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   オマハ族  

Alice C.Fletcher & Francis L Flescheによる、The Omaha Tribe I, II アメリカ・ネイティブ・インディアンのなかで、最も友好的に、かつ、いち早く合衆国政府のインディアン文明化政策に適合したと言われるオマハ族について、インディアンの文化と彼らの生活の実態を解説したもの。この本の翻訳をしましたが、その概要をまとめたので紹介します。インディアンの価値観と、その背景にあるものをご理解いただけると幸いです。

 

還暦を過ぎ、ハローワークの紹介でアメリカに仕事を見つけ、ネブラスカにある日系の部品メーカーで働くことになりました。以前に数か月ほど、別の小さな部品メーカーでアメリカのインディアナに勤務していたこともありますが、英会話が自由と言うわけでは有りませんでした。でも、仕事は工場建設のコンサルタント的な仕事でした。手伝いの日本から留学し、そのまま、現地に住んでいる女性(Seiko Mossさん)が手伝いとして支えてくれましたので、日常生活に不便を感じることはありませんでした。アメリカで生活するには、現地人とのコミュニケーションがとれなくては、と何か自分でもできることはないかと考え、その答えの一つが一人旅をすることでした。そんなことを知った彼女が、こんなものを読んだとらどうですかと、プレゼントしてくれたのが、この本(The Omaha Tribe I)でした。

オマハ族は、ルイスとクラークの探検隊が接した最初に接したアメリカ・インディアンではないかと思います。そして、アメリカインディアンのなかで、最も早く文明化されたインディアンとも言われています。もっとも、この文明化とは、西洋人の考えでは、狩猟を生活の糧としていたインディアンが、定住し、農業に生活のパターンを転換してという意味があるようです。では、いったいオマハ族とは、アメリカインディアンの生活と文化とは、彼らの伝統と風俗習慣とは、・・・・。こうしたことについて、オマハ族の酋長自らが著者の一人として記述しており、インディアンの文化を研究するものとして、とても意味深く、意義のあるものです。

 オマハ族については、次のような解説があります。(Wikipedia)

オマハ族

オマハ族 (Omaha) とはアメリカ中西部ネブラスカ州に先住するアメリカ・インディアン部族である。ネブラスカ州最大の町オマハはオマハ族から因んでいる。オマハは、「風(または流れ)に立ち向かう者たち」という意味。マハ族ともいう。

歴史・文化

かつてのオマハ族は馬を駆り、狩猟と略奪をおこなう典型的な平原部族で、冬場は土屋根のアース・ロッジ(小屋)に、そして夏にはティピーで暮らしていた。バッファロー鹿を狩り、農作物を栽培し、主な穀物はトウモロコシカボチャなどである。女性は鍋を作り、バスケットを編み、そして獲物でしとめた動物の骨や木から用具を作った。

ホーカン・スーの言語を話し、オマハ族はスー族支族ダコタ族系に属していたカンサ族クアポウ族オーセージ族ポンカ族の5つの諸部族のグループの一部族だった。

1500年頃、スー族と仲が悪くなり分離し、オマハ族はポンカ族とともに、オハイオ州ミズーリ州及びミシシッピ川の合流域に移動、さらにアイオワ州に渡って行った。そののち、ニオブララ川河口でポンカ族と別れ、 ミズーリ川の上流域へ移動した。

1802年、白人がもたらした天然痘の流行により、部族の人口を大きく減らし、現在のネブラスカ州に移動。

1804年ルイスとクラークの探検隊がオマハ族と会見。これを皮切りに白人入植者がオマハ族の土地を侵食していった。なおオマハ族の人々は一般に1850年代に彼らの土地を通ってユタ州へ移住したモルモン教徒と友好的な関係を確立している。

1854年にオマハ族が領土としていたミズーリ川流域のすべての土地は、アメリカ連邦政府に没収され、オマハ族はネブラスカ州東部の保留地(Reservation)へ強制移住させられ、現在に到る。彼らの保留地は近縁のポンカ族と密接しており、ポンカ族とは提携関係にある。現在のスー族とは良好な関係にあり、1960年代のインディアン権利回復要求運動「レッド・パワー」以降、共闘してワシントンやニューヨークへ抗議デモを行っている。

オマハ族は隣州のアイオワ州で、「インディアン・カジノ」のカジノマハ(CasinOmaha)を経営している。インディアン・カジノに反対の立場をとっているアイオワ州は、2009年7月1日に、このカジノマハを営業停止処分とした。現在、オマハ族はカジノ再開を要求して係争中である。

Twenty-Seventh Annual Report of

The BUREAU OF AMERICAN ETHNOLOGY

The Omaha Tribe I The Omaha Tribe II
W.H.HOLMERS, CHIEF Alice C.Fletcher & Francis L Flesche
この論文は、オマハ族と白人との関係を取り扱った最終章で完結していますが、ここで、かってないほどの勢いで増していく文明化の侵害の始まり、そして、じわじわとではあるが、抗しようのない弱小民族を新しい世の中の秩序により形作られた状況の中に閉じ込めようという枠組み作りからのその概要を検証しているのです。(報告書より)

 

 

第一章  地域
第二章  環境 
第三章  個々人に係る儀式
第四章  部族の組織
第五章  部族の統治機関
第六章  神聖な杖
第七章  食料の探究

ROBIN RIDINGTONの概説

第八章  社会生活
第九章  音楽
第十章  戦闘
第十一章 組織
第十二章 病気とその治療
第十三章 死と埋葬の習慣
第十四章 宗教と道徳
第十五章 言語
第十六章 結論

 

  ROBIN RIDINGTONの概説

  1962年に、私がHarvard Peabody 博物館にある人類学部の大学院に入学したとき、

その人類学部の事務所の近くにあるガラスケースの中にオマハ族の神聖なる柱が展示されていました。私は、殆ど毎日、惹かれるようにそこを尋ねたのです。その柱が、私に原住民アメリカ人の歴史と言うものは、伝説的なものと同じように、物質的なものでもあるということを思い起こさせました。その名のとおり、Venerable Manが、私にそこに展示されているあるものについて語ってくれました。彼は、私に、長い間の物理的な厳しい試練を話してくれましたが、また、彼は好奇心を搔きたててくれる人でもありました。私には、オマハ族が彼のことを自分たちの“Venerable Man”と呼んでいた時代が一体どんなものであったのかを説明するのにもっと別の情報源が必要でした。

  私の研究の最初の一年間に、私は、その柱について説明をしたある本に出会いました。その本は、丁度その柱と同じように、19世紀のオマハ族の生活から、今の私自身の時間と場所に、より詳しい情報を持ち込んでくれました。私は、それを驚きと不思議さの念を持って読みました。そして、その時以来、いまの現在も、私は、Alice C. Fletcher とオマハ族の共著者であるFrancis La FlescheによるThe Omaha 族と言う本が、原住民アメリカ人部族に関して記述されたもののなかでも最も重要かつ包括的な単行本であると思いました。

もし仮に、私が燃え上がっている炎の中から持ち去らなければならない民俗誌の一冊の本を選ぶとするなら、それは、正に、この本以外にありません。おそらく、University of Nebraska Pressが、この2分冊を出版することにしたのは、誠にもってこうした緊急事態からの救出を実現しているものであります。

  このOmaha Tribe という本が、最初に公にされたのはアメリカ民族局 ( the Bureau of American Ethnology ) の第27年報としての報告でした。これは、1911年に出版されたのですが、それは、実にアメリカの原住民達の記録とその実態を説明するように編集された一連の偉大なる19世紀の民俗誌の最後のものだったのです。こうした報告書は、金色で、まことに素晴らしいイラストで飾られた、堂々とした黄緑色の表紙で出来たもので、四つ折リ版の偉大なサイズのものでした。そして、それらはかつまた、原住民アメリカ人の民俗学、ならびに、一般的なアメリカ文学の分野に対する貢献と言う意味でも、偉大なるものがありました。これらが、何世代もの原住民、そして、原住民以外の学生達により愛情をもって引用されているように、アメリカ民俗学事務局のものは、徹底的な実地調査を通して得られた情報を使い、原住民アメリカ人の体験をありありと描写するときには、非常に独特な存在なのです。それらの著者のだれ1人として、“非専門的な民俗学者”は居りません。1920年代に、Bronislaw Malinowskiが、実地調査を“考案”し、そして、神話とか、口伝えの伝統の重要性を“見出した”、そのずっと以前から、Frank Hamilton Cushing, James Owen Dorsey, Alice C. Fletcher, そして、James Mooneyといった民俗学の先駆者たちは、混沌とした民俗学の解明に、そして、そのなかで発見したものを民俗学事務局の年報に公表することに非常に熱心でした。Wied-NeuwiedMaximilian皇太子や、Henry R. Schoolcraft, そして、Lewis Henry Morgan といったほかの人たちが、それ以前に、彼らの個人的な経験を元にして、原住民アメリカ人のことについて記述していましたが、アメリカ民俗学事務局の印刷局が、民俗学の記述に専念したはじめての広範囲にわたる著作物を発行したというわけです。

  Omaha Tribeの本は、外部の第一人者である実地調査研究者( Fletcher ) と、そこに書かれている部族の者( La Flesche ) の共著であるということからも二重の重要性を持っています。反対側の挿絵の1は、La Flescheの肖像ですが、著者は次のように書いています:。

この共同作業というものこそ、オマハ部族の儀式と慣習のもとに横たわっている考え方に近づき、そして、この仕事が基盤としている情報をもった殆どの人たちがここで述べられている生活のなかでの主役として活躍していた時代である先の世紀の前半に、どのような生活をしていたかを真に描きだす、その類まれなる機会の結果を作り出している。  

彼等の仕事は、ともに彼らが、“あらゆる生活の方式を不滅のものにする”ことに集中するものとみなしている、お互いに補完しあう男と女の力を統合体する形を作っている。( 134ページ ) そして、彼等のお互いの関係もまた、Fletcher La Flescheを彼女の息子として受け入れ、そして、長い間ともに生活していたように、個人的な面でも補完関係にあった。彼等は、自分たちが相手を“矢作り職人”と“矢”というようなあだ名で呼び合うことが、彼らがオマハ族の文化と歴史の民族学者として果たしている役割と共鳴するある種のものであることに気付いていた。彼女のヨーロッパ式の名前に付け加えて、Fletcherは、1881年にオマハ族の老人のWajapaから、Ma-she-ha-the−“大空でさーっと飛んでいるワシの動き”を意味している―と言う名前をもらっていた。Santa Feの芸術博物館の中庭にある、彼女の灰が安置された場所を示す飾り額の上に後に書かれた一節のなかで、Fletcherは、彼女を変えた原住民アメリカ人社会とどんな風にかかわってきたのかを述べていた。その額縁にはこんなことが書いてある: 

インディアンの友達と一緒に住んでいる間に、私は自分がこの原住民達の土地では全くのよそ者であるということに気付いた。表面上では、何も変らずにあるように見えるときでも、私のなかで、少しずつ変化が起きていた。私は、生きとし生けるもの、それは空でさえもが声を持っていた、そんな時代の響きを聞くことを学んだ。古代のアメリカに住んでいた人々に敬虔な気持ちで聞かれていたその声を、私は、そのほかの人たちにも見えるようにしたかった。1

“矢”と“矢作り職人”のように、その聖なる柱と第27年報とは、歴史と深くかかわりを持っていた。Fletcher La Flescheは、その聖なる柱を彼等の本の中のまさしく中心に位置づけた。La Flescheが、その柱の最後の所有者である尊敬された人Yellow Smokeに対し、どのようにして、その保管をPeabody 博物館に任せるように説得したかを話している。La Flescheが、“神聖なる柱の昔の儀式”( 245251ページ ) のことを述べながら、“少年のその記憶”は、アメリカ原住民著者による原住民の民俗学に関する最初の記述の1つであり、そして、それは、なおかつ、最も優れたものの1つであると書いていた。

 Fletcher La Flescheは、その神聖なる柱を、安全に保管するために1888年にPeabody 博物館に移管した。そして、1911年に彼等は、Yellow Stoneやそのほかの老人達の言葉や話を非常に価値のある第27年報の黄緑色の本の中に記載した。その本も、そして、神聖なる柱もともに、異なった時代からのメッセージを運ぶものである。それらは、1つの世代から次の世代にとその意味するところを伝えるテキストとして読まれるに違いない。その尊敬される人は、民俗学の、そして、儀式のなかで使われている言葉、すなわち、原住民アメリカ人の人たちの経験に良く通じた言葉で意思疎通を図っている。この本は、オマハ族でない人たち、そして、こうした儀式を直接経験したことのないようなオマハ族の人たちのために、その儀式がどのようなものであったかを説明している。そこには、Alice Fletcher が、“中心からと同じように・・・・あるひとつの視点”( 222ページ )として述べているものを与えてくれている。本も、そして、その神聖なる柱も、神聖なる伝説と言われている、“彼等の部族の集団がともに生き残り、そして、部族そのものが絶滅から立ち直った、その手段の妙案を生み出した偉大なる会合”の持たれた部族の過去の時代から、今の時代の人々に話しかけているのである。

 そのVenerable Manは、彼等がバッファローの狩をしている間、部族の儀式の中心的な存在であった。事実、その神聖なる柱がオマハ族の手に残されてから一世紀もたった1988年に、オマハの人たちは再び彼に触れました。こうした人たちのうちの1人は、部族の長であり、そして、オマハ族の血筋によればYellow Smokes の子孫でもあるDoran Morrisでした。その一年後に、部族はその神聖なる柱を自分たちの管理化に戻す合意に成功しました。彼等は1989年の720日の年中行事であるPow-wowに戻ってきた年配者としてかれを暖かく迎えました。それ以来、部族では、そのThe Omaha Tribeと言う本の中に記述されているそのほかの神聖なるいろいろなものを自分たちの手元に取り戻す合意を次々に取り付けました。そうしたものの1つが、その神聖なる柱と同じように極めて象徴的な、そして、バッファローの狩に関係した儀式でとても重要な意味をもっているWhite Buffalo Hideであります。

  オマハ族にその神聖なる柱が返却されたことは、その本のこのBison Book版と同じように、彼等に対する1つの挑戦でもあり、そして、人類学に対する1つの挑戦でもあります。人類学が、第27年報のページのなかで、オマハ族の儀礼的な生活の限界について記述を続けて来ました。そして、今、それは、今日生活しているオマハ族を理解することに対してその情報を与えるような、説明のための言語を見出さなければならないのです。人類学は、その古いテキストの新しい理解を提供しなければならないのです。第27年報の最初の一刷りは、今では古いものになっています。神聖な柱と同じように、その本自信が生活の過去の手段の蘇りとなってしまいました。この2巻からなるBison 版は、最初1972年に発刊され、そして、今また再販され、オマハ族の人たち、そして、オマハ族以外の人たちにも同じように、現代の見方から彼等の伝統について考察する機会を与えてくれています。新しく返却された神聖なる沢山のものにふさわしい付属物でもあるこの本が、古い物語の新しい解釈に導いてくれています。 

 私達は、今、BAEの年報を“古典”として記述していますが、しかし、それらが出版されたときには、それ以前の机上の推論や熱狂的な帝国主義の考え方からの離脱の中では過激でさえありましたが、まぎれもなくそれらは独創的であり、かつ、創造的なものであったのです。よく“人類学の父”と言われている著名なイギリス人学者のE.B.Tylorは、1871年の彼の著作であるPrimitive Cultureを、“民族学の骨の折れる役割”は、“有害な迷信の中に入り込んでいる原始的な古い文化の残骸をさらけ出すことであり、そして、それらを破棄するように区分する”2ことであると、痛烈な忠告をもって書き上げていた。Fletcher La Flescheが、彼等の目的は“オマハ族の儀式や慣習のそこに横たわっている考えをよりよく理解すること”( ページ14 )と、思いやりを込め、そして、同情的に述べていることから、その目的は何とかけ離れたものではなかろうか。19世紀においては、民俗学的な著作については、これと言って定められた形態はなかった。夫々の実地研究者は、彼、もしくは、彼女の原住民アメリカ人の社会における経験に最も適合していると思われるような方式を見つけ出さなければならなかった。BAEの夫々の巻は、夫々のジャンルの問題に適合した解決手段を反映したものであった。その夫々が、原住民とそこに新しく入ってきた人との間の最初の出会いに、言葉を語りかけていた。

 Fletcher La Flescheは、簡素な原住民の言葉に対して考えているときには、広範なジャンルを自由に取り扱うことが出来た。彼等の本は1911年まで出版されなかったが、彼等は、19世紀における実験作業の結果として出てきた人類学の体系にしたがって、オマハ族のことを記述した。そこには原住民アメリカ人の経験を記録したり、或いは、それを外部の人たちに象徴的に紹介するという役割を実行するために、なんら“正しい”手法が存在していない、そんな、開拓的な世代の人たちの考え方のなかで記述をしていた。彼等は、新しく芽生えた学問の分野の人たちよりも、むしろ、オマハ族に属する人たちにより、指導をうけることを選択した。かれらは、学問的な指導よりも、日常の仕事のなかで勉強をしていった。

 人類学の歴史における彼等の本の役割の意外な成り行きは、それが、専門的職業の文化と政治のなかで革命が進行した、まさにその時に世に出てきたということです。Fletcher の伝記の執筆者であるJoan Markによれば、Fletcher は、“若い人類学者たち、彼等の多くは:コロンビア大学に関係した人たちで、自分たちの意見を主張したがり、そして、年配の人たちの過ちとの関係を否認したがる人たちですが、そうした非同情的な世代の人たちと対面している自分に気付いていた”のです。この新しい自惚れの強い人類学者の世代の人たちは、Fletcher La Flescheの長く遅れた仕事を“時代遅れのもの”だとして、すでに拒絶する傾向にあった。Markは、1913年のRobert Lowieの非常にきつい批評、たとえば、“彼等は、‘科学的な論拠’よりも‘先住民的な感覚’に従って、物事を分類しているとして、彼等を批評している”、を引用している。3

  Lowie や、彼と同じ20世紀の最初の10年間の世代の人たちは、人類学の焦点を原住民アメリカ人の世界から学問的な世界に逆戻りさせた。彼等は、先住民の人たちの生活の中の関心事に基盤を置いたような大学のプログラムに価値を見出していた。彼らは、Fletcher のように、自分たちの現場での経験により、自らが代わっていくことを認めなかったのだ。第27年報が出版された直ぐそのあとの数年間に、人類学者たちは、彼等が物理学のなかにうらやんでいるような“客観性”を求めることに夢中になった。そして、生徒達を訓練したり、人類学の卒業学位を授与するときになると、Fletcher La Flescheのような著者達の哲学的な感覚の仕事を、“主観的”とか、或いは、“非専門的”なものとして否定していた。

 人類学は、いまや、完全に一循環した。私達は、Fletcher や、La Flescheのような19世紀の著者の言葉や解説を正当に評価することができる。そして、人類学における叙述が、民俗学的な事実以上のものを必要としているということに気付いた。私達は、自分たちが取り扱っている情報を、私達に情報を与えてくれる人たちとの共同作業の紙面の上に築きあげることを知っている。そして、民俗学的な表現が、本質的な解説を与えるものであると認識している。真実の客観性というものには、理解と解明が必要なのである。それ自身の解説的な方便を否定している民族学は、それ自身、無批判的に自己中心的なものになる危険性を持っている。The Omaha Tribeと言う本は、“後現代主義時代のごちゃまぜ”から離脱していく動き、そして、“新しい前現代主義”の方向への動きに満ち満ちているのである。

 The Omaha Tribeの本は、原住民の人と、そして、非原住民の民俗学者との共同作業の結果、生まれたものであるという点からも非常に注目される。オマハ族そのものが、その基盤としている体系が、非常に素晴らしいものであり、宇宙観的な対象性と言う点で注目に値するということからも、目を見張るものがある。この本のなかには、沢山の歌が掲載されているし、祈り、そして、儀式といったものも、非常に興味のあるところである。そして、そこには、血族の名前や、地名、部族の子供の頭を装飾的に刈るやり方、瞑想、社会の組織、行政、そして、歴史といったものが、豊富に盛り込まれており、このことからも極めて価値あるものといえる。こうした、沢山の詳細なものとよく調和して、この本は、極めてはっきりしとした、かつ、素晴らしくもある哲学的な解説への糸口としても非常に意味のあるものである。たとえば、“オマハ族の組織”という章は、“如何にして現在の宇宙のようになり、そして、それが、どのようにして調和を保っているのか”ということを説明している“大切なもののなかの基本となる宗教的思考や宇宙観”のことを述べた言葉から始まっている。その言葉はおそらくFletcher のものであると思われるが、しかし、その考え方は、彼女がLa Flescheと共有しているオマハ族の考え方と非常に深くかみ合ったものから出てきたものである。私は、まるで詩を読むように、新鮮な理解を助けるために、行から行を辿った。それは、次のように書かれている:

  

  目に見えない、そして、絶え間のない命が、

見えるものも、見えないもの、

すべてのものに行き渡っていると信じられていた。

  この命は、それ自身を二つのやり方ではっきりと示している。

  その1つは、動かすもととなることにより;

    すべての動き、心のなかの、そして、肉体的なすべての行動は、

  この見えない命に起因するものである;

    二番目は、たとえば、岩のように

  そして、大地の、山々の、大平原の、小川や、

  川の、湖の、さらには、動物や、人間にいたるまで、

  その構造とか形を永遠のものとすることにより。

  見えない命と言うものは、

  人々が彼自身のなかに自覚している

  意思の力―そにより、物事に、過去を思い出させるような力、

と似ている。

この神秘的な命と力を通して、

すべてのものが、人間をお互い同士関係付け、

見えるものと見えないものを、

死と生きていくこととを、

部分とその全体とを関係つけている。

この見えない命と力こそ、

Wakon’daと呼ばれていた。( 134ページ )

The Omaha Tribeと言う本の再販が、新しい解釈を呼び込んでいる。19世紀に為されていた解釈の仕方は、われわれ自身が今持っているものとはすこし違っていた。これは、“Dallas”よりもDickensの年代のものであったし、電話の時代よりも手紙が主流の時代、そして、音声で入ってくるよりも新聞とか雑誌の時代のものであった。Fletcher La Flesche は、第二章で、オマハ族について語り始めるよりも先に、30ページほどのポンカ族とオサゲ族に関することについての詳しい情報を差し入れることに非常に満足していた。私は、むしろ、この本は、ティピーの前に立っているオマハ族の女と子供の見事な写真の挿絵17 ( 71ページの反対側  ) から始まっていると考えたい。みなさんは、それに続く歴史のところは、後のために残しておきたいと思うかもしれません。或いは、第四章から始まる( 先の述べた ) Wakon’daのついての段落を直接辿って行きたいかも知れません。この段落をたどりながら、Fletcher La Flescheは、オマハ族の生活に関する彼等の説明の鍵となる、基本的な相補の原則について記述している。彼等のいう,“太陽は”、“男性であり、月は女性でした。”ですから、“昼間は男性で、夜は女性だったのです。こうした力が合体することは、生きとし生けるものが永続するために必要なことであり、そして、男達の生命にたいし、彼等の血統を後に残すために必要なことだと考えられていました。”、オマハ族のこうしたすべての“宗教的な儀式・・・・・社会的な観衆、そして、組織と言うものは”、彼等の言葉を借りれば、“それは、こうした宇宙観、宗教的な考えを堅固なものにする”手立てなのです。このように、“部族というものは、二つの基本的な氏族、その1つは、Skyの集団、もしくは、Inshta’shundaの人たち、そして、もう1つは、Earthの集団、Hon’gashenuの人たちからなりたっていました。”( ページ134 – 135 ) この、“オマハ族における部族の二元性”こそ、Fletcher La Flescheが、彼等の社会を理解するための鍵なのです。この二元性は、その大きな部族の集団Hu’thygaが、夏のバッファローの狩に出かけるときに、“Sky People”と“Earth People”に分れることで、最もはっきりとした形で現れています。

  読者の方々は、第五章で著者達が部族の統治体制について、言及しなければならなかったことを見たいと思うかもしれません。相対するものを補完するという考え方は、とりわけ、207ページのところで記述されている二つの神聖なる柱で、非常によく解説されています。わたしは、その神聖なる柱とそれにまつわる宗教的な儀式が、1888年にFletcher La Flescheに理解させた“中心となるものからの視点”を見出すために、次の第六章に進みたい。White Buffalo Hidesの儀式についての記述が完結(217ページ )するまで続いている神聖なるパイプに関する記述の段落は、まさに第一巻の最も力強いものであり、かつ、内容の深いものです。ここで皆さんは、物語のなかに沢山の物語を見出すことでしょう:物語を、冒険を、時代の変化を、分野の変遷を、より深い解釈の手がかりを、そして、力強く詩を。第六章と第七章は、まさしく、本のなかの本と言えるでしょう。しかしながら、ここで引用されていることは、相前後して、第二巻のあちこちにも関係しています。

  ここで、皆さんは、第三章に記述されたNon’zhinzhonとして知られている、“眠りながら立つ”という、“成人になることと関係した儀式”の、オマハ族の青年期の瞑想に関するうっとりさせるような記述を見るためにあるところまで遡りたいと思うでしょう。それは、酋長の息子が、そのずっと昔に神聖なる柱を探し出したという瞑想の物語を理解することに関係しています。また、みなさんは、Mark of Honorの印としてつけるタトゥーの儀式を通して、少女達に補完的に瞑想の力を授ける儀式の記述を求めて、第二巻の5039ページの先のほうまで、跳んでゆきたいかも知れませんね。少年達の持つ力は、夜の呼吸、それをFletcher La Flescheは、“偉大なる母の力”と呼んでいますが、それを通して授かるものです。少女達の持つ力は、太陽の象徴が、命を与える力の保証とともに乙女の上に降りてくるときに、天頂から“話かけてくる”その太陽から授かるものです。( 504ページ) このThe Omaha Tribeと言う本は、様々な形でお互いに関係している沢山の物語をまとめたものなのです。この本を読んでいる間に、あなたは、きっとそれらを自分のものとして形成するでしょう。

  長い間、この素晴らしい本は、Lowieの、この著者たちは、対象を“科学的な論拠”ではなく、“先住民的な感覚”で分類しているという注釈に示唆された偏見のおかげで、日の目を見ることはなかった。Lowieにとって、哀れな誤りであったことは、いまになれば、それは、負けまいとする気骨であったように思われる。それは、まさしく、殖民地主義の抑圧者達により進められた施策の問題にうんざりした原住民アメリカ人に対する、負けまいとする気骨であった。そして、“民俗学における権威者”の著作物に対して新しい感覚をもった民俗学者たちへの恩恵でもあった。4 それは、この新しいBison 版の読者でもあるあなたに対してもまた、恩恵を与えるものでしょう。あなたは、この本の著者達が、“神秘的な命と力”、それは、“すべてのものと人間とに関係した、見えるものと見えないもの、死者と生きているもの、あらゆるものの断片とその集合体とに関係している”ものですが、それを崇拝していることを確信するはずです。オマハ族の長老のClifford Wolf Sr.がいっているように、この本を読むことが、あなたに“これからながい間、恩恵を”もたらしてくれるでしょう。

 

 NOTES

 

1.     Joan Mark, A Stranger in Her Native Land: Alice Fletcher and the American Indians (Lincoln: University of Nebraska Press, 1988), pp. 48, 335.

2.     Edward B. Tylor, Primitive Culture: Researches into the Development of Mythology, Philosophy, Religion, Language, Art and Custom (London: J. Murray, 1871), p. 539.  Reprinted as The Origins of Culture, Part I and II, with an introduction by Paul Radin (New York: Harper Torchbooks, 1958), p. 539.

3.     Mark, pp. 337 – 38.

4.      James Clifford, “On Ethnographic Authority,” in The Predicament, of Culture: Twentieth-Century Ethnography, Literature, and Art (Cambridge: Harvard University Press, 1988), pp. 21 – 54.

 

 

 

訳者 あとがき

 

この本は、The Omaha Tribe Volume IIIに分かれて記述されたもので、前半のVolume I については、アメリカ滞在中 (2005 – 2011 )に英語の原本に親しむという目的でその翻訳に挑戦しました。そして、Volume IIを手がけましたが、途中で帰国することになり、その後、サウジに勤務していましたので、そのままに放置されていました。サウジから戻り、英語から離れていましたので、再度これに挑戦しようということで、2017年の4月初めから、もう一度翻訳に取り掛かりました。同じ単語を何度も引いたり、知っている単語でも意味が通じないと、もう一度詳しい辞書を引き、調べなおしたり、そうすると、意外と古語としての意味とかでぴったりするものがあったり、こんな時にはしてやったりの気分でしたが,・・・、とにかく、100年以上も前に、ネイティプインディアンのことを書いたものですから、古典での英語をいかに読むか、また、インディアンが使った英語の文章の難解さなどもくわわり、こんなことをしながら、1日2ページそこそこのペースでした。そして、ようやく、300ページを読みきることが出来ました。オマハ族のことが全てのインディアンのことについて説明しているというわけでもありませんが、オマハ族は、現代のアメリカの文明化を一番速く受け入れた部族です。その彼らの歴史と価値観を覗いてみることは、アメリカという国の歴史を語る上では、とても重要なことと考えています。これを出来るだけ沢山の人に紹介して、アメリカの歴史の裏に隠されている白人たちの価値観を、インディアンの側から理解して行きたいと思った次第です。   (鈴木 誠二)