黒澤明誕生1910 明治43 出生◎3月23日(水曜日、雨) 東京府荏原郡大井町lI50、現・品川区東大井3-26付近(通称立会川)に生まれる。 父・勇45才は秋田県仙北郡豊川村(現・中仙町)出身。 日本体育会体操学校(日本体育大学の前身)および併設された荏原中学の要職にあった。 黒澤家は校内の教職者住宅である。母・シマ40才は大阪市出身で商家の人。 姉兄は茂代、昌康、忠康(病死)、春代9才、種代7才、百代5才、丙午4才。 明は四男四女の末っ子だった。 現在、日本体育会跡地には品川区立浜川中学校がある。 1911 明治44 1才◎[乳児期の記憶は断片だが鮮明に自伝「蝦墓の油」で語られている。 1912 明治45 2才 父の勇は仙台鎮台の陸軍歩兵曹長、陸軍戸山学校の教官を経た軍人経験者だった。 大正1 しかし、映画(活動写真)には理解があり家族を連れてよく見にいったという] 1913 大正2 3才 1914 大正3 4才 1915 大正4 5才◎4月森村幼稚園に入園する。 1916 大正5 6才◎4月森村小学校に人学する。当時は南高輸尋常小学校といい、品川八ツ山にあった。 現・森村学園は横浜市緑区に移設。 幼年期の明は虚弱で知能が遅れていたと自身述べている。 1917 大正6 7才◎小学2年 ◎父・勇、日本体育会体操学校を退職。 ◎小石川の大曲に転居する。小石川区西江戸川町9、現在・文京区水道1-4。 ◎黒田尋常小学校に転校する。現・文京区小日向2-16。 廃校になった跡地には区立第五中学校がある。 1918 大正7 8才◎小学3年 ◎立川精治先生が担任となり絵に興昧をもつ。また同級生の植草圭之助、秀才だった 兄・丙午の影響で学年が進むにつれ成績が上がっていく。 1919 大正8 9才◎小学4年 ◎兄・丙午黒田小卒業。一中の入試に失敗、成城中学へ入学したが学業より 文学、映画に傾斜しはじめる。 ◎姉・百代病死(享年16才。「蝦墓の油」による) 1920 大正9 10才◎小学5年 ◎[この頃から剣道や書道を習う。また父たちと近くの神楽坂に遊び、 映画や寄席をよく見る。] 1921 大正1O 11才◎小学6年 ◎兄・丙午(15才)黒澤遥村の名で映画プログラムなどへ投稿。 遥村の他、はるか、粋眼など名のる。 1922 大正11 12才◎黒田小学校を卒業。 ◎4月京華中学に入学する。現・文京区本郷2-1順天堂の一画。 現在、京華学園は文京区白山に移設されている。 1923 大正12 13才◎中学2年 ◎9月1日関東大震災に遭遇する。明は丙午に連れられ下町を巡り死屍累累の地獄を見る。 ◎目黒に転居する。転居年未確定) 1924 大正13 14才◎中学3年 ◎渋谷・長谷戸に転居する。(転居年未確定)渋谷町長谷戸29、現・渋谷区恵比寿西1-27。 なお、この付近で再転居があった。 ◎京華校友会誌に載った作文「蓮華の舞踏」は、国語の小原要逸先生に 創立以来の名文と誉められる。 ◎兄・丙午I8才、新宿「武蔵野館」で映画説明者見習いのあと、赤坂「葵館」へ。(未確定) 1925 大正14 15才◎中学4年 ◎兄・丙午19才、神楽坂「牛込館」へ須田貞明の名で出る。 1926 大正15 16才◎中学5年 昭和1 ◎須田貞明(丙午20才)神田「シネマ・パレス」にも出演する。 1927 昭和2 17才◎3月京華中学卒業。 ◎画家を志す。 ◎須田貞明(丙午21才)神田「シネマ・パレス」 の専属となる。 1928 昭和3 18才◎第I5回二科展入選。油影「静物」 1929 昭和4 19才◎第2回プロレタリア美術大展覧会出品 ◎[この頃よりナップ(全日本無産者芸術連盟) に参加、 非合法活動の下部でうごき家を出て下宿を転々とする] ◎須田貞明(丙午23才)浅草と新宿の「松竹座」に移る。 1930 昭和5 20才◎徴兵検査(兵役免除となる) ◎須田貞明(丙午24才)浅草「大勝館」で主任説明者を勤める。(但し初日は5年大晦日) 1931 昭和6 21才◎兄・丙午(須田貞明)の長屋、神楽坂近く横寺町に身を寄せる。 1932 昭和7 22才◎4月トーキー争議。(S・Pチェーンのうち「大勝館」と「電気館」。貞明は争議委員長) 1933 昭和8 23才◎7月10日兄・丙午自殺(27才。伊豆の旅館で)。 また、音信不通だった長兄・昌康病死の報がこの頃ある。 1934 昭和9 24才◎[この頃、画家への才能に疑問をいだき黒澤家に残った男子として、 ほかの仕事を考え始める] 1935 昭和10 25才助監督時代始まる1936 昭和11 26才◎P.C.L(翌年の東宝)に、助監督として入社。映画の師・山本嘉次郎監督にめぐり会う。 ◎助監督参加作品『処女花園』矢倉茂雄監督。 『エノケンの千万長者』山本嘉次郎監督。『東京ラプソディー』伏水修監督、など公開。 1937 昭和12 27才◎東宝株式会社設立。8/12 ◎助監督参加作品『戦国群盗伝』滝沢英輔監督。 『良人の貞操』『エノケンのちゃっきり金太』『美しき鷹』山本嘉次郎監督。 『雪崩』成瀬巳喜男監督、など公開。 1938 昭和13 28才◎助監督参加作品『地熱』滝沢英輔監督。『藤十郎の恋』『綴方教室』 『エノケンのびっくり人生』山本嘉次郎監督、など公開。 1939 昭和14 29才◎助監督参加作品『エノケンのがっちり時代』 『忠臣蔵・後編『のんき横町』山本嘉次郎監督、公開。 ◎『馬』山本嘉次郎監督、製作開始、B班監督を勤める。 1940 昭和15 30才◎助監督参加作品『ロッパの新婚旅行』『エノケンのざんぎり金太』 『孫悟空』山本嘉次郎監督、公開。 この間『馬』の製作も継続された。 1941 昭和16 31才◎『馬』山本嘉次郎監督、公開。3/11 ◎シナリオ「達磨寺のドイツ人」く映画評諭12月号〉掲載、伊丹万作監督に賞賛される。 1942 昭和17 32才◎シナリオ「静かなり」が情報局国民映画脚本公募に入選、く日本映画2月号〉掲載。 ◎シナリオ『青春の気流』が伏水修監督により公開。2/14 ◎シナリオ「雪」が国策映画脚本募集に入選、く新映画4月号〉に掲載。 ◎シナリオ『翼の凱歌』(外山凡平と共作)が山本薩夫監督により公開。10/15 ほかの執筆シナリオは「森の千一夜」「美しき暦」「サンパギタの花」 「第三波止場」「敵中横断三百里」など。 ◎黒澤明監督作品第1作シナリオ「姿三四郎」執筆。監督デビュー1943 昭和18 33才◎第1作『姿三四郎』(冨田常雄「姿三四郎」)3月25日公開。 ◎シナリオ「敵中横断三百里」く映画評論6月号〉掲載。 ◎シナリオ「門は胸を拡げている」執筆開始、それを改題「日本の青春」に、 更に「渡辺ツル達」に変更、最終的には「一番美しく」となった。 1944 昭和19 34才◎シナリオ『土俵祭』が丸根賛太郎監督(大映)により公開。3/30 ◎第2作『一番美しく』4月13日公開。 ◎シナリオ「じゃじゃ馬物語」執筆。 1945 昭和20 35才◎シナリオ『天晴れ一心太助』が佐伯清監督により公開。1/11 ◎第3作『続姿三四郎』4月26日公開。 ◎加藤喜代(女優矢口陽子)と結婚。5/21 ◎この頃祖帥谷大蔵(現・世田谷区砧の堀川弘通監督実家)に転居 ◎次回作「どっこい!この槍」は馬の調達が困難のため、「虎の尾を踏む男達」に変更、 製作は敗戦をまたぎ完成する。製作中、占領軍将校たちが見学に訪れた。 そのなかに敬愛するジョン・フォード監督が海軍将官としていたことを後で知る。 ◎第4作『虎の尾を踏む勇達』は公開禁止となる。日本側検閲官がこの映画は 「勧進帳」を改悪愚弄しているという理由から、占領軍GHQへのリストから 除外した事による。 ◎戯曲「喋る」を執筆、新生新派が有楽座で公演。12/1〜25 ◎長男・久雄誕生。12/20 1946 昭和21 36才◎戯曲「喋る」く平凡1月号〉掲載。 ◎『明日を創る人々』公開。5/2山本嘉次郎、関川秀雄との共同監督だったが 自作リストから除外。 ◎第5作『わが青春に悔なし』10月29日公開(シナリオ久板栄二郎) 製作は第1次東宝争議解決後からなされたが、第2次争議により日活系で封切られた。 1947 昭和22 37才◎シナリオ『四つの恋の物語・第一話 初恋』が豊田四郎監督により公開。3/11 ◎シナリオ「山小屋の三悪人」く映画展望No.4〉掲載。 ◎第6作『素晴らしき日曜日』(シナリオ植草圭之助)6月25日公開。 ◎シナリオ「山小屋の三悪人」を『銀嶺の果て』と改題、谷口千吉監督により公開。 8/5この映画で三船敏郎デビュー。 ◎シナリオ「酔いどれ天使」を植草圭之助と執筆。 ◎この頃世田谷区千歳船橋に転居。 1948 昭和23 38才◎父・勇(83)出身地秋田で死去。2/8 ◎映画芸術家協会(山本嘉次郎、本木荘二郎、谷ロ千吉、 後に、成瀬巳喜男、松山崇、田中友幸)に参加。3/ ◎第7作『酔いどれ天使』(植草圭之助と共同シナリオ)4月26日公開。 この映画で、三船敏郎と早坂文雄(作曲)を初起用。 ◎第3次東宝争議。4〜8月 ◎シナリオ『肖像』が木下恵介監督(松竹)により公開。8/3 ◎シナリオ「罪なき罰」(菊田一夫「堕胎医」)を谷口千吉と執筆、後に「静かなる決闘」と改題。 1949 昭和24 39才◎シナリオ『地獄の貴婦人』(西亀元貞と共同)が小田基義監督により公開。3/8 ◎第8作『静かなる決闘』大映で3月13日公開。 ◎シナリオ『ジャコ萬と鉄』(谷口千吉と共同。梶野寝三「鯨漁場」)が 谷口千吉監督により公開。7/11 ◎第9作『野良犬』(菊島隆三と共同シナリオ)映画芸術協会・新東宝提携で10月17日公開。 1950 昭和25 40才◎シナリオ『暁の脱走』(谷口千吉と共同)が谷ロ千吉監督により公開。I/8 ◎第10作『醜(スキャンダル)聞』(菊島隆三と共同シナリオ)松竹で4月28日公開。 ◎次回作のために橋本忍のシナリオ「雌雄」(芥川龍之介「薮の中」)に 加筆し「羅生門」とする。 ◎シナリオ『ジルバの鉄』(棚田吾郎と共同。梶野寝三「ジルバの鉄」)が 小杉勇監督により公開。8/12 ◎シナリオ『殺陣師段平』(長谷川幸延「殺陣師段平」)が マキノ雅弘監督により東映で公開。8/26 ◎第11作『羅生門』(橋本忍と共同シナリオ)大映で8月26日公開。 ◎次回作シナリオ「白痴」を久板栄二郎と執筆。 1951 昭和26 41才◎シナリオ『愛と憎しみの彼方へ』(谷口千吉と共同。寒川光太郎「脱獄囚」。 映画芸術協会・東宝)が谷口千吉監督により公開。1/4 ◎第12作『白痴』(ドストエフスキー「白痴」久板栄二郎と共同シナリオ}松竹で公開。 5月19〜25札幌、26〜6/1函館で先行封切。東京劇場では5月23〜25の3日間、 3時間2分版をロードショー。一般公開は6月1日から短縮版(2時間46分)で上映された。 ◎シナリオ『獣の宿』(藤原審爾「湖の薔薇」)が大曽根辰夫監督により公開。6/8 ◎『羅生門』がべネチア国際映画祭でグランプリを獲得したとの報ある。9/10 1952 昭和27 42才◎シナリオ『決闘鍵屋の辻』が森一生監督により公開。1/3 ◎公開禁止となつた第4作『虎の尾を踏む男達』(昭和20年製作)が4月24日公開。 ◎シナリオ『戦国無頼』(井上靖「戦国無頼。稲垣浩と其励が稲垣浩監督により公開。5/22 ◎第13作『生きる』(橋本忍、小国英雄と3名共同シナリオ)が本拠地、東宝で10月9日公開。 ◎母・シマ(82)死去。11/4 ◎この頃狛江(現・狛江市)に転居。 1953 昭和28 43才◎シナリオ『吹けよ春風』(谷口千吉と共同)が谷口千吉監督により公開。1/15 ◎[前年より次回作に時代劇を小国英雄、橋本忍とともに構想、武士の一日の物語や 剣豪物を模索する。橋本によると、農民が武者修行の侍に夜盗から村を護って もらったという記録からシナリオ「七人の侍」は誕生した] 1954 昭和29 44才◎第14作『七人の侍』(橋本忍、小国英離と3名共同シナリオ。東宝)が4月26日公開。 ◎長女・和子誕生。4/29 1955 昭和30 45才◎シナリオ『消えた中隊』(井手雅人「地の塩」。菊島隆三と共同)が 三村明監督により公開。1/14 ◎シナリオ『あすなろ物語』(井上靖「あすなろ物語」)が堀川弘通監督により公開。1O/5 ◎早坂文雄(41)死去。10/15 ◎第15作『生きものの記録』(橋本忍、小国英雄と3各共同シナリオ。東宝)が11月22日公開。 1956 昭和31 46才◎東宝時代劇再生を期し、黒澤シナリオチームから「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」 「どん底」「用心棒」などの原案が出る。 1957 昭和32 47才◎第16作『蜘蛛巣城』(シェイクスピア「マクべス」。小国英雄、橋本忍、菊島隆三と 4名共同シナリオ。東宝)が1月15日公開。 ◎第17作『どん底』(ゴーリキー「どん底」。小国英雄と共同シナリオ。東宝)が9月I7日公開。 ◎初渡欧。10/15-25ロンドン・ナショナル・フィルム・シアター開場式、 第1回ロンドン映画祭で「蜘蛛巣城」上映。1O/16 ◎シナリオ『敵中横断三百里』(山中峯太郎「敵中横断三百里」。小国英雄共同)が 森一生監督により公開。12/28 1958 昭和33 48才◎シナリオ「日々平安」(山本周五郎「日々平安」)(映画評諭6月号〉に掲載。 ◎第18作『隠し砦の三悪人』(菊島隆三、小国英雄、橋本忍と4名共同シナリオ。 黒澤映画初のシネマスコープ画面。東宝)が12月28日公開。 1959 昭和34 49才◎黒澤プロダクション発足。4/ ◎シナリオ『戦国群盗伝』(三好十郎「群盗」。山中貞雄原案。黒澤明潤色)が 杉江敏男監督により公開。8/9 1960 昭和35 50才◎8月東京オリンピックの記録映画監督を依頼され、ローマオリンピックを視察。 帰途、欧州各映画祭に出席。 ◎第19作『悪い奴ほどよく眠る』(小国英雄、久板栄ニ郎、菊島隆三、橋本忍と 5名共同シナリオ。東宝・黒澤プロ第1回作品)が9月15日公開。 1961 昭和36 51才◎第20作『用心棒』(菊島隆三と共同シナリオ。東宝・黒澤プロ)が4月25日公開。 ◎『七人の侍』をリメークした西部劇『荒野の七人』J・スタージェス監督により公開。5/3 1962 昭和37 52才◎第21作『椿三十郎』(小国英雄・菊島隆三と3名共同シナリオ。 東宝・黒澤プロ)が1月1日公開。 ◎シナリオ『殺陣師段平』(大映)が瑞穂春海監督により再映画化公開。9/30 ◎この頃世田谷区松原2丁目に転居。 1963 昭和38 53才◎三船プロダクション設立。1/ ◎第22作『天国と地獄』(エド・マクベイン「キングの身代金」。 小国英雄、菊島隆三、久板栄三郎と4名共同シナリオ。東宝・黒澤プロ)が3月1日公開。 ◎東京オリンピックの記録映画監督を予定制作費が認められず辞退。 3/21後任市川崑監督。 ◎キネマ旬報増刊「黒澤明<その作品と顔>」発行。4/25 1964 昭和39 54才◎シナリオ『ジャコ萬と鉄』(東映)が深作欣二監督により再映画化公開。2/8 ◎キネマ旬報増刊「二人の日本人」(黒澤と三船、赤ひげ特集)発行。9/15 1965 昭和40 55才◎第23作『赤ひげ』(山本周五郎「赤ひげ診療譚」。井出雅人、小国英雄、菊島隆三と 4名共同シナリオ。東宝・黒澤プロ)が4月3日公開。 ◎シナリオ『姿三四郎』(黒澤プロ・東宝)が内川清一郎監督により再映画化公開。5/29 ◎『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)公開。「用心棒』の盗作と判明。12/25 1966 昭和41 56才◎米国との合作「暴走機関車」のシナリオが完成するが、製作条件が 相違し無期延期となる。6/ 1967 昭和42 57才◎20世紀FOX・黒澤プロは『トラ!トラ!トラ!』(シナリオ小国、菊島、黒澤、 フォレスター共同)の製作を発表。4/28 1968 昭和43 58才◎[『トラ!トラ!トラ!」で黒澤監督は実在感を求め主要配役に社会人実業家を 起用、東映京都撮影所で始動。しかし、20世紀FOXの合理性や不慣れな撮影所で の製作方法の食い違いから撮影は難航を極める。そして、「健康上の理由から 監督を降りる」と発表された。ただしこれは黒澤監督の意向ではなく不可解な 事態となる。黒澤監督は続行を主張したが、20世紀 1969 昭和44 59才 FOXは既に舛田利雄、深作欣二両監督と契約、新たな出演者も決定したと 発表する。黒澤プロは降板者などへの補償、債務支払いを要求した] ◎四騎の会結成。(木下恵介、市川崑、小林正樹、黒澤明)「どら平太」(山本周五郎 「町奉行日記」)。「死の家の記録」(ドストエフスキー)などが企画された。7/25 1970 昭和45 60才◎第24作『どですかでん』(山本周五郎「季節のない街」。小国英雄、橋本忍と 3名共同シナリオ。スタンダード・サイズ。黒澤映画初のカラー作品。 四騎の会・東宝)が10月3I日公開。 ◎キネマ旬報社「世界の映画作家3・黒沢明」発行。3/1 ◎名古屋・名鉄ホールで黒澤明フェスティバル」が開催され黒澤監督が初めて講演 14作品が上映された。3/6 ◎モスクワ映画祭に出席、『どですかでん』上映。 この時「デルス・ウザーラ」などが話題になる。7/ テレビ・ドキュメンタリー「馬の詩」を監修 1971 昭和46 61才◎日本TV系で放映。「夏目漱石、山本周五郎シ 1972 昭和47 62才◎リーズ」などテレビ監修の話もあった。8/31 12月22日自宅浴室で自殺を図る。 ◎モーリス・ジャール「クロサワに捧ぐ」を作曲し来日。 コンサートを開き、23日黒澤監督と対面。2/ ◎ソ連映画合作公団総裁より「デルス・ウザーラ」 製作実現の用意あると伝えられる。4/ 1973 昭和48 63才◎黒澤明研究会発会。5/5 渋谷区恵比寿西一丁目に転居。 ◎モスクワに出発、「デルス・ウザーラ」始動。1/ ◎渡欧。ロッテルダムとアントワープ映画祭へ出席しモスクワへ。2/ ◎ソ連大使館で「デルス・ウザーラ」製作記者会見。7/6 ◎モスクワ映画祭出席。「デルス・ウザーラ」製作打合せ。 モスフィルム・スタッフとロケハン。7/9 ジョン・フォード(78)死去。監督。8/31 ◎『野良犬』が森崎東監督により再映画化公開。9/29 ◎「デルス・ウザーラ」シナリオ決定稿完成。10/ 1974 昭和49 64才◎日本側スタッフとモスクワへ。デルス役に三船敏郎を予定していたが 2年間拘東は不可能となり変更。12/11 1975 昭和50 65才◎『デルス・ウザーラ』モスフィルムで仕事始め。1/2 山本嘉次郎(72)死去。監督。9/21 ◎「デルス・ウザーラ』撮影終了4/28。 ◎6月18日モスクワを発ち帰国の途へ。 ◎日本テレビ系「黒澤明のすべて」放映。6/19 加東大介(64)死去。俳優。7/31 ◎第25作『デルス・ウザーラ』(ウラジミール・アルセーニエフ 「シベリアの密林を行く」「デルス・ウザーラ」。ユーリー・ナギービン共同同シナリオ。 製作=モスフィルム/アトリエ41協力ソ連映画。配給=日本へラルド。ソ連国産カラー。 黒澤映画初の70ミリ)8月2日公開。 1976 昭和51 66才◎「悪魔のように細心に!天使のように大胆に!」(黒澤明監修)東宝(事業部)より発行。 11/29 シナリオ「乱」(および「影武者」)第1稿脱稿。 ◎『デルス・ウザーラ』が第48回アカデミー賞最優秀外国語映画賞受賞 (『羅生門』以来2度目)。3/29 1977 昭和52 67才◎久板栄二郎(77)死去。シナリオライター。6/9 ◎本木荘二郎(62)死去。プロデューサー。5/10 ◎調布市入間町3丁目に転居。 1978 昭和53 68才◎シナリオ「死の家の記録」「赤き死の仮面」執筆。 ◎『影武者』出演者を新聞広告で公募。1/20 ◎「週刊読売」に「蝦墓の油一自伝のようなもの」を25回にわたり連載。3/14-9/12 ◎シナリオ・絵コンテ集「影武者」が講談社より発行。11/1 1979 昭和54 69才◎『影武者』製作発表。東宝と黒澤プロ製作によるが、F・コツポラ、J・ルーカス、 S・スピルバーグの働きかけで、20世紀FOXが世界配給権を 肩代わりし一部を出資。12/20 ◎この頃世田谷区成城2丁日に転居。 ◎三井弘次(69)死去。俳優。4/20 ◎ソ連映画60周年を記念して黒澤明、ルネ・クレールら12人(外国人対象)に 特別名誉賞を授与と発表。3/28 ◎藤本真澄(68)死去。プロデューサー。5/2 ◎森岩雄(80)死去。東宝重役。5/I4 ◎主役・勝新太郎が仲代達矢に変更。7/25 ◎TV・NHK特集「黒澤明の世界」(『影武者』ドキュメント)放映。11/2 1980 昭和55 70才◎F・コッポラ、J・ルーカスが北海道勇払原野での『影武者』撮影現場を表敬訪間。11/ ◎この年、世田谷区成城2丁目に転居。 ◎西武池袋店で「影武者展」開催。4/ ◎第26作『影武者』(井手雅人と共同シナリオ。東宝・黒澤プロ)4月26日公開。 1981 昭和56 71才◎カンヌ国際映画祭で『影武者』グランプリ。5/23 ◎NHK教育TV「若い広場」-マイ・プックに出演、4回にわたり「戦争と平和」「三四郎」 1982 昭和57 72才◎「白痴」「平家物語」について語った。1/11、18、25、2/1 ◎志村喬(76)死去。俳優。2/11 ◎べネチア国際峡画祭50周年記念回顧上映で『羅生門』が歴代の グランプリ「獅子の中の獅子」に選ばれる。9/6-9 1983 昭和58 73才◎『乱』製作決定発表記者会見。帝国ホテル。11/19 1984 昭和59 74才◎黒澤フィルムスタジオ完成。11/1 1985 昭和60 75才◎フランス、レジオン・ドヌール・オフィシエ勲章授与。 ◎森谷司郎(53)死去。監督。12/2 ◎矢野口文雄(67)死去。録音技師。1/15 ◎黒澤監督夫人・喜代(63)死去。2/1 ◎『乱』全撮影完了。2/23 ◎宮口精二(71)死去。俳優。4/12 ◎『乱』日劇東宝でプレミア試写会。5/21 ◎『黒澤明展』渋谷東急で開催。5/31 ◎第27作『乱』(シェイクスピア「リア王」。小国英雄、井手雅人と3名共同シナリオ。 製作へラルド・エース/グリニツチ・フィルム・プロダクションSA。 配給=東宝・日本へラルド)6月1日公開。 1986 昭和61 76才◎田崎潤(72)死去。俳優。10/18 ◎永田雅一(79)死去。元大映社長。10/24 ◎第58回アカデミー賞で『乱』の衣装を担当したワダエミが 「衣装デザイン賞」を受賞した。3/14 ◎次回作シナリオ「こんな夢を見た」(後の『夢』)第1稿(全11話)を脱稿。7/I4 ◎TV朝日系「黒澤明・映画がすべて」放映。8/I7 1987 昭和62 77才◎「こんな夢を見た」は予算上第1話[飛ぶ]第8話[阿修羅] 第11話[素購らしい夢]を削除して改稿する。9/21 198B 昭和63 78才◎「全集・黒澤明」第1巻が岩波書店より発行される。11/18 ◎中井朝一(77)死去。撮影技師。2/28 ◎黒澤監督、黒澤久雄、井上芳男両プロデューサー渡米。 ワーナー・ブラザーズ本社と資金について交渉。 S・スピルバーグ製作総指揮による製作費14億円の出資が決定した。5/8-14 ◎小沢栄太郎(77)死去。俳優。4/23 ◎来日中のJ・ルーカス監督と会談。6/27 1989 昭和6 479才◎ジュリアナ・ストラミジョリ死去。イタリアフィルム重役。 (『羅生門』をグランプリに導いた女性)8/22 ◎「文芸春秋」2月号〈著名人が選んだ日本映画べスト100〉に、@七人の侍 A生きるC羅生門P用心棒Q酔いどれ天使、などが選ばれ監督べスト20の 1位に黒澤明が選出される。2/1 ◎菊島隆三(75)死去。シナリオライター。3/18 1990 平成2 80才◎井手雅人(68)死去。シナリオライター。7/I7 ◎次回作シナリオ『八月の狂詩曲(ラプソディー)」執筆のため京都へ2/6 3月長崎、津久井、相模湖、伊勢原、昇先峡、秩父、仙台、丹沢、御殿場などをロケハン。 ◎藤田進(78)死去。俳優。3/23 ◎第62回アカデミー賞で「特別名誉賞」受賞。3/26 ◎第43回カンヌ国際映画祭で『夢』がオープニング上映。5/10 ◎第28作『夢』(シナリオ=黒澤明。製作=東宝・黒澤プロ。提供=S・スビルバーグ。 配給=ワーナー・ブラザーズ)が5月25日公開。 ◎埼玉県秩父栃谷に、『八月の狂詩曲(ラプソデイー)』の 主要オープンセットおばあちゃんの家の棟上げ。6/5 ◎『八月の狂詩曲(ラプソディー)』製作発表記者会見。 (箱根プリンスホテルに世界18ケ国の報道陣が出席)8/8 1991 平成3 81才◎ガルシア・マルケス(ノーバリレ賞作家)と会談。10/5 ◎次回作シナリオ「まあだだよ」脱稿。8/16 ◎「八月の狂詩曲(ラプソディー)』試写と「黒澤明と若者たちとの対話」開催。 ソニーPCL創業40周年イベント。有楽町朝日ホール。4/11 ◎第29作『八月の狂詩曲(ラプソディー)』(村田喜代子「鍋の中」。 シナリオ=黒澤明。製作=松竹・黒澤プロ。配給=松竹)が5月25日公開。 1992 平成4 82才◎NHK術星2TV「巨匠・黒澤明のすべて」を合計35時間にわたり放映。6/1-8 ◎第15回「山路ふみ子賞」受賞。11/9 ◎『まあだだよ』製作発表。赤坂プリンスホテル。1/30 ◎秋田県中仙町で「黒澤明映画祭」開催。2/8・9 ◎東宝スタジオで百聞邸と町並みのオープンセットと宴会のリハーサルが 内外記者に公開、黒澤監督との会見も行われた。3/26 ◎東宝第9スタジオに、夕焼け雲の大スクリーンを設営、 最後のシーンを撮ってクランク・アップ。9/15-20 ◎第4回「世界文化賞(高松宮記念)」受賞。10/29 1993 平成5 83才◎ニッポン放送(ラジオ)「世界文化賞メモリアル黒澤明心の世界」を放送。11/3 ◎『まあだだよ』(有楽町マリオン日本劇場)完成披露試写会。 監督生活50周年、第30作目にあたって記者会見も行われた。 その中で次回作話は、江戸の町民の人情劇を構想していると発表した。2/8 ◎本多猪四郎(8I)死去。監督。2/28 ◎「本多猪四郎監督お別れ会」黒澤明監督、大林宣彦監督らが弔辞を述べた。 (世田谷区成勝寺)3/6 ◎笠智衆(88)死去。俳優。3/16 ◎フジTV系「スーパータイム」で倍賞美津子、露木茂と対談。3/23 ◎TBSTV系「ニュース23」で筑紫哲也と対談。4/2、8 ◎第30作『まあだだよ』(内田百聞「内田百聞全集」。シナリオ=黒澤明。 提供=大映・電通・黒澤プロ。配給=東宝)が4月17日公開。 ◎日本TV系「黒澤明と宮崎駿対談」放映。5/5 ◎カンヌ国際映画祭に『まあだだよ』が特別招待された。5/14 ◎NHK衛星TV「たけしのビッグトーク」で北野武監督と対談。5/21 ◎「佐藤勝映画音楽コンサート」開催。東京五反田ゆうぽうと会館。9/24 ◎村瀬幸子(88)死去。女優。10/9 1994 平成6 84才◎植草圭之助(83)死去。シナリオラター。12/19 ◎次回作に山本周五郎の「つゆのひぬま」と「なんの花が薫る」をベースに 江戸時代の岡場所を舞台としたシナリオ「海は見ていた」を構想、 宮沢りえが候補にあがった。2/18 ◎東野英治郎(86)死去。俳優。9/8 ◎渋谷オーチャード・ホール「日本映画音楽の巨匠たち」の第2部で 「黒澤明映画音楽の秘密」として佐藤勝指揮により七人の侍、羅生門、 用心棒、赤ひげが演奏された。11/5 1995 平成7 85才◎第10回「京都賞」(稲盛財団・平安建都千二百年記念協会共催。)を受賞。 『夢』の上映、記念講演、対話が行われた。国立京都国際会館。11/10-12 ◎入江たか子(83)死去。女優。1/12 ◎次回予定の「海は見ていた」は、洪水シーンの規模が大きく断念。 新たなシナリオ「雨あがる」(山本周五郎「雨あがる」)を 京都で執筆中倒れる。3/中旬 ◎世田谷区成城4丁月に転居。 ◎JAS航空の機体にマーキングデザインをする。 1996 平成8 86才◎小国英雄(91)死去。シナリオライター。2/5 ◎武満徹(65)死去。作曲家。2/20 ◎野長瀬三摩地(71)死去。監督。5/23 ◎東中野BOX「日本映画監督協会創立60周年記念フェスティバル」開催。 ビデオ「わが映画人生(黒澤明)」(インタビュー大島渚)が公開。 1997 平成9 87才◎村木忍(73)死去。映画美術。1/16 ◎田中友幸(86)死去。プロデューサー。4/2 ◎杉村春子(91)死去。女優。4/4 ◎西村晃(74)死去。俳優。4/15 ◎TBS系TV世界ふしぎ発見「黒澤明」放映。8/2 ◎秋田県中仙町「黒澤明展」開催。10/8-13 ◎三津田健(95)死去。俳優。11/28 ◎三船敏郎(77)死去。俳優。12/24 1998 平成10 88才◎「故三船敏郎本葬儀」が青山斎場で行われた。黒澤監督は加療中のため欠席、 長男久雄が弔辞を代読した。1/24 ◎堺左千夫(72)死去。俳優。3/11 ◎稲葉義男(77)死去。俳優。4/2O ◎丹下キョ子(78)死去。女優。5/4黒澤明逝く◎黒澤明(88)死去。9月6日午後0時45分(脳卒中) 「黒澤明監督・お別れの会」が横浜市緑区の黒澤フィルム・スタジオで 9月13日午後2時より行われた。後日、無宗教ながら友人たちからおくられた戒名は 「映明院殿紘国慈愛大居士」 ◎淀川長治(89)死去。映画評諭家。11/11 ◎第11回東京国際映画祭で「黒澤明監督作品特別追悼上映」が行われ 全30作品が回顧された。11/31- ◎遺作シナリオによる『雨あがる』の製作発表が帝国ホテルで行われる。 小泉尭史監督は晩年の黒澤映画の助監督を勤め、黒澤監督からの信頼が厚かった。12/12 1999 平成11 ◎『雨あがる』掛川ロケよりクランク・イン。5/7 『雨あがる』東宝撮影所でセツト撮影終了。6/3O ◎宮川一夫(91)死去。撮影技師。8/7 ◎米タイム誌アジア版で黒澤明が「20世紀で最も影響力のあったアジアの20人」に 選ばれる。(8月16日号) ◎『雨あがる』がべネチア国際映画祭特別追悼上映され緑の獅子賞を受賞する。9/6 ◎『雨あがる』凱旋完成披露試写会が、東京国際フォーラム・Cホール(有楽町)で 開催された。9/27 ◎『雨あがる』第12回東京国際映画祭の、特別招待作品として上映される。10/31 ◎千秋実(82)死去。俳優。11/1 ◎佐藤勝(71}死去。作曲家。12/5 2000 平成12 ◎『雨あがる』新春公開
公開/2000年1月13日 91分 カラー 東宝 プロデューサー/原正人 黒澤久雄 原作/山本周五郎 「おごそかな渇き」 脚本/黒澤明 監督/小泉尭史 撮影/上田正治 照明/佐野武治 美術/村木与四郎 音楽/清田茂 録音/紅谷恒一 衣装/黒澤和子 出演/寺尾聡、宮崎美子、 三船史郎、井川比佐志、 松村達夫、原田美枝子、 仲代達矢 ほか 第24回日本アカデミー賞 2001/03/09 作品賞 「雨あがる」 脚本賞 黒澤明 主演男優賞 寺尾聰 助演女優賞 原田美枝子 音楽賞 佐藤勝 撮影賞 上田正治 照明賞 佐野武治 美術賞 村木与四郎 8部門を受賞しました。『見終わって、晴れ晴れとした気持ちになること』 黒澤明監督の覚書より 武芸の達人だが仕官がかなわない武士、三沢伊兵衛とその妻 たよ。折からの豪雨が旅の途にある夫婦を宿場町に足止めさ せる。二人が泊まる安宿には雨が上がるのを鬱々と待つ人々 が大勢いた。そんな彼らを和ませようと伊兵衛は禁じられて いる賭試合で金を都合して酒や食べ物を振舞う。人々に笑顔 が戻ったとき、雨もようやく上がった。やっと外に出られた 伊兵衛は偶然若侍同士の果し合いに遭遇、懸命に仲裁するの だった。その一部始終を藩の城主である永井和泉守重明が見 ており、伊兵衛に藩の剣術指南番の話が起こる。 |
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