酒々井(しすい)から成田山まで



さあ、いよいよ最後の行程です。ここまで来れば成田山も目前です。旅人も自然と足が速まったことでしょう。


追分の不動道標

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酒々井の宿を出て京成酒々井駅前通りを横切ると、現在の国道を行かず、旧道は左斜めへ入っていきます。旧中川村です。
江戸時代は印旛沼に面し、河岸があった場所です。しばしば水害に見舞われ、昭和に入ってからも大増水の被害を受けて来ましたが、今は湖面すら見ることが出来ません。

集落の曲がり角に幾つかの道標や、庚申塔があります。道標には上岩橋青年分団の名前があり、比較的新しいもののようです。

ふたたび国道51号線に交わるところで、今住宅団地の造成が進んでいますが、そこに仮安置(2001/1/30現在)されている見事な仏像の道標がありました。町作成のマップには、「石造追分不動道標」の名称で載っています。
上部が不動明王坐像で、下部が成田山の道標です。延享3年(1746)に建てられたものです。
元あった位置に戻すのは難しいようですが、きちんとした場所に安置されることを願わずにはいられません。

p.s. 団地開発も終わり、新設された「ふれあい公園」の一角に鉄柵に囲まれて安置されました。ただし、以前より低くなりその分行き先を示す「成田山」の文字が埋没して見えなくなりました。町にはぜひ案内板を設置してほしいものです。 (02/11/1追記)

大坂を上って伊篠の松並木へ

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旧道は51号線を横切り、ほぼ平行しながら曲がりくねった大坂を登ります。

「この先には幾つも道標がありますよ」と坂の下の店主が教えて呉れました。

例の岩田長兵衛氏が建てた5基目の道標が、坂の途中の土手に傾いて建っているのを見つけました。いかにも旧街道をしのばせてくれる坂道です。

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坂を上りきると、また51号線と出会いました。国道を横切って左方向に行く道がありますが、宗吾道で義民佐倉宗吾を祭った宗吾霊堂へ通じる道です。

右側の旧道は、伊篠村の松並木として有名だったところで、昭和43年に県の天然記念物に指定されていたのですが、松食い虫にやられてしまい、全滅しました。その後指定は解除されましたが、今も記念の木碑が空しく立っています。


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成田の宿到着

成田山新勝寺の本尊である不動明王は、初め公津原に安置されたと伝えられていますが、成田市並木町、並木坂の交差点を右に200mほど入った小さな金毘羅さんのお社の横に、不動塚の祠と記念碑がありました。ここが最初に鎮座した場所とされています。

天慶2年(939)に鎮座し、永禄9年(1566)に成田村へ遷座されたそうです。それにしては、不動塚を示す立て札が1枚あるだけで、由来を書いたものは見当たらず、いささか寂しいたたずまいの場所でした。

不動塚をあとに、ここから約30分で、とうとうJR成田駅前にたどり着きました。最後の30分が、たいへん長く遠く感じられました。

千住宿を起点に、「さくらみち」「なりたみち」と旧街道を歩いて来た旅は、まもなく終わります。
すぐ前に成田山参道の入り口が待っています。



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門前町の賑わい

参道はそう広くはありませんが、両側に色々な店が建ち並び数百mに亘って続きます。江戸時代から続く店も少なくありません。

左の写真三橋薬局は、安政年間に本尊の御霊薬として胃薬「一粒丸」の販売免許を受け、評判をとった老舗です。今も「一粒丸」の看板が見えます。

天保年間、門前には、旅篭屋が30軒余り、居酒屋、煮売り屋、荒物屋、菓子屋などが多く、そのほか煙草、提灯、ろうそく、たきぎ、石、鍛冶、髪結い、風呂屋等などあらゆる店があったそうです。


元々純農村地帯であったこの地が、江戸中期以後成田山参詣の爆発的ともいえる増加で、急速に門前町に変容していったのです。成田市史によると、成田山参詣客は、「幕末には、年間10万人に達していたとみられる」との記述があります。今でも正月3カ日の人出が300万人という国内屈指の参詣客を誇ります。



成田山新勝寺

参道をしばらく行くと三叉路があります。皆通り越してしまいますが、左手上に薬師堂が建っています。明暦元年(1655)に本堂として建てたもので、現存する成田山の中では最も古い建物です。shinsyoji-niomon

うなぎや川魚の食堂、みやげ物屋の呼び込みの声を聞きながら坂を下ると、新勝寺の入り口です。

仁王門(天保2年、1831建立)をくぐり、太鼓橋を渡って急峻な階段を上がると本堂の前です。昭和43年に完成した鉄筋コンクリート造りの大本堂です。この日は2月の平日でしたので、境内はがらんとしていましたが、正月は隙間のないくらいの人で埋め尽くされるのです。

大本堂の右手には三重塔をはじめ、聖徳太子堂、一切経堂、鐘楼などが並んでいます。

参拝を終わって大本堂の左手から奥に入ると、釈迦堂、開山堂、額堂、光明堂と続きます。いずれも古い建築物で、このうち開山堂を除いては国指定の文化財で、貴重なものばかりです。

額堂は、文久元年の建立で、信徒が奉納した絵馬が壁面から天井までいっぱい掲げられてあり、どれもかなり風化していますが面白いものです。天井を眺めていて首が痛くなりました。信徒の拡大に貢献したという7代目市川団十郎の石像も置かれてありました。
 

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光明堂の裏にある奥の院は、大日如来を安置している洞窟です。年に1回だけ御開帳するとか、洞窟の左右に沢山の板碑がはめ込まれていて興味を惹きました。延元元年(1336)銘の古いものがありました。

境内の一番奥の高い場所に建っているのが、昭和59年に弘法大師1150年御遠忌記念として建てられた成田山大塔です。高さが58mもあります。

このあと霊光館博物館に立ち寄ってみました(入場料300円、大塔内の資料館と共通)。先ほど見た額堂に飾ってあったという大きな絵馬が館内に納められてあります。歌川豊国、国芳、鳥居清満ら浮世絵師の書いた大絵馬です。その他の絵画や墨筆、民具や旅篭の看板など色々あります。
どういうわけか、豊臣秀吉直筆の書状もあり、さすが成田山の歴史と重みを感じさせて呉れました。




これをもって、今回の「旧成田街道を歩く」私の旅は終結です。最後までお付き合い頂きありがとうございました。

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