第4章 モンゴメリは主戦論者!?(1)
さて、モンゴメリとウィーバーは第一次世界大戦(1914〜1918)の時期に戦争に関する意見の対立をみたらしい、ということは既に書きました。
'It's a commercial war, and utterly unworthy of one drop of Canadian blood spilt for it.'
(Tiessen論文)
「これは商業戦争だから、カナダ人の血を一滴たりとも流す価値などない」
と、1915年の書簡で主張したウィーバー。
モンゴメリはどのような返事を書いたのかを『ウィーバー宛書簡』であたってみる前に、まずは『ウィーバー宛書簡』の編纂者の一人、Paul Tiessenという研究家の論文について触れておきたいと思います。
なぜならその論文では、モンゴメリはあたかも戦意高揚に励む主戦論者であり、戦争による社会の進歩を信じる者であるかのように表現されているからです。
果たしてモンゴメリにとっての戦争は、Tiessen氏言うところの'clear-cut matter of patriotism'(愛国心の明快な発露)であり、'a bridge to a new, golden age scientific discovery and artistic renewal.' (科学的発見と芸術的革新の、新しき黄金時代への架け橋) だったのでしょうか。
「『けっきょくのところ、これは商業戦争ですから、たとえ一滴といえども、善良なるカナダ人の血を流す価値はありませんよ。』海岸のホテルからやってきた、見知らぬ人がいった。」
(『アンの娘リラ』(以下『リラ』)p.106 掛川恭子訳 講談社)
これは、アンの長男ジェムが出征する朝、駅で見送る人々に囲まれ途方に暮れて「とりのこされ」たリラの「そばを行ったり来たりする人たちのきれぎれの会話」の一つとして出てくる台詞です。(なお、この台詞群は私が愛読した講談社の村岡版では省略されています。)
これがウィーバーの主張そのものであることを、Tiessen氏は論文の中で指摘しています。そして、
'Is it possible that Montgomery was placing a deconstructive wedge into her very text, by thus quoting Weber's crisp words?'(モンゴメリはウィーバーの言葉を引用することで、自身の本の内容に再構築への楔を打ち付けたかったのではなかろうか?)と推論しています。
しかし、
「リラはこの十分のあいだに、怒り、笑い、軽蔑し、おちこみ、感動しと、さまざまな感情につぎつぎにみまわれて、くらくらするほどだった。まったく、人間というのは --- なんとおかしな生き物なのだろう!まったくなんにもわかっていない。」
「リラは、まるで奇怪な悪夢に入り込んでしまったような気分だった。ここにいるこの人たちは、三週間前、作物や価格や村のうわさを話していたのと、同じ人たちなのだろうか?」
(掛川訳『リラ』p.108)
と続く文脈から考えてみても、先の「見知らぬ人」の台詞には後のテーマへの繋がりが込められているようには見えませんし、ましてやTiessen氏の言うような「本の内容の再構築への楔」といった重要さはみじんも感じられません。
それよりも、講談社の村岡版では同様に省略されていたいくつかのシーンが、私には興味深く思われました。
例えば、「熱狂的愛国者の不信心者」ノーマン・ダグラスという男とメレディス牧師の対話です。
「【前略】それでこのあいだの夜、『血を流すことなしには、罪の許しはありえない。』をつかって、お説教したんですな。おれはあんたの考えに賛成できなかった。」
「もしジェリーが殺されたとしても、そんなりっぱなことをいっていられますかね?」
と「牧師さんが本気でそう思っているのか、ただの説教用の飾り文句なのか、たしかめたい」ノーマンに対して、メレディス牧師は自分の長男ジェリーが従軍に応じるため町に行った夜、ひとり書斎にこもってつらい一時間を過ごして導き出した結論を次のように話します。
「わたしの気持ちがどうであろうと、わたしの信念をかえるわけにはいきません --- わたしの確信にかわりはありません。祖国を守るために、その国の息子たちが命を投げだす覚悟があるなら、かれらの犠牲ゆえに、その国は新たな理想を勝ち取ることができるのです。」
それに対してノーマンは応えます。
「あんたは本気だ、牧師さん。人が本気でいっているときは、かならずわかる。おれが持って生まれた才能なんだ。おおかたの牧師さんがたにとっちゃ、おれは恐怖の存在というわけだ! だがあんたの場合は、まだ一度も、本気でものをいってないとこをとっつかまえたことがない。いつかとっつかまえてやろうとねらっているんだが --- それがあるんで、がまんして教会にいっている。【後略】」
(掛川訳『リラ』p.96〜97)
あるいは、これから「戦いにいく者たちのために」教会で「開かれたお祈りの会」で、「戦争反対論者」であるプライアー氏が
「この堕落した戦いが終わりますように --- 兵士たちはだまされて西部戦線にかり出され、人殺しをさせられているが、手遅れにならないうちに、自分達の罪に目覚めて、悔い改めるように --- 軍服に身を固めてここに出席している、哀れな若者たちは、殺りくと軍国主義への道に追い立てられたのだが、いまならまだ救われるチャンスがある」
(掛川訳『リラ』p.320)
という、およそ場にそぐわない祈りをささげたとき、キレたノーマンがプライアー氏に飛びかかるという場面もそうです。このあとでモンゴメリは、良識派ギルバートに
「ノーマンのひとり芝居は、まったくまちがっているし、言語道断だし、ばかげていた。だけどそれにしても、それにしてもだよ、アンおじょうさん、じつにすっとしたじゃないか」
(掛川訳『リラ』p.319〜323)
と「頭をのけぞらせて笑」わせています。その描写からは、モンゴメリの素朴で真摯な戦争観、というより死生観が伺われるのです。