番外その2 村岡花子さんとkindred spirit

2008年3月4日の産経新聞にこんな記事がありました。

一部に原文が省かれた個所があり、新装版では「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」(東京都大田区)を主宰する孫の村岡美枝さんが補った。
(中略)
原文が抜けた理由は不明だ。村岡は昭和14年、カナダ人宣教師から原書を贈られた。戦時中の灯火管制のもとで訳し続け、単行本(三笠書房)の出版にこぎつけたのは27年5月。美枝さんは「紙の調達が難しかった当時の状況も影響したのでは」と推測する。


なるほど。様々な制約のなか、どこかを省かざるを得ないということはあったでしょう。
でも、なぜその箇所が省かれたのか? という疑問は残ります。

例えば、私の手許に2種類の『クオレ』(エドモンド・デ・アミーチス 作)があります。
ひとつは昭和33年に大日本雄弁会講談社から『少年少女世界文学全集』の南欧・東欧編第二巻として発行された『ピノッキオ/クオレ』に納められているもので、もうひとつは偕成社が刊行している偕成社文庫完訳版古典シリーズのひとつとして2003〜4年に発刊された全2巻のものです。
いずれも、矢崎源九郎さんという方が訳されたもので、二つの間には若干の表現の差異が見られるものの、文体が醸し出す雰囲気は全く同じものといって良いものです。
しかし、この二つの『クオレ』にはとても大きな違いがあるのです。それは、古いほうの『クオレ』は完訳版の半分の内容しかない、ということ。
『クオレ』は、主人公の小学生・エンリーコの学校生活の一年間を、彼の日記を通して描くというスタイルをとっている作品なのですが、完訳版ではちょうど 100項目の日記エピソードが綴られているのに対して、昭和33年のものには53のエピソードしか取り上げられていません。
そしてその理由は、『ピノッキオ/クオレ』巻末の解説の中で明快に示されています。

なお、紙数の関係から、子供の心を戦争へとかりたてるような話とか、あまりにもかたくるしい、教訓めいた話などは、多少はぶいてあることを、ひとことおことわりしておきます。

二つの『クオレ』を読み比べてみると、省かれたエピソードと残ったエピーソードとの間には言われるほどの差がないと思う私ですが、昭和33年という時代は「多少はぶいて」半分にしちゃうほど、その差にとても敏感だったのでしょう。

一部に原文が省かれた箇所があるという、村岡花子さん訳の『赤毛のアン』。
省略されている箇所については、まだきちんと調べたことがありません。
ですが、講談社版の『アンの青春』や『アンの娘リラ』に見られる「大きな欠落部分」に関しては、昨年春からモンゴメリを調べる中で、いくつか気が付きました。

例えば『リラ』では、第一次世界大戦についてのギルバートや村人たちの議論が、『青春』では、マシュウのお墓参りの前段で詩人のポールとアンが分かち合う世界について語られる箇所や、Missラベンダーとの友情がダイアナのそれとは異なるものであることについて表現された箇所が、それぞれ訳されていませんでした。(『アンの青春』昭和50年第4刷 講談社、並びに『アンの娘リラ』昭和53年第6刷 講談社より)

『リラ』で省かれた箇所には、「モンゴメリは主戦論者」と捉える人たちが根拠とするようなエピソードが描かれています(第4章参照)から、半分になっちゃった『クオレ』に現れたものと似た敏感さが発揮された結果なのかもしれません。

その一方、『青春』で省かれている箇所に描かれているのは、ポールやMissラベンダーとの「kindred spirits」についてです。
「kindred spirits」というアンシリーズになくてはならない表現を「(心の)同類」という的確な言葉で最初に翻訳されたのは村岡花子さんですが、だからこそ講談社版の『青春』で「kindred spirits」が描かれている、アンがポールと一緒にマシュウのお墓に向かうシーンやMissラベンダーとの間柄を表現する重要なシーンが、ごっそり抜け落ちているのはとても不思議・・・いったい、なぜ?

実は、村岡さんが訳し始められた当初はまだ、「kindred spirits」イコール「(心の)同類」ではなかったようなんです。
『赤毛のアン』 第4章でアンがマシュウのことをマリラに話すシーンで、初めて「kindred spirits」という表現が登場するのですが、村岡さんは

「I felt that he was a kindred spirit as soon as ever I saw him.」
小父さんを見た瞬間からあたしは気が合うだろうと思いましたわ

と訳されています。
また 『赤毛のアン』第8章でアンがダイアナのことをマリラに話す台詞、

「A bosom friend--an intimate friend, you know--a really kindred spirit to whom I can confide my inmost soul.」

は、

腹心の友よ---仲のいいお友達のことよ。心の奥底をうちあけられる、本当の仲間よ。

と訳しておられます。
それ以降「kindred spirits」という表現は13回ほど出てくるのですが、「本気」「心が通じ合ってる」「腹心の友」「腹心」「腹心の人」「共通の好み」などと訳されていました。
そして「kindred spirits」とは別に、『赤毛のアン』には「bosom friend」という表現も14回ほど出てきますが、それらについては「腹心の友」「腹心」「親友」と訳されています。
つまり、まだ「kindred spirits」=「同類」ではなく、どちらかといえば「kindred spirits」=「bosom friend」という捉え方になっているのです。(以上『赤毛のアン』昭和57年65刷 新潮文庫より)
そして、これ以降のアン・シリーズには登場しなくなる「bosom friend」。



村岡さんはアン・シリーズを訳されていく中で、繰り返し登場してくる「kindred spirits」という言葉の重要性に気付き、「腹心の友」とも異なる概念として、途中から「同類」とネーミングされるようになったのでは?と思うのです。


そこで、新潮文庫の『アンの青春』(昭和40年27刷)を手にいれて調べて見ました。村岡さんが亡くなったのは昭和43年ですから、昭和43年以降に増刷された版は村岡さん以外の方により表現が修正されている可能性があると考えられるからです。
すると、村岡訳講談社版では省略されている15章のマシュウのお墓のシーンや、21章、23章、28章のMissラベンダーとの友情の箇所に出てくる「kindred spirits」はきちんと「同類」と訳されているにもかかわらず、第1章に出てくる「kindred spirits」は「同じ型」という言葉に訳されています。「bosom friend」とは区別して使われる「kindred spirits」という言葉は『赤毛のアン』から登場していますが、その概念を村岡さんが「腹心の友」とは異なる「同類」と訳されたのは、どうやら新潮文庫の『アンの青春』第15章からのようです。(2008.12.19 追記)


さて、村岡花子さんが『赤毛のアン』から省かれたという箇所も、「kindred spirits」と関係があるのでしょうか?
「kindred spirits」は、モンゴメリの神秘主義的なセンスが込められた、とても重要なイメージです。そして、モンゴメリも自覚していたように、彼女の神秘主義的なセンスは多くの人が素朴に共感できるものでもなく、ましてや理屈で理解できるものでもありません。
灯火管制の中で『赤毛のアン』の訳出に取り組んでいた村岡さんを突き動かしていたのもまた、モンゴメリとの間の「kindred spirits」だと思うのですが、そんな村岡さんにとっても戸惑いを覚えずにおれない、そんなイメージがそこに描かれていたとしたら・・・。

あぁ!これって書き出したら止まらなくなっちゃう魅力的な話題です!(笑)
調べたいこともたくさん出てきたし。
でも今は、片付けなくちゃならないerrandsが山積み。
なので、原文が訳されていない箇所についての私論は、また落ち着いたら少しずつ調べてみたいと思います。






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