番外 「心の同類」考(3)

ところで、モンゴメリは「kindred spirit」という表現をどのくらい使っているのでしょうか。
ざっと調べてみたところ、こんな結果になりました。

『赤毛のアン』では計15回。
4章と18章ではマシュウについて。
8章と12章、18章ではダイアナについて。
11章ではMiss Rogerson(先生)について「この人は違う」。
19章では2回、Missパーリー(ダイアナのおばあさん)について。
21章ではやはり2回、アラン夫人について。
22章では2回、例え話として。
23章でも2回。ベル校長は違う、ステイシー先生はそうだと。

『アンの青春』では計6回。
1章ではハリソンさんについて「この人は違う」。
21章と28章ではMissラベンダーについて。 
15章ではポールと共有している世界について。そのすぐ後で、マシュウのお墓について「solitude」の文字あり。
23章ではMissラベンダーについて。
28章ではポールの父親であるアービング氏について。

『アンの愛情』では計4回。
23章でポールについて。
29章のクリスチンと39章の「今の牧師の妻」については「この人は違う」。
40章で再びポールについて。

『アンの夢の家』では計9回。
1章で1回。アンの結婚式での「花嫁付き添い」の適任者がいないということについて。
5章で2回。レスリーについての疑問形で。
6章で3回。そのうち2回はジム船長について。
7章で1回。ジム船長のいう「the race that knows Joseph」と同じということについて。
8章で1回。Missコーネリアについて。
26章で11回。ジム船長の本を執筆したオーエンの台詞「kindred infinite」として。

『虹の谷のアン』と『アンの娘リラ』では記述なし。

『アンの幸福』ではエリザベスについての1回だけ。

『炉辺荘のアン』では計2回。
ダイアナとアン、レペッカ・デューとスーザンが、それぞれ「kindred spirit」の持ち主同士だと書かれていました。

第一作の『赤毛のアン』に次いでたくさん表現されているのは、モンゴメリの一番のお気に入りと言っても過言ではない『アンの夢の家』。
その第六章で、アンが、結婚して最初に住むことになる海辺の小さな家の先の住人であるMiss エリザベス・ラッセルという女性について、「kindred spirits(心の同類)」を感じるという描写があります。
そのすぐ後で、部屋に一人きりになったアンは、

「さびしい妖精の国々の
危険な海の泡の上に
魔法の窓がひらく」


という詩を口づさみます。
そしてこの後、モンゴメリのお気に入り・ナンバー1と言っても過言でない、あのジム船長が登場してくるわけなのですが、それはさておき。

この一節は何?
誰の作?

なんだか気になって調べてみたら、イギリス・ロマン派神秘主義にカテゴライズされる詩人ジョン・キーツ(John Keats :1795-1821)の詩の一節であることがわかりました。

そして、彼の別の作品「Sonnet VII. To Solitude」という詩の中に、「kindred spirit」という言葉があることを発見♪

O solitude! If I must with thee dwell,
let it not be among the jumbled heap
of murky buildings: climb with me the steep,―
nature's observatory―whence the dell,
in flowery slopes, its river's crystal swell,
may seem a span; let me thy vigils keep
'mongst boughs pavilioned, where the deer's swift leap
startles the wild bee from the foxglove bell.
But though I'll gladly trace these scenes with thee,
yet the sweet converse of an innocent mind,
whose words are images of thoughts refined,
is my soul's pleasure; and it sure must be
almost the highest bliss of human-kind,
when to thy haunts two kindred spirits flee.


(以上「Daily poem co.uk」より引用。)



おお 孤独よ! もしもおまえと一緒に
暮らさねばならぬなら、この陰気な
建物ばかり 雑然と混み合うところは 
避けて、あの嶮しい崖、―自然の天文台―に
ぼくとともに登ろう。そこには 峡谷と、
花咲く傾斜と、水晶の川のうねりが見られるだろう。
鹿の軽やかな跳躍が ジキタリスの花から 野生の蜜蜂を
飛び立たせる 木枝の繁みのなかで、おまえとともに夜を明かさせておくれ。
しかし これらの光景を おまえとともに追おうとも、
その言葉が 洗練された思想の心象となる
無垢な人との 心のかよう美しい会話は、
ぼくの魂の悦びとなり、人間の もっとも
高い幸福となるにちがいない、ふたつの
親しい魂が おまえの住み家へ急ぐときには。
  (出口保夫 訳)

(以上「音と言葉の草原」より引用。)

モンゴメリが好きだったという詩人キーツ。
彼がカテゴライズされる神秘主義というジャンルには、あの『ザノーニ』のブルワー・リットンがいます。
で、なんだかんだ言いながら、未だ『ザノーニ』を読んでいない私。
だって、いつも行く図書館にはないし、ネットで注文すれば手に入るようだけれど結構お高い★(笑)
仕方なくネットで関連情報を集めているうちに気を引かれたのは、イギリスの神秘主義者として有名なウィリアム・ブレイクというお人。

詩人で哲学者、版画家であり画家でもあったウィリアム・ブレイクは神秘主義者の代表格らしいのですが、彼の色刷版画作品のひとつである『ニュートン』が、ウィキペディアに載っています。そしてそこには、「薄暗い海底で、ニュートンがコンパスを用いて物質世界の解明を試みており、その体は岩と同化しつつある。科学万能主義への痛烈な批判である」という解説が!
科学万能主義は「岩と同化」することに等しいとしたウィリアム・ブレイク。
「神秘」と言う言葉には何やら怪しげなイメージが漂いますが、ブレイクにしてみれば、この世界に生じる現象を時空を超えたヴィジョンとして直観しようという率直さを失い、分析により客観的に理解される因果構造こそが全てとしてしまうことのほうこそ怪しく映ったのでしょう。

モンゴメリについて知れば知るほど、ジョン・キーツやブルワー・リットン、ウィリアム・ブレイクなど「神秘主義者」と世間から評される人たちもまた、彼女の「同類(kindred)」 だったのではないかと思う私にとって、キーツの用いた「kindred spirits」がアン・シリーズの「心の同類」の元ネタだったとしても何の不思議もありません。

なお、モンゴメリの翻訳を近年手掛けられている松本侑子さんのHP「Montgomery Digital Library」では、イギリスの詩人トーマス・グレイ(1716-1771)の代表作「田舎教会の墓地にて詠める哀歌」の一節にある「KINDRED SPIRIT」が、『赤毛のアン』に出てくる「心の同類」ではないか、とカナダで発行になった「THE ANNOTATED ANNE OF GREEN GABLES(注釈付き『赤毛のアン』)」に出ていることが紹介されています。
でも、松本さんはこの説には否定的なご様子。

しかし、トーマス・グレイに約半世紀遅れて生を受けたウィリアム・ブレイクが、グレイの詩に自分の水彩画を合わせた作品を創作しているところから察するに、キーツもグレイを「同類(kindred)」と看做していたのかも知れず、「KINDRED SPIRIT」はモンゴメリを含めた「神秘主義者」たちにより共有された表現だったのでは、と思う私です。




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