第4章 モンゴメリは主戦論者!?(2)
彼女の死生観が端的に綴られているシーンは、『アンの愛情』のなかに見られます。結核で死にゆく友ルビー・ギリスが、死を恐れる胸の内をアンに吐露する場面です。
「『あたしは思うのよ、ルビー』と、アンはためらいながら言い出した --- 心の奥深くひそむ思いを、或いはこの世と次の世に関する偉大な神秘について、もとの子供じみた考えかたの代りに最近になって、ぼんやりとしてではあるが、あたまの中に形作られつつある、新しい観念を口に出して語るのは、アンにとっては非常に困難なことであった。とりわけ、それをルビー・ギリスのような相手に話すとなると、これはまた一層にがてなのであった。
『あたしたち多分、天国について天国のありのままの状態や、あたしたちのためにそなえてあるものにたいして、たいへん間違った考えかたをしてるんじゃないかと思うのよ。あたしは大抵の人が考えているように、来世の生活がこの世の生活とひどくちがっているとは思わないわ。あたしたちはただそのまま生活を、この世の生活を殆どそのまま続けるので --- 自分であることには変わりないのよ --- ただ、良いおこないをすることと --- 最高の理想にしたがうことが、今よりずっとらくにできるにちがいないと思うの。妨げやもつれなどがいっさい取り去られ、ものごとをはっきり見られるようになるのよ。怖がっては駄目よ、ルビー』」
「宝をこの地上にのみたくわえ、人生のとるに足らぬ --- うつり行くもののみのために生きて来た」ルビーにいたたまれぬほどの苦痛をおぼえながら同情するアン。
そしてその夜を境にして、アンは人生に更に深い目的を持つようになります。
「表面は以前と変わらぬ行き方をするだろうが、既に深い底が揺り動かされていた。自分はみじめな、ルビーのようであってはならない。一つの生涯の終わりに到達し、次の世と向き合う時全然異なったものに立ち向かう恐ろしさで --- 尻込みするのではいけない --- 平生の思想や観念や抱負とかけはなれた或るものへの恐怖で身悶えするのであってはならない。そのときどき、その場その場では美しく、すぐれたものであっても一生の目標とする値打のない、小さなことに生涯を賭けるべきではない。最高のものを求め、それに従わなくてはならない。天上の生活はこの地上から始めねばならぬ。」
(村岡版『愛情』p.166〜170)
『愛情』でアンが至ったこのような思いは、そのままモンゴメリの中にあるものだったのではないでしょうか。
それは当時の平均的な教会の教えを超えていたため、「不信心者」とも受け取られかねないものだったはず。
そういう意味で、「おおかたの牧師さんがたにとっちゃ、おれは恐怖の存在」と自認するノーマン・ダグラスという人物造形には、ちょっぴりモンゴメリ自身のものの考え方が潜んでいるように感じる私です。
そんなノーマンをモンゴメリは「熱狂的愛国者」というキャラに仕立てましたが、それは自分自身や物語の主人公であるアンと似て非なるものとして際立たせるためのことであって、「熱狂的愛国者」こそが自分の是とする人物像そのものとしたかったわけではないと思います。普通の人々の中にある素朴な感覚、常識のある面を強調してみせたり、心の奥底に隠された何かをあぶり出してみせる道化の役回りなのです。そしてそれは、ノーマンともめた「戦争反対論者」プライアー氏についても言えることです。
モンゴメリはアンがそうであったように「熱狂的愛国者」ではないと思います。
なにより、醜い戦争を忌み嫌っていたのに最後は詩を書き続けるために従軍した詩人ウォルターの一連の描写と彼の台詞の中にこそ、モンゴメリの戦争観、というより彼女が理想と望んだ死生観があるのではないかと思う私です。
「だれも皆、ウォルターのまわりにいた --- この人たちをウォルターは、ちょうど目の前にいるリラを見るのと同じように、はっきり見た。それらむかしの陽気な小さな幽霊たちは、ウォルターに向かって、こう言った。『ぼくらは、過去の子供たちなのだよ、ウォルター --- 現在の子供たちと未来の子供たちのために、一生懸命に戦って下さい。』
『どこへ行っているの? ウォルター。もどっていらっしゃい --- もどっていらっしゃい。』リラが、かるく笑いながら叫んだ。」
(村岡訳『リラ』p.173 講談社)
まるで『夢の家』の先生のように、虹の谷で幻影を見るウォルター。
既に1919年に出版された『虹の谷のアン』においても、ウォルターに「笛吹き」という無気味なヴィジョン(正夢)を見せ、続く『リラ』で戦争の過酷な現実にもがき苦しむアン一家を鮮明に描き出していることからも、モンゴメリがいたずらに戦意を煽る主戦論者などではないことがわかります。
そして『夢の家』の巻頭に掲げられた詩の作者ルーパート・ブルックのように、第一次世界大戦で戦死するウォルター。(ルーパート・ブルックは、第一次世界大戦に出征、1915年に戦病死しています。)
メレディス牧師に語らせている「血を流すことなしには、罪の許しはありえない。」「犠牲ゆえに、その国は新たな理想を勝ち取ることができる」という台詞などから、Tiessen氏はモンゴメリが戦争を 'a bridge to a new, golden age scientific discovery and artistic renewal.' (科学的発見と芸術的革新の、新しき黄金時代への架け橋)と捉えていると思ったのかもしれません。
しかし、先ほども取り上げた『愛情』で、ルビーが何を忘れていたのかをアンに思いめぐらせる部分が、この点への理解を深めてくれると思うのです。
「永遠までもつづく偉大な事柄、二つの世界をへだてる溝に橋をかけわたして、死を一つの住家から他の住家へ --- たそがれから晴れ渡った白日の中へうつる動きにすぎないものとする、偉大な事柄」
(村岡版『愛情』p.167)
モンゴメリ言うところの「橋」とは、戦争という犠牲によってだけ架けられるものではなく、絶え間ない日常の営みの、例えばアンの子供たちが遊んでいた虹の谷のような場所に、架けられるものだと思う私です。