第4章 モンゴメリは主戦論者!?(3)


ところで冒頭紹介したウィーバーの主張に対する1916年1月のモンゴメリの返事には、戦争のもたらす様々な苦難や葛藤に触れた後で次のように続いています。少し長いのですが引用します。

'The one who goes is happier far
Than those he leaves behind.'

But there was one sentence in your letter I can not believe you really meant. You must have been joking grimly. You say 'It is a commercial war and utterly unworthy of one drop of Canadian blood being spilt for it.' Surely, surely, you can not so have missed the very meaning of this war --- that it is a death-grapple between freedom and tyranny, between modern and medieaval ideals ( that isn't spelt right. I never can spell it right), between the principles of democracy and militarism. I believe that it is the most righteous war that England ever waged and worthy of every drop of Canadian blood. If my son were old enough to go I truly believe that I could and would say to him 'Go,' though it would break my heart. And if he fell I would believe that he perished as millions more have done, cementing with his blood the long path to that 'far-off divine event' we all in one way or another believe in! 
There, I feel much better after getting rid of that! It has been simmering and fermenting uncomfortably in my soul ever since I received your letter last July. Now it is 'let' and my soul will have peace!
Perhaps some of our boys did go 'for adventure' in the early weeks of the war. If so they no longer do so. A very different spirit seems to have come over our young manhood. They are going because they realize that it is their duty to go --- because a hideous danger menaces our very hearths and they must defend them. Two of our boys spent last Sunday evening here and if you had heard them you would not think they were going for the lust for adventure. They were in deadly earnest.
My heart sickens over it all. But that is the woman's part to bear and endure and 'tarry by the goods' at home while the men go to war.
I doubt if there will ever come a day when they 'will study war no more,' Isaiah's beautiful dream to the contrary notwithstanding. As you say there seems an instinctive love of war in human nature. Perhaps it was implanted for some wise purpose. 'Without shedding of blood can be no remission of sins.' Suffering must be good for a nation if it is good for an individual. High ideals must be occasionally fertilized by blood. Whether shed in a good or a bad cause the sacrifice is the same and must produce a harvest.

「『行く者はまだずっと幸せ
残していく者たちに比べれば』(*1)

あなたからの手紙には本気でおっしゃっているとは信じられない一文がありました。きっと残酷な冗談に決まっています。 あなたは『これは商業戦争なのだから、カナダ人の血を一滴たりとも流す価値などない』とおっしゃいます。よもや、よもやあなたはこの戦争の重要な意味を見落とすなんてことはないでしょうね。 --- これは死をかけた闘いなのです。自由と暴政の、現代と中世的観念の、(「中世」のスペルが正しくないでしょう。正しく書けたためしがないのです。)民主主義と軍国主義の。 これは未だかつて英国が遂行する戦争の中でもっとも正義にかなったものであって、カナダ人の血に値すると信じています。もし私の息子が従軍できる年齢だったら、私は「お行きなさい」と言うでしょう、たとえ心が張り裂けてしまったとしても。もし彼が戦場で倒れることがあっても、幾百万の若者がそうであったように、彼の血は私たちの全てが何らかの形で信じている「遥かなる神聖な出来事」(*2)へと至る道程をしっかりとつなぎ合わせることでしょう!
これでやっとすっきりしました!昨年の7月にあなたの手紙を受け取って以来、押さえ続けていた怒りがフツフツと沸いてきて、それがいつ爆発するかと落ち着かない気持ちでいましたから。これで私の心は穏やかさを取り戻すことでしょう!
もしかしたら、少年たちの中には「冒険」気分で戦争に出かけていくものもあったかもしれませんね、戦争の最初の数週間は。だとしても、そう長くは続かないはずです。尋常ならざる精神が若者たちを包んでいるように思います。私たちの家庭を脅そうとしている見るも恐ろしい脅威を防ぐために出征すること、それが彼等に課せられた義務であることを自覚して赴くのです。先週の日曜の晩、二人の少年たちと過ごしましたが、その時の彼らの言葉をあなたも聞くことができれば、彼らが冒険を渇望して出かけるなどとは考えないはずです。彼らは死ぬほど真面目でした。
そのことを思うと心が痛みます。でも、男たちが戦争に行っている間、耐え忍び、家で『荷物のかたわらにとどまる』(*3)ことが女たちの義務なのです。
しかしそれとは逆に、『もはや戦いのことを学ばない』(*4)というイザヤの見た美しい幻が実現する日が果たして到来するのか、私には疑わしく思えます。あなたがおっしゃるように、人間には戦争を好む本能があるように見えるからです。もしかしたら、そのような本能は何か賢い目的のために植え付けられているのかもしれません。『血を流すことなしに、罪のゆるしはありえない』(*5) 苦しみは個々人にとって良いものであるなら国家にとっても良いもののはずです。高い理想は時に血によって肥やされるのです。 良い理由で流されるにせよ悪い理由で流されるにせよ、犠牲であることに変わりはないのですから、収穫をもたらさねばなりません。」

(『ウェーバー宛書簡』p.61-62 水野暢子訳)

(*1)エドワード・ポラックの詩 'The Parting Hour'からの引用
(*2)「遠くに在る神の事象」とは、ウィーバーが大好きなテニスンの詩の言葉とのこと。モンゴメリは、これを引用することによりウィーバーの心の琴線に触れようとしている、と注釈にあります。
(*3)サミュエル記上30章24節からの引用
(*4)イザヤ書2章4節およびミカ書4章3節からの引用
(*5)ヘブライ人への手紙9章22節からの引用

このようなモンゴメリの主張はやや強い調子ではあるものの、

「ウォルターもジェムも、自分自身をさしだすだけでいいのよ。でもわたしたちは、ウォルターとジェムをさしださなくてはならないんですもの。」
(『リラ』p.224)

といった、『リラ』でメレディス牧師やギルバート夫妻、ノーマンやスーザンが議論したり、リラがじっと耐えながら戦時下の日常で話していたものと同じであり、苦痛の面持ちが伝わってくるものでした。

そして私は、『ウィーバー宛書簡』の前書きにとても興味深い一文を見つけました。

'Won't you write a story that will make me the man I want to be?'(私がなりたいと思う像を、話に描いてくれませんか)

これは文通が始まった頃、ウィーバーがモンゴメリに書き送った文面とのこと。
ウィーバーがモンゴメリ宛に書いた文面が残っていたんですね!
1902年から続く文通で、第一次世界大戦に際して明らかな意見の相違をみせた二人。。
もしかしたら、ウィーバーの当初の願いを叶えるために描いてみせたものこそ『虹の谷』や『リラ』のウォルターだったのではないでしょうか。
より正確に言うと、ウィーバーの「なりたいと思う像」と、モンゴメリの「なってほしいと思う像」を詩人ルーパート・ブルックのイメージで統合した像がウォルターだったのかも知れません。
ウィーバーのように美を愛し、心にわき上がるものを詩に綴っていた少年ウォルター。そして、戦争の醜さを誰よりも恐れたウォルターが、自らの意志で従軍の道を選んだのは、心の自由を失い詩が書けなくなることを一番恐れたからだったということを表現したかったのではないかと思えます。

そう思った上で、モンゴメリが『虹の谷』を書きはじめるのに先立ってウィーバーに送った手紙を読むと、ある一文が妙に気になり出します。

'I am now at work on a book in which Anne's children figure and then I plan to write one in which her sons go to the front. I intend to occupy these busy hurried years with these harmless pot-boilers.'
(『ウィーバー宛書簡』p.67)


「今、アンの子供たちに焦点をあてた本を書いています。そして、次の本では彼女の息子たちが前線に赴く話を書こうと計画しています。多忙な慌ただしい年月を、これらの害のない、小銭稼ぎのための駄文を書くために費やそうと思っています。」と書かれた1917年11月の手紙に見られる'pot-boiler'という語を指して、モンゴメリは金儲けのためにアン・シリーズを書いたのだ、と評する向きもあるようですが、自ら'pot-boiler'という場合は謙遜というか自虐的なジョークというくらいに受けとめた方が自然と思われるこの表現。
そこにはウィーバーをイメージしたキャラクターを構想しているモンゴメリの意識が見え隠れするように思えるのです。
もう一人の文通相手であるマクミランに対しては、『モンゴメリ書簡集I』を見る限りこの時期には手紙を書いていないようで、『虹の谷』執筆中の1918年4月の手紙でも作品のことには触れていません。1919年2月の手紙で『虹の谷』を書き上げたことを記しているのですが、同じ手紙の中で初めてウィーバーのことを紹介しています。
そして、ウォルターが従軍する話である『リラ』が出版された1921年の10月にウィーバーに宛てた手紙では、

’Read it from the standpoint of a young girl (if you can!) and not from any sophisticated angle or you will not think much of it. ’
(『ウィーバー宛書簡』p.88)


「(これは少女向けの物語ですから)少女の気持ちになって読んでみて下さい(あなたがお出来になるのなら!)。あんまり深読みしないでくださいね。」

とマクミランには書いていないことをわざわざ書いているのを見ても、モンゴメリは戦争を描くにあたって実はウィーバーから多くのインスピレーションを得ていたのではないかと思うのです。





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