ホームページ 隠された歴史 アメリカインディアン 悲しい歴史
メイフラワー号に乗ってヨーロッパからピューリタンが新大陸アメリカにやって来たのは、1620年。それ以来発展を続けたアメリカは19世紀になり、ヨーロッパからの移住が増えて、東海岸だけでは、受け入れられなくなった。第三代大統領がルイジアナの買収を強行した裏にはこうした、人口増加による中西部への拡大が必要だったことがある。この地に新天地を求める白人たちと、もともとここに居住していたインディアンとの諍いはこのようにして始まった。やがて合衆国政府は、中西部の広大な自然のなかで狩猟を生業として生活しているインディアンたち、比較的東部に近いアパラチア山脈あたりにいるチェロキー族たちをオクラホマ州に移住させ、農業を奨励した。アパラチアの山々には、金脈が出た。また、今でもこのあたりは鉄鋼業が盛んであることからもわかるように、鉄鉱と、それとともに、製鉄に必要な燃える石(石炭)、あるいは、原住民たちが燃える水と呼んでいた石油が出るのだ。近代化を目指す新生アメリカにとっては、この地はまさに産業の基盤となるべき土地であり、ここを白人たちが利用しないわけにはいかなかった。こうして、このアパラチアに住むインディアンのオクラホマへの移住が強制されることになった。しかし、その強制移住の現実は、そんなに生易しいものではなかった。
これが、いわゆる“TRAIL OF TEARS”として知られる悲劇である。
Wikipedia に詳しい歴史が紹介されている。その末尾の文は次のとおりである。
涙の道の結果として死亡した者の数については様々な推測がなされた。アメリカ人の医者で宣教師のエリザー・バトラーは、一つの隊と歩んだ者であるが、宿営地で2,000名道中で2,000名と見積もった。この合計4,000名という数字はよく引用される数字となっている。1973年の学者による人口統計調査では合計で2,000名が死んだとされた。1984年の別の調査では合計8,000名となった。[4]
旅の途中で人々は「アメイジング・グレイス」を歌って士気を高めていたと言われている。伝統的なキリスト教賛美歌が、この時より前に宣教師のサミュエル・ウースターとチェロキー族のエリアス・ブーディノットの手助けによってチェロキー語に訳されていた。以後、この歌はチェロキー族インディアンのある種の国歌になった。