臼井(うすい)から酒々井(しすい)まで



臼井の宿を出て、京成電鉄の踏み切りを渡った三叉路に道標があります。usui-fumikiri dohyo

正面に「西 江戸道」、右側に「南飯重生ケ谷道」、東側に「東 成田道」とあります。文化3年の建立です。

その右隣に仏像陽刻の石碑が見えますが、これには「さくら道」と彫られています。年代はわかりませんが、左の道標より古いことは確かです。

成田山参詣の増大により「さくら道」の名称が、「なりた道」へと変遷していったことを、この二つの石碑が示しているように思えます。



印旛沼を左に見て

この道標の前方上の小高い場所に光勝寺があります。「利根川図志」に「臼井八景」という詩がありますが、その中に「光勝寺の晩鐘」として出てきます。「けふも暮れぬあはれ幾世をふる寺の鐘やむかしの音に響くらん」inbanuma

当時この道の下まで印旛沼の湖面が広がっていたのですが、現在は干拓されて、はるかに湖面は後退し、寺からも見ることは出来ませんでした。

坂を下りて再び成田街道に出、電車の線路越しに遠く光る湖面を眺めながら歩きます。一里塚跡を過ぎて坂道を登ると、江原刑場の跡があります。
佐倉藩で罪人の処刑をした場所ですが、藩の蘭方医が遺体を解剖をした場所としても知られています。南無妙法蓮華経の大きな供養碑が建っていました。

しばらく平坦な道路を進み、角来の鎮守社八幡宮を過ぎると急な坂道を下ります。前方に佐倉の城跡、今は国立歴史民俗博物館の建物が見えてきます。擬宝珠のついた鹿島橋を渡れば旧佐倉の城下です。

成田街道の中では唯一の城下町佐倉に着きました。これまで「さくら道」と称して来た旧道はこのさき本佐倉(もとさくら)までで、そこから先は文字通りの「なりた道」となります。

本佐倉城の城山

佐倉城と佐倉城

佐倉城は鎌倉以来の名族千葉氏が、文明年間(1469〜87)にそれまでの拠点であった千葉市から城を移し、以後百余年間、千葉氏が豊臣秀吉により滅ぼされるまで居城としてきたところですが、その場所は、隣の酒々井町にあります。

城址は東西約700m、南北約800m、面積35万平方メートルに及ぶ広大な範囲で、今なお中世の城郭の特徴をそのまま残している貴重な遺跡です。

平成10年に
は本佐倉(もとさくら)城址として、国の史跡指定を受け、現在整備が進められています。


       
          

そして現在佐倉城址と呼ばれている城跡は、慶長15年(1610年)土井利勝が3万2400石で入封し、徳川家康の命でこの本佐倉城から西に5km離れた鹿島川を見下ろす高台に築城したものです。翌慶長16年に着工し、元和2年(1616)頃に竣工したと言われています。

現在の佐倉城址

土井氏が初代城主になって以来、城主は度々代わりましたが、延享3年(1746)堀田正亮が10万石で入封して以来、堀田氏が5代126年間伝えて明治維新に及びました。

城の建物は明治の初めにすべて取り壊され残っていませんが、北側には昭和58年に国立歴史民俗博物館が開設され、わが国の歴史,考古,民俗を総合的に研究する機関として全国的に知られるようになりました。本丸を含む南側の城址は市民憩いの公園として開放され、春は桜秋は紅葉で人々の目を楽しませてくれます。
                                               

                                                
佐倉の城下                                                           

城下町は城の東側台地に形成され、町屋は大手門先の札の辻から東に伸びる街道の両側に置かれ、佐倉新町と呼ばれました武家屋敷は、城内および大手門から札の辻に至る宮小路一帯に広がっていました。
鹿島橋から順に田町、新町、弥勒町、本町と続き、この中心を千住からの佐倉道が貫通し、成田へ延びています。rekihaku-iriguchi dohyo

城下には、見所として、国立歴史民俗博物館、佐倉順天堂記念館、旧堀田邸庭園、武家屋敷跡、麻賀多神社、将門神社、甚大寺等があります。

歴博入り口の交差点(田町門跡付近)に鉄パイプに囲まれた道標が1基建っていました。正面に「従之 岩名仁王道」、右側面に「飯野観音道」、左に年号と建立者が彫られています。天保9年(1838)の建立です。岩名・飯野の地名は、この道を左折した同じ方向にありますので、元々は別の場所にあったと思われますが、街道筋に建っていたので、右に掲載しました。



酒々井宿

shisui no hi佐倉の城下、本町を出るとすぐ隣町の印旛郡酒々井町に入ります。バス停の「本佐倉」を左に行けば、前記の本佐倉城址に達します。街道から北へ1kmほど行った所です。

国道51号線と交わる一つ手前の道を左折すると、いよいよ酒々井の宿に入ります。江戸時代はこの宿までが、佐倉藩町奉行の管轄でした。

右手に八坂神社があり、ここから上宿、中宿、下宿と続きます。宿の中心は現在の農協会館付近でした。
米屋、中屋、笹屋、大国屋、佐野屋などの旅篭屋があったそうです。また、佐倉牧の野馬会所と御払い場があり、放牧馬約300頭の中から毎年2歳駒200頭を捕らえて払い下げしたとの記録があります。

印旛沼に近接していたので、水上交通の拠点ともなっていて、沼で獲れた魚介類のほか、米、麦、大豆、木炭など丘の生業も盛んに行われ、宿場の他に賑わったといわれます。
酒々井の名の起りとされる「伝説酒の井碑」が近くにありました。それが左の写真です。


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