ホームページ 隠された歴史 アメリカインディアン 原住民部族 オマハ族
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一部について、翻訳したものを記載してあります。
次のようなオマハ族に関する記述は、その部族の人達と一緒に生活し、そして、これまでの29年間の間に、多かれ少なかれ、お互いに意思疎通をはかるなかで、私が知りえた情報をもとに整理してきた個人的な研究の結果をまとめたものです。この間に、著者は、Harvard
大学の民俗学部長である、Frederic
Ward Putnam教授の、まことに思慮深いご批評から多大のご支援と励ましを受け、そして、Thaw
奨学基金により、ここに私の研究の完結をみる事ができるようになりました。かって、オマハ部族により畏敬されていたものが大切に保管され、そして、安全管理のもとにPeabody
Museum に展示されていました。その研究所の館長であるPutnam教授が、そこの主催で収集され、そこに保管していたオマハ族の様々なものを、この巻を再現するために自由に利用する許可をしてくれました。
著者が、オマハ族の生活や考え方を研究するために彼らと一緒に住むつもりで出かけたときには、部族は、その直前に、バッファローの群れが突然姿を消してしまったので、無理やりに狩を取り止めさせられていた。しかしながら、かっての生活というものが、まさに、つい昨日まで営まれており、そして、年老いた男や女達のなかにそれが生々しく残っていた。古い伝統的な習慣の多くが実際に行われていたし、また、先住民的な生活の多くがなお依然としてなくならずにいた。
白人達との接触の機会が、日に日に増加して行き、と同時に彼らに対する圧迫が始まっていった。生活の環境が急激に変わり、そして、その変化が自然のなかでの生活の多くのものに与えたと同じように、古い人々に対しても心の動揺をもたらした。先祖に対する信仰は、もはや、人々が直面している状況には当てはまらなかった。それまで、彼等が安心して拠り所として頼っていたものが、ことごとく払いのけられてしまった。かれらが、それまで、永久に食料を供給してくれると教えられてきたバッファローたちは、そこに新しく入ってきた行政官やよそ者達により、絶滅されてしまった。広大な台地を埋め尽くしていた草原でさえも、変わりつつあった。オマハ族は、自分達が想像を絶するような力により、原始的な生活のなかに追いこめられていった。
彼等の同胞であるポンカ族に対する合衆国政府の取り扱いを見て、オマハ族の人々の間には、たいへんな不安と苦悩がのしかかり、そして、自分達も、故郷から、そして、先祖達が眠っているこの土地からいつ追い出されるのかと、心配でならなかった。老いたるひとびとにも、そして、若い人達に対しても、未来は不安そのものであった。部族におけるさまざまな心のなかのトラブルをはっきりと描くこともできなかったばかりか、1882年に、議会での裁断により彼等の土地が保証され、彼等の苦悩が解除されたが、それすらもはっきりできなかったことは、いかほどに哀れなことであっただろうか。
彼等の政府とのかかわりの歴史、彼等の先祖伝来の慣習をひっくり返してしまった歴史、そして、彼らの部族の土地に、個人で所有することになった場所に自分達の家に最終的に落ち着いた、その歴史が、この本の巻末に簡単に述べられている。今日では、著者が、波打つ草原や花に囲まれて良くキャンプを張っていた草原には、電灯がともされた街が点々としている。鉄道が縦横に走り、そして、追いやられた獣達が残した足跡を掻き消し、そして、農耕用の鋤は、部族が毎年バッファローの狩に出掛けた時に移動していった丘に沿って広い幅で西に向かっている街道すら消し去っていた。その道は、いまはとても栄えた場所になっている。老人の男女は丘の上で安眠し、そして、彼らの孫達は、白人の隣人達のまわりで農業を営み、彼らの子供を学校にいれ、英語を話し、そして、銀行には口座を持っている。
ここでの研究が始まったときには、オマハ族については、彼等の地を通り過ぎていった旅人達の簡単な説明、あるいは、政府の事務官などによるコメント以外には何も公開されているものはなかった。こうしたものの著者達には、だれ1人、先住の民族の間の行動を奮起させるような考え方や信仰の研究に、インディアン達の生活について外部からの見地でもって入り込んでいこうとするものは居なかった。ここで記述された説明の中には、何一つ、他の観察者達のものを引用したものはない
; 先住民の人達から直接に収集した原物のものだけが紹介されており、そして、著者は、できるかぎりオマハ族の人達に彼等自身で説明をさせるように心がけた。
次に掲げたような、オマハ族の慣習、宗教的な儀式、そして、信仰に関する記述は、共同作業によるものである。25年以上もの間、著者は、その部族の主要な酋長の1人Joseph
La Flescheの息子でもある、Mr.
Francis La Flesche ( pl. 1 ) を共同研究者として持つことに恵まれた。Mr.
La Flescheは、少年時代には、ここで記述されているような宗教的な儀式の沢山の知識を得る機会に恵まれた。後に、彼は、彼の父や、こうした伝統的な典礼や宗教的な儀式を守っている老人達から、それらの意味の説明を受けた。こうした素晴らしい記録を持ち、そして、自分の気持ちのなかに、彼等の唄、宗教的で述べられる話、そして、彼らの社会での宗教的な儀式の意味など、彼の部族の人達の歴史について、それらが彼等の間で知られているありのままの姿で、なにか形として記述されたものにして残したいという思いが起こり、Mr.
La Flescheは、彼の素晴らしい計画を実行するために、かなり若いころから英語を完璧に習得し、そして、部族の間で急速に消えつつある伝説を集める決心をしていた。
この共同作業は、オマハ族の宗教的な儀式や、慣習の基盤となっている考え方を理解するため、そして、先の世紀の初めのころに彼等が生活したありのままの姿で人々の正真正銘の姿を描くための、本当に類稀なる機会の結果得られたもので、この研究の基盤となった情報を与えてくれた人達がここで記述されているような環境−それはすでに過去のものとなってしまったが、その中で、ここに出てくるようなものを共有し、そして、彼等の歴史を可能にした人達が現実に生活をしていた時に、作り上げられたものなのである。
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自分達の知識と記憶をこの本を纏めるために提供してくれた、沢山のオマハ族の方々を列挙するということは、部族の殆どの人の名前を目録化することになってしまうだろう。不幸なことではあるが、しかし、彼等の子孫のために残そうということで、ここで引用されているようなものを収集する間に頂いた、その支援の結果を見ていただくことができるような極々僅かな方が、今でも生存している。
A.C. F.