喉山長閑さん、自立の世に生きる -2- つり革はいるのか

  








街のルールに倣い、右に寄ったり、左に寄ったり。
エスカレーターとは、危険な乗り物。

「この人、寄りすぎてる。」

そんなに寄らなくてもと、思うくらいに端に寄っている青年。
なんだか、逆にエスカレーターのルールにそぐわない。

彼のジェントルな意識が、私をシンシアに悪いと突っつくのだ。
この手に対しての私達の言うなれば、免疫力不足である。

最も、道を広くとって下さっていることに、何ら問題は無いのである。
そう、一般的に相手にもっとやりようがあるでしょ、と求めるのは、私達のやりようが無さに起因しているのである。

そして、そうこうするうちエスカレーターは地上2階に達するのだ。
そう、私の倫理的直感は何も正しくないのだとなる。

大体が、私がこの方を追い越すのはエスカレーターの乗り方としてルール違反なのだ。
追い越し禁止のエスカレーター。
左右に寄る街のルールのお陰様、いざというときの為の私達のスムーズな昇降に問題はないのである。


「しかしこの状況、矛盾している。」


この方はこの矛盾戦争において、確実に正しい先手を打ってきている。
つまり、あの男性は正しいのだ。
そうすると、私はどうしたら正しくエスカレーターに乗ったと言えるのか。
後手に回ったのである。
見つけてしまった矛盾。そんな小さな気持ちに倫理的直感と名前を付けて、私は悩んでいるのである。
だが、それは良く考えると、その方は私の今考えているこの様なトラブルを避ける、この一心で行動してくれているのではないだろうか。

つまり、優しさから寄ってくれているのだ。
その上で、その方はこちらが話し掛けなくて済む努力を先に済ませている。

では、私はどうするのか。
きっと、ここまで気付くことであの青年に負けないジェントルさでエスカレーターに乗ることができるかもしれない、そう思えるのだった。

その時、左に。合唱曲だろうか、歌を歌う女子高生の集団が階段を降りてきたのである。
「対、対応力。」

そう、風が吹いた。


あの青年は、話しかけられたくないポーズだが、話には応じてくれそうなタイプである。
これは一見の矛盾だが、完全な突破口である。
彼は態度から分かる通り、実は饒舌なのである。
「言うまでもねえ、通ってくれ。」

女子高生達は歌を歌っている。彼女達は仲間同士で歌を楽しんでいるのである。
「ららー、ららりー。歌の練習なのー。」

私もエスカレーターで仲間と歌ってよいなら、歌ってみたい。
しかし、それでいてあの青年の饒舌なジェントルに勝ちたくてしょうがないのだ。

しばし私は考えていた。
そして、私は気付いた。
私は兎に角、姿勢を正したのである。目立つように。

あの青年が端に寄ることで確立した紳士的な態度における、手すりに寄りかからんとする安寧を超えた先を行くこと。
これは、青年の習慣から生まれる優しさの本質を上回る、己の信念により達成出来るのだと私は思う。

姿勢で目立つことにより、歌を歌うという視点のずれた注目を昇華させた目的意識に変えることが出来るのである。

「負けないぞう。」


あの青年は改札を抜けて消えていった。

夏の風に嵐の始まりを感じた。
そんな私の闘争心からじんわりと音を感じたのである。