番外その4 ひなげしと水仙

一月の北風から身を避けようと入った古本屋で、ふと目にした『イギリス名詩選』という単行本に、次のような詩を見つけました。


【96】兵士
ルパート・ブルック

もし僕が死んだら、これだけは忘れないでほしい、−−−
それは、そこだけは永久にイギリスだという、ある一隅が
異国の戦場にあるということだ。豊かな大地のその一隅には、
さらに豊かな一握りの土が隠されているということだ。

その土は、イギリスに生をうけ、物心を与えられ、かつては
その花を愛し、その路を闊歩した若者の土なのだ。
そうだ、イギリスの空気を吸い、その川で身を濯ぎ、その
太陽を心ゆくばかり味わった、イギリスの若者の土なのだ。

また、−−−もし僕の心が罪に潔められ永遠者の脈うつ心に溶け
こめるならば、感謝の念をこめて、故国によって育まれた
数々の想いを故国に伝えるであろうことを、−−−
故国の姿や調べを、幸福な日々の幸福な夢を、友から学んだ
笑いを、祖国の大空の下で平和な者の心に宿った
あの優しさを、故国に伝えるだろうということを。

【96】Brook(1887-1915)は将来の大成を期待されていた詩人だが、第一次世界大戦に参加し、まもなく病死した。彼も「戦争詩人」の一人であるが、第一次・第二次大戦の凄惨な事態を経験した人々からは敬遠されているようである。この詩は、詩集『一九一四年その他』(1914 and Other Poems,1915)に収録。

(以上『イギリス名詩選』平井正穂編 岩波文庫 p.318〜319より。)


虹の谷で過ごした幼い幸福な日々を胸に、フランスの土となったアンの次男坊ウォルターが彷彿とされるこの詩に、ああ、やっぱりルーパート・ブルックがウォルターのモデルだったんだ、と改めて思った私。

ブルックの詩を愛していたモンゴメリ。(第3章(2)参照のこと)
祖国を愛し、その未来のために散っていった美しい詩人が書き残した詩こそ、いつまでも人々に読み継がれてほしい。
そんな思いからウォルターのラストエピソードは形作られたのではないでしょうか。
しかし実際に当時のカナダの人々の胸に響いたのはブルックではなく、ジョン・マクレーという従軍医が1915年に書いた次のような詩だったそう。


In Flanders Fields


In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, rowonrow,
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

We are the Dead. Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved, and were loved, and now we lie
In Flanders fields.

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow
In Flanders fields.



フランダースの野にポピーたちがそよぐ
立ち並ぶ列また列の十字架
俺達の場所と刻印された原、そして空には
勇敢に歌うヒバリたちが飛ぶ
(その声は)銃声の中に掻き消される

俺達は死者
つい昨日まで
俺達は生きていた
夜明けを感じ
夕日の輝きを眺め
愛し、愛されていた
そして今俺達は横たわる
フランダースの原に

反撃を開始せよ
敗れし者の手からあなたに
俺達はこの松明を投げ渡す
あなた達はそれを高く掲げてくれ
旅立つ俺達の信頼が裏切られたら
俺達は眠れない、どんなにポピーが咲き誇ろうと
このフランダースの原に


(以上 Hatena::Questionサイト様より和訳引用。http://q.hatena.ne.jp/1195015943/126168/)



生きているもののいなくなった大地から芽吹くというpoppy(ひなげし)の花が象徴しているのは、戦争で亡くなった兵士たちの無念。
最後の時も祖国への愛を歌ったブルックとは、だいぶ趣の異なる現代的な反戦詩といえる作品です。

第9章(1)でも紹介したとおりモンゴメリ研究家の梶原由佳さんは流行したマクレーの詩がモンゴメリにウォルターのラストエピソードを思い付かせたに違いないと、ご自身のサイトで書かれています。(http://yukazine.com/lmm/j/articles/remembrance.html)
村岡花子訳の『アンの娘リラ』の第十九章には、梶原さんが自説の論拠としてその一部を引用されている次のような文章があります。

「僕は、炉辺荘の庭の水仙のことを考えている。この手紙が届くころには、美しいばら色の空の下で咲き出しているだろう。水仙は、ほんとうに、前とかわらず美しい金色をしているかい、リラ?ぼくには−−−ここのけしの花のように−−−血で赤く染まっているに違いない気がするのだ。【中略】リラ、小さな詩を一つ同封する。これはある晩、塹壕の地下室の中で一本のローソクの光をたよりに書いたものだ【中略】そういうわけでこの詩をロンドン・スペクテーター誌に送ってみたら、印刷して一部送ってくれたのだ。君の気にいればいいがと思う。僕が海外へきてから書いた詩はこれだけだ」【中略】これを読んで母親や姉妹たちは泣き、若者たちは血を湧かせ、人類の偉大な心全体がこの大戦争のあらゆる苦しみ、希望、憐れみ、目的の縮図を三つの短い不滅の節に結晶させたものとしてこの詩を掴んだ。

さらに、モンゴメリの原著には村岡さんが訳していない


カナダの一兵士がフランドルの塹壕で偉大なる戦争の詩を書いた。


という一文があることを指摘しつつ、けしの花が言及されていること、三つの短い節であることとあわせて、マクレーとその詩が、ウォルターのエピソードの原型となっているとする梶原さん。
確かにブルックのThe Soldierは、マクレーのIn Flanders Fieldsのような「三つの短い不滅の節」ではありません。
でも「血で赤く染まっている」「けしの花」と対置させるようにおかれた「美しい金色」の「水仙」に、マクレーよりもブルックを感じる私。
ブルックも、フランダースの地(アントワープ)に従軍していたそうですが、別の地で1915年に戦病死しています。(http://www.geocities.jp/steyuki/warpoets/warpoets_brooke.html)


第4章(3)でも書きましたが、モンゴメリは1917年の11月には既に「(アンの)息子たちが前線に赴く話を書こうと計画」していることを、文通相手のウィーバーに書き送っています。
マクレーが戦病死したのはその翌年の1月。
つまり、ウォルターの死にまつわる一連の物語の構想も、それが綴られ始めたのも、マクレーの死より前だったようですから、ウォルターのラストエピソードは、やはりブルックの人生から得たものだったと思う私です。


そして喜びや希望の象徴である水仙を、モンゴメリが愛した英国詩人たちが繰り返し詩に詠んでいたことを、古本屋で見つけた本で知った私。
ちなみに、ウォルターが詩を送ったことになっているスペクテイター社は、モンゴメリも一目置いていた有名な出版社。
そこで認められた作品は、詩人たちから本物と見なされた登竜門だったようです。
マクレーの詩は最初、そのスペクテイターに送られたそうですが、なぜか採用されなかったそうで、その後パンチという風刺漫画雑誌から発表されたそうです。




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