ホームページ イスラムの世界  宇留巣健太 in KSA

    

自然も、生活習慣も、宗教も、そして、価値観もまったく異なる人々と一緒に生活するのは、なかなか気の張る生活です。これを直そうとしても無理な話。そんな中で生活していくにはどうしたらよいのでしょうか。

ここにまとめた報告は、好き勝手に人生を歩んできた一人の老人が、酒も飲めない、職場には女性もいない、現地の人の考え方もわからない、そうした環境の中でストレスをためないようにするには、・・・・と、そんな中で思いついたことです。必ずしも、サウジアラビア全体ではない、かとは思いますが、まあ、あまり固くならずに気楽に読んでください。こんな世の中が普通なんだと。

 

Kentaurus in Saudi Arabia Reports

 1 ツールドービグ ラービグの町で自転車で挑戦
 2 サウジで尺八の演奏会 太鼓と三線と尺八の演奏会、とても盛り上がりました
 3 危ない、危ない 危うく、飛行機において怒られる状態でした。
 4 レナ号の冒険 老人と海 30年前に子供たちと遊んだボートを持参して、
 5 サウジ人とって当たり前のこと 行ってみなけりゃ分らないことも
 6 老人と海 第二弾  魚釣りの友達                          
 7 熱帯魚と戯れる  サンゴ礁の魚たち                     
 8 中東の平和はいつ来る なんとなくきな臭くなって来ていますが
 9 見事、北京の夜景 季節により、日本からサウジまでの航路が変わります
  10 野口先生が教授になった こんな嬉しい話は、・・・・・
  11 老人と海 第三弾  小さな魚が二匹
  12 サルマン国王即位 とても貴重な体験です
  13 3Dプリンターが入った なんてったってこの歳ですから
  14 金星がものすごく大きく見えました。 待っていました。サウジで天体考察
  15 聖地メッカでの大参事 こんなことが起こるんですね

 

ツールドラーピグ

とてもうれしいニュースが日本から飛び込んで来ました。私がもうかれこれ20年も前に、住友化学でトヨタを相手に樹脂の市場開発をしていたときに、清水建設と共同で発明した樹脂型枠というのがあるのですが、この型枠を使用して新しいコンクリートの品質管理手法の研究をしていた東大の工学部の野口先生が、教授に就任されました。まだ、かなり若い先生ですが、この先生の成果が、昨年のコンクリートに関する国際学会で、大賞に輝きました。こうした業績が認められ、今回の大栄進につながったと思っています。

 

そんなうれしいニュースがあったから、昨日(2/14)は、ラービグの街までサイクリングに出かけました。

会社からは、ラービグの街は雑多としており、さまざまな国から来た労働者で溢れているので治安が悪く、危険であるので、また、交通事情も悪く、何かあると会社が被害をこうむる(?)ので、決して車で行かないようにとの通達があるのです。というのは、表向きで、こちらにたくさんの住友化学の従業員がきていますので、何か事故があると、人事の者がかなりの面倒を見なければならず、そんな手間隙は掛けたくないとの腹があるから、何もしないでじっとしていてくれ、という、ただそれだけなんです。自動車でだめなら、自転車なら問題ないだろうというわけ( 「どうしようもないね、この老人」と思わないでください。 )で、ラービグの街の探索に行ったわけです。まあ、あとで問題になることは確かですが、われわれは、既に現役ではないから、現役の人たちの鬱憤晴らしの代理をしているつもりです。

こんなわけで、ツール・ド・ラービグに・・・・・。

こちらで調達して自転車は、勿論の、メイドインチャイナ。この自転車がまたいい加減。ギアーはついているが、半年も経たないうちに壊れてしまう。自転車のチューブは、釘があるわけでもないのに劣化してバンクする。ブレーキは効かなくなる。こんな調子ですから、出かける前に念入りにチェック。ギアは手動で調節して。さあ、どこまでもつか?こんな調子で準備ができたのは11時前。さあ、これから出発だ。

海風を浴びて、さわやかなスタート。

われわれのコミュニティーは厳重な警戒というよりも、安全のためでしょうか、ラービグの街からかなり離れたところにあります。ラービグまでは、最近できたという大学、ここがまた、生徒がいるのかどうか、全く分からないくらい閑散とした大学ですが、ここまでは、海岸線をを数キロ進んでいきます。でも、ここから街までは、まだまだあります。丁度昼前でしたが、海風が頬を優しくなぜでくれ、この頃まではまだ元気で、気分はとても爽快です。もちろんここの海岸もさんご礁がかなりつらなっており、数十メートル沖合いまでは膝までつかりながら入っていくことができます。まだ、日本では冬の真っ盛りだそうですが、こちらは既に30℃を超えていますので、こうした海岸で水遊びをしている子供たちがいっぱいです。この海岸線は、サウジの人たちが夕食がてら夕涼みに毎日たくさんきますので、そのための小屋があったり、レンタルのテントが張ってあったり、また、遊園地も整備されていてとても良くできています。でも、目的のラービグまでは、まだまだ先です。というわけで、ここで腹ごしらえ。ボーイの世話役をしているときに子供たちと、茨城の霞ヶ浦に行ったり、利根川の源流から太平洋まで下ると言うサイクリングをしたことがありますが、そのときのことを思い出しながら、サイクリングの途中でランチ。これも久しぶりです。なかなかいきですね。

行きは、追い風 5メートルってとこかな。快調だ。

ここからは、海岸をはずれ、陸地のほうに向かいますが、風はそよ風でほとんどないのですが、それでも追い風。5メートルってとこかな。久しぶりのサイクリングで多少の疲れを感じましたが、快調だ。追い風であったのでついつい、ラービグまで足を伸ばす。しばらくは砂漠風というより、このあたり土獏といわれる土ばかりの平原が続きます。そのほかに見えるのは、電信柱だけ。これが延々と街まで続いているのです。このあたりからお尻がいたくなる。中国製の自転車の悪いところ。サドルはついてはいるが、形は何を考えて作っているのか分からないようなへんな形。私が高校時代に乗っていた自転車のサドルのほうがまだましだ。途中、お尻の痛さを解放するために、しばらく歩いて自転車を押したりもしたが、2時間で、ラービグに到着。丁度二時まえでお祈りの時間。街は閑散。ところがお祈りが終わると、いっぺんに街に活気が出てくる。それにしても協会から、手をつないで出てくる男友だちの多いこと。大丈夫かね。ここの若者たちは、結婚する前は女性との接触は皆無。職場にも、街中でも、また、家に帰っても、家族以外の女性と知り合いになる機会は全くない。変な世界だ。というよりも異様さを感ずる。

ようやくたどり着いて街で、スーパーで飲み物を買う。大きなスーパーがあるはずなのだが、なかなか見つからず、ショッピングマートにいく。といっても、こちらのショッピングマートは、日本のコンビにくらいの大きさのなかに、所狭しと品物が並べられている。まるで倉庫という感じ。これではよそ者には、到底目的のものを探すなんてことはできない。勿論、こんな場所に買い物に来るのは、メイドとか使用人たちだけで、サウジ人がいるわけではない。彼らは店を遠くで仕切っているだけなのでしょう。要は、街は外国から仕事にで来ている人たちで活気があるだけです。サウジ人はどこにいるのでしょうかね。そんな感じです。せっかく来たのだからと、街を少し散策。大きなショッピングモールがあるわけではなし、少し路地にはいれば、そこは工事中で、建物をこわした残骸が所狭しと山積みされている。ほこりだらけで、駐車しているくるまは真っ白だ。こちらでは色つきの車がはやらないのはこんなところからか。洗車をするにしても、水はガソリンよりも高価なのだから、どんなつもりで、車を洗っているのでしょうか。そういえば、ジェッダに行くと、交差点でバケツに水を入れて、信号待ちの車の窓拭きをして、日銭を稼いでいる仕事のない出稼ぎ労務者がたくさんいるが、なるほど、これなら結構需要があるのかも知れないな。会社の車のドライバーもなかなか洗車をしない。しても一日で埃だらけになる。どうせのこと、洗車なんかしたってほんの一日か二日のことさ、とでも思っているのではないのか、綺麗にしようなんていう気の起こらないのが、これでよく分かった。

せっかく来たラービグの街。しかし、たまに来たぐらいではなかなか買い物なんぞできない。とにかく、間口が二間くらいの店ばかり。これはこちらの建物の建て方によるのだろう。日本のビルと違って、柱をコンクリートで打ち、壁はブロックやレンガを積んでいく、あるいは、別に作ったパネルをはめ込んでいくという工法が一般的。地震対策として、柱と壁をコンクリートで打って建物の耐震性を上げている日本とは、建物の構造が違う。こんなところにもお国柄がでている。したがって柱と柱の間隔が大体決まっていて、あまり広い間口を確保することができないのだ。だから、いわゆるうなぎの寝床的な店ばかり。その狭い店のなかに品物がびっしりと積み上げて、これを販売している。店の中に入るとこちらがつぶされてしまいそうだ。日本の昔のアメ横って感じかな。最も、今ではアメ横も立派なビルが立ち並び、店構えも一流になっててるようだ。売っているものも、アメリカ軍の中古品なんてものではなく、金銀の装飾品が所狭しと並んだ店ばかり。

日本の事情はそれとして、とにかくサウジは建築ブーム。コンクリートを打とうにも、セメントがないのだ。しかもそのセメント会社は王族系の会社。先日、こんなニュースが流れていた。セメントの需給がタイトであるので、これは商売になると、民間の会社がセメントの製造を始めた。しかし、それを王族の会社が黙ってみているわけがない。とにかく王族の会社だ。セメントの製造に必要な、原料、そして、燃料、電力を極力安い値段で手に入れている。まあ、こうした原料、電力なんていうのは、王族にしてみれば、親戚から買うようなもの。値段はどうにでもなるのだ。ということで、政府の補助とか何とかで、ものすごく安い値段で手に入れている。新しい会社は、こうした恩恵には授からないのだから、設立した途端に破綻した。サウジのビジネスとはこんなものかと痛切に感じた。当然のことながら、需給がタイトであるので、少ないセメントは、国家プロジェクトが優先。民間の工事に回るのは限られている。また、ここに、賄賂の温床があるのだ。セメントは裏金でいくらでも手に入るというのが通説。民間の工事で、建設工事が予定通り進んでいるのは、膨大な賄賂がその陰で動いているのがプンプン匂う。こんなことを考えれば、われわれの工事は運がよかったとしかいいようがない。われわれと同じくしてはじまった、近くの大学では、キャンバスのなかに建てかけのまま、一年以上鉄骨の骨組みだけが残った建設途中の建物がいくつもある。途中で工事を中断したままだ。メッカとメディナを結ぶ新しい鉄道の建設が近くで行われているが、この工事が本格化する前、また、KAECという国家プロジェクトの港湾工事がほとんど終わった頃の時期であったので、ほぼ予定通り工事が進んだのではないかと思う。これも幸運というより、なにか神掛りな感じを受けた。これがサウジの建設事情だ。街中はそれでもあちこちでビルの建設工事が始まっており、その工事の残骸も、又、ひどい。路地裏に入れば、こうしたガラクタが山積みされている。昔、上海にいったことがあるが、当時の上海がまさに建設ブーム。新しい建物と古い建物が混在し、そして、町中に建設の残骸が山積みされていた、その光景とまさに同じだ。

街中の狭い一角ではあるが、ここを自転車で散策。勿論、この田舎町でこの暑い昼の日中に自転車を漕いでいる人間なんて、私以外にだれもいない。ものめずらしそうに車から顔を出して眺めているものもいたが、さして、治安の悪さを感ずるほどではなかった。ただ、街中は、サウジの建設ブームに乗って、この国にやってきた三国人ばかり。まさに、多国籍国家という感じ。その雰囲気は異様だ。とにかく、さまざまな国の人たちが、国ごとにたむろしている。当然のことながら、金だけが目当てのこうしたグループの間で何かいざこざがあれば、どんな事態になるかは容易に検討がつく。彼らには武器を持つことは許されていないし、けんかでもしたら、即、強制送還にでもなるのであろう。重い罪と、厳しい監視がそうした犯罪を防いでいるのではなかろうか。とにかく、ここ、サウジでは、四人に三人は、密告者だといわれている。

帰りは、向かい風、これが途端にきつくなる。

行きはよいよい、帰りは怖い、恐い、強い、どれも当てはまりそうな、ラービグの街からの帰りのサイクリングであった。ラービグの街は、海岸から10キロくらい離れているのではなかろうか。われわれの住んでいるコミュニティーとラービグの間は、大きな湾になっていて、ここで漁ができるほどだから、かなり離れていることは確か。しかも、こちらは、海岸からラービグまで、潅木はあるものの、椰子も、高い樹木もなにも生えていない。高い建物もないし、つまり、野っ原で、風をさえぎる物が何もないのだ。そして、昼過ぎになると、海風がだんだん強くなる。往きのときにも風があった。微風とは言え、これは追い風。それが風速もわずかに上がり、しかも、帰り道の方角はまさに真っ向から風に向かう状態。足はそろそろ突ってきた。たまにのサイクリングであるから、普段、横着をしている罰がいっぺんに吹き出てくる。片側、5斜線くらいある道の中央分離帯には、電信柱がキチンと等距離で立てられている。苦しくて、つらくて、この電信柱を一本づつ数えながらの自転車漕ぎになる。横を車が130キロくらいで通り抜けていく。いい気なもんだ。きっと車を運転している奴らは、「物好きなやつがおるよ。この暑いのにサイクリングとは、よっぽどの貧乏人か、変わり者だね。」くらいに話ながら、笑いこけているのではなかろうか。たまにトラックが走っている。「気の毒だ。乗らないかい?」なんて、声を掛けてくれるやつはいないかな、なんて、少し期待しながら通り過ぎる車を恨めしく眺める。

疲れた。腿の辺りがつり始めた。最初は、脛が疲れてきたが、膝になり、腿まで上がってきた。そして、相変わらず、ペダルをこぎながら、電信柱の数を数える。コミュニティーに行く途中に交差点があるが、そこはかすんで見えない。後いくつって言う感じで、時々、痛くなった首を上げる。肩が凝り、疲れている証拠。コミュニティの陰すら見えない。まだ、10キロはあるね。そして、そのうち、ひざが痛くなる間隔が短くなる。右足が痛くなり、それをかばいながらこいでいたら、今度は左足がかなり痛くなる。まだまだ先はあるのに、もう、これ以上は風に向かっては自転車は焦げないということで、歩き始める。アーっ、車で来ればよかったの思いがよぎる。歩いていては日が暮れてしまう。横を走る車を車の中を覗き込むようにしてみるが、だれも気にしてくれている気配はない。自転車を止め、休憩している振りをして水を飲み、休み、休み自転車を漕ぐ。ふらふらだ。こけたりしたら、横を猛スピードで走る車にはねられる。それでは大変と、すこし緊張するが、疲れは溜まるばかりだ。そして、やっといつも見慣れた大学だ。でも、まだここからコミュニティーまでは数キロはある。ここから道は曲がるが、でも、海風は依然として吹きさらしの野っ原だ。しかも相変わらず海風が容赦なく向かい風で吹いてくる。もうくたくただ。それまでは、五車線もあったので、端っこの車線を自転車で漕いでいても安全であったが、ここからは二車線。しかも、相変わらず猛スピードの自動車がかなり走っている。安全のために路肩に下りたが、道が悪い。がたがた道で、しかも、自転車が重い。体中が痛くなり、お尻を庇えば、肩が痛くなる。腿から、ひざに、そして、足の指まで突っ張り始める。こうなると歩くのも乗るのもきつい。「ああ、今日が金曜でよかった。明日一日休んだら、どれだけ回復するかな。」なんて、考え始めた。そして、ようやく、コミュニティーの検問所。ここまでくれば、後は僅かとおもうが、ところが、このコミュニティーだって、まだ、23キロは自転車を漕がなくてはいけない。あと少しなのに、やっぱり、足が動かない。腰掛ける、石もなければ、台になるものもない。仕方なく、道の脇のミゾのふちに腰掛、しばし休憩。時計みれば、なんともうラービグを出てから三時間経っている。行きは二時間、帰りは三時間かぁー。

こうして無事アパートに戻ることができたが、腰も肩も、膝も、腿も、痛くて溜まらん。サイクリングは今回限りで十分。という貴重な経験でした。

 

サウジで尺八の演奏会

  勿論、サウジといっても広いですから、西海岸のジェッダの町に日本の尺八演奏家が来るのは、というよりも和楽器のプロの演奏家が来るのは初めてのようです。この貴重な機会を逃してはいけないとあれこれ算段をしました。もともとこの日は、副会長がラービグに来て、私の預かっている技術センターにも立ち寄るとのことでその準備をしていたのですが、この次期、役員の改選やら、会長が経団連の会長を辞めるということで、住友化学の本社もがたがたしていますから、ダーランというサウジアラムコの本社のあるサウジの東海岸まで来て、直ぐに日帰りと言うのです。まったく、会社の重鎮ともなると体力が勝負のようです。ラービグまでは足が伸ばせないと尺八演奏の日の前日帰国することになってしまいました。住友化学のラービグプロジェクトを管轄している人ですから、われわれもこの時とばかりいろいろと説明をするつもりでいたのが、来ないというので、半ばがっくり、半ば胸をなでおろすという感じです。

この日が丁度尺八の演奏会と重なっていたので断念していたのですが、副会長が来ないということがはっきりし、直ぐに、領事館に連絡をとり、何とか演奏会が聞けるということになりました。とはいっても、ラービグからジェッダまでは、150キロくらいあります。また、演奏会は、勿論夜にやりますので、その日にラービグに帰るのは日が変わってからというのは覚悟のうえです。

そして、当日、領事館での演奏会。この和楽器の演奏会は、三味線と和太鼓、そして、尺八のアンサンブルでした。演奏をしてくれたのは、日本文化交流会の派遣によるもので、若手の音楽家です。三味線と和太鼓の演奏家は、普段は北海道で活躍をしている人とのこと。いずれも日本での演奏コンクールで大賞を取ったという経歴の持ち主でした。特に三味線の演奏をする人30代前半の方で、4歳くらいからお父さんについて三味線をはじめ、若くして日本一になり、その後は演奏家としてだけでなく、三味線の作曲活動もしているとのこと。また、尺八の演奏家は、40歳くらいの人ですが、琴古とか都山ではなく、独自の流派の尺八で、先生は、私もよく知っている「横山勝也」先生でした。彼らは今回の演奏旅行、サウジに来る前にトルコに行かれて演奏し、そのあと、サウジのジェッダで、そして、リヤドに周り帰国されるといっていました。

 演奏のほうはほとんどが三味線の人が作曲したオリジナル曲で、和太鼓との共演を目的に作られたためか、非常に威勢のよいものでした。これに尺八が入るということで、どうしても尺八の本来のよさが薄れたような感じがしました。もともと、日本の音楽は5音階で、これは、サウジの音楽も同じ。尺八のルーツは、アラブの葦笛とも言われているように、もともとはこちらのメロディーが伝わったのでしょうね。したがって、曲のイメージがところどころ非常に似たようなものがありました。ただ、三味線や和太鼓に合わせるためか、尺八の音程が高温が主になっていて、私が聞いた感じでは、尺八というより、横笛のイメージでした。独特の音のすりあげ、首振りなどはもちろんありますが、それよりも、「ピーヒャラ、ピーヒャラ」というようなメロディー。いつも演歌や民謡を吹いている私には、すこし物足りなかったような気がしました。しかし、アンコールでソーラン節を演奏してくれたときには、さすがに上手という感じでした。でも、聞きにしていたサウジの方たちには大変な感動を与えたようでした。

この演奏会の二週間くらい前に、ジェッダの町の日本人会でカラオケ大会があり、そこで私も、尺八の演奏をしました。100人近くの人たちの集まりでしたが、去年も尺八の演奏をし、そのときに、「是非、日本の伝統文化のよさを知っていただきたい。とくに日本を離れて、外国で生活してみて、初めて日本の良さがわかり、その日本のよさを自分たちが感じて、それを海外の人に伝えたい。是非、海外で活躍する人にはそんな気持ちも持ってもらいたい。」と言うような話をし、これがきっかけになったかどうかは知りませんが、今年から、日本人学校でも、三味線を習い始めたそうで、子供たちが一所懸命練習の成果を見せてくれました。これはとても感激しました。そして、今回の日本の伝統和楽器の演奏会と続き、少しは、私の尺八も意味があったのではと、自分なりに満足しています。

私のイメージした邦楽の演奏とは少し違いましたが、でも、演奏会が終わった後、この若手の演奏家たちと、総領事も交えて団欒し、尺八の演奏についてもあれこれ直接伺うことができて本当に楽しかったです。総領事の奥さんが琴をやられるということで、これまた、将来が楽しみです。

 こうして領事館に行くのは、実は、ここは治外法権の地、普段では口にすることのできない、特殊飲料が極秘裏に飲めるからです。子供たちのいるところから少し離れて、総領事の用意してくれた、これも又、上等なウィスキーから日本酒までありますがこれを楽しむことができるのです。この日駆けつけた日本人の中には、これが目当ての人も少なくありません。酒がまわり、ますます意気投合。先ほどの尺八演奏家の先生は、横山勝也先生の弟子とのことでしたが、横山先生は、私も良く知っていましたのでますます意気投合でした。私が学生のときに世話人の一人になって開催した、関東学生三極連盟主催の「邦楽演奏会」のときに出演をしていただいた先生のうちの一人でした。この演奏会には、勿論われわれの先生である山口五郎先生、先代の青木鈴慕先生、このお二人は人間国宝になられましたが、それに、今でも17弦でご活躍の菊池禎子先生、当時はまだお若かったですね、にも出演していただきました。私より年上ですから、先日テレビで見たときには随分年をとられていましたが。と言うより貫禄十分という感じ。それに、山口先生の奥さんでいらした後藤すみ子先生にも出演していただきました。ここでは、当時芸大の教授で、岸辺百代先生( この方は、われわれと同年輩で、良くわれわれ東大の学園祭には賛助出演をしていただきました。)のお父さん・岸辺先生にも、日本邦楽論のような題で講演をしていただきました。懐かしい思い出ですね。当時、初恋の人が琴をやることを知り、私もいつかは、二人で合奏ができるかな、何とか彼女の気持ちを惹こうと、夢中で尺八に熱を上げていたころの話です。

地方紙だけど、サウジではかなり読まれている新聞に次のような紹介がありました。ちょっと、首をかしげる説明もあるけど、まあ、いいでしょう。

 

Music on a mission: Japanese concert for cultural exchange



A “Japanese Traditional Music Concert” was held at the Japanese Consul General’s residence last weekend in Jeddah. The show, organized by the Japanese Consulate in association with the Japan Foundation, was a treat for music aficionados, who felt the music took them on a journey of their beautiful country.
Matahiro Yamaguchi, Consul General of Japan in Jeddah, welcomed guests, diplomats, music lovers and journalists and introduced Japanese artists, guitarist Masahrio Nitta, drummer Shinta Wadaiko, both of the Wacocoro Brothers, and flute player Akihito Obama.
“Cultural exchange through students is an academic program today. Similarly, we hold such events for cultural exchange between two friendly countries. This is a musical night in the historic city of Jeddah,” said Yamaguchi, adding that the Japanese and Arabic music is similar in many ways because “people of Japan and the Middle East share the same five skills of music that are called ‘Mukamat of music’.”
Nitta of the Wacocoro Brothers is known as one of the “greatest shamisen players in the world.”
He said the Tsugaru Shamisen is a Japanese three-stringed folk instrument resembling a banjo. Originating in China, the Tsugaru shamisen first arrived in the southern island of Okinawa and made its way to the Tsugaru district of the Aomori prefecture in northern Japan — where over the past century it became an instrument known for its flashy, quick-fingered playing style that has stunned audiences around the world.
This was not Nitta’s first visit to the Kingdom. He visited Riyadh in 2011. He began playing the shamisen at the age of 14 and dominated national tournaments by 16.
He has performed in the US and throughout Asia.
The brothers performed live on the occasion of Portland Japanese Garden’s 50th anniversary and in honor of the Portland Art Museum’s Samurai exhibition.
Obama studied various styles of shakuhachi under leading musicians such as Toshimitsu Ishikawa (traditional shakuhachi) and Satoshi Yoneya (minyo folk music shakuhachi). Obama won the Second Annual Shakuhachi Newcomer Competition (2000).
Obama also performs as a solo musician and has participated in various ensembles. He often appears in concerts overseas and has performed in over 30 countries.
The three artists performed together 13 musical lyrics, which include: Yami Gir, Kokiruko Bushi, Tsugaru Jyongara Bushi, Yamagoe, Komuso, Komuso, Cross Road Wadaiko Solo Play, The Theme of Wacocoro Brother, The Red Sea, Shicho, Earth Beat, The Friends Bird, The Eastern Road, Shiraha, and Eco Fuji.
Yami Gir depicts two samurai fighting each other under the moon. Its music is composed by Akihito Obama. Kokiruko Bushi is the oldest folk melody in Japan, while Tsugaru Jyongara Bushi is a famous piece of music mourning those who committed suicide at the river because of their poverty in the Aomori prefecture.
Shinta Wadaiko told Arab news that during their stay in Jeddah the group enjoyed famous Saudi fast food Al-Baik and were in awe of the thobe, a garment traditionally worn by Saudi men.
“It was a great pleasure to play our music in Jeddah, which is a city of diversity, the people of Jeddah love different kinds of music, art and culture as they want to understand each other.”
The group also said they would like to come back and perform for Saudi audiences as well as perform with Saudi musicians to learn Arabic instruments such as Oud and Duff.

危ない! 危ない!

 いつものように、すこし早めにコミュニティーをでて、空港でゆっくりするというのが、ドバイに一日出張のパターンです。毎月一回は海外に出なければならないというので、三か月に二回はドバイにきます。だんだん慣れてきて、図々しくなったのか、この日も、ジェッダの空港で待ち時間が二時間もありますので搭乗の時間をしっかり確認して、仕事に夢中になっていました。ところが、なにやかやと考えて仕事をしていたので、ついうっかり時間の経つのを忘れてしまいました。十分時間はあるという意識だけはありましたが。仕事をしていたら、つかつかとロビーの係りのものがよって来て、「ミスター鈴木。時間です。早くしてください。あと、五分でゲートが閉まります。」という。「えっ。まだ、時間はあるだろう。」というと、とにかく急いでくれと、カウンターに電話をしている。急いで、パソコンをシャットダウンし、ハードディスクを外し、荷物を鞄に丸め込む。こんなはずではなかったのに、とちらっとチケットをみれば、何と、搭乗開始は、一時間前、そして最終案内が、20分前となっている。いつもカウンターで長いこと待たされるものだから、この20分前に行けば十分と考えていたのが大間違い。たしかに、このガイドがなければ飛行機において行かれるところだった。なんの確認をしたのかよくよく考えてみれば、当たり前のこと。でも、こうたびたびドバイ行ばかりで、油断していたのも確か。まったく危ないところだった。これから気を付けます。それにしても、チェックインが済んでいたので、航空会社も必至になって探してくれたのでないかな。感心、感謝、そして、感激の一幕でした。

  

 フライトは、冬の空が比較的澄んでいるのか、サウジの上空はとても山並みがくっきりと映えていて、こんなのは初めてでした。いつもの大型飛行機だと、ファーストクラスは、二階のフロアーで、窓がやや上向きのためか、下界をよくみることができませんが、この日の飛行機は、すでにハジが終わったからでしょうか、ボーイング727かな? やや、小さ目。このため、フロアーは、エコノミーと一緒。でも席は翼のまえで、下界の眺めも最高。アラビア半島の西半分は、低い山並みが延々と続いています。ところどころに、かっての火山の後のような、小さなカルデラみたいな地形があります。その山並みを縫うようにして、ワジがあり、そこに散り散りに小さな人の住んでいる集落があります。多分、その当たりにはいまでも地下水があるのでしょう。そらから、そんな集落をたどってみるのも、太古の昔の水系を思い浮かべることができて、夢が一度にこのあたりにまだ緑が茂っていた頃の世界に飛んでゆくことができます。

 

流石に砂漠の上を飛んでいる時には、なにもありませんから、退屈そのもの。ふと窓のそとを見ると砂嵐かと思うほど、あたり一面が茶色一色の景色です。でも、じっと目を凝らして見ると、これは砂嵐ではなく、砂漠そのものなのです。凹凸もほとんどなし、影もなし、そして、草木の生えている様子もなし。なにもないから、ただ、のんべんと砂原が広がっていて、ちょっと目にはまるで空が曇っているようにみえるのだ。これもまた、初めての経験で、さすがに砂漠とはこんなものかと驚きそのもの。やがて、サウジからUAEに入ると、すこし、雲が出てきます。最初にびっくりしたのは、陸地に道路が走っているように一筋の黒い線が突然現れたこと。しかも、かなり大きな筋で、これは、不思議。ところどころに小さな層雲があり、これにも筋があったので、この筋が上空の雲の影であることが分かった。これが砂漠の上空に走っていたのだ。どこまでも、どこまでも続いている。台地が平坦な砂漠だからその影もなかなかくっきりとしている。なるほどなぁーと年甲斐もなく感心。だんだん層雲の数が増えてくると、それまで雲がほとんどなかった青空が急ににぎやかになってくる。それぞれの雲の、これまた、くっきりと影が台地に移っている。まるで、鏡のようだ。もう少し高い山があれば、この地にも豊かな雨の恵みがあるのだろうにと、やはり自然の厳しさ、神の与えてくれた試練かと、自分一人納得。

 

 そして、この日、ドバイに近づくに従い、もう一つの発見。多分いつもは、海側からアクセスしているのだと思うが、この日のフライトは内陸側からドバイにアクセスした。そして見たのが、砂漠の中にできた小高い山波。あまり大きな山地ではないが、それが、全く禿山の山々。まさしく、アメリカで見た、バッドランドそのもの。かっての台地が雨による浸食をうけて、鋭い起伏にとんだ山並みをここに作ったのだろう。アメリカで見たバッドランドは、台地から、下に下ったところにあり、ここが浸食をうけてできたものであることを容易に理解することができる。が、ここの山並みは周りの台地より高くなっている。つまり、周りの台地がなくなっていることを考えると、ここの方が歴史は古いような気がする。ただ、この歴史が新しい、古いは、何億年かの単位のことで、考えただけでも気が遠くなる。まあ、一人で納得している暇な年寄りの、下司の勘繰り、独り言ぐらいにしておこう。

 一泊で、まことにせわしいが、次の日は、フライトの時間にあわせ、すこし街中を散策。ホテルの近くに はゴールドスークとよぱれる、金の装飾品の店が集まった場所がある。さしずめ、金市場と言ったところ。

 ほとんどがインドの金商人のお店だ。 安いかどうかは判らないが、とにかく、グラムいくらかがオーブンになっていて、後は気に入った商品は重さで販売されている。綺麗な細工をしたものでも、値段は重さ次第。でも、細工をするほどの金を使っているということは、重さもかなりあり、我々の手の出せる金額ではない。ここには、中国から来た団体客が後を耐えない。ドバイにショッピングに来る中国人は金持ち連中だ。お店の中でも大きな声を出して、インド人を相手に値引き交渉をしているのだろう。ごったかえしている。ということは、私も冷やかしで店の中に入ったということ。見るだけで、買わないというのに、とにかく、しつこく付きまとわれる。そんなに金を持っているような格好をしていないのに。でも、結構楽しみました。

 

 

 

 

レナ号の冒険   老人と海 

昔、コンキチ号の冒険なんていう話があったような気がします。

サウジアラビアに経てたプラスチックの技術センターもいよいよ活動開始です。今までは、見学が主でしたが、四月からは、少しずつ講義形式の勉強会も始まります。でも、当初の目的は、サウジに世界一流の技術をトランスファーすることですから、サウジの実情を考えるとまだまだ道則は長いようです。西洋のことわざに、「ローマは一日にして成らず。」と言うのがありますが、将来の、しかも、そう遠くはない将来に、サウジ政府の今の施し政策が破綻することは見えておりますので、そんな言葉は、「コーランにはない。サウジでは、残りは一日しかない。」という感じで、直ぐにでも効果を挙げろということが求められています。住友化学もここが苦しみの始まりのような気がします。その住友化学におねだりし、技術センターの竣工記念にと、ミニ水族館をエントランスホールに作りました。これが、また、なかなかの評判で、サウジには、こうした水槽を楽しむのはそう珍しいことではないのですが、水族館でさえ、つい、最近できたばかりですから、やはり一般庶民には珍しいのでしょう。家庭で楽しむのは王族の遊びぐらいではないでしょうか。その水族館の見栄えの足しにでもなればと、色あざやかなサンゴを期待してボートで紅海に乗り出して、サンゴ礁まで挑戦することにした。

前回の挑戦の時には、初めてで、様子が分からず海岸から数百メートル離れたさんご礁まで行くのに随分苦労しました。最大の原因は、海風とボートの空気漏れ。その空気漏れは一応補修をして、前回、再挑戦したのですが、これがあまりうまくシールされておらず、大失敗でした。そこで今回は、日本からバンク修理セットをいくつか買い込み、念入りに空気漏れを直したつもりです。ところが、これが、空気を入れると直ぐに洩れ始め、30分くらいでボートが縮んできてしまうのです。これではいかんと、さらにガムテープでしっかりと押さえ、よし、大丈夫ということで、今回の挑戦になりました。結果は惨敗でしたが・・・・。

問題の海風は、昼までは穏やかで、凪のようでも、昼過ぎると海風がすこしづつ強くなり、海原では風除けがありませんから、これには前回も随分てこずりましたので、今回は、午前中に出来るだけ早い時間に出かけることにした。

さらに問題は、沖のサンゴ礁は浅いといっても、満ち潮のときには推進が1メートル以上になります。冬の間は水深が深いので、なかなかチャンスがなかったのですが、このところ随分水が引けてきたので、まだ、夏まえですが、今日の挑戦となりました。昨日が三日月でしたし、それに、午前中でもかなり遅い時間ですから、やっぱりまだ水深はかなりあり、結局、今回は、サンゴ礁でボートから下りることができず、残念!、綺麗なサンゴも手に入れることができずじまい。

ボートの空気漏れ対策にとポンプを持参で、空気が抜けてきたらその都度、手で補給するということにしました。最初はまずまずではあったが、ボートで沖に漕ぎ出すと、空気漏れがだんだん激しくなる。20分くらいするとボートが縮んできて、ボートが沈み始め、オールで漕ぐことが出来なくなる。あわてて、ポンプで空気を入れるが、これがなかなかの難問。腕の力で丁度アコーディオンを引くような形で、ポンプを必死に押さえ込む。でも、100キロ近くの人間がのり、水面下に半分沈んだボートの空気はなかなか入らない。やっとのことで、両方のオールが一緒に漕げる程度にボートが膨らんでくれたところで,今度は必死に沖のサンゴ礁を目指してオールで漕ぐ、一回、二回と数えながら、距離を測っていく。空気の抜け具合と競争だ。こんな調子だから、サンゴ礁に付いたときにはもうくたくただ。

そして、先にもいったように、水深がまだまだ深く、結局はボートからおりることが出来なかった。ということは、縮んだボートはやっぱり乗ったままで空気を補充ということになる。

うかうかしていると、ますますボートが縮んでしまうので、波に揺られながら、ポンプを仰ぐが、腕が疲れてきている。太陽は上がり、日差しが容赦なく顔面に照りつける。頭ががんがんしだしたが、のんきなことは言っていられない。陸地はかなり遠くだ、水深が深いためか、サンゴの波返しのところで、小さくはなっても、この時期の波はかなりある。ここで転覆でもしたら大変。早々に退散することにした。が、ボートは縮む。頼りにしていた海風にはまだ早い。ただ、ここまで沖にくると潮の流れが結構あることが分かった。のんびり波に揺られてなんかはいられない。でも、沖にでて初めて、ラービグの石油コンビナートがくっきりと見え、普段は、砂嵐のかなたにかすんだ姿しか見ることができなかったが、海の上は空気が綺麗なのか、これがなかなか壮観であった。

 

このおんぼろボートで悪戦苦闘しているとき、なんと、これを陸地で楽しんでみたいた人がいる、空気を補充したら、潮に流されたボートを必死で漕いで、やっとの思いで、出発地点まで戻ってきたら、若いサウジ人のお兄ちゃんが、陸から、「おい、お前さん。マレーシアから来たのかい。」という。最初はなんのことかわからなかったが。「遭難した飛行機の生き残りか?」と言うので、やっとその意味が分かった。このおんぼろボートで必死になり、やっと陸地に漕ぎ付けたというわけで、先日、行方不明になった遭難飛行機の乗客かと、冗談を言っていたわけだ。「もし、そうだったら、直ぐに新聞社に電話してくれ。」 そして、ボートには、携帯していた食べ物や、小道具を入れた赤いレジャーボックスがあったので、これを指差し、「ほら、ここに、ボイスレコーダーのレッド・ボックスあるぜ。」といったら、これには大笑い。

最後にこんな落ちの付いたボート漕ぎでした。

いんちき、コンキチ号の冒険でした。

                         誠二

 

 

   サウジ人にとって当たり前のこと、

 サウジの大きな問題は、教育だ。昨年、もとジェッダの州知事だったKhaled Al-Faisal殿下が教育大臣に就任し、矢継ぎ早に初等教育の改革に乗り出した。毎週にように現状打開のための施策を法制化し、これで、あと10年もすればサウジも何がしか変わるのではないかと、期待した。サウジの現状を見ていると、ここに大きな弊害が潜んでいることは明白だ。ただ、これがなかなか政府が狙っている、日本の維新のような改革がすすまないのには、もっと深い理由があるような気がする。誰もが気づいていて、これが、タブー化しているのでは、・・・・。傍から見ていると、なぜかそんな構造が目に浮かんで来るのだ。

 サウジでは、公立学校がもちろんある。ただ、子供たちが通う公立の学校の中身が悪い。先生も質がわるければ、また、親も教育熱心ではない。なぜかって? サウジでは、学校ではろくな勉強を教えていないようだ。大人になっても足し算、引き算の出来ないのは当たり前。学校で何を教えたって、親が「そんなことを学んで、何になるんだ。そんな勉強をするより、サッカーでもやって体が丈夫なほうがよっぽどましだ。」 「良い大学でたって、ろくな職業がないだろ。大体、勉強しなくたって、大学にいけるんだから、なにも苦労して勉強することはないだろ。それに、へんな知恵がつけばろくなことを考えない。子供は黙って、親の言うことを聞いていればいいんだ。」 こんな調子で、みんな大学にいき、また、毎年、何万人かの学生が、勉強が目的ではなく、仕事がないから、英語の勉強と称して海外に留学する。そして、大学を出ても、ろくな知識も、技能も持っていないので、まともに働けない。なのに、希望は、好きなときに好きなだけ、休むことが出来るし、また、給与も高い、「役人になりたい。」 さもなくば、「在宅勤務で、給料は、5000SR欲しい。 」 こんな虫のいい話をしているから、失業率が極めて高い。政府は若者の失業率を発表しているが、これが真っ赤な嘘。労働局のごまかしだ。それは、失業保険の支払い額を見れば容易に仕組みがばれる。なにしろ、月に3,000 SRがでるのだ。実は、この高い失業率を解消するために、政府は、雇用のサウジ化を推進している。(サウダイゼーションという法があり、どの企業も、ある一定の割合でサウジ人を雇用しなければならない。)だから、中小企業では、安い、アジア人の出稼ぎを雇うためには、名目でもサウジ人を雇っている。別の仕事の出来ないサウジ人には会社にきてもらわなくてもいいのだ。これが、サウジ人の言う、「在宅勤務」という名の、名義人貸しの就職だ。政府は、失業対策のために、サウジ人に技能を身につけさせようとしているが、製造業が発達していない、仕事はしない、技能は持っていない、だから、結果的には非常に高い賃金になる 、そんなサウジ人が職業訓練の学校に言っても、大半は途中で挫折する。そして、また、大学の数を増やして、高等教育に力を入れる。否、入れている振りをするのだ。失業対策として、政府はこんなにも金をつぎ込んでいると、言いたげな役所がある。でも、これは、なんの解決策にもならない事は明白だ。子供のころ、学ぶことを体で覚えることのないサウジ人のわかものが、大学でいくら技術訓練(?)をしたって身につく筈がない。だから、大学での進学は、8割が文科系。残りの20パーセントが技術系と言っても、そのほとんどが医学系だ。この人たちは、やる気も十分で、将来は海外で医学を学んで、サウジに戻り、高給取の道が開ける。そしてわずかに5パーセント程度が、技術系だということ。これでは、優秀な学生が集まるわけがない。これが、工業化を目指す、技術革新に力をいれるサウジの若者の実態だ。

でも、だれもが、この矛盾には気がついているようだ。でも、これに手をつける人がいない。なぜか? 問題はここにある。政府の中には、若者に下手に知恵をつけるのを嫌うグループがある。これは、サウド政権の樹立の歴史にもかかわる。つまり、サウジは、サウド家といすらむ・ワッパーフ派との連合政権なのだ。そして、政治はサウド家、宗教はワッパーフ派が仕切っているのだ。サウド家がサウジを支配できたのは、ワッパーフの力によるところが大きい。だから、サウド家はこの宗教の力を無視するわけにはいかないのだ。そして、この宗教は、サウジの若者が目覚めることに大変な危機感を持っている。「何故、石油の収入がサウド家のものになるのか。」 「施しが最大の慈善とするイスラムの世界。これはサウド家の恵みだ、と所得税はいらない、病院、学費が只。そんないい国は、イスラムのおかげだ。」と信じ込んでいる。これに疑いを掛けるわけにはゆかない。疑いを見破るためには、モスクがいい踏み絵だ。断食もいい仕組みだ。隣の人がどんなお祈りを唱えているのか。お祈りの言葉なのか。呪文なのか。シッカリと断食をしているのかどうか。何しろ一ヶ月も続くのだから。これをお互いが監視していなくてはならない。五人のうち三人は秘密警察という社会がこうして出来上がる。こうした人たちに都合のいいのが、頭の悪い、何でも政府のやることをありがたいと信じている大人だ。子供たちもそんな大人になって欲しい。だから、初等教育はほどほど。そして、誰もが大学にいける仕組みをつくり、大学で勉強をすればよい。何も基礎のできていない大人が何を勉強するというのだろうか。こんな若者時代をおくので、働く気もない、彼女を作る気もない、そして、親にも感謝の気もない、周りの社会につしてもルールを守る気もない、そんな国民ができあがってしまう。

 結婚について

 サウジの若者が、好きなも同志で結婚することは難しい。基本的には部族内で相手を見つけることが通例のようだ。とにかく、年ごろに男女共学ではないし、若い男女が一緒に行動することなど認められていないから知り合うチャンスもない。では、どうして結婚相手を見つけるかといえば、叔母さんがいい人を紹介してくれるのだそうだ。つまり、顔の広い、やり手のおばさんが仲人さんと言うわけだ。身内の立場に立ってくれるし、相手の素性もよく研究するのだろう。部族内での両方の家庭の立場もよく見てくれる。そんな叔母さんの話であれば、両親も信用するし、また、御本人たちもまず間違いなしという事か。日本のお見合いよりももっと確実かも知れない。

 イスラム教の場合には、奥さんを4人まで認められている。もちろんこうした背景には、イスラム教の生まれた背景よりも、この社会の生まれた背景にあるように思う。いまだに部族社会であるし、部族の結束がなによりも大事。一昔前までは、部族間の争いが絶えなかったし、男性は部族を守るために戦いにでるのが仕事。となれば、戦闘で命を絶つ男性も多くなる。そんな社会だから、どうしても男女の比率がバランスとれない。それに、部族・血族の勢力を保持していくためには、部族の数が少なくては生き延びてゆけない。少ない男性と、次の世代の若者が必要ということになれば、一夫多妻となるのは必定。という事で経済的に余裕のある者は、むしろ世間体よりも、部族のために複数の妻を娶ることがノルマのようにさえ思えてくる。一時の日本でも、また、中国だって、子供を産めよ増やせよが国策になっていたことさえあるのだから、統治者もいい加減なものだ。

 経済的に余裕のある人は、屋敷も広い。核家族化が進んでいる日本からすればどけだけ裕福なのかは想像もつかないような家がたくさんある。これなら奥さんが四人いても、何ら問題がないような気がする。もっともよく聞けば、奥さん同志が姉妹であることも珍しくないとのこと。つまり、彼女たちにしてみれば、夫は共有物くらいの感覚かもしれない。

 よく、出張で飛行機を利用するガ、空港などで出くわすこちらの光景。ひとりの男性に同じような年恰好の子供が数人いる。しかも、女性がそれに2人も3人もついていることがある。中には、明らかにメイドさんという女性もいる。そんな家族がファーストクラスに乗っているのである。これが当たり前の社会なのかと思う。

 でも、人口が急激に増えている最近の若いひとは、物価もあがり、また、失業者もおおく、複数の女性を妻にするのは、厳しいらしい。大都市に人が集まり、土地が高騰し、大きな敷地も手に入らず、経済的な理由によるのだそうだが、これが、世の中が平和になってきた証かもしれない。

結婚について、こんな話がある。こちらの若者はほとんど無試験で大学に行く。しかし、大学でもあまり勉強することはない。勉強する必要もないようだ。卒業しても、つきたい職業の公務員の採用はとてもきびしく、かといって大学を出て失業では恰好がつかない。そこで、海外留学をする。アメリカ、イギリスに、そして、オーストラリアなどが人気のある留学先のようだ。こうした国には、万単位の学生が留学する。男女共学でもない若者が、留学先の国で、世の中が自分たちの教わってきたことと随分違うことに気が付く。そして、部族の古い伝統やしきたりに縛られていたことに気づく。男女の付き合いもそうだ。とりわけ、異国の国で故郷を同じくする者同士、サウジ人同士が知り合えば、急速に親しくなる。ある男女が医学の勉強のためにアメリカに渡り、そこで知り合い、そして恋人同士になり、結婚しようと約束した。そして、留学がおわりサウジに戻って、若い男性が親に結婚の承諾をお願いしたら、親は許してくれない。息子が同族以外の女性と結婚する等もってのほか。親戚のものもそんな二人の結婚式には出ないとのこと。これでは二人の結婚が幸せである筈がない。そこど、その青年は結婚することができず、自分は、家族や親せきの考えが変わるまで、彼女を待つことにした、とのことである。

 これが現実なのかもしれない。女性の解放問題にしても、結婚問題にしても、古いしきたりから抜け出すのは容易なことではないし、社会の通念が変わるには時間がかかる。しかし、人の気持ちにはその時間が待てなくなることもある。それが、社会不安につながらないうちに解決しなくてはならないのだろう。

 

男も女もホモが多い

 

これが一般的と言うのは、少し危険かもしれないが、我々と一緒に働いていた企業での話。Aramcoとの合弁会社であるからここの従業員は、一般の人とすれば、やや知的レベルの高いサウジアラビア人と言えるのではなかろうか。そこの食堂で見た光景。職場には女性はほとんどいないし、また、いても、女性が社員食堂にきて食事をすることは滅多にない。彼女たちは、男性とテーブルをともにしてはならない。また、他人同士で男女が一緒の部屋で食事をしてはいけないというしきたりがある。だから、どうしても男性同士が和気藹々と食事をすることになる。ここまではいいのだが、でも、此方では、食事に来るときによく、男性同士が手をつないで仲良く話をしながら食堂にやってくる。もちろん、若い者の場合だけだが。この光景になんとなく違和感を覚える。確かに、日本でも、二十歳くらいになっても女性同士が仲良く腕を組んでいるのはよく見かけるが、此方は、男性同士がそんな雰囲気で人なかで当たり前のように歩いている。仲が良いのは誠にけっこう。仲間意識はこうして向上していくのかもしれないが、職場でこれはちょっといただけない感じ。日本ならさしずめ、あの二人はホモではないかと思わせる。複雑な気持ちになった。

 

老人と海  第二弾

イエメンでテロが発生し、内戦状態になり、サウジを筆頭にアラブ諸国が軍事介入に兆しを見せて、少し雲行きが怪しくなって来ました。軍事的な支援をしているアメリカがテロの標的となり、アメリカ大使館、領事館が機能停止の状態。そのアメリカの大使がイエメンに入るのに、ジェッダ経由でとのことで、ジェッダの町が厳戒態勢に入っています。

とは言っても、サウジはイスラム世界の盟主国として、メッカとメジナの二聖都があり、ここに毎年二百万人をこえる海外からの巡礼者がありますから、平素からいつ何があってもおかしくない状況です。それでなくても、海外からの労働者の入国は何百万人にも及びますから、国中に三国人が多種多様の世界を作っているのです。われわれの住んでいるラービグの町も、中国人、韓国人、インド人、パキスタン人、バングディッシュ人、フィリピン人、スーダン人、そのほか、アフリカ、中東の国からの出稼ぎ労働者が玉石(?)混合状態です。彼らは、もちろんラービグの町では、夫々の国の人たちは、助け合っているといえば聞こえは良いのですが、わが身を守るためにはいつも集団で行動を共にしています。こんな状態ですから、少しの小さないさかいも、個人同士の争いが、グループ同士の諍いとなり、それが、国同士のにらみ合いとなるのは、当然のことです。これが、日常茶飯事、毎日、どこかで、某かのいざこざがあるのです。多国籍の社会と言うのは、一触即発、そんなことが当たり前なのですね。

 住友化学のわれわれは、そんな多国籍の社会で生活した経験が乏しいので、せいぜい治安のよい海外に旅行に出かけたぐらいの感覚ですが、会社のほうは、そんな感覚の社員になにかあっては大変と、大変な気の使いよう、世話をしてくれています。でも、その面倒にも限界がありますので、結局は、決められた居住区の中にじっとしているより他に手立てがありません。

 こんな社会での生活ですから、仕事がうまく言っている間はまあ、何とか精神的にも問題はないのですが、現地人との意思疎通がうまくいかなかったり、仕事が思うようにはかどらなければ、それこそ、ストレスが溜まるなんてもんではありません。まさしく、ノイローゼ寸前の状態でこちらの生活をするようになるのです。特に、若い、前途があると信じている人たちは、このような状態に陥りやすいのでしょう。まったく、出口のないトンネルとはよく言ったものです。せめて、「日本の石油の安定確保のために働いているのだ。」くらいの開き直りで、自己暗示をかけないとやっていられないでしょう。

イエメンの紛争が起こる前は、そんな憂さを晴らすのに、サウジの西海岸をあちこちドライブするなんてことを、密かに楽しんでいましたが、さすがに新聞でも仕切りに戦闘状況が耳に入るこのごろでは、それも、「万が一何かが起これば、言い訳のしようが無い。」ということで、ここは暫くじっとしていることにしています。でも、ストレスは溜まりますから、陸は危ないけど、海ならいいだろうというわけで、最近魚釣りに挑戦しています。我々の住んでいるコミュニティの前に紅海が広がっていますから、ここで、大海原の魚を釣ろうというわけです。と言っても、大物を狙うのではなく、さんご礁で出来た内海の海岸べりの小魚をと思っています。そして、釣り上げたら、住友化学にねだって設置した水槽に入れようというわけです。釣り道具は、先日、帰国した時に揃えて着ました。こどもの頃、ふるさとの家の近くを流れる狩野川で良く釣りをしましたので、要領は分かっていますが、海釣りは、ほとんど経験がありません。敢えて言えば、学生時代、東大の外洋研究船「白鳳丸」に乗ったとき、恋に破れて失意の気持ちでとおく日本に思いを寄せて船べりから、麻の荷造り紐に針金を曲げて作った針をつけ、これを下げて外洋の魚を釣り上げた思い出があります。そのときには餌なんかつけなくたって、外洋の魚は、なんにでも食いつくという感じで、良く釣れたものです。そんなことを思い出しながら、釣り糸を海に垂れたのですが、ここは素人。針や浮きのつけ方、さおの扱いなど、もたもたしどおし。そしたら、近くにいた子供が、こうやるのだと親切に教えてくれました。そして、教えられたとおりにやったら、なんと、魚が釣れたのだから、不思議です。「お前は、魚釣りの先生だ。」と誉めると、途端に得意になり、あれこれと指導をしてくれました。リールを使っての投げ釣りの仕方。私のえさは、食事の残りの冷凍えびです。彼のえさはパンくず。私のほうが直ぐに釣れたので、彼は、このえびの餌にとても興味を持ち、自分にも分けてくれというわけ。もちろん、先生だから、何でも上げると、と返事をしたら、今度は、私の釣り道具箱のなかを覗き、針がほしい、浮きもほしい、ということになり、もう、全くの友達づきあい。魚のほうは、この日三匹をゲットしました。が、吊り上げた魚は、バケツのなかに二時間くらい入れておいたら、急に元気が無くなり、結局、その日の晩にみんな死んでしまいました。水が悪かったのか、あるいは、海の水が少なかったのか、餌が無くなったのか、それとも、何か他に原因があるのか、などなどいろいろ考え、次回には、何とか生きた魚をゲットしなくてはと、考えあぐんでの一週間を送りました。

そして、結論は、きっと水中の酸素が不足したのではと言うことに。そこで、会社にあった水槽用の空気ポンプをアパートに持ってかえり、今度は釣り上げた魚は何とか生きた状態で、会社の水槽まで運ぼうとの作戦です。

さて、作戦実行。と言うわけで、今週もまた、魚釣りに出かけました。前回は夕暮れの涼しくなってからでしたが、今回は、すこし張り切っていたのと、何とか自分の思うとおりに、一人で釣りを楽しみたいと思い、(そうです。フロリダのキーウェストに言ったときに、ヘミングウェイの「老人と海」の話と出会ったことを思い出しました。)まだ、釣り人の出ていない、真日中に、海に出かけていきました。やっぱり、その時間は私一人。つまり、目の前に広がる紅海。その向こうには、エジプト、スーダンがあるはずでが・・・。そんな海を独り占めの世界を味わうことが出来ました。さわやかな海風にあたりながら、やっぱり魚はほとんど居ませんでしたが、そこに釣り糸をたれて、浮きが波の寄せるままにぷかぷかと揺れて流されているのをぼけーっと見ながら、魚の連れない釣り人気分を、二時間くらい楽しみました。

 そんなことをしながら、あっちにいったり、こっちに来たりで、あれこれ挑戦し、大分、釣り人の要領も分かってきたのでしょう。苦心の末、選んだ場所で、釣り糸をたれると、その瞬間魚が食らえつくのに出会ったのです。こうなると、今度は 欲が出てくるのですね。大きい魚は、二十センチくらい。でも、水槽に入れるには、数センチで十分です。小さな魚は、もっと浅いところに居るはずと、針の深さを調節し、小さな魚が食らえつくには、餌も小さなものでなくてはいけない。あれや、これやと挑戦してみると、釣れる、釣れるの状態。中には店で売っている熱帯魚のような綺麗な縞模様のついた魚も出てきた。そして、アットいう間に、数匹が釣れた。釣り糸をたれると直ぐに魚たちが集まってきて、餌の取り合いをしているのが、透通った海水の下に見ることができる。これも、また、楽しい。あわてものの魚、どん臭い魚。欲張りの魚、やんちゃな魚。魚にもいろいろあるにちがいない。私の釣り糸に引っかかるのはドンナ奴かな、なんて考えながら、これは魚との知恵くらべみたいなもの。

 ところが釣り上げた魚をバケツの中に入れておいたら、やっぱり、何匹かがおかしくなってしまった。そこで、急遽、釣りを引き上げ、早々にアパートに。あわてて、空気ポンプで、酸素を供給してやる。こんな具合で、何匹かは、今でもまだ元気に泳いでいる。さあ、果たして、彼らは元気に水槽に入るまで頑張ってくれるかな。

一晩、エアーポンプで空気の供給を十分にしたせいか、翌朝まで元気に泳いでいた。これならと、もう一度、海水を真水に換えて、と言っても、こちらの真水はもともとが海水ですから、それほど違和感はないはず。こんな勝手な推量をして、空気の供給だけには注意をしながら、バケツにいれ、会社の水槽に移すことまで成功。

ところが、こうして海の魚を入れたら、もともと水槽のなかでのんびり遊泳(?)していた魚たちは、新参者が来たというわけで、しばらくパニック状態。あーっ、これが多国籍社会かな・・・・。なんて馬鹿なことを考えて、少し自己満足をしている状態。

また、来週も挑戦するかな・・・・・。

 

熱帯魚と戯れる

エイド休み、こちらの正月休みのようなものです。長いラマダンの断食の後のお祭りです。たくさんものを食べ、町のあちこちではフェスティバルで大騒ぎです。こんなことしか市民に楽しみは無いのかと思うようなところもありますが、すべてが政府主導を執り行われますから、仕方ないのでしょうね。

 私は、休みでも頭の中は仕事でいっぱいですので、少しも正月気分はありませんし、休みもポケッとしていたら、本当にボケてしまうので、適当に会社に出ることにしています。

とは言え今回はじめて、二日の休みを取りました。自分では静養するつもりでしたが、休みの前にパソコンのトラブルがあり、それどころではなくなりました。とにかく、本社から支給されたパソコンは安全対策と言って、頻繁にパスワードを変えるのです。しかも、業務上、二つも、三つもパスワードが必要なのです。それでなくても、会社には100台近くのパソコンがあり、自分で使っているパソコンもいつも数台を動かしていますから、どのパスワードがどのパソコンのものだったのかを覚えているのがやっとです。そんな状態で、先日、偏向したばかりのパスワードを間違えて入力してしまい、結局、パソコンがロックされてしまいました。

このロックを外さない限りは、本社との連絡がすべて閉ざされてしまいますので、大変なことなのですが、あいにく、土曜日に問題が起こり、これから本社が連休に入ってしまい、結局全くのお手上げ状態。じっとしていると自分に腹が立ち、いらいらが募るばかり。

と言うわけで、休みの日は、また海に出かけました。先日も大潮だったのか大変な遠浅で、沖のサンゴ礁まで歩いていき、外海の魚釣りを楽しんできました。が、結局、釣った魚はレリースしますので、今回は魚釣りはお預け。そのかわり、少しリハビリもかねて、水中散歩をすることにしました。内海の少しばかり深いところで、海水浴をしようと言うわけです。これまでは余り海にはつかりませんでしたが、今回は思い切り、巣もぐりをして根ってい魚の観察をみようというわけです。いつものように一人での水遊びですが、やっぱりたくさんの熱帯魚が歓迎してくれました。浅瀬でも、元気のよい魚が群れをなして回遊しているのです。そして、背の立つほどの深さですが、さんご礁の岩の影を除いてみると、そこには、色鮮やかな熱帯魚が悠然と泳いで、見慣れぬ侵入者をにらんでいたようです。また、枝珊瑚の岩の間には、小さな熱帯魚たちが、彼らは天敵から身を守るためでしょうか、珊瑚の枝の間に入っては出、出ては入っていくのです。黒い地に黄色の筋模様はなかなか見ごたえのある魚でした。

 今回は初めての巣もぐりと言うことで、準備も十分ではなかったのですが、意外と簡単に、そして、身近なところに熱帯魚をたくさんみることが出来ましたので、次回はまた少し工夫をして、もっと違った色のものや、形のものを求めて、楽しんでみようかと思います。

なにせ、海の塩分が高いのか、なかなかもぐるのに手をやきます。体が直ぐに浮いてしまうのと、海水が塩っパイのです。それに、日に焼けると後のひりひりがかないません。まあ、それでもウェットスーツまでは凝りすぎですよね。

 

 

 

    

 

 

中東の平和はいつ来る

  ラマダンは、ヒジュラ暦で9月のことだ。この月に彼らは断食をする。太陽が昇っている間は、食べものを口にすることが出来ない。水さえも飲まない。極端に言えば、つばも飲み込んではいけないといわれている。なぜ、こうまでして断食をするのかと不思議に思うのだが、しかし、彼らはこの断食のあと、つまり、太陽が西に沈んだあとが、毎日、宴会なのだ。精神修養と、健康のためには断食はとてもよい習慣であるといわれている。がしかし、空腹に耐えたあとの食欲はまたすごい。夜の夜中まで家族、親戚があつまり、ドンちゃん騒ぎだ。モスクでは、裕福でない人たちに寄進で作られたご馳走が振舞われる。こうした施しもまた、イスラムの世界では大変徳のある行為として高く評価されている。平和を願い、幸せを願い、これだけ真剣に断食をする彼らで、サウジではまことに平和だなと感ずるのだが、しかし、こと、目を隣国に向けると、ガザ地区では、イスラエルとパレスチナが激しい戦闘をしているし、シリアでは、シーア派とスンニ派の政権争いが、そして、アフガニスタン然り、パキスタン然り、目をアフリカに向ければ、スーダンが、ナイジェリアが、アルジェリアが、リビアがというように、いずれの国も内戦状態だ。テレビのニュースにしても、また、アラブニュースというサウジの有名な英字新聞にしても、どこもかしこも、戦場の悲惨な犠牲者の情報ばかりだ。学校や病院までも標的にされて、子供たちの犠牲があとを絶たない。しかし、生きるか死ぬかの戦いをしている人たちに、学校や病院を攻撃するなと言うのはお門違いかも知れない。女子供たちを楯にして、敵がそこを拠点にしているとも限らないからだ。ラマダンだから、この月は戦闘をやめようという話しもあったようだ。兵士も「腹が減っては戦が出来ない」というところか。士気が上がらないからかも知れない。しかし、ある日のアラブニュースに、『Badrの戦い』という記事が載っていた。これは、かってサウジの歴史的な戦いで、この戦いに勝ったことが、今のサウジの繁栄につながっているし、いかに誉れの高いものであったかと紹介されていた。サウジでは、このラマダンの月にいくつかの大事な戦いで、偉大なる勝利を収めてきたとのことだ。まるで、空腹でも、精神さえしっかりしていれば、つらい戦いにも勝てると鼓舞しているかのようだ。

ガザ地区のニュースだと思うが、テレビで砲撃だ崩れたビルの下から、犠牲者が次々と運び出されて来る。瓦礫には難を逃れた子供たちがまだ使えそうな家具や死人のつけている貴重品を漁りに来ている。そして、数人の若者がまるで戦利品をせしめたように車いっぱいに家具や絨毯をつんだトラックで引き上げていく。その横で、血まみれの子供を抱えて声高に、泣き声で相手をののしっている老婆の顔が大写しされる。こんな映像が流れていた。これがいま中東で起きている戦闘の現実なのだ。どこの戦いでも、似たり寄ったりではなかろうか。戦争の指揮をとっている指導者たちは、一体何のためにこんな人殺し、弱いものいじめ、そして、憎しみしか持たない犠牲者たちを生み出しているのだろうかと、いたたまれない気持ちになる。平和な国にいて、死の危険(  事故や寿命は別として ) のない国で、戦争反対を口にしても、また、平和のためと称して他国の戦争に介入したとしても、それが一体何なのかと疑問に思わざるを得ない。もてる国が、毎日が生きる延びるための日々でしかない国々、そうした国にイスラム教が普及しているというのも不思議な気がするが、戦争をやめさせようと国連で議論しているが、どうしようというのだろうか。宗教が貧困を基盤にしていることと考えれば、つまり、イスラムの国々は、いままさに貧困との戦いをしているといえるのではなかろうか。彼らを貧困から救うために、なにをしなければならないか、それが、先進国のなすべきことではなかろうかと思う。 アパートの外から今もコーランを読み上げる祈りの言葉が流れている。アラビア語で何を言っているのかは分からないが、これがサウジの国中に一日の数回流れている声なのだ。平和ボケした国からサウジに来て、つらつら、自分たちの生きてきた人生、敗戦から復興、そして、今の繁栄を築いてきたものが、一体何のためだったのか、疑問に思う次第である。

毎年、2百万、3百万という巡礼者の訪れるイスラム教の盟主国であるサウジでさえも、見た目は政情が安定しているかのように見えるが、国王が既に90歳をこえ、また、皇太子でさえも、80歳を超えている。この国は、石油でえた資産を施すことによって、そして、イスラム教を厳格に守ることによって、今のサウジアラビアが成り立っている。しかし、この施しが止まれば、サウジは隣国同様、またもとの貧困の国になってしまう。そうならないように、サウド家は、国民に対し、労働に勤勉になるようにと躍起のなっている。安い原油を餌に、海外からの企業の誘致をし、仕事を創製して、サウジの若者に自分たちの力で生活費を稼ぐようにとの思惑だ。しかし、彼らは、働かなくても食べていけるという今の世の中の仕組み、甘い汁を存分に味わっているのだ。だから、いくら仕事を作っても、働く意欲が薄いのだ。働くことを美徳とは思わない国民の姿勢はそんなに甘くない。

こんな国で、若者に技術教育をしていこうというのは、並大抵の苦労では成果が上がらないだろう。

見事、北京の夜景

 

これまで、何度か成田―ドーハのフライトは経験したのですが、カタール航空の提携先がANAからJALに変わったためか、この日のフライトは成田―北京―ゴビ砂漠―アフガニスタンーペルシャ湾―ドーハというルートでした。このルートは依然はドーハから成田に帰る時のルートで、フライトの時間がアフガニスタンで夜があけ、そのあとは、存分に眼下の景色を堪能できる素晴らしいものです。ところが、帰りにこのルートになると、全くの夜のフライトで何も見えません。それでも、町の明かりはどこでもまばゆいばかりに輝いていますから、長いフライトは、酒をのんで眠くなるまでが、退屈凌ぎの時間となります。

そんなわけで、できるだけシートは窓側にとり、町の明かりと地図を見比べながらその地に住む人たちの生活を想像したりしています。

 この日のフライトは、成田を出た途端、東京―甲府―岐阜―石川―日本海と進んだのですが、甲府あたりから乱気流の中に入ったのか、ものすごい揺れに見舞われました。冬の上空は高気圧のなかでも北風が吹き、陸地の上のフライトは気流が乱れ、揺れがひどいことは理解できるのですが、先日、韓国からダラスに向けての飛行機が乱気流に遭遇し、どこかの空港に緊急着陸し、大変な騒ぎになったということがニュースにありましたので、かなりドキドキしましたが、もうすでに機内に入ってしまえば、あとは機長と運を天に任すしかないとの思いで、じっと座席で目をつぶっていた次第です。でも、日本海に出てしまえば、さすがに飛行はきわめて安定、爽快でした。

 やがて、中国大陸に入ると、まだ、夜中前ですので、海岸線から、内陸への工業地帯なのでしょう。これは、また、見事にイルミネーションの世界が展開しています。中国の発展は目覚ましく、これからもまだまだ世界の経済のなかでその役割を増していくに違いありませんが、でも、私にとってはなんといっても感慨深いのは、この地が私の生まれ故郷であると言うことです。フライトは北京の上空を避けるように、いったん北に進路をとり、そして、西に向かいます。それだけに、窓からは、北京全体の夜の光景が見え、この町の大きさに驚かされます。もう、夜も更けネオンも消えたのか、色とりどりというわけではありませんでしたが、それでも、張り巡らされた道路網、そして、繁華街の明かりは見事です。中でも、何と言っても壮観なのは、かってに想像しているのですが、天安門広場から、紫禁城にかけてのイルミネーションです。ライドからでしか確認できませんが、町の明かりよりもひときわ煌煌と夜空をてらし、中国の威厳を誇っているような感じがしました。私が生まれたのは、その近くの東単というところだそうですが、そんな思いが浮かんできただけでも、この町に親近感を覚えます。すでに、15年も経ちますが、住友化学を退職する時に、その記念にと、北京を訪ねたことがあります。その年が、ちょうどマカオの返還の年で、八達嶺の万里の長城では、全国から集まった軍の若者たちが、長い長城を埋め尽くすほどに、それぞれ所属する部隊の大きな旗を風になびかせ、太鼓や銅鑼を打ち響かせ、民族衣装を着て踊りまくり、自分達の士気を鼓舞していたのを思い出しました。

勿論、夜の光景では、その長城を確認することはできませんでしたが、このあたりから、果てしなく西にとつながっていくのかなと、いつか、それを空から確認できたらなと、また、夢が一つ増えたような気がします。

 もちろん、フライトはそれから、西へ西へと進むのですが、夜のフライトでは、黄河の流れを確認することも、また、三国時代に、諸葛孔明が活躍した蜀(?) の地も見たかったのですが、これはかないませんでした。

 

 そんな風に夜の中国を楽しんでいるうちに、うとうととし始め、長い眠りについたと言う次第です。 このフライトでは、もう一つの発見がありました。

 

 それは、私の隣に座った客が、アフリカ人でした。話によれば、彼は、今からナイジェリアに行くとのこと。ビジネスかと尋ねたら、嫌、自分は今日本に住んでいて、ミュージッシャンだと言っていました。アフリカの音楽のシンガーで、時々はテレビにも出ているとのこと。いまは休暇で里帰り。一か月のナイジェリア滞在だと。日本は素晴らしい国だが、冬が寒くてかなわん。だから温泉が大好き、箱根に行ったよ。などなどと話をしながらの楽しい会話で時間をつぶしました。ドーハがハブ航空のおかげで、こうした、さまざまな人たちと巡り合えるのも、これもまた、旅の楽しい思い出です。

 

野口先生が教授になった

とてもうれしいニュースが日本から飛び込んで来ました。私がもうかれこれ20年も前に、住友化学でトヨタを相手に樹脂の市場開発をしていたときに、清水建設と共同で発明した樹脂型枠というのがあるのですが、この型枠を使用して新しいコンクリートの品質管理手法の研究をしていた東大の工学部の野口先生が、教授に就任されました。まだ、かなり若い先生ですが、この先生の成果が、昨年のコンクリートに関する国際学会で、大賞に輝きました。こうした業績が認められ、今回の大栄進につながったと思っています。

実は、樹脂型枠を使用するだけでは、たいしたことはないのですが、先生のアイディアで、この樹脂型枠に特殊なセンサーを取り付けたのです。このセンサーがものすごいのです。このセンサーを開発したのはパナソニックをスピンアウトした人のセンサー専門の小さな会社ですが、この人が凄いんです。九州から東京に出てきて、昼間先生のところで会議をして、先生からいろいろな注文がでるのですが、そのアイディアをどんどん取り入れて、帰りの飛行機のなかで、回路を書いてしまうんですね。先生は、「こんな物があれば役に立つんですが」とか、「ここは、こんなデータが必要なんだよね」と、たった一言、二言喋る程度。専門家でもない彼がなぜそれだけで、センサーのイメージが浮かぶのか、こちらはただ驚くばかり。というのも、一週間もすれば、そのセンサーが出来上がり、その評価ができているというわけです。勿論、センサーの開発が目的ではありませんが、こうした、現象を感知するセンサーがこの人だけにしかできなかったところが、先生の幸運であり、かつまた、そのセンサーが学問的にも十分な働きをしているのですから、驚くばかりです。(研究っていうのは、こうした補助的な器具をどうやって見つけるかも大きな飛躍の種なのでしょうね)

樹脂の型枠を使用するメリットは、実はこのセンサーの取り付けに非常にコストがかかります。素晴らしいセンサーでも手作りしている段階ではとても採算に合うようなものでありませんから。数を増やすことができませんので、コストを安くするには、これを何回も使用しないと経済的には、学問の領域での絵に描いた餅になってしまうのです。そこで、私たちの開発した樹脂型枠は、今でも実用化されている唯一の樹脂型枠であるし、また、数十回の転用使用ができますから、高いセンサーをつけても十分に元が取れるというわけです。それに問題は、このセンサーは今でこそ、スチールの型枠にもとりつけられるような物ができていますが、当初は樹脂の型枠でないと機能が働かなかったので、われわれの樹脂型枠が先生の研究の大きな推進力となっていました。

学会で大賞を受賞した理由の一つは、この樹脂型枠を使用すれば、環境にも優しいといううたい文句が効したようです。私が計算した、この型枠を使用することにより、炭酸ガスの排出量が削減され、地球環境に易しい型枠であるということも大きな反響を呼んだようです。学会でこうしたことに言及するには、それなりの学問的な裏づけが必要のようですが。この炭酸ガスの排出量の計算をするなかで、私が思いついた木の成長速度を予測する式が、それまで、学問的に認められていた植物の成長速度を式で表したものと酷似していましたので、データこそ十分ではありませんでしたが、この式があったことも、それなりの意味があったのではと自負しています。

このセンサー付きの樹脂型枠を使用した、コンクリートの品質管理手法は、これまで建築業界で、60年以上もの間、これしかないという形で実施されていた手法を変える画期的な手法なのですが、先生は、この手法を法制化しようと意気込んでいます。普及されるのはこれからということになると思いますが。

自分の開発した製品が、こうした形で世の中の新しい産業技術の発展のために貢献できるのは、まことにもってうれしい限りで、ついつい自慢ぽく書いてしまいましたが、私も先生から共同研究者の肩書きをもらっていますので、このくらいははしゃいでもよいのでは思います。

 それにしても、面白いと騒いでいる間は、われもわれもとその事業に口出しをしてきて、自分では何も動かず、思いつきだけでビジネスの構想ばかり描き、だんだん旗色が悪くなると、今度は金の計算ばかりをして、会社の業績に貢献していないと判断し、さっさとその事業を整理してしまうという、どこかの大会社のやり方がいかに、多くのビジネスのチャンスを逸してきたか、20年も経ってから、痛切に感じられる一件だ。

 3 月の17日に教授就任の祝賀会が東京で開催される。これには、野口先生の指導教官の友澤先生も出席されるようだ。この先生は、私の沼津の東高校から同期で東大に入学した市川君の先生でもある。是非、野口先生の業績をたたえる会でもあるので出席したいと、今から、出張の準備をしている。うまく時間が調整できればよいが・・・・。

 

老人と海 第三弾

 

もう、四月ですね。アット言う間に新学期が始まったようです。一年の1/4が過ぎたわけですから、悪戦苦闘の毎日を続けていますと、毎日が本当に短く感じられます。日本からは桜の便りがあちこちから聞こえてきますが、その度に、四季をどんな気持ちで受け止めて居られるのか尋ねたくなります。

このところ、リヤドやジェッダのサウジの大都市だけでなく、ドバイまでもサンドストームの被害にあっています。この時期、まだ、大地の温度が十分でなく、上昇気流が十分でないためか、砂埃が地表近くに漂っているためではないかと思っています。これがサウジの四季なのかなと、改めて、地勢の影響の大きさを感じている次第です。

いま、サウジの周辺は、どこを見ても政治の混乱で治安が乱れています。とりわけ、イエーメンの問題は、サウジにとっては他人事ではありません。もちろんサウジとイエーメンの国境はありますが、これは、便宜上あるようなもの。このあたりに住んでいる部族は、サウジもイエーメンはなんの違いもなく、自由に行き来をしているようです。もともとが、ここに国境などなく、サウジの西海岸には、イエーメンの部族が幅広くビジネスを展開していましたから、このあたりの豪族の祖国はイエーメンと言われていますし、サウジ人のなかにも、名前の苗字を見れば、イエーメンの出身の方は直ぐに分かるのだそうです。私たちの近くにもそんな名前の人がたくさん居ます。こちらでは、こんなことを隠すことはなく、ごくごく当たり前のことなのですね。西海岸はもともとイスラムの聖地、メッカとメディナを中心に栄えた地域ですし、その巡礼のためにサウジに来る人たちは、サウジは自分たちの心の故郷と思っているのではないでしょうか。この二つの聖地の中間にあるジェッダの町からサウジに入りましたから、古くからここが商業の中心になったのだそうです。ジェッダとは、 アラビア語で、「おばあさん」という意味だと聞いたことがあります。まさしく、そんな、機能を持った町なのですね。そこで、財をなした多くの人は、もともとがイエーメンやヨルダンから来た人たちなのだそうです。ですから、サウジの西海岸の経済を仕切っているのは、こうした人たちの子孫なのです。有名なビンラディン兄弟という財閥もこうした部族の一つなのです。そして、その中の一人が例のアルカイダに心酔して、過激派の指導者になったということのようです。(ビンラディンというのは、個人の名前ではなく、ラディン家の息子という意味です。)

それは兎も角として、サウジにとって今回のイエーメンの紛争を無視できないのは、いまの皇太子の母君がイエーメンの出身ということもあるのでしょう。もっともそういう意味では、サウジの周りのさまざまな国から、初代の国王は后を迎えているのですが・・・・。反乱を起こしている宗教の一派の支配地域を攻撃するために空軍が出撃し、これに対抗するために、サウジ国内での無差別の自爆テロが噂されています。そんなわけで、にわかにサウジの西海岸もいろいろと物騒になってきています。

イエーメンの混乱は、まさしくサウジの庭の中で起きている騒動ということができると思います。サウジの中でも、今、宗教界がしきりに、そして、必至にキャンペーンを繰り返し、イスラムの原点に戻るように、自分の主張を通すことに武力を使うのはコーランの教えに反するものであると、サウジの若者がこれに共鳴しないように躍起になっています。そんななか、サウジの国王の処置にたいして、たくさんのプリンスが、そして、各界の有力者たちが、その支持の声明を出しています(これは、国王に対する忠誠の証なのですが・・・)が、そこに、有力な部族の長も名前を連ねていました。つまり、この国は、まさしくサウド家の国ではあるのですが、そのサウドほどの影響力は無いにしても、まだ、アラビアの各地には有力な部族が存在していると言うことを如実に示すものだと感じます。サウド家がこうした部族に気を使っていること、一年の半分は国王は、リヤドから離れてジェッダで政務をとるなど、複雑なこの国の中を覗いたような気がします。

すこしサウジ全体に緊張が高まってきていますので、それで無くとも、自由に旅行やドライブが出来ないサウジで、ジェッダに行くのさえ控えるうに会社から通達が出ています。ビザの関係で、毎月一度は海外に出ないといけないので、空港(空港が一番危ないのですが、)までは仕方が無いにしても、このご時勢ですと、ラービグにじっとしているしかなす術がありません。

で、捕まえた魚は、真水では生き延びられず海の魚はやはり海水の水槽を用意しなければダメだなということになり、その確認のための挑戦です。魚は、大きなものだと大きな水槽が必要になるし、面倒が大変ですし、小さな魚を釣ろうというわけです。そのためには、小さな魚のための仕掛けを作り、出来れば、針でつるより、網で掬い上げるのが良いのかなと思いましたが、こちらでは網を使うのは禁止されていますから、これも、工夫をして、籠のようなものを5リットルの水用のボトルに多数の孔をあけて仕掛けを作り、この中に餌を入れ、これを海に沈めて、小魚をおびき寄せてみようというわけです。結果は、・・・・・。

海が好きだという、三人の老人たち 両脇の二人はスキューバーダイビングを楽しんでいました。

うまくいけば、当然、してやったりの自慢話が続くのですが、それが無いということは、無駄骨だったというわけです。うまくいかなかった原因もいろいろありますが、やっぱり、海は広いな、大きいな、というのが私の強く受けた今回の印象でした。豊富なえさは無くたって、生きていくだけの食べ物はあるのだから、魚は、やっぱり、広い海で自由に動きまわるのが一番幸せなのかも知れないな。勝手な理屈で自分の楽しみのために、魚釣りに来るような人間の つまらぬ誘いにのって、餌に食らえついては、人生(魚生)を棒にふるよ。

そんなことを考えながら、結局は、この日も、小さな魚を二匹釣り上げてきました。この魚たちには長生きしてもらわないといけないと思い、海水を汲んできて、アパートまで運び、空気をふんだんに送り込んで、何とか海の中の環境を作ってあげています。一晩経った今も元気でボトルのなかでパクパクしています。何とかこのまま、勢い良く泳ぎまわり、私たちの目を和ませてもらいたいと願っています。そしたら、近いうちに水槽を手にいれ、アパートにもアクアリウムを設置しようかなと考えています。失敗を重ね、何とか工夫をして、魚の仲間を増やしたいと、あれこれ考えるのが楽しいですね。些細なことでも、自然の原理、世の中の摂理に反したものは、上手くいかないということがよく分かります。つぎの挑戦が楽しみです。

 

                       2015.04.04

 

 

 

 

 

 

サルマン新国王即位

決して胸騒ぎがしたからではないが、その日の朝、夜中に目が覚めどうしたのかなと思った。日本から、ドバイ経由でサウジに戻ったのが1月の22日であった。日本にいる間、今、住友化学がサウジで進めている石油化学プロジェクトが、国王が進めていた、初代国王、つまり自分の父親が立てた構想、ラービグ地域の都市化実現プロジェクトとして知られていたので、国王の健在がこのプロジェクトを推進する原動力になっていたことは確かだ。だから、新年になり国王が体調を崩し、入院したニュースを知り、歳が歳だけに、なんとも無ければよいが、と願っていたし、もし、国王が亡くなりでもしたら、住友化学が関わるプロジェクトにどのような影響ができるのか、シミュレーションをしっかりしているのだろうなと、現役の会社の幹部にも話していたときだけに、この日、突然、国王が亡くなってというニュースで、いっぺんに眠気が覚めた。

国王が初代国王にささげるプロジェクトと言うのは、国王の父君が、今住友化学が進めているプロジェクトのラービグあたりに、ジェッダの繁栄を分散させる目的かもしれないが、ここに一大都市を創ろうとの計画を立てたのだが、これを、アブドラー国王は自分の目の黒いうちに、何とか実現しようというものだ。サウジアラビアは、もともとがベドウィンと呼ばれる、遊牧民族の国だ。砂漠をラクダの隊商を組んで旅をし、アラビア半島の西と東、ペルシャ湾に面した東の海岸とイスラムの聖地、メッカ、メディナがある西海岸との間の交易で栄えた国である。が、東の海岸地帯にある時突然石油が噴出した。これで、国は一遍に豊かになり、豊富な石油の輸出による資金をもとに、一躍、世界経済のなかに躍り出てきたというわけだ。しかし、広い国土のサウジでも、この石油で豊かになったのは、東の海岸だけ。西の海岸は、相変わらず、世界中からイスラムの聖地に巡礼に来る人たちの落としていく金で生活をしていたというわけ。しかも、ここにはこうしたビジネスで巨万の富を築いた豪族が勢力を持っていた。そうした豪族たちは、祖先がイエメンであったり、ヨルダンであったりする。のんびりしているサウジ人に比べて、ヨルダンなどは、多民族の集まった土地で、しっかりと教育を受けた国民、とにかくしたたかなのだ。そんなことで、国王は、今でも二つの聖地のあいだにあって繁栄したジェッダの町に、一年の半分の間は滞在して、ここで政務に当たっている。そして、聖地を支配する豪族の力を無視しがたく、その豪族の娘さん達を政略結婚の匂いがするが、お嫁さんにしていたのだ。なにしろ、初代国王には36人の著名なプリンスの母君たちだけでも17人のお后がいたのだから。有名なスデイリー妃もその一人だし、スデイリー家からは、二人も后が出ているのだ。そして、その17人のお后の一人が、アブドラー前国王(既に亡くなったので、前国王と呼ぶ。)のお母さんなのである。

そんな因縁のプロジェクトであるから、その推進役の国王が亡くなれば、その影響は少なからず現れるのは必至のはず。まだまだ先は長いこのサウジの国を挙げてのプロジェクトであるから、もっともっと神経を尖らせてことの成り往きを見守る必要があるのでは、そんな思いで、この一週間がアットいう間に過ぎ去った。

 さて、サウジでは次ぎの国王は皇太子がなることになっている。王子が1500人もいる国だから、どんなことが起こるかわからない。国王は、自分の次ぎの国王をだれにするか、その生存中に決めておかなくてはならないことになっている。この決め方がまた、いろいろな思惑があるのは間違いない。本当のことを知っているのは、皇太子を決める国王だけであるが、国王の決めた皇太子を、国王の王族諮問委員会というのがあり、ここで承認をしてもらう必要がある。その、諮問委員会のメンバーは、初代国王の息子たちが36人おり、その各家系から一人ずつ、選ばれている。ところが、この36人が、いろいろな形で派閥を作っている。最も有力なのが有名なスデイリー・セブンといわれる、スデイリー家出身の后ハッサーヒ妃が産んだ7人の息子たちの結束集団である。この7人の王子たち、このなかから既に第5代の国王がでているが、6代の国王、つまり先日なくなったアブドラー国王の時代の次ぎの皇太子は、この5代目の国王の弟達がなっている。達がなっているというのは、このあたりから、だんだん生臭くなるが、つまり、皇太子のほうが国王よりも先に亡くなり、国王になれなかった皇太子ということになる。そんな皇太子が`スデイリー・セブンの中に二人いるが、今度の国王は、この7人の兄弟では、3人目(3度目)の皇太子で、それが、第7代の今度の国王になったというわけ。要は先代の国王は、第5代の国王から、その後を次いだ時に、第7代の国王は、スデイリー・セブンの中からということが暗黙の了解になっていたというわけか。そんなこともあるからか、先代の国王は、こんどの国王が皇太子の時代に、つぎの第二皇太子を決めてしまった。つまり、第8代目の国王である。この人は、初代国王の35番目の王子である。先代の国王も、今度の国王もすでに90歳前後のお年寄りの世代。ところが、今度の8代目の国王になる予定の王子でかなり若返る。

ここからが問題。今度の国王は、先代の国王の改革路線を引き継ぐといわれている。果たしてどうかここは注意して見守る必要がある。とにかく、先代の国王はサウジの近代化、経済改革、教育改革に熱心ですばらしい業績を上げたということになっている。その中でも、とくに教育改革は、目覚ましい効果を挙げてきたとのこと。たくさんの大学、訓練校、そして、高校、中学、果ては、小学校まで、全国にいくつもの学校を開設してきた。確かに、学校の数は圧倒的にふえ、国民のみんなが学校にいくことができるようになった。問題はここにある。大学はたくさん開校したものだから、定員の数がふえ、入学志願者よりも多くなっている。つまり、大学にいきたければ、誰でも行くことができるのだ。しかも、奨学金がもらえる。なにも難しいことを勉強する必要もない。なぜなら、大学を卒業し、就職しなくたって政府からちゃんと失業保険がでる。その失業保険で十分食っていけるのだから。大学をたくさん作ることは、結局、生徒のためというより、大学に勤める事務員の数を増やすだけのことだ。これが、サウジの失業対策の一つになっている。そんな構造ができてしまった。だから、訓練校にしても、海外からの援助でやたらと作りたがる(TVTCは、その推進役だ。)。大学と違い、技能を身につけて製造現場に勤めることが目的の訓練校なのだが、別にそんなブルーカラーの仕事にはつきたくない。汗の流れる仕事はサウジ人のする仕事ではないと思っている世代がある。そんなことからか、この訓練校の生徒の充足率は、20パーセントに満たないのではないかとも言われている。ことは、中学、小学校にも影響が出てくる。別に勉強しなくても、大学の入学試験があるわけではないし、誰でもいけるのだから、なぜ、小学校で勉強しなけりゃいけないの? なにを勉強するの? こんな具合だから、生徒の態度は悪いし、こんな意欲のない学生を相手に、まじめに先生なんぞやっていられないというのが正直の話。下手に子供の態度が悪いと注意をすれば、親からクレームが来るという。これがサウジの教育界の概要か。そして、深刻なのは、このような環境で育った若者の数が急激に増大していることだ。サウジの人口の50パーセント以上が二十歳以下といわれる。この人たちは、こんな学校制度のなかで育ってきた若者なのだ。わがまま、仕事はしない。信じられないことだが、働かなくても高給がもらえる政府の役人、あるいは、企業のマネジャーが就職の希望だ。仕事もしない。出来ない。知識もなにもないのに、要望だけはちゃっかりしている。こんな若者たちが7割以上になったときにサウジの石油が底をつき始めたらどうなるか。これが、サウジのかかえる頭の痛い問題だ。

 

 そこで、昨年から、初等教育の改革が始まった。旗振り役は、名門ファイサル第3代国王の息子のKhaled殿下だ。小学校の先生の質から変えようと、大改革に手をつけた。子供のずるける魂も変えようと、次々にお達しがでた。親の先生いびりには厳しい罰則が定められた。そして、学校もしっかりとカリキュラムをつくり、これに従って学習をするというもの。教育の改革は、初等教育から始めても、効果が出るまでには、5年、10年、あるいは、それ以上にかかるかも知れない。しかし、ここからはじめなければ、何も変わらない。サウジにも教育改革の風が吹き始めた。何とか、この政策を続けてもらいたい。それには、Khaled殿下のような熱意と、知恵と、後ろ盾が必要だ。サウジの教育改革は、宗教界が非常に大きな影響力を持っている。二つの聖地をもつサウジでは、国民はイスラム教に盲目的に信仰することが望まれる。それが、サウド政府を維持する必要条件のごとく考えている。裏には、サウジアラビアの建国に、イスラム教スンニ派系ワッハーブ派が一役かっていたいきさつがある。歴代の国王は、そのために、イスラム教を政治に利用してきた。国王は二つの聖地のモスクの守護者でもある。そして、唯一の神はアラーであり、国王は神ではない、と説いている。ここに、宗教界が教育に口をだす根拠があるのだ。宗教界では、国民に初等教育など必要ないと考えている。国民は初等教育でみっちりと教育されると、やたらに賢くなり、それに最近ではインターネットなどにより海外からの情報がはいり、それにかぶれる危険性がある。だから、初等教育はせずに、大学に入ったあと、勉強すればよい、との言い分だ。ちなみに宗教界の教育の改革は、宗教大学をたくさん作ること。ことしもメディナに大学を作る計画を出している。そこでは、サイエンスと、言語学と宗教をしっかり勉強するとうたっている。つまり、早い話が、国民は余り利口でないほうがよい。黙ってコーランの中の話を聞いていればよいのだ。下手に知恵がつくと、サウジの将来が危ない、というわけだ。これが、いままでも初等教育の改革の妨げになってきたのだ。

 このサウジ政府のなかに絶大な影響力を持つ宗教界の教育改革論に対抗してどのように初等教育をすすめるかが、サウジの近代化、ひいては、将来の国の繁栄を左右していると思われる。私としては、是非、教育は百年の計とも言われるように、初等教育、そして、幼児教育から是非見直してほしいと願っている。Khaled殿下の改革を応援したいとの思いでの、毎週のように出される教育改革の施策に多いに期待し、そんな教育を受けた若者が青年になり、サウジも遠からず「ものづくりに目覚める」だろうと、そんな構図を描いていた。

しかし、まことに残念ながら、新国王が改造した内閣では、Khaled 殿下が、教育大臣から外れてしまった。新しい大臣は、 Azzam  Al-Dakhilという人物だ。この人の手腕、そして、教育についてどのような考えを持っているのか、宗教界の教育改革派とはどんな関係にあるのかがわからないが、ただKhaled Al-Faisal殿下ほどの後ろ盾が無いことは確かだ。先が心配だ。Salman 国王は、以前に教育改革をしてきたSulaiman Abalkhailも内閣から外した。

そして、Khaled殿下はと言うと、Makkahの州知事になられた。このポストはサウジ政府の中でも非常に重要なポストである。同世代のMuhammed bin Naif 殿下が第二皇太子に指名され、これでサウジにも第三世代の国王が誕生することになるだろう。同じ世代で、既に名声のあるKhaled 殿下にしても、もはや、国王のお鉢は回ってこないことになった。もとより、そんなことは眼中に無かったろう。だから、Makkahの知事になることは名誉であるに違いない。しかし、先代の知事は、Prince Mishaal bin Absullah で、前の国王の息子。つまり、親の七光りにより、つい最近知事についたばかり。Salman新国王にしてみれば、先代の親の七光りのプリンスにこんな重要なポストを任すのは、非常に惜しい。何とか、このプリンスを取り替えたい。と言うことで、白羽の矢が止まったのがKhaled殿下というわけだ。が、この人事には、宗教界教育改革派の影がちらちらするような気がしてならない。確かに、教育大臣より、メッカ州知事のほうが格は上だし、Khaled殿下の名声からすれば、先任がいかに先代国王の息子とはいえ、格はやっぱりKhaled殿下のほうが上。となると、この交代、たとえ宗教界からの圧力があったとしても、誰から見ても、文句のつけようが無い。こうして先代国王が何とか威光を残そうとした人事の一角が崩れたわけだ。Salman国王にとっても、こんなうまい話しはない。一挙両得の施策のように思われるかもしれない。

 しかし、私はそうは思わない。サウジの将来にとって大事なのは、初等教育の改革、そして、国民の教育に対する認識改革なのだ。たとえ、宗教界に反対されても、自らの信念で教育改革を進めていく、それが出来る人が教育大臣になってもらいたいのだ。それには、しっかりした後ろ盾のある、実力のある、西洋文化をよく理解し、教育についての造詣の深いPrinceに担当してほしいのだ。サウジの政治の中心は、軍部、警察、そして、宗教界が握っている。これにのみ込まれず、真のサウジの近代化をはかるためには、サウジの目指す将来の姿を描ける人が出てくることを期待したい。Khaled Al-Faisal 殿下が教育大臣から移られたことで、サウジの本当の近代化・文明化がすこし遠のいたような気がする。まことに残念だ。

            平成27131日   鈴木

 

3Dプリンターが入った

住友化学がサウジ政府の要請を受けて設立した「プラスチック技術センター」ですが、当初の設立の趣旨、サウジの世界の最先端技術を紹介し、技術指導をしようという目論見がサウジの常識(技術的レベル、国民の技術指向の意識の無さ)からすれば、かなりのずれがあり、改めてこのセンターをどのように運営していくのか、なかなか難しい問題です。大所・高所から政治的に動く政府の要請と、現実の社会の意識とのズレはそのまま、この国の矛盾をむき出しにしているのでは言う気がします。

昨年は、教育大臣であったPrince Kahled Al-Faisal 殿下が初等教育の改革に熱心に取り組んで、毎週のように、学校問題が取り上げられ、条例が発せられて来ました。それまでは教育改革というと、とかく、高等教育主導のやり方が主で、これでは現実的な改革にはつながらずと頭を抱えていたのですが、意思の固い、そして、文明人として有名な殿下の改革に多いに期待していました。あと数年もすれば、サウジの教育も良くなるだろうと、そのためにわれわれも何か出来ることはないかと考えていたのですが、今年の初めに国王が変わり、Kahled殿下はMekkahの州知事に復帰(教育大臣より数段格が上なのですが・・・・)され、新しいテクノラートが教育大臣になりました。実はこれは、私の目からすれば、教育が依然として宗教界の主導下で動いているという風に見えてきます。サウジにとって本当に大事なことは何なのだろうと考えずには居られません。

そんな中でサウジの若者に、科学(勿論、化学にもですが・・・)に、そして、ものづくりに興味を持ってもらうにはどうすればよいかと、いろいろ考えて苦戦しています。何をしているかって? と聞かれると、自分でも大丈夫かなと思いますが、実は前回日本に帰ったときに、秋葉原で、3次元プリンターと言うのを手に入れてきました。これは、ご存知かも知れませんが、今、パソコンマニアではやっているものの一つに、コンピューターでデザインしたもの(部品)を、樹脂をインクの代わりに溶かしだして図面をそのまま、直接物に成形(プリント)してしまおうというものです。既に、工業化のレベルに近いものまで開発されており、これをわれわれのところにも導入する計画で、その準備をしています。将来のサウジの産業立地のために必要な知識を身につけるために、まずは、ものづくりの楽しさを知ってもらう必要があり、そのための「面白い。」、『役に立つ。』機械というわけで、今回、手に入れた機械は、目で見て、その原理が理解できるモデル機としてPRに使おうというわけです。

 アメリカ製のものですが、これをハンドキャリーでサウジに持ち込みました。自分で組み立てて、プリンター(と言っても、ロボットのようなものですが・・・)の初期設定をし、そのコントロールシステムをインストール、そして、実際にロボットのようにプリンターを制御し、物を実際に作るデータを入力しても、自分の見ている目の前でものづくりをしてみようというわけです。若い技術者も居ないし、メンバーは夫々が仕事に追われていますので、結局、これを一人で毎日、夜遅くまで、マニュアルと首っ引きで処理して来ました。と言っても、三日間ほどですが、このプリンターをどうにか無事動かせるところまでのたどり着き、ほっとしているところです。半分は私の趣味でしているようなところもありますが、それでも、すこしばかり、無視できないような金を使っていますので、ここは、本人もかなりまじめ。そして、慎重に頑張ったおかげで、うまくいってよかったと思っています。これで、来月、また、住友化学からサウジに将来計画を説明する予定でいますが、何とか、われわれのパフォーマンスをPRする種が出来たのでは、内心、次ぎの目論見に意欲を持っているところです。

 

   金星がものすごく大きく見えました。

 

 

 こんな声を時々耳にします。金星は、地球のすぐに内側を回っている惑星ですが、惑星開発はむしろ火星のほうが話題になることが多いようです。これは、金星が太陽に近く、われわれ人間には、すこし想像のできない環境にある惑星だからではないでしょうか。それでも、この星は、昔から、「宵の明星」、「暁の明星」としてわれわれの生活の中でも非常に親しまれてきた惑星だ。その金星が最近の夕方の空で、これまでになく大きく、そして、きんきらと輝いているのに気の付く人も少なくないのではないでしょうか。

 

そこで、この金星について、こんな考察をしてみました。

 

 地球と金星との距離はどのくらいか。

 金星も、地球も太陽のまわりを回っている惑星ですが、それぞれが生まれた経緯に基づいて、独特の動きをしながら太陽の周りを回っています。

 二つの惑星の距離を計算で求めるには、まず、

@     それぞれの惑星のある時点での太陽を中心とした位置(日心座標)を求めます。

A      

 

 

 

 


B     この座標上での二つの惑星の距離を計算します。

     同一座標上の二点間の距離ですから簡単に算出できます。

    ただし、かく惑星の軌道計算では、距離の単位が太陽との平均距離になっているので、必ず、地球と太陽の距離に換算する必要があります。

    まず、日にちを決めて、この日のそれぞれの惑星の日心座標位置を求めます。

    ついで、この座標系のなかでの二点間の距離を求めます。金星も地球も公転している面はほとんど同じですが、それでも傾きがありますので、これも考慮して三次元での二点間距離を求めます。

    こうして、ある時点から次々に日にちをずらして計算すると、地球と金星との距離がどのように変化するのを見ることができます。201531日から、毎週の位置を計算したものが図-2であり、この図から、二つの惑星の間の距離を計算したものが図-3です。

 

   この図からもわかるように、2015年の金星は3月から8月の中頃まで、どんどん地球に近づいているのです。

 

 

 

ですから、このままでいけば、8月の初めにはもっともっとずっと近くに来るはずです。では、この時の金星はどのくらいの大きさ、明るさになっているでしょう。

 

内惑星ってなんだ

 ところが、ここで問題になるのが、金星が内惑星であるということです。つまり、金星の軌道は地球の軌道より内側にあるということ。金星はいつも地球より太陽に近いほうに位置しており、このため、太陽と同じ方向にあるときには金星を見ることはできません。ちなみ、金星と地球が最も近くなる8月の初めには金星と太陽はほぼ同じような方角にあるため、言いかえれば昼間の金星であり太陽の明るさのためにこれを見ることはできないのです。

 

 

 

  ですから、金星ばかりではなく、水星も同じように太陽より少し離れた角度でしか見ることができません。

         

 

惑星や月の明るさ、大きさは、このようにして決められるのですが、実際には、もう少し正確に計算しなければ、実現象と合わないことがあります。

 たとえば、天体の大きさは、地球を取り巻く空気の屈折率や、視位置(観察者のいる経度、緯度)、あるいは、観察する時間により変わってきます。また、明るさも、地球をとりまく気象条件によっても変わってきますので、一概にこうした計算だけで説明できないこともあります。これもまた、天文の奥の深さかなと思います。

 

 天体の軌道計算は、原子の軌道計算と非常によく似たものがあり、化学を勉強する者には非常に親近感のある問題です。惑星の位置にしても、また、太陽をまわる公転軌道にしても、原子を取り巻く電子がその電子のもつエネルギーによって原子核からの距離が決まるというのも、天体の軌道計算、つまり、木星も土星もしかるべくして、今の軌道位置にいるという考えと非常に似たものがあります。

 

 なぜ、金星が、そして、地球が、火星が、木星、土星が今のような位置にあるのかは、宇宙ができた時までさかのぼり、これらの星を構成している物資の特徴を考えれば、単に、運動理論だけではなく、その星を構成する原子の種類、化合物の物性などという化学理論も考えた新しい理論ができるのではと、そんな、素人考えを楽しんでいます。

                         (  2015.06. 鈴木記    )

         

    

聖地メッカでの大惨事

日本にいる間に、聖都メッカで工事用のクレーンが倒れ、数十人の死者がでて、びっくりしていた矢先、今度は、巡礼に来た人たちに700人以上もの死者が出る惨事がおき、仰天しています。巡礼に来て、こうした惨事に巻き込まれた方々には、まことに気の毒としか言葉がありません。この時期、世界各地から、(サウジ人も含め)200万人もの人たちが、メッカとメディナにやってくるのですから、大変なものですね。その数からすれば、これは、大変な民族移動のようなものです。

 新聞では毎年、この数の人たちの様子が紙面をにぎわしていますが、確かにその数のすごさは、写真から見ると、メッカの町の通りと言う通りが人で埋め尽くされていますから、どんなことが起こっても、おかしくないとしか思えません。ハジの始まる前には、聖都の安全は大丈夫と何度も報じていたのですが、とにかく、予測の出来ないことが起きるのでしょう。

 とは言え、この事件の起きた場所は、Miraという町なのですが、なんとここではこれまでにも、ハジの間に大変な事故が何回も起きていたようです。2006年には、364人もの死者が出る事件が、そして、2004年には、251人、1998年には、118人、1994年にも、270人もの人たちがなくなっているのです。こうした惨事は、ほとんどがこのMiraという町で起きているのですが、それには訳があります。実はこのMiraと言う町では、ある宗教儀式が行われるのです。それは、悪魔退治とでもいうのでしょうか。ここのある場所に、「悪魔の塚」のような物があり。ここに巡礼に来た人者たちは、小石をぶつけて厄払いを行うのです。そして、その後、ここから14Kmほど離れたアラファトという岩山に上ります。そして、瞑想にふけりながらアラーの神との対話をするのです。このため、Miraの町には、キャンプがあり、ここに巡礼者たちが集中するわけです。そして、アラファトの山に登るのを出来るだけ午前中にと、この小石を投げる儀式をせわしなく行うのですが、とにかく、5日の巡礼のうちの3日間をこの町に滞在しているので町中に人がごった返しているのです。そして、この日の朝、二つの主要な通りの交差点で、違う方向から来た巡礼者たちの列が衝突したのです。どのような内容かは分かりませんが、とにかく、二つの通りに溢れた人たちが、一つになったわけですから、その殺到が原因となって、たくさんの人々が倒れたようです。警備の人は、懸命に逆戻りするように声を張り上げたようですが、この人ごみはそんなことでは、行進を止めることはないのですね。倒れた人の上を、人が踏みつけていく。車椅子もその上を乗り越えていく。そして、前代未聞の惨事となったようです。

一生に一度の巡礼で、このような惨事があっても、なお巡礼の人があとを絶たないのは、これは、宗教の影に潜んだ、人々の底知れぬ何かの思いがあるからなのではという気がします。巡礼は、メッカでは、カーバ宮殿のまわりを果てしなく回り、お祈りをささげる儀式、そして、この「悪魔の塚」で小石を投げる儀式、アラファトの山に登り、瞑想にふける儀式、神に生贄をささげる儀式、ジャムジャムという聖水を手に入れること、そして、さらには、400キロ離れたメディナに行き、やはり、モスクでお祈りをするという、とても、せわしいスケジュールです。とりわけ、メッカから、メディナへの移動は大変なようで、巡礼者たちはバスかタクシーで移動します。もちろん、バスもタクシーも公共のものではなく、みんな臨時の交通手段です。このため、バスやタクシーの運転手は素人の人たちも随分いるようです。また、海外から出稼ぎに来ている人たちも、この時とばかり俄か運転手になるのです。このため当局は、白タク(サラリーマンが会社が終わったあと、夜中に自家用の車で運転をするのです。)や、バスの運転者の取り締まりを強化して、事故防止に躍起になっています。何しろ、メッカからメディナに通じる高速道路は事故で有名なのですから。この高速道路、ここは、野生のらくだや、猿が飛び出してきて車と衝突することが頻繁に起きているようです。スピード違反なんて問題になりません。とにかく、乗客は忙しいのですから。

 こうして、メッカとメディナの巡礼が終わると、帰りには、土産でいっぱいの荷物を持って帰国するわけです。巡礼に来るために、親戚じゅうから借金をしてくるのですから、そのお礼のお土産というわけです。空路の玄関はジェッダですが、この巡礼者たちのために、通常の搭乗口とは別に、特別の巡礼者たちのため(団体でサウジに来る人たちのため)の特別な通関施設があるのです。そこには勿論我々は出入りすることは出来ませんが、それでも、空港で見る個人で来る人たちの帰りの荷物の多いことにはびっくりします。とにかく、この時期数十万の人たちがサウジ、しかも、メッカとメディナに殺到していることは確かです。

こんな感じで、まだまだ、平穏な日々が戻ってくるには時間がかかりそうですが、さて、これから、サウジはどうなるのでしょうか? 気になるところです。

                                誠二

イスラムの世界  宇留巣健太 in KSA