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街道の歴史

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aikonenpitsu佐倉・成田方面への道は、既に戦国時代から開かれていましたが、江戸時代の始め慶長15年(1610)に、佐倉藩の藩主に任ぜられた土井利勝が、江戸から佐倉までの道を往還するようになって、「佐倉道」の名称で呼ばれ、幕府も五街道に次ぐ重要な脇往還として公認しました。

aikon--post その後本格的に参勤交代が始まると、街道筋に宿駅が定められ、本陣・脇本陣が置かれて人馬の継ぎ立てが行われるようになります。

街道の重要性が高まると、主要な渡船場などに番所が置かれました。江戸の東では、水戸街道の金町松戸に、佐倉街道では小岩市川に、また小名木川の中川に番所が設けられ、のちに金町松戸と小岩市川は関所に格上げされ、いわゆる「入鉄砲、出女」と言われた通行人の取締りが強化されていきました。

aikon-takujomemo 万治2年(1659)になると、この佐倉道には幕府道中奉行が設置され、八幡宿までが、幕府の直接管下となります。なぜ途中の八幡宿までを、幕府の管轄にしたのかわかりませんが、佐倉藩は幕府の親藩であり、江戸川を越えた所まで押さえておけば、東の警備は大丈夫と考えたのかも知れません。

aikon--danbouru 江戸中期以降になると、庶民信仰の中から寺社参りの慣行が広まり、講を組んで、集団で出掛けて歩く風潮が生まれます。成田山では、江戸での出開帳を盛んに行った事などが人気を博し、その後の興隆の基礎を築いたと言われます。

幕末の頃の成田への参詣者は10万人に達し、時季には人馬がひっきりなしに街道を往来したと言われています。

このように成田参詣の人々が街道の主役を占めるようになって、それまでの「佐倉道」が、いつの間にか「成田道」と呼ばれるようになっていったのです。


   
aikon--mushimegane 佐倉・成田へ通じる道は、他にも何通りかありました。
千住宿が幕府に公認されるまでは、むしろ両国橋を渡って竪川通り、逆井の渡しを経て小岩・市川の渡しへ出るのが近道でもあり一般的でした。
江戸川区では、この中川から江戸川まで間の街道(現千葉街道)を、「元佐倉道跡」として史跡登録しています。

aikon--fuuto 水路では、日本橋小網町から船に乗り、本行徳へ上陸し、八幡や船橋へ向かうルートが、比較的楽に、しかも身体改めもゆるやかだったため、元禄の頃には、成田参詣客を中心にたいへん賑わったそうです。

行徳船と呼ばれたこの船は、元々行徳海岸で採れる塩を幕府に納めるために塩の道として開削された小名木川、新川の掘割水路を利用したものでした。


 

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