千住から新宿(にいじゅく)まで



千住宿

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千住宿は、寛永2年(1625)に日光道中初宿として定められ、その後日光東照宮の大造営があり大名の往還が激しく行われるようになると、宿場町として目覚しい発展を遂げました。

最盛時の宿場は、現在の足立区JR北千住駅前、宿場商店街となっている千住1丁目から5丁目と千住仲町、千住河原町、千住橋戸町、荒川区南千住の一部を含む約延長2kmに及びました。

天保14年(1843)の調べでは、総戸数2370軒、内本陣1、脇本陣1、旅篭屋55軒、人口9956人となっています。


   千住3丁目本陣跡地付近
 

史跡の数々

南千住の駅から歩き始めました。JRと地下鉄日比谷線の高架の間に、小塚原刑場跡があります。明治初年に廃止されるまで、約20万人余りの罪人が磔,斬罪、獄門などの刑を受けた場所です。すぐ近くに回向院別院があり、安政の大獄の刑死者や、桜田門外の変の水戸浪士、薩摩藩士の供養塔、鼠小僧次郎吉の墓などがあり、処刑者の霊を慰める延命地蔵、通称首切り地蔵が鎮座していました。kubikiri-jizo

円通寺、素盞雄神社に立ち寄って千住大橋を渡ります。地図では隅田川となっていますが、本当はこの橋から下流が隅田川で、上流は荒川なのだそうです。

橋を渡ったたもとに、芭蕉の奥の細道矢立初の碑があります。「行く春や鳥啼き魚の目は泪」

橋戸稲荷、源長寺、金蔵寺、勝専寺などの寺社。当時の建物こそありませんが、やっちゃば跡、
一里塚跡・高札場跡、問屋場貫目改所跡、本陣跡などの標識が至る所にあり、区の案内板も整備されていて、千住の宿は参観する場所には、こと欠きません。

代々紙問屋だった横山家は、安政2年(1855)に建てられた格子造りの建物が現存しています。その横山家の辻に、石の角柱が建っていて道標と思われましたが、摩滅していて読み取れませんでした。


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日光道中(街道)と分岐

右の写真は、元々千住4丁目の日光道中と水戸・佐倉道との分岐点にあった道標ですが、文化財として保存するため現在は足立区立郷土博物館の中庭に移設されてあるものです。

自然石を使って、正面に「水戸海道」、左側面に松戸・成田の表記があります。「街道」ではなく、「海道」と書かれています。
裏面はよく見えませんが、足立区の資料によると、「坂田七兵衛建之 天明元丑月」とあり、1781年の道標としては相当古いものであることがわかります。





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小菅から亀有へ


千住の宿町を出て水戸・佐倉道を行くと、すぐ荒川の土手です。ここは今も橋がないので、千住新橋を渡って大迂回し、対岸の小菅に出ました。ここからは葛飾区です。将軍が鷹狩りの際休まれたという小菅御殿の跡は、東京拘置所になっています。

ちかくの小菅銭座跡に立ち寄って、水戸・佐倉道の旧道へ出ると、いかにも旧街道らしい昔をしのばせる通りがありました。やがて綾瀬川、架かっている橋の名は、「水戸橋」でした。橋の近くには小菅神社があります。

水のわずかに流れる「古隅田川」を見たりしながら、ここから道なりに行きますが、これといった旧跡もなく歩くこと約1時間、亀有駅と四ツ木を結ぶ交差点へ出たところで、現代の道標に出会いました。





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現代の道標

それが右の写真です。葛西用水沿い、葛飾区が造った親水公園の一角に「これより水戸佐倉街道」と彫った道標が建っていたのです。側面には四ツ木道とありました。

往時の道標ではありませんでしたが、何はともあれ、旧道の表示に出会ってホッとした気持ちでした。


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新宿の渡し


ここから新宿まではわずかです。10分ほど歩いて中川の土手に出ました。昔はここを新宿の渡しと言い、舟で渡りました。川幅もそれほど広くなく、水勢もゆるやかで、船銭も取らなかったといいます。

歌川広重の名所江戸百景を見ても穏やかな水面と、糸をたれる釣り人などが描かれています。
今は中川橋を渡って、いきなり新宿の宿へ到着です。



新宿の宿駅

新宿は、今でこそ宿場の面影はありませんが、小田原北条氏によって作られたといわれ、直角に曲がった枡形の道筋が残っています。大名14藩が参勤交代で通過しましたが、休憩するだけなので、本陣と脇本陣は置いてありませんでした。

天保14年の調べでは、総戸数174、旅篭屋大2、小2、人口956とあります。中川で獲れた鯉や鱸の料理が名物で、藤屋、中川屋、亀屋などの料理屋が店を並べていたといいます。
広重の絵の中に出てくる釣り人は、この鯉か鱸でも釣っていたのでしょうか。


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