新宿(にいじゅく)から八幡(やわた)まで




水戸道と佐倉道の分岐
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新宿の宿場のはずれ、現在の水戸街道(国道8号線)に交差した場所に「あづまや」という蕎麦屋さんがありますが、その敷地内に石柱の道標が建っています。

正面に「右 なりたちば寺道」「左 水戸街道」とあり、右側面に「さくらミち」、左側面に「安永六(1777)丁酉年八月吉日 石橋供養塔」と刻んであります。約5年の歳月をかけて、この付近に27箇所の石橋を架けたので、その供養のため不動尊と、供養塔を兼ねた道標を建てたのだと言います。葛飾区の指定文化財となっていました。

この場所が、水戸道と佐倉道の分岐点でした。交通量の激しい水戸街道を横切ると、これがと思うほどの狭い佐倉道が、ほぼ南方向へ続きます。
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三猿浮き彫り道標


新宿公園の前を通り、亀田橋交番の角を曲がった所にお地蔵様の石像と並んで、左端に道標がありました。

これも葛飾区の指定文化財です。角柱三猿浮彫道標と書いてありました。かなり摩滅して浮き彫りも良く確認できないほどですが、「是より右ハ下河原町 さくら海道」の文字が読み取れました元禄6年(1693)の建立で、区内で現存する道標のなかでは最も古いものなのだそうです。

崇福寺、大秀寺、源照寺と言ったお寺が続く道を通り、賑やかな京成高砂駅前通りを過ぎると、京成金町線の踏切を渡ります。線路に沿って左は帝釈道、柴又の帝釈天へ通じています。

途中に「桜道」中学校がありました。字は違いますが、佐倉道から取った名前に違いありません。この先沿道には沢山の桜の木が植えられていましたので、桜道でも良いのでしょう。

やがて北総鉄道の高架をくぐると江戸川区に入ります。このあたり、昔は柴又村と鎌倉新田の境界線でした。


親水さくらかいどう
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しばらく行くと、道の片側ですが、うねった遊歩道にせせらぎが流れ、巧みに樹木が配置された「親水さくらかいどう」に変身しました。とても都内とは思えない静かなたたずまいの道に整備されていて、「旧佐倉街道」あるいは「さくらみち」と書かれた現代の石柱道標が随所に立てられていました。

当時は何もなかった場所ですが、このようにして旧街道として名前を残し、環境を整備していく工夫がなされているのは、大変喜ばしい限りです。
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やがて江戸川の土手に出ました。このあたりは昔の伊予田村です。整備された「親水さくらかいどう」もここまでで、この先土手に沿って小岩市川の渡しをめざします。

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小岩・市川の渡しと関所跡

小岩、市川の渡しと関所跡は、今の京成電車の江戸川に架かる鉄橋の下、南側にあったと言われています。この渡しは、佐倉道のほかに岩槻道,元佐倉道などが集まっていましたので、重要な渡し場でした。

関所は慶長年間に番所として設置されましたが、佐倉街道の重要性が高まるにつれて、明暦から万治年間
(1655〜1661)に関所に格上げされました。明治2年に廃止された後は跡形もなくなっています。
江戸川区ではこの界隈を、御番所町跡として道路部分の一部を、登録保存しています。渡し場にあったと言われる常灯明は、御番所町の宝林寺に移されてあります。高さが4mもある立派なものです。

この御番所町周辺には、道標が幾つか残っていますが、それらはいずれも慈恩寺道(埼玉県岩槻市)や、浅草観世音道への道標ですので、ここでは省略しました。



syobosyo hukin no dohyoichikaw-awatashiato旧市川村周辺

江戸川を渡って対岸に出ると、千葉県市川市です。昔は下総国市川村でした。京成電車の国府台駅近くの江戸川土手に、市川関所跡の石碑がありました。

この付近には名所旧跡が多く、江戸庶民の行楽地としても賑わったと言います。

中世の国分寺跡や、総寧寺、弘法寺、手児奈霊堂、真間の継橋等々。また江戸川べり北の国府台は、中世に幾度か戦乱を繰り返した古戦場址なのです。それらに立ち寄る余裕はないので、ここから1里の八幡宿へ急ぎます。

今は広い街道の市川消防署近くの歩道に、よく目立つ山型石柱が1基建っていました
正面には「青面金剛」とあり、左右側面には、それぞれ「東 八わた十六丁、中川一里」「西 市川八丁、江戸両国三り十丁」の文字が読み取れます。天明元年(1781)の建立と言われ、200年以上の風雨に耐えてきた道標です。


八幡宿

江戸からは5里33丁、八幡宿に到着です。もっとも現在は市川市八幡で、JR本八幡駅前、市役所もあり、市川市の中心部です。
宿の中心は、市役所の東側の街道筋(国道14号線)だったといいますが、今は往時の街道の面影は全くといっていいほど見当たりません。ただ「葛飾八幡宮」と八幡社の境内の一部であった「藪不知森」の一角がわずかに往時の痕跡をとどめています。

江戸から八幡宿までは幕府道中奉行の直轄でしたが、船橋宿が近いためほとんどが通過したと言います。そのため本陣も置いていませんでした。天保14年の調べでは、総戸数106軒、本陣・脇本陣なし、旅篭・中4軒小4軒、人口582人となっています。

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