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以下に、Raymond J. DeMallieによる、この本に掲載されている序文を紹介する。

 

 

この本 Indians of Plains  
序文 Raymond J. DeMallie  
はしがき Harry L. Shapiro  
本の構成 内容 項目  
訳者あとがき 鈴木 誠二  
著者について Robert H. Lowie  

序文

               By Raymond J. DeMallie

 

American Museum of Natural History Robert H. LowieIndians of the Plainsの記述をするよう依頼したとき(1954)、その人類学的な古典としての格式は、あらかじめ確信されていた。“求められていたのは”と、Lowie は、彼の自伝の中で述べていた。“それは、一般的な読者のために、学術的なものに走りすぎてはいない小さくまとまった本であった。”1それは、アメリカインディアン達の生活を表すように企画された、古い博物館のなかに所蔵されている手引書に代わる、“Anthropological Handbooks”全集の中の最初の本となるはずのものであった。この全集の目的は、専門的な人類学者たちによるアメリカインディアンに関する半世紀にわたる研究の成果を一般に知らしめるためと言うものであった。Lowieは、平原のインディアン達について記述するための必然的な選択であった。彼は、コロンビア大で、Franz Boas、彼は、人類学というものを、合衆国における学術的な分野として確立した人であるが、その彼について学んでいた。Clark Wissler ( 1870 – 1947 ) と Robert H. Lowie ( 1883 – 1957 ) は、専門家、つまり、大学で訓練された人類学者としての最初の世代であるが、自分達の仕事のすべてを平原のインディアンに注目して研究していたのは彼らだけであった。Wissler は、1912年に最初のAmerican Museum plains handbookを著述した2;この本は、とりわけ、Lowieが、新しいものを手がけるための指針となった。その、Lowieは、単に新進気鋭の人類学研究者と言うだけでなく、彼は、`1907年から1921年にかけて、American Museumの職員の1人として、Wisslerのものとで、平原に住んでいたインディアン達の下を訪れ、膨大な量の博物館に展示するための品々を収集していた。

  LowieIndians of the Plainsが出版された後、人類学における彼の同僚がこの本を彼の生涯研究の集大成であると賛美した。American Anthropologistの中で、この本で考察し、Fred Eggan がこのように書いていた:“この本は、平原インディアンの生活と、その生活が辿った偉大なる変遷を集約したものである。もし、彼らが、その社会のほぼ全員を代表しているのであれば、平原に住んでいたインディアン達は、大変な価値のある、そして、共感を呼び記録の担い手であり、かつ、解説者なのである。”3  Eggan は、ある種の驚きをもって、Lowieは、文化の領域理論にはそれほど観点をもっていなかった、それより、むしろ、歴史的な展望の中で平原の文化の診断的な姿を描写することに注意を向けていたと述べていた。しかし、彼は、この本は、たとえ、この領域の特別な専門家であっても得るものがあること疑いなしの、平原のインディアン達の文化に対する様々な局面の理路整然とした洞察的解説をするものとして、とても重要なものであると言っていた。

  その初版から、第三版までの間、Lowieの本は、殆ど継続的に出版されていた。1954年に出版された、百以上もの解説図のついたとても素敵な豪華版は、McGraw-Hill Book Companyから出版されたものであった。1963年に、あまり豪奢な解説のものではないが、Natural History Press of the American Museumから、ペーパーバック版が出版された。こうした本が、積極的に、そして、継続的に広範囲の人々に読まれているということは、この本の価値を示す重要な尺度なのである。

  この本を心底賛美するには、Lowieの人類学者としての経歴と、そして、20世紀の前半における人類学上の理論の発展の歴史とをある程度理解する必要がある。Robert Lowieは、彼の同時代の人たちと同じように、ボーズ人の人類学に熱中していた。4  1883年にオーストラリアで生まれ、両親とともに1893年にニューヨークに移り住んだ。そして、1901年に City CollegeからA.B.学位を取得し、公立学校の先生となった。1904年になり、科学に自分の生涯を捧げるつもりで、コロンビア大学に入学し、そこで、Frnaz Boas の講義を受け、西部のアメリカインディアンの民俗学と人類学の分野に気持ちが惹かれた。そして、1906年には、American Museumの主催で初めて調査旅行に出かけ、アイダホでLemihi Shoshones族に出会った。彼は、定期的に沢山の西部に住んでいた部族を訪問し ― 意識的にクロー族がおおかった ― それは、1931年まで続いた。彼は、伝統的な生活すべての局面について、明確な情報を記録として残し、原住民達の言葉を勉強し、そして、貴重な文化遺産を収集していた。彼が述べているように、彼に取っては、それは一種の探検であった;彼が彼の経歴の終わりのところで次のように記述していた。“これは、信じられないかも知れないが、1906年に、北部の原住民アメリカ人の殆どは、未知の世界ではなかったにしても、まだ科学的な観点から言えば、かすかに知られている程度のものであった。”5 Lowieと彼と同世代の人たちに取っては、その挑戦は、未知なるものを、それが消え行く前に、アメリカという坩堝の中にしっかりと位置づけ、取り込んでおくことであった。

  原住民達の文化を記録するということは、Lowieにとっては、絶え間ない科学的、かつ、歴史的な栄冠であった。科学的であるということは、正確で、冷静であり、かつ、客観的であるということであった;情熱が傾けられたのは、物質的な文化、装飾芸術、社会的な生活様式、宗教、そして、様々な部族に伝わる儀式形式などの領域における、その様式の詳細と、検証であった。地理学的な地域にまたがる類似性は、常識的なその発生源からのその動きというのは正確に地図に描くことができるが、その文化的の導入として説明されていた。こうした様式が、言語学的な、そして、地理学的な障壁を乗り越え、考え方を広げていったことを明らかにし、過去の歴史的な文化の流れの過程を暗示していた。この科学的な研究は、そのひとつの終着点として歴史的な再構築をするというものであった― その発生源と、特定の文化的な形跡の混迷、かつ、複雑な様式を理解するということであった。その研究の手立ては、まさしく自然歴史学者のそれそのものであった。6

   平原のインディアン達に関するLowieの現地研究の殆どは、平原の地域を発展的な理論を検証する小世界として利用するという、平原のインディアン達の文化の診断的な手法をとる人類学者たちにより、広範囲にわたって研究されたもの中の部分的なものであった。Boas自身、American Museumの館長の傍らとして始めた;、1899年に、彼は、Alfred L. Kroeberをワイオミングのアラパホ族の下に送り、そして、1902年には、今度は、Clark Wissler をサウス・ダコタやモンタナ州のスー族とブラックフィート族のところに送り出していた。Wisslerは、Boasが 1905年に去ったときに、博物館の人類学研究の責任者となり、その後の彼の生涯をすべて平原のインディアン達に関する研究の指導を取り続けた。7 この前半期における目覚しい業績は、物質的な遺産、装飾のための抽象化、男達の社会的組織、呪術の包み、サンダンス、そして、そのほかの儀式様式などを含めた系統的な研究であった。

 こうした研究の成果が、一連の新しい報告、American Museum of Natural Historyの人類学に関する論文集が、科学的な学術論文として出版された。その全般が、項目別に編成されて、直接の現地調査の結果から構成されていた。それらは、解説をしようとする者ではなく、実態のデータを記録したものであった。それぞれの文化が、全体として完全に統一されたものとして概念化されていた ― それは、一つの言葉を話す特殊な社会的な集団の間に独特な歴史的発展の産物なのである。それぞれの文化は、基本的には似ているように見えるところもあるが、しかし、ある見方からすれば、隣通しの部族の間でも、お互いに異なっているのである。文化の本質についてのこうした理解を与えられて、こうした学術論文と言うものは、稀に、情報を提供してくれる個々のインディアン達の名前のことを記述している;これは、このことが、原住民的な生活に関する記述に対して、分けの分からない時代感覚に欠けた独特な異常感覚を与えている。これらのすべてのものが、インディアン達の保護居留地区への適合の過程に対してなんらの配慮もされずに、19世紀のバッファローを狩猟する時代にかけて再構築されていった。

  このAmerican Museum の論文集は、Smithsonian InstitutionにあるBureau of American Ethnologyの膨大にAnnual Reports and Bulletinsを性格づけている記述による人類学の古い伝統を踏襲していた;同様な論文集は、シカゴの Field Museum of Natural History、ニューヨークのMuseum of the American Indian ( Heye Foundation ),

Milwaukee Public Museum、そして、カリフォルニア大学などからも発刊されていた。彼らがまとめた膨大な資料の情報源と、豊富な詳細な資料とを一緒にすることにより、原住民アメリカ人の文化を理解するための幅広い基盤を提供している。こうして発刊されたものの主要な部分というものが、平原に住んでいるインディアン達のことを取り扱っている。

前述したすべてについて、このことが文献 それは、わずかの重要な歴史的情報源とよく読まれている本とともに、― Lowieの専門的技術の源であり、そして、彼のIndians of the Plainsへの情報を提供している、その文献の本体なのであった。

  Lowieが平原のインディアン達についての研究をはじめ、そして、その主題についての彼の成果をまとめた本を書いていたその期間の、殆ど50年近くの間、人類学の学問は、まさに成熟を成し遂げた。1954年までに、その世紀のはじめにBoasの弟子達が為した研究というものがだんだん時代遅れの様相を呈してきた。文化と言うものは、特異な人間の現象であるというBoasの定義、それは、歴史的に誘導されたものであり、人種とか言語から系統的にはっきりと区別のでき、伝統とか、環境というもののどちらにも依存していないものであるが、その文化が、人類学的な仮定の核心にと融和していった。しかし、1950年代になり、興味の対象は、自然界の歴史から社会学的なものへと移行していった;そして、次第に人類学はその注目の対象を理論的な問題へと向けるようになり、合衆国の国外の人々の生活の研究に熱心になっていった。古い世代の人類学者の名残の1人として、Lowieは、決してその一端を担ったわけではないが、こうした新しい発展の多くの研究者と肩を並べていた。彼は、そのやり方は、Boas流に対して忠実であったが、彼の本のなかで、幾つかのこうした新しい研究手法から構成要素といったものを統一していった。8

より新しい領域での最初のものは、血縁関係と社会的な組織についての研究に対する社会人類学的な解析手法の適用であった。この主題は、人類学においてLowieが最初にかかわりを持ったもののうちの一つであった。1930年代の間に、もっと若い人類学者たちが北アメリカインディアン達の社会的な組織についての研究を始めた。イギリスの学者であるAlfred Reginald Radcliff-Brownに刺激されて、彼らは、血縁関係と社会的な体系を社会的な生活を統合し、そして、それを永続させる機能を持った組織的な構造であるとして、解析をしていた。それと平行して、社会的な規制―法律―この存在は、歴史的な産物と言うよりも社会学的な現象であるが、その定義についても研究が進められた。その内容は、明らかに、Boas流のものではなかった。しかし、Boas学派の、John R. Swanton, A. L.  Kroeber, Robert H. Lowie そして、Alexander Lesserらは、この分野の古いアメリカの人類学と新しく発達したものとを間のある一つの非常に重要な結びつきを提案して、血縁間と社会的な組織を理解するために本質的な貢献をした。9 この展開は、第三章で、血縁関係と社会的な組織についてのLowieの極めて明解な解説の中に見ることができる。

Lowieは、この本の中で、人類学的な興味の中でさらに新しい三つの領域についても注目の目を向けている。その一つは、アメリカインディアン達の現代的な生活様式への適合の動きに焦点をあてた、変容の研究である。Wisslerが、こうした現代のインディアンの生活についての研究の重要性を認識していた最初のBoas学者であったようだ。彼は、彼の弟子である、Haviland Scudder Mekeelを、Pine Ridge Sioux族の現代生活の現地調査を始めるように、1930年に派遣し、一方、Margare Mead ( やはり、American Museumの所員であった。) は、その同じ年の夏にOmaha族の研究をしていた。彼らの研究が、アメリカインディアンの現代的な生活についての最初の専門的人類学の解説となった。Wissler 自身も、その時代の変換点における平原の保護居留区での、彼の初期の現地調査の一般的な説明本を書いていた。こうしたはじめのころの研究から、変容と言うものが、コロンビア大学のRalph Lintonにより指導された七つの部族に関する比較研究の中に最もよく象徴されているような、人類学的な特化領域の一分野として発展していった。10  Lowieは、この新しい分野について、現代の文献の利用をしていないけれども、それよりむしろ、Alice C. Fletcher Francis LaFlescheの、その世紀の転換点におけるOmaha 保護居留区についての記述をもとに、第八章でその発生を認識している。11 第七章では、Lowieは、人類学者たちにより為された膨大な研究と、特殊な遺跡と言うものを歴史的に良く知られて文化と結び付けようとした試みの重要性を認めていた。この分野における研究の多くは、コロンビア大学のWilliam Duncan Strongによりなされたものであり、それは、“直接―歴史的研究手法”が、人類学的な遺跡を歴史的に良く知られたポウニー族の村と結合させたとして知られる、Waldo R. Wedelの、現在も続けられている研究の中で最もよく言い表されている。12 その同じ章のなかで、Lowieは、文化的な情報の歴史的な発生源を通した、系統的な研究の新しい流れ―それは、民族歴史学として知られるようななった特殊な分野であるが、これについても触れている。非常に重要な情報元の一つが、コロンビア大学や、Oscar Lewis, Joseph Jablow 、そして、Frank Secoyらにより遡及されるに違いない。13

しかしながら、Lowieの本の中心的な事柄は、文化的な領域として平原をどのように定義づけるかと言うことである。理論的な専門用語ということで、それは、この仕事の最も重要な認識なのである;それは、Lowieにとっては、Boas流の人類学にたいする正当化― 或いは、立証 − 以外の何者でもないのである。平原のインディアンに関するAmerican Museum の体系的な現地調査の源泉であった理論的な事柄は、すでに過去のものになっている。一定の特殊性とか、特殊性の複雑さは、平原の環境に対応するなかで族により部族に従って独自に考案されたものの結果なのかどうか、或いは、数々の特徴の類似性が、一つの部族から別の部族へと取り込まれていった結果なのかどうかは、議論されていない。かって消滅した“同時代仮説”−これは、その領域の非常に沢山の文化的に典型的な特徴を共有している部族と言うのは、その領域に、その昔住んでいたのだと認められるというもの ― この仮説は、もはや議論されることはなくなった。その代わりと、Lowieが書いているのは、“文化的領域というのは、単に、人々を分類するときの便宜的な方法に過ぎない”( page 198 ) と言うことである。

最初は、Lowieは、文化的な領域の地理学的な如何なる定義についてもこれを拒絶していた。彼は、基本的には、Wissler1912年のスキーム、背の低い草の高い草原地域と、背の高い草の高原台地の両方の部族を包括している考え方を信奉していた。14 彼は、草原の部族と別の文化を持つ彼らの周辺部族との間に重要な文化の連続的なつながりのあることを考慮しながら、東と西の境界周辺の、これらの領域から締め出されている部族( たとえば、クーテナイ族、オジブワ族、イリノイ族 )のことについてもしばしば議論していた。このようにして、半定住の園芸部族と放浪部族とを一緒まとめ、彼は、この領域の如何なる一般的な文化面での定義を拒絶していたのだ。言語により分類するようなことで、この平原地域をこれに隣接する地域から明確に区別することはうまくいかなかった。Wisslerは、平原地域を、食料をバイソンに依存することで基本的に定義しようとしたが、Lowieは、こうした定義についても、もともと原住民達の世界では、バイソンはこの平原地域の境界を越えてずっと広い範囲にわたり分布していたという事実から、これもまた拒絶していた。その代わり、彼は、この地域の特徴のもつ複雑さに基づいて定義をしようと言う考えに落ち着いていた。“これらの部族は、”と彼は記していた。“生活様式のはっきりとした形態を表わすものとして一緒にまとめられるべき、非常に数多くの文化的な特徴を共有しているのである。”と。( pp. 5 ) この本のはじめのところで、彼は、バッファロー、毛皮のティピー、馬の利用、様々な武器、武戦行動の重要性、治安維持力、軍事的な組織、サンダンスを含んだ儀式の複雑さ、そして、目を見張る幾何学文様などに対する依存性として、こうした分析による特徴を列挙していた。( pp 5 -6 ) この本の結論のところでは、彼は、これらの例に加えて、手話と超自然信仰( p. 198 ) に関するある種の形を付け加えていた。一方で、彼は:“ここで着目している部族は、確かに、白人達の接触の時代における顕著な生活様式を代表しているものとして認められる”と記述していたが、その他方で、彼は、“半定住生活をしていた部族は、明らかに、われわれの考えている地域のなかでは補助的な集団を形成しており;彼らは、間違いなく、ウィスコンシンやイリノイのウッドランド西部地域の部族と、ウィスコンシン―南部平原地域を形成するという形でまとめることができる。”ことを認めている。( p 198 )  彼はそのことについて言及してはいないが、この広範の部分の考え方−高原台地の補助的な地域を平原地域から分離するというもの―は、これらの人々を分類わけするときのKroeberの提案であった。

 Lowieの認識から浮かびあがってくるものは、一連の歴史的な発展から生まれた複合体としての平原地域の姿である。それぞれの部族の文化の底に流れているものは、石器時代や、或いは火起こし技術が支配していた時代のような、汎―アメリカ文化の特徴の極めて古い時代にできた基盤となっているものである;この領域全体にわたり、霊感洞察のようなまさしく平原文化の特徴といえるもの;そのほか、腱で裏打ちされた弓や、補強されたモカシンなどのような、比較的新しい特徴は、西部地域、或いは南西部地域から入って来たものである;しかし、さらに重要であるのは、ウッドランドに住む部族や、後にこれに加わる部族と共通している数々の特徴である。このようにして、平原の文化と言うのは、歴史的な積み重ねの結果なのである。もう一度言うなら、Kroeberの平原と高原台地と、そして、ウッドランド―三つの準地域―を一つの東部文化圏という形で包括するという潜在的な認識により、Lowieは、次のように結論づけていた。“平原の文化は、すべからく、このように、絶えることなく他の地域の文化を取入れ、そして、それを新しい生活環境に合わせて適合させることにより少しずつ修正された、ウッドランド文化の特化されたもののように思われる。”( p 199 ) 

膨大な量の情報を通してすこしずつ変わっていったあと、Lowieの結論は、彼の仮説―平原地域と言うものは、一地域としてみなされるべきである、その特徴的な姿は、歴史的発展の結果である、そして、この歴史的な感覚においてのみ、この地域が定義づけされることができる、という、そのものになった。 平原の武ザ苦は、半定住生活の部族と放浪部族とに分けて考えることができるという1540年のCoronadoの観察を引用して、彼は、文化の地域として、平原の部族が話している言葉をその根拠にしようとすることは、バッファローの経済的な開拓をするために使われた原住民的文化の目立った混合物の古い遺物である、と結論していた。( p 204 )  Lowieにとって、文化とは、まさしく感覚の歴史であったそして、彼の結論は、― 誰が、確固たるボーズ人であるのか Wissler が、New World というなかでのBoas学派としての研究の結果として最初に一般的な総括をした The American Indian ( 1917 )に到達した人たちと同じであった。理論的な感覚において、Lowieの本は、新説的というより弁護的なものである。

Lowieの本の強みと弱みが、20世紀のはじめのBoasの人類学的研究の強みであり、また、弱みでもあるというのは、決して驚くようなものではないばかりか、その研究の有用性を現代の読者に対して、評判を傷つけるようなものでもない。それは、人類学の歴史を縮図的に繁栄しているものである;われわれがこの本を読み時に、古い論争のこだまが響き渡ってくる 装飾のデザインにおける抽象化の進化についての疑問、パーフレッチェの装飾について、年功社会の重要性について、サンダンスがどのように発展していったのか、平原の文化に馬がどのような影響を与えたかというようなことについての論争である。一般大衆の読者は、Lowieがどうして、見るからに不釣合いな時間を、明らかに不可解な出来事に専念したのかと言うことに疑問を持っているが、しかし、そのそれぞれは、かっては、この分野においては盛んに議論されたものの代表的なものであり、そして、“原始的な社会”の特徴と、その発展に光を当てようとされたものであった。人類学の総体としての成功の究極的な正当化と言うものは、いろいろな時代と、いろいろな場所のそのほかの人々の生活様式を安易に記録するものではなく、比較というものをとおして、全体としての人類を解明するというものである。

Lowie自身は、いつも人類学的な探求の結果を大衆にもたらすことの重要性を非常に気にかけていた。彼は、民俗学の情報の多くのものが、決して大衆の興味を受け入れない科学的に特殊な分野の中に“埋もれている”ということを感じていた。こうした認識に立ち、1935年に、彼は、それまでのほかの研究に加え、彼自身の特殊な11分野からの情報を整理して、クロー族インディアンに関する一般的な本を出版した。15 その本は、現在、Boas学派の研究の手本として活躍し、そして、Boasの弟子達によって著述された数少ない一般的な人類学に関する単行本、−しかも、平原の部族に関するものではただ一冊しかないが、― その一つとなっている。

Lowieが、Indians of the Plainsについての著述を頼まれたとき、彼は、とてもうれしくもあり、幸運でもあった。と言うのは、彼は、その時 半世紀に渡り自分を没頭させてきた沢山の資料を活字という形でまとめる機会が得られたからだ。時間の経過が、ある見方からすれば、時代遅れになったように感じさせるところもないではないが、この本は、詳細な事実に基づいたものであり、そして、更なる研究への沢山の疑問も提示している:もはや、人類岸者に、アメリカインディアンに関して“古代の人々”という言葉を自由に使わせないばかりでなく、インディアンの宗教は、“超自然信仰”を志向していたなどと言うことで議論すべきではない。Boas学派によってさえ考えられていた、インディアンの文化というのは、歴史的には古いものであり、従って、一般化されたアメリカの文化に向かって“変容”していったのであろうという、発展的なものであるという考え方は、もはやそのまま受け入れることはできない。多くの人類学者は、今日、学んだ生活様式を取っている人々の感受性に適合している。そして、合衆国の中では、文化に関する多元論の詭弁が、大衆文化がわれわれ相互の相違のすべてを根絶させてしまうほどの脅威を示しているが、その進行と同じ速さで行き渡っていった。

おそらく、もっと深刻であるのは、 Lowieの本が、さらなる研究がいつも誤った固定観念を粉砕しながら古い事実を補完してきたように、何年にも渡り助長して来た、わずかの事実に関する誤認識の問題である。たとえば、Lowieは、スー族の中心的な部族であるヤンクトン族や、ヤンクトナ族のことを“ナコタ”スー族と書いている( p 8 )が、これは、それ以後の沢山の著作人が何時までもつかうようになった一つの誤りであった。アシニボア族は、− 非常に近い関係にあったが、− 彼らは、自分達のことを“ナコタ族”と呼んでいたけれども、ヤンクトン族やヤンクトナ族が、自分達のことを“ダコタ族”と言う名前以外の言葉で呼んだという証拠は何もない。ある文脈の中で、東部、もしくは、サンテ・スー族の方言のなかのdは、中央部の方言の中では、nになっていたが、このケースは今のものには当てはまらない。このように、中心的なスー族が“N”方言として話しをすることは正確であったかも知れないが、その言葉を話す人々を“ナコタ族”と言うのは、間違っている。その名前は、アシニボア人に対してだけ限定的に使われていたに違いないのだ。同様に、Lowieは、ウッドランドのサンテ・スー族は、もともとは、父系の血縁社会から発生したものであるという誤り持ち続けていた。( p.95 ) ;これがなんであるかという証拠はないが、もともとの間違い、― Lowieが著述をしたずっと以前のものであるが、− は、事実ではなく、ある仮定に基づいたものであった。16

 別の歴史的な事柄について、Lowieは、どのようなものが、これまで何度も繰り返してきた性急な誇張として認識されなければならないかをはっきりさせてきた。彼は、ゴーストダンス―19世紀の終わりにかけて平原のインディアン達の間に広まっていった、救世主的な運動―は、スー族や、アバッチ族、シャイアン族、そして、カイオア族などにより、アメリカ政府に対する反抗という形に摩り替えられていったと、暗示していた。( p 181 ) このことは、その問当時、西部の開拓者達には、広く信じられていたが、こうした主張を裏づけようなものは殆ど皆無である。

歴史的な記述の客観的な評価は、その宗教的な運動が、共同社会的な集まりであり、そして、踊りをすることであったので、白人の研究者達は、それは、やがては戦争にエスカレートしていくものと信じていた。そして、その集団がスー族の中に取り込まれていったとき、それは、むしろインディアンよりも白人の側により蓄積していたもののように思われるが、つもり積もった不満が突然爆発した。17

未だ、他の例も挙げられるかもしれない。Lowieは、平原に住んでいたインディアン達の戦闘好みの習慣の主要な動機は、個人的な栄誉を熱望するものであったと暗示していた;武器などは、経済的な意味では何の価値もなかった( たとえば、馬とか、そのほか、本質的に略奪品を手に入れためのもので、)し、領地を確保するためにも何の役にも立たなかった。( pp. 104, 112 )  ある一つの水準で、このような分析は、確かに正しい;成人したインディアンは、それが自分の地位とか名声を手にする当たり前のやり方だったので戦闘に加わっていた。一方、経済的な効果は、決して無視できるようなものではなかったし、歴史的な分析は、辺境地域にいた平原の部族は、他の部族が次第に衰退していく一方で、ある部族の力と資源が充実してきた、そんな歴史が記録されるようになってからは、彼らは、だんだん実質的に変化していったことを明らかにした。18  Lowieの分析は、Boas学派の人類学者たちの非常に大きな危険性のうちの一つである、何時までも変化しない本質を反映している;すべてのものは、過去をもっているものであると理解されている一方で、回顧的な記述の過程は、誤って、文化を歴史的な特定の時と言うよりも、変わらない規範のようなものと、理想化し、そして、記憶にとどめていたのだ。

この本のそのほかの部分は、捨てられて以来久しい考え方を繁栄している。10,000年以上( p 184)も経過してから、人類学者たちは、今、人間と言うものが、少なくとも、12,000年の間、この偉大なる大平原で生活を営んでいたことを知り、そして、その期間の長さはそんなものよりももっとずっと長いとを信じている。同じように、歴史と、そして、変容という部分は、知識というものの現代の状態と比較した、とても基本的な理解を反映している。とりわけ、文化的な多様性、とか、民族の象徴、或いは、継続的な主体性の体系といったものに対する認識の欠如が、その議論を古めかしくしている。

 批判はさておき、Lowie Indians of the Plainsは、この主題について、簡潔で、詳しく、そして、暗示に富んだ総覧として卓越したものをもっている。そして、それは、平原のインディアン達の過去の文化を理解すための人類学者たちにより収集され、集積された膨大な骨格をなす情報への素晴らしい手引き所として、今もなお多大の貢献をしている。

 

 

図書目録

 

この本の初版が出て以来、30年近くの間に、非常に沢山の平原に関する事柄が追加され、その図書目録の資料がある。George Peter Murdock and Timothy J. O’Leary, Ethnographic Bibliography of North American ( New Haven; Human Relations Area Files Press, 1975 ), vol. 5, の平原インディアンのところには、これらはすべて、1973年以前に発刊されたもので、それぞれの部族により計画されたものあるが、4 5千もの本が紹介されている。lists some four to five thousand entries in the plains section, all published before 1973, organized by tribe. E. Adamson Hoebel, The Plains Indians: Z Critical Bibliography ( Bloomington: Indiana University Press,  1977) 、この本は、基本的には部族により計画されたもので、図書目録もあり、平原のインディアンに関する205もの研究が紹介されている、初心者向きの分かりやすい指導書である。1976年までの、平原インディアンの人類学についての芸術面からの集大成の易しくまとめたものとして、W.Raymond Wood and Margot Liberty, eds., Anthropology on the Great Plains ( Lincoln University of Nebraska Press, 1980),があり、この中には、目録付で、21の典型的な随筆が含まれている。

Lowieの本の中で取り上げられている沢山のトピックスのなかのものにさらに詳しい興味をお持ちの一般的な読者のために、次のようなものが役に立つだろう。アメリカインディアンに関する一般的な研究も含めて、文化領域という考え方の現代、標準的となっている概念を、Harold E. Driver, Indians of North America ( Chicago : University of Chicago Press, 1961)の中に見ることができる。

  物質的な文化と芸術に関しては、新しいものについての広範にわたり様々なものが紹介されている。William Wildschut and John C.Ewers, Crow Indian Beadwork, Contributions from the Museum of the American Indian, Heye Foundation, vol 16( New York, 1959), と言う本があるが、この本はすでに古典となってしまった。  Mabel Morrow, Indian Rawhide: An American Folk Art ( Norman: University of Oklahoma Press, 1975 ),   この本は、平原インディアン達の工芸品のデザインに関するとても奇抜な表現に対しての素晴らしい入門書である。James A. Hansen, Metal Weapons, Tools, and Ornaments of the Teton Dakota Indians (Lincoln: University of Nebraska Press, 1975) は、ヨーロッパの金属文化が、平原のインディアン達の金属文化に対してもたらしたものを見事に解説している特異的な研究をまとめたものである。Reginald and Gladys Laubin, The Indian Tipi: Its History, Construction, and Use (Norman: University of Oklahoma Press, 1957 ; rev. ed., 1977) は、平原インディアン達の生活の様式を明確に説明することに留意したものである。同じ著者による、American Indian Archery (Norman: University of Oklahoma Press, 1980)は、一般の方たちの興味となってきた事柄についての、とても読みやすく研究成果をまとめたものである。John C. Ewers, The Horse in Blackfoot Indian Culture:  With Comparative Materials form Other Western Tribes, Smithsonian Institution,  Bureau of /American Ethnology,  Bulletin 159 ( Washington D. C., 1955) は、平原地域における馬の影響とその利用についての最も優れた研究成果である。平原インディアン達の物質的な文化を説明したものとして、American Indian Art Magazine ( wich began publication in Scottsdale,  Arizona, in 1975 ) は、この分野の指導的専門家による簡単な技術的な論文もある、素晴らしい解説書である。

  血縁関係と社会的な組織についての研究は、現代人類学では、とりわけ特異的な専門分野になったけれども、この項目についての分かりやすい入門書としては、Ferd Eggan, The American Indian : Perspectives for the Study of Social Change ( Chicago : Aldine, 1966).が有効である。環境への適合としての社会生活を解説する最近の流れが、Symmes C. Oliver,  Ecology and Cultural Continuity as Contributing Factors in the Social Organization of the Plains Indians, University of California Publications in American Archaeology and Ethnology, vol. 48, no. 1 ( Berkeley,  1962)の中に、よく説明されている。 年功的な社会の問題について、非常に興味があったということで、Lowie自身がずっとこの問題に注意を払い続けてきた。最も新しい研究としては、Frank H. Stewart,  Fundamentals of Age-Group Systems  ( New York Academic Press, 1977), があり、このなかで、アフリカにおける年功序列式社会と平原インディアン達のそれとの比較が為されている。Lowieの本の中に、不思議に欠けているのは、平原インディアン達の社会的、かつ、宗教的な生活様式のなかで、中心的な役割を担ってきたダンスの重要性についての議論である。Reginald and Gladys Laubin,  Indian Dances of North America ( Norman: University of Oklahoma Press, 1977), は、これについての一般的な総括をしている。

  宗教の領域では、とても重要なものがいくつか最近発刊されている。その中でまず二つほどのものが、この世紀の転換点界隈で記録された物質的なものの収集である。James R. Murie, Ceremonies of the Pawnee, ed. Douglas R. Parks,  Smithsonian Contributions to /anthropology, no 27 ( 2 vols.;  Washington, D.C., 1981) では、Pawnee族の宗教に関する様々な説明のもととなった、もともとの情報をまず知ることができる。James R Walker, Lakota Belief and Ritual, ed. Raymond J. DeMllie and Elaine A. Jahner  ( Lincoln: University of Nebraska Press,  1980 ) は、西部スー族の信仰体系の基礎にかかわるものについての非常に重要な基本的知見を提供している。Father Peter J. Powell, Sweet Medicine:  The Continuing Role of the Sacred Arrows, the Sun Dance, and the Sacred Buffalo Hat in Northern Cheyenne Culture ( 2 vols,; Norman : University of Oklahoma Press , 1969), は、信仰の継続性というものを明確にしながら、伝統的な宗教を総合的に扱い、それを現在まで掘り下げて研究している。Joseph G. Jorgensen, The Sun Dance Religion: Power for the Powerless ( Chicago: University of Chicago Press,  1872 ), は、勝手は、平原地域の周辺部族であったショショネ族やウテ族によるサンダンスに平原のインディアン達がどのように適合していったかを解説している。

  Lowieの著作以来、平原のインディアンの人類学における沢山の最近の研究が、彼らの人間としての生活様式の姿をすっかり変えてしまった。この領域での最も優れた著作は、Waldo R. Widel, Prehistoric Man on the Great Plains (Norman: University of Oklahoma Press,  1961) である。  Donald J. Lehmer,  Introduction to Middle Missouri Archeology,  Nationa Park Service Anthropological Papers 1 ( Washington,  D.C., 1971 ), は、ミズーリ川流域にあった土作りの家についての人類学的な研究の結果をまとめたものである。George C. Frison, Prehistoric Hunters of the High Plains * New York : 

Academic Press, 1978) , は、この領域にもっとも古くからあった住居の材料の分析をしている。  W. Raymond  Wood,  Biesterfeldt : A Post-Contact Coalescent Site on the North-Eastern Plains,  Smithsonian Contributions to Anthropology, no. 15( Washington, D.C., 1971 ) は、シャイアン族についての人類学と、歴史の情報についてまとめたもので、Lowieの本の第七章に出てくる二つの事柄とを関係付けようとしたものである。平原の部族に関係した非常に沢山の歴史的な研究が最近次々と出版されているが、ここで、それらをうまくまとめるには量が多すぎるようだ。

  Francis Paul PruchaA Bibliographical Guide to the history of Indian-White Relations in the United States ( Chicago:  University of Chicago Press,  1977 ) ならびにIndian-White Relations in the United States : A Bibliography of Works Published 1975—1980 ( Lincoln: University of Nebraska Press, 1982) の二冊は、こうした文献の最も優れた指導書である。 Preston Holder, The Hoe and the Horse on the Plains: Study of Cultural Development among North /American Indians ( Lincoln:  University of Nebraska Press, 1970)は、この地域における二つの相対する生活様式である半定住型の住民と放浪生活をしていた部族についての非常に重要な人類学的な研究成果であり、特異的な見解を展開している。     

 現代風平原インディアンと、彼らの20世紀における適合についての出版物も膨大な数に上っている。William T Hagan  Indian Police and Judges: Experiments in Acculturation (New Haven: Yale University Press, 1966)は、平原における初期のインディアン保護居留区についてのとても意味のある歴史的な研究の成果であり、こうした保護居留区に関する詳細な研究の有用性を示唆している。 Loretta K Fowler, Arapahoe Politics, 1851 – 1978 : Symbols in Crises of Authority ( Lincoln: University of Nebraska Press, 1981 )は、保護居留地以前から、現代に至るまでの、部族の政治的な体制の確立についての人類学的な研究をまとめたものである。 現代インディアンの研究の領域は、二つの対照的な研究により暗示されているのかも知れない。その最初のものは、心理学的な方面からの研究である。Gordon Macgregor, Warriors without Weapons : A Study of the Society and Personality Development of the Pine Ridge Sioux  ( Chicago: University of Chicago Press, 1946 )は、 保護居留区での生活にインディアン達がどのような適合したのかを心理学的に解析することに焦点を当てたもので、長年にわたる変容の姿を見定める手助けになるものである。This work, which focuses on the psychological aspects of Indian adaptation to reservation life, helped set the tone of acculturation studies for many years.  最近の研究としては、 Neils Braroe, Indian and White: Self-Image and Interaction in a Canadian Plains Community ( Stanford: Stanford University Press,  1975 ).がある。もっと社会学的な見方から実例を挙げるなら、その一つは、インディアン達の白人文化への適合を、文化の消滅というものではなく、双方の文化の共存という形でその過程が進んで言ったという見方である。

こうした、簡単な総括が、最近の平原のインディアン達についての研究態度の中に見られる溝を言うものを浮き彫りにしている。たとえば、最近では、平原のインディアン達の芸術とか、或いは、物質的な文化についての補完的な研究が全く見られなくなっている。こうした、Boas学派により進められてきた、全体の文化を記録するというような文化に関す歴史的な研究が、いまの世代に、中断してしまっている;この領域でわれわれは進歩をしてきたが、しかし、この半世紀の間は、それが殆どないのである。人類学的な展望からの総合的な説明―たとえば、環境学的な、象徴学的な、社会−組織学的な、或いは、相関的な―が、間違って、沢山の部族の受け入れられやすい文化的な歴史を提供するために必要なものとされてきた。同じように、もっと比較論的な研究が、われわれは何についてよく知っており、何について殆ど知っていないのかということに注目し続けるために求められているのである。平原のインディアンについての人類学的な研究の領域は、すでに沢山の情報が手のなかにあり、われわれがこの領域を知るための時間的なものは、( 歴史的な面でも、そして、人類学的な面でも )とても深いものであり、平原のインディアン達の情報についての人類学的な研究の重要性を考えると、そこは、とても有望なものである。この学問領域の中でのLowieの平原のインディアンについての著作は、そこからわれわれが、都合よく簡単に纏め上げることのできる、そして、更なる新しい発展の方向を探ることができる分岐点なのである。

 

NOTES

 

1.    Robert H. Lowie, Robert H. Lowie:  A Personal Record ( Berkeley and Los Angeles:  University of California Press,  1959 ), p 143

2.    Clark Wissler, North American Indians of the Plains ( New York: American Museum of Ntural History, 1912 ).

3.    Fred Eggan, review of Indians of the Plains in American Anthropologist vol. 57, no. 6 ( 1955):  1309 – 1310

4.    伝記に関するすべての詳細は、Robert H Lowie : A Personal Record.より

5.    Ibid., p 5.

6.    歴史的な再構築のためのボアーズ学派の研究についての古い議論は、Edward Sapir,  Time Perspective in Aboriginal American Culture: A Study in Method, Canada Department of Mines, Geological Survey Memoir 90, Anthropological Series no. 13 ( Ottawa , 1916); reprinted in Selected Writings of Edward Sapir, ed. David G Mancelbaum ( Berkeley and Los Angeles:  University of California Press, 1949), pp. 389 -- 462. 文化圏についての古典的な提案は、Alfred L. Kroeber, Cultural and Natural Areas of Native North America, University of California Publications in American Archaeology and Ethnology, vol 38 ( Berkeley. 1939: reprinted Berkeley and Los Angeles :  University of California Press, 1963)

7.    Alfred L Kroeber, The Arapaho, Bulletin of the American Museum of Natural History, vol. 18, pt. 1 ( New York, 1902), part.2 ( New York, 1904), pt. 4 ( New York, 1907): Clark Wissler,  Decorative Art of the Sioux Indian, Bulletin of the American Museum of Natural History, vol. 18, pt.5( New York, 1904). こうした研究の再評価が1907 年に発行され始めた次の論文でなされている。Anthropological Papers of the American Museum of Natural History.

専門家、ならびに、アマチュアの研究者からなる八人の人類学者により非常によくまとめらた二つの論文がある。Wissler’s editorship as vol. 11, Societies of the Plains Indians ( 1912—16 ), and vol 16, Sun Dance of the Plains Indians (1915 – 21 ).

8.    ボアーズ学派の人類学の発展についてを理解するためのものとしては、George W. Stocking, Jr., ed., The Shaping of American Anthropology, 1883—1911: A Franz Boas Reader ( New York: Basic Books, 1974), and George W. Stocking, Jr., Race, Culture, and Evolution: essays in the History of Anthropology ( New York: Free Press, 1968).  また、Robert H. Lowie, The History of Ethnological Theory ( New York: Farrar and Rinehart, 1937).

9.    Radcliffe-Brown American Anthropologistにたいする影響については、 Sol Tax, “Some Problems of Social Organization” and “ From Lafitau to Radcliffe-Brown: A Short History of the Study of Social Organization” in Social Anthropology of North American Tribes, ed. Fred Eggan (enlarged ed., Chicago : University of Chicago Press , 1955), pp.3-32 and 445-81. 社会的な組織に関する研究でのさらに重要なボアーズ学派の貢献の中には、次のようなものもある。John R. Swanton, “ Social Organization of American Tribes,” American Anthropologist, no. 7, no. 4(1905): pp 663-73;A.L.Kroeber, “Classificatory Systems of Relationship,” Journal of the Royal Anthropological Institute 39(1909): pp. 77 – 84:  Robert H. Lowie, Culture and Ethnology  ( New York: Douglas C.McMurtie, 1917); Alexander Lesser, “Siouan Kinship”( Ph.D.diss., Columbia University, 1928), 次の論文に総括されている。 “ Some Aspects of Siouan Kinship,” Proceedings of the 23rd International Congress of Americanists ( New York, 1930), pp. 563 – 71.

10.   Haviland Scudder Mekeel, “A Discussion of Culture Change as Illustrated by Material from a  Teton-Dakota Community”,  American Anthropologist 34, no.2 ( 1932) :274-85; idem, The Economy of a Modern Teton Dakota Community, Yale University Publications in Anthropology, no.6( 1936); Margaret Mead,  The Changing  Culture of an Indian Tribe ( New York: Columbia University Press, 1932) ; Clark Wissler, Indian Cavalcade: ( New York: Sheridan House, 1938; Red Man Reservations( New York: Macmillan, 1971); Acculturation in Severn American Indian Tribes, ed. Ralph Linton( New York: D. Appleton-Century Co., 1940)   として再版がでた。

11.  Alice C. Fletcher and Francis LaFlesch, The Omaha Tribe, Smithsonian Institution, Bureau of //American Ethnology, Annual Report 27 ( Washington, D.C., 1911)

12.  See especially William Duncan Strong, “ The  Plains Culture Area in the Light of Archaeology,” American Anthropologist 35, no2.(1933): 271—87, and  Waldo R. Wedel, The Deriect-Histrorical Approach in Pawnee Archeology,  Smithsonian Miscellaneous Collections, vol. 97, no7 (1938)

13.  Oscar Lews, The Effects of White Contact upon Blackfoot Culture,  American Ethnological Society Monograph 6 (New York; J.J.Augustin,1942); Joseph Jablow, The Cheyennes in Plains Indian Trade Relations, 1795—1840, American Ethnological Society Monograph 19 ( New York: J. J. Augustin, 1950); Frank Raymond Secoy, Changing Military Patterns on the Great Plains (17th Century through Early 19th Century), American Ethnological Society Monograph 21 (New York; J. J. Augustin,  1953)

14.  Clark Wissler, North American Indians of the Plains; see also Wissler’s The American Indian: An Introduction to the Anthropology of the New World (New York: Douglas C. McMurie, 1917)

15.  Robert H. Lowie, The Crow Indians (New York:Farrar and Rinehart, 1935)

16.  See Claude E. Stipe, “ Eastern Dakota Clans:  The Solution of a Problem.”American Anthropologist 73,no5(1971); 1031—35; James H.Howard, “Some Further Thoughts on Eastern Dakota ‘Clans,’ “ Ethnohistory 26, no 2(1979): 133—40.

17.  同じことが次の論文の中でも指摘されている。 Omer C. Sterwart, “ The Ghost Dance, ”in Anthropology on the Great Plains, ed. W.Raymond Wood and Margot Liberty (Lincoln: University of Nebraska Press, 1980), pp 179—87.

18.  See, for example, Richard White, “ The Winning of the West: The Explanation of the Western Sioux in the Eighteenth and Nineteenth Centuries, “ Journal of American History 65, no2(1978): 319--43.

 

 また、はしがきでAmerican Museum of Natural HistoryのHarry L. Shapiroは、次のように述べている。

はしがき

   

小さな子供達がインディアンに扮するときに、彼らは、よく頭につける羽飾りを身につける。そして、もし、サンタクロースが寛大であったなら、おそらく忠告したであろう。思うに、われわれのヨーロッパの友人達がこの大陸の海岸に到達したとき、彼らは、Broadway辺りで、われわれが議論している大平原を放浪している人たちとはちょっと違ったインディアン達が、戦闘の大歓声を上げて、叫んでいる姿を思い描いたのではないか。われわれ、殆どの人が、インディアンのことについて考えるとき、ティピー、垂れ下がった鳥の羽のついた戦闘帽、シッティング・ブル、子馬、そして、バッファローのことなどを思い浮かべる。別の言葉で言うなら、われわれは平原に住んでいるインディアン達のことを本物のインディアン、理想的なインディアン―まさしく、インディアンらしさの真髄と言う意味で、― と考えるようになった。しかしながら、多くの面から考えると、平原のインディアン達は、極めて特異的な集団であり、そして、かなり特殊化された生活様式、あるいは、少なくとも、他の沢山の種族のインディアン達とは全くかけ離れたやり方で生活をしていた。彼らは、ナバホ族とか、ホピ族とか、或いは、イロコイ族などといったようなアメリカインディアンの典型なものでは決してない。しかも、歴史における突発の出来事により、多分、それは、しばしば英雄的なものと考えられていたが、西部の叙事詩的なもののなかで、或いは、実に、映画の固執された固定概念の結果としての、彼ら自身の役割によってなされたのかも知れないが、彼らは、公的な心象のなかで、すべてのほかのインディアン達の権利を奪い、そして、インディアン達の生活様式を代表するものとなった。

しかし、もし、インディアンというものを象徴的に使用するなかで、われわれが、魅力的な地域ごとの相違を、発展の時代の産物を抹殺し、平原に住むインディアン達を全く繁栄していないような概念を作るのであれば、それは、われわれが、このまさしくこれらの平原に住んでいる人たちのことを、彼らの部族の生活様式に多様性を、そして、彼らの習慣の重要性について、殆ど知っていないということを言い表れしているようなものである。

  スー族、クロー族、ブラックフート族、そして、この平原に住んでいるそのほかの沢山の部族が、市民のなかで主要な地位を占めるようになって以来、象徴主義―その公正さをわれわれは、ここでは取り扱うことはないであろうが―が、少なくとも、われわれに平原のインディアンを彼らのありままに理解させているし、また、彼らを彼らの生活の環境と歴史の産物にしているものが何であるかということを理解させている。それは、われわれの多くの人がもっと知りたいと思っているのは、こうしたインディアン達なのである。

  私の考えでは、この本の著者であるRobert H. Lowieほど、われわれがこうしたことをするときに助けになってくれる人はいない。彼のAmerican Museum of Natural Historyの学芸員としての働いていた間、彼は、平原インディアン達に関する一連の輝かしい、そして、忍耐溢れる研究を続けてきた;そして、その後も、彼は、カリフォルニア大学で、人類学の教授として、講義をして来た;彼の長い、そして、傑出した経歴を通して、彼は、絶えず、この問題に取り組んできたのだ。彼こそ、権威者といえるのだ。私は、彼が、American Museum of Natural History が出版することを計画しているアメリカインディアンの生活についての現在の一連の仕事の中で、平原に関するこの本を担当することに同意したということで、誠にそれは願ってもないことだと思っている。

 

                      Harry L. Shapiro

本の構成次のようなものである。

第一章   序論
    平原のインディアン部族
    平原の文化
    政治的、言語学、文化的な単位
    人口
第二章   原材料文化
 食料 ならびに 興奮剤
   狩猟
                 漁業
          野生の植物
          農業
          食料の調理
          タバコ
            部落と住居
        ティピー
        土作りの家
        草葺の家
        オセージ族の家
      家畜と輸送
      衣装と体の装飾
        衣装
        頭飾り
        髪飾り
        飾り立てと切断
      小細工道具と工芸品
        道具
        工芸品
        兵器
第三章   社会的な組織 
          婚姻と家族
         インディアンの一生
         一団、一族、胞族、半族
         限られた地域の集団
         血縁関係集団
         血縁関係事項
         仲間集団と社会
         武力衝突
         序列、法律、そして、統治組織
         通商;経済的な価値
第四章  レクリェーション 
        ゲーム
        語り伝え
        道化
   
第五章   芸術
        肌の塗り装飾
        毛皮の装飾
        刺繍
        デザインと抽象化
        音楽
第六章  超自然信仰
      信仰
               超自然
               霊感
               呪術師
               僧侶
     来世
     世界観
       儀式信仰
         儀式信仰の要因
        主要な儀式
        クロー族のタバコ組織
        サンダンス
        最近の動き
第七章  前歴史時代と歴史
第八章  変容
第九章  結論

 

訳者あとがき

 

 この本は、小生がアメリカでの仕事を終了し、日本に帰国する際に、同僚として、先輩として働いていたある女史から記念にいただいたものを翻訳した。勤務していた場所が、ネブラスカ州であり、ここはオマハ族の根拠地ではあるが、スー族やヒダツサ族、マンダン族、そして、クロー族やシャイアン族が活躍していたダコタ州に隣接しており、また、彼らは、馬にまたがり大活躍をしていた平原の一部でありました。そんな地域に住んでいたインディアン達の文化を紹介するこの本は、これを読み始めた途端にそのとりこになり、これは是非日本語の訳して、数多くの人にインディアンの文化を知ってもらいたいとのことで、この翻訳を手がけることにしました。

 常々、インディアンの文化は西洋人の入ってくる前にアメリカ大陸に住んでいた人たちの価値観であり、これは、この大地と、そこの気候風土に根付いて作り上げられたものです。これを理解するのは、すでに西洋人の価値観が入ってきているとはいえ、この古くから伝わる価値観の重みに比較できるものではありません。これを理解することは、西洋人アメリカ人と対等にアメリカ人の価値観について議論する極めて重要な要素であると思っています。

 政治の体制としての国家はもちろんのこと、人種、宗教、気候・風土、そして、伝統に基づく価値観の相違が、現代社会では、様々な不幸を引き起こしています。これを解決するには、お互いがどれだけ相手の価値観を理解し、尊重することができるかであります。その意味で、日本人の全く知らない価値観の世界をのぞき見ることは、これからのグローバル化の進む社会のなかでは、自分の主張を通す、すなわち、国際社会の中で生活をしていくうえで、とても重要なことであると思います。そんな観点から、この本が少しでも役に立つのであれば、これほど私の喜びとするところでありません。

                           鈴木 誠二

( 2010/01/25)

   

 

著者について

  DR. ROBERT H. LOWIEは、アメリカでも最も特出した人類学者の1人であり、彼は、バークレイのカリフォルニア大学で、彼の教職についていた時代の大部分を費やした。そこで、彼は、1917年から1918年にかけては人類学の客員教授として、そして、1921年から1925年までは、助教授として、さらに、1925年から 1950年までは、教授として、それ以後は名誉教授の責を担っていた。

 Dr. Lowieは、10歳でアメリカに移住してきて、1901年にCollege of the City of New YorkからA.B.学位を受け、1908年に、Columbia UniversityからPh.D.を取得した。そこで彼は、Franz Boasのもとで、人類学の研究の手ほどきを受けた。1907年から1921年にかけては、American Museum of Natural Historyの職員の1人として従事し、その間に彼は、Dr. Clark Wissler とともに研究をするようになった。

  インディアンの中でのDr. Lowieの研究の一部をまとめたものが、1935年にThe Crow Indians と言うタイトルで最初に発刊された。彼は、また、大盆地や南西部のインディアン達のなかでも非常に沢山の研究を積み重ねてきた。その研究の中で、保管された沢山の品物が、現在、American Museum of Natural Historyの“Plains Room”に展示されている。

  1948年には、Dr. Lowie は、Royal Anthropological Instituteで、Thomas H. Huxley  Memorial Lectureを講演し、Huxley Memorial Medalを授与された。彼は、現在、National Academy of Sciences and the American Philosophical Societyのメンバーである。彼は、1941年には、University of Chicagoから、Sc.D.( hon. Causa)の学位を授与され、そして、1947年には、Wenner-Gren Medal と、$1,000の賞金を得ていた。