめぐり争った。ブレーメンは「同盟の為に戦う」が筋であったが、同盟から見ると裏切り行為があり、何度も同盟から外されていた。

ブレーメンは「一旦契約したからにはたとえ敵の荷物でも運ぶ」に徹した。団結の重さを伝える「ブレーメンの音楽隊」の話も実は身内の団結で、他者との団結は利害が一致する時のみとする現実主義だったのであろう。

bremen2.jpg (62165 バイト) ハンザ同盟を象徴するものとして巨大なローラント像がマルクト広場に立っている。盾には鷹の紋章があり、神聖ローマ帝国直轄の自由都市であったことを示している。

領主も司教も手が出せず、ブレーメンは莫大な富を得た。

旧市街に二本の尖塔を持つ大聖堂、華麗なファザードを持つ市庁舎、向かいの商工会議所は莫大な富をバックに造られた豪壮な建築物だ。しかし現在はどの建物も黒ずんで、かなり汚れていて綺麗ではなかった。

bremen3.jpg (71777 バイト) 市庁舎横にひっそりとある「ブレーメンの音楽隊」像で写真をパチリ。どの国の観光客もここで記念写真を撮っている。

マルクト広場に面して建つ聖ペトリ大聖堂は戦災に遭わず当時の姿をそのままに残している。

マルクト広場正面の路地を入ると、ここはペットヒャー通りで、コーヒー商人、ロゼリウスがコーヒーの輸入・販売で財をなし中世の町並みをこの路地に再現した。

bremenn5.jpg (65527 バイト)細い路地の両側にレンガ造りの建物が並ぶ。現在は色々な商店が店を開いている。我々はウインドウショッピングをしながら、路地を散策し、土産物店で「音楽隊」のプレートがついたビールジョッキーを買い求めた。

市庁舎地下にあるラーツケラーで遅い昼食兼早い夕食をとる。

ラーツケラーの中はすばらしい装飾を施した大きなワイン樽が幾つも据えられていて、客はその樽の前のテーブルで食事をする。店内の従業員は皆当時の衣装で、マネジャーも当時の衣装であれこれ従業員に指示していた。メニュー(ドイツではカルテ)はドイツ語と英語が併記され判りやすい。

bremen4.jpg (39200 バイト) まずは赤ワインを注文。ワインは足の太いがっしりとしたワイングラスに入っていた。

牛肉の叩きなど3品を注文したがどれも一品の量が多く、カミサンと一緒に一生懸命食べたが食べきれず残した。ワインも料理も店内の雰囲気も100%合格。

ブレーメンの駅まで歩いてゆく。市内散策時に雨が止み、路面が乾いていたが、食事中にまた雨が降ったのであろうか、路面が濡れていた。外に出た時には日が射していた。

駅には予定より早めに着いたので、ドイツ都市間超特急、ICEでハンブルグまで行くことにした。白い流線型の車体はスマートで日本の新幹線のようだ。ICEの一等車はコーチスタイルで向い合った座席の真ん中にテーブルがあり、近くの座席ではビジネスマンであろうか、テーブルを囲み会議をしていた。

在来線とレールを共有しているのだろうか揺れが大きい。日本の新幹線に軍配を上げたい。ハンブルグからは打って変わって、各駅停車の鈍行列車でのろのろ、ゆっくり、リューネブルグまで戻った。

駅の売店で果物、ミネラルウオーターを買ってホテルに戻った。

第16日■ 11月06日(土):リューネブルグ

ホテルで朝食を取る。珍しくホテルのレストランは一杯。アメリカ人のグループであろうか20人ほどの中年のカップルが大声で話しながら食事をしていた。フロントの女性が今日は一杯ですと言ったことは嘘ではなかった様だ。

lueneburg2.jpg (57556 バイト)今日は休養を兼ね一日リューネブルグの市内散策に時間を使う。

ホテルの隣にあるニコライ教会前から徒歩数分で市庁舎前のマルクト広場に出る。広場には沢山の屋台が出店し、賑やかな市が立っている。

広場を正面にした市庁舎はバロック様式で1230年建立され、1720年に改装された美しい建物だ。今日は休日で見学が出来ないが内装はまた一段とすばらしいとガイドブックに記されている。

リューネブルグは中世ドイツのハンザ同盟に富をもたらした塩の供給地であった。塩は既に10世紀に採掘され、当時の製塩所は「塩の博物館」となり、塩水は健康センターで皮膚病の治療に使われているらしい。

塩水を汲み上げ、製塩の為に数百人の労働者が働いていた。仕事が終わると「塩を隠し持っていないか」身体検査があった。このことから当時は塩が如何に貴重なものであったか推測できる。塩は穀物や肉の保存やバルト海で獲れたニシンの保存にも使われた。「白い黄金」といわれた由縁である。

lueneburg3.jpg (62735 バイト)広場から少し行くとアムサンデ広場周囲はゴシック、バロック様式の家が並びハンザ同盟の富を象徴している。

聖ヨハニス教会に行った。108メートルの尖塔を持ちドイツ最古のオルガンのひとつがある。バッハが15歳のときルター派の給費学生として2年間ここで学んだ。

丁度、パイプオルガンを演奏している処を見学したので幸運であった。地響きするような迫力と腸に染透るようなその音色はすごかった。しばし大音響の中に浸っていた。

lueneburg1.jpg (67584 バイト)イルメナウ川に古いクレーンがある。この辺りの風景はすばらしい。リューネブルグに来て良かったと実感する。

塩の積み出しに使用し、クレーンは囚人が動かした。塩は20KM先の北の町ラウエンブルグで積み替え、陸路リューベックまで運ばれた。

この町は現在塩の汲み上げ過ぎによる地盤沈下で問題が起きている。塩の博物館、リューネブルグ博物館、聖ミッシェル教会を見学しながら市内を散策し、市庁舎の地下にあるリューネブルグ・ラーツケラーで例により遅い昼食兼早い夕食を取った。

lueneburg4.jpg (43032 バイト)今まで訪れたラーツケラーに比べ、内装は簡素で規模が小さい。

女性従業員3名がウエイトレス。メニュー(カルテ)は全てドイツ語のみで書かれ、しかも、従業員に殆ど英語が通じない。

ラーツケラー入り口で焼ソーセージを売っていて、美味しそうだったので、「Wuerst?」と聞いたが通じない。「無いらしい」。

下手なソーセージの絵を描いてみたがこれもダメ。仕方が無いのでビール(Pils)にシュニッツェル(豚肉のカツレツ)を頼んだ。

彼女達は一生懸命片言の英語で色々説明してくれた。とても感じの良い女性たちで楽しかった。お陰で、ビールのお代り、温野菜まで追加注文し、満腹になり外に出た。

帰りに駅に寄り、明日利用する、リューネブルグからリューベックまでの乗車券を購入した。例により駅のコンビニ風売店でトマト、ミネラルウオーターを購入し、ホテルに戻った。

第17日■ 11月07日(日):リューネブルグ⇒リューベック

09時31分 :リューネブルグ発(RB11806 プラットホーム#5)
10時37分 :リューベック着
10時50分 :ホテル・Radisson SAS着

昨日はあれほど元気で大きな声で話しながら食事をしていたグループはどうしたのだろうか。帰ったのだろうか。それともまだ寝ているのだろうか。

ガラーンとした食堂で朝食を済ませ手配しておいたタクシーで駅に行く。これからローカルな都市近郊列車RBでのんびりリ車窓を楽しみながら、リューベックまで行く。天気は晴れ。晩秋にしては暖かい。

luebeck2.jpg (65802 バイト)リューベックの駅は改装中で、ホームには屋根や待合所が無い。ホームから出口へ通じる階段は取り外され、工事用の階段であった。

ぐらぐら動く歩き難い階段を重い荷物をもって上る。駅の出口にはタクシーが沢山待機していた。駅からタクシーで旧市街に向かい、中洲の入り口にあり、ホルステン門の直ぐに近くにあるホテル、ラディソンSASに着いた。

ホテルは近代的建物で、今まで宿泊してきた中世時代の建物を利用しているホテルとは全く違い明るくて広い。

今回は65歳以上に適用されるシニア割引で宿泊する。大きなフロントでチェックイン。フロント嬢は本当にシニアかと疑い、小生の年齢を聞く。65歳と言うと生まれた年を聞く。1939年と言ったがまだ疑っている。パスポートを見てやっと納得したようだ。どうも日本人は年齢より若く見えるらしい。

カード形式の鍵を渡され、ここで利用方法をまるで機関銃のように休み無く、とても早口で説明してくれたが、よく解らない。

「Sorry、I can't follow you Pls. speak more slowly.」と早口で頼んだら、びっくりしたような顔付きで一言、二言はゆっくりだったが直ぐに元に戻ってマシンガン・スピークになった。

部屋までボーイに荷物を運ばせましょうか?とまた早口。お願いすると先ほどから後で待っていますという。太った若いボーイさんで迷路のような廊下を辿り、角部屋まで運んでくれた。 部屋は旧市街が一望で出来、ゆったりとした広く、綺麗な部屋だった。

luebeck1.jpg (60705 バイト)リューベックはハンザ同盟発祥の地といわれている。ハンザの時代「バルト海の女王」と讃えられた。

ホルステン門はハンザ同盟の威信を示し軍事目的もあり圧倒的な重量感がある。

この門一つでハン ザの富がいかに巨大であったか想像出来る。門の上壁には「内に結束を、 外に平和を」とラテン語で書いてある。

ハンザは商業同盟で12世紀から17世紀はじめまで400年以上続いた。リューベックは12世紀バイエルン公・ザクセン公であったハインリッヒ獅子公が深く関わっている。

皇帝フリードリッヒ1世と覇権争いをしていて強力な軍隊を維持するため巨額な資金が必要であった。目をつけたのが「白い黄金」であった。

luebeck6.jpg (30999 バイト)リューベックの後背地は昔、海が囲まれ干しあがり、陸地になったリューネブルグの原野があり、地中にたっぷり塩を抱えていた。

塩の需要は無限にある。リューベックから80Kmしか離れていない。港を作り岩塩の生産地と繋げば一気にバルト海に運び出し、ロシヤ、スカンジナビアに売りさばくことが出来る。

川の中州にある小さな村、リューベックを港湾都市に作り変え、商人や加工業者を呼び、彼らには法外な権利金で倉庫や店舗を貸し付けた。それでも人口が増え続け発展していった。

今日は日曜日とあって旧市街の商店は殆ど閉まり、町全体が寝静まっている様だ。街中をウロウロ歩き回っているのは観光客のみであろう。ホルステン門、市庁舎、マリエン教会などを見学する。

このマリエン教会は1250年から1350年に建てられたゴシック様式で、8512本のパイプを持つ世 界最大級のオルガンがある。バッハも酔いしれた音色だそうだ

1914年英国軍の空襲で破壊されたがその後修復された。教会内には爆撃で地面にのめりこんで割れた鐘がそのまま残されていた。この教会も内部は修復した白壁と当時の古い彫刻が混在した内装で相互がアンマッチになり痛々しい。

市庁舎の斜め前に唯一開店していたお菓子屋さんがあった。リューベック名物マジパン(アーモンドの粉で作ったお菓子)を売っているニーダーエッガーには沢山の観光客が詰めかけお土産用にマジパンを買い求めていた。我々もその中の一組であった。

ここの市庁舎にもラーツケラーがあり、覗いて見ると店内は大きく、立派なのでここで例によって遅い昼食兼早い夕食をした。今晩はソーセージ、豚肉のローストの盛り合わせでビールと良くあう。美味しかった〜。

第18日 ■ 11月08日(月):コペンハーゲン    

10時07分 :リューベック発(EC33)
13時59分 :コペンハーゲン着

ホテルの朝食は別料金。川に面した窓側の席を確保し、ビュッフェ・スタイルで各自好みの料理を選ぶ。朝食は別料金でちょっと高いが、内容が充実していた。

このレストランに入る時に日本の若いビジネスマン二人と会い、また、レストラン内には数組の日本の中年女性軍が陣取り、我々のテーブル横の席では資料片手に食事をする勇ましい女性がいた。ツアーの添乗員だろうか。とにかくこのホテルは日本人が多かった。

今回の旅はいよいよ今日で実質的に終わりになる。旅行誌で知り、この旅でどうしても経験してみたかったのが、ヨーロッパ都市間特急、ECを利用して、リューベックからバルト海を列車ごとフェリーに乗り込み、島々を渡ってコペンハーゲンまで行くコースであった。その日がついに実現した。

luebeck3.jpg (31095 バイト)コペンハーゲン行きのEC33の一等車は珍しくコーチスタイルで我々の車両には白人の女性が一人乗車しているのみて相変わらずのんびり、ゆったりの旅であった。

列車はドイツ北部の平坦な田園地帯を走り、やがて風力発電装置が沢山ある平地をしばらく走りプットガルデンに着く。ここはバルト海を挟んでドイツとデンマークの国境の町である。

luebeck7.jpg (19643 バイト)列車はここでフェリーに車体ごと乗り入れ、バルト海を渡り、デンマークのロービュまでゆく。トーマスクックの時刻表ではここで乗客が一旦下車するように記載されている。

実際はそのまま車内に留まり、列車がフェリーに乗り込み、バルト海に出てから乗客が思い思いに列車から出て、フェリーの食堂で軽食を取ったり、デッキで景色を眺めたりしていた。

我々もフェリーに行き、甲板に出て晴れ渡った静かなバルト海を眺めた。北の海は黒ずんでいたが、すれ違う船の波しぶきは真っ白で,穏やかな水面を眺めた。

luebeck4.jpg (27002 バイト)前回はオスロからコペンハーゲンまでやはりバルト海を客船で渡った。バルト海ではスカンジナビアのフェリーが何隻もかなり頻繁に往来していた。海上交通が多い。

フェリーから列車の座席に戻った時には車掌が列車内にいて、荷物番をしていた。

ロービューで列車はコペンハーゲンから来る列車とすれ違う為に待機する。ドイツの列車は正確だったのに、ここでは予定より20分以上出発が遅れた。そのしわ寄せで、コペンハーゲンには相当遅れて到着した。

luebeck8.jpg (30860 バイト)久し振りにコペンハーゲンに来た。駅の西側にあるホテル、ティファニーまで歩いて行こうと駅の出口を探したが判らない。北側の出口に出たらタクシーが沢山客待ちしている。向こうの方のタクシードライバーが手招きしているのでなんとなくそのタクシーに乗り込んだ。

そうしたら、他のタクシーのドライバーと乗り込んだタクシーのドライバーとものすごい喧嘩を始めた。恐ろしい激しさで客そっちのけだ。客の取り合いがこんなに激しいとは思ってもいなかった。結局、我々にもそのとばっちりが来て、タクシー料金をぼられた。

ホテル・ティファニーはホテル街にあり、この辺りではまーまーのホテルであったが、周囲の環境は宜しくない。久し振りのコペンハーゲンなので楽しみにしていたが、物価がものすごく高くなり、チボリ公園近くの和食レストランは移転したのか見付からない。

仕方が無いから、以前訪れた中華料理店に行ったが味は落ち、量は少なく、その上高い。こんなコペンハーゲンになっていることが事前に判っていれば来なかった。今更悔やんでも仕方が無い。ハイデルベルグ以降嫌な事が多い。

第19日 ■ 11月09日(火):コペンハーゲン⇒カストロップ空港

12時50分 :ホテル(ティファニー)発
13時00分 :中央駅発
13時40分 :カストロップ空港着
15時45分 :コペンハーゲン発

ホテルで用意された粗末な朝食をすませ、出発の時間まで朝のストロイエ通りを散策した。早朝のためか、以前来たストロイエの活気は全く感ぜず、さびれた感じであった。もうコペンハーゲンに来ることは無いだろう。

市内から空港まで空港バスが便利とガイドブックで案内され、駅前のバス乗り場まで示されていたが、ホテルの女主人曰く、「空港バスは時間がかかり、高い(150デンマーククローネ)ので勧められない。列車だと15分で50デンマーククローネと安いと云う。インフォーメーション・センターでも同じだ。

列車で行くことにする。ただ乗車券を窓口で買う場合、窓口はいつも混んでいるので時間に余裕を持った方が良い。そして切符を購入したら一時間以内に使用する必要がある。その辺の兼ね合いが難しい。

コペンハーゲ駅で乗車券を購入し、丁度来た列車に乗り、15分ほどでカストロップ空港に予定より早めに着いた。

チェックインの時、小生のスーツケースが重量オーバーで追加料金がかかるが良いかとたずねられた。根拠を聞くと、今回初めて使用したE-チケットの使用方法が別紙として明記してあった。しぶしぶ料金を聞いたら3万円近くになる。またここで問題が発生。

英国でもニュージーランドでも重量オーバーを言われたが、いつもサービスでOKだった。なのに、今回はしっかり請求された。最後の最後まで不愉快なことが連続して起きた。

昼食を空港のレストランで取った。お腹一杯になった。休憩を兼ねダイナースの休憩所に行くとここでは飲み物以外に軽食まで用意されていた。我々は満腹だったのでなにも手を付けられなかった。高い昼食を空港のレストランで取らなければよかった。

スカンジナビア航空983便に乗り込み、予約した座席に着く。もう不愉快なことが無いだろうと思っていたら、今度は近くの席に、デンマークの青年が数人座っていた。その一人が大きな声で何時までも仲間としゃべり続け、気にしないようにしていたいが、うるさくて閉口した。

ヤット静かになったと思ったら今度は4人掛けの椅子に一人で独占して寝ている。参った参った。

ウラル山脈を過ぎた頃、北の空が薄ぼんやりと明るくなってきた。もう夜明けかと思ったら明るい雲のようなものが次第にカーテン状になり、きらきら七色に輝き出した。オーロラだ。

今まで何度もこのルートを往復しているがこんなにはっきりカーテン状のオーロラが見え、しかもシベリヤ辺りまでズッ〜ト見えたのは幸運なのか?

今回の旅の後半は小生の不注意から始まった一連の不愉快な事件を慰めてくれるオーロラだと信じた。

第20日 ■ 11月10日(水):コペンハーゲン⇒成田

10時35分 :成田着

久し振りというか、ヤットというか、無事に成田に着いた。

成田は快晴で、まぶしい。汗ばむような陽気だった。到着ロビーに行く通路で、かなり年配の白人女性となんとなく話をすることになった。彼女は一人で世界中を旅行し、言葉も5カ国以上覚えたとのこと。仕事はYWCAの活動で、そのバイタリティーさに驚いた。

高額を支払った荷物を無事回収し、久振りに我が家に着いた。空き巣に遭わず無事だった。疲れた。

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