ホームページ 隠された歴史 アメリカインディアン

 

アメリカにわたり、中西部のネブラスカで生活していると、ここがイギリスからの移住者たちの国であるとは思えなくなるときがある。そこにいる人たちの話のなかに、私はバケーションでおじいさんの国に行くと言うのでどこに行くかと聞いたら、ドイツだという。また、別の人は、ポーランドだというのだ。えっ、と思うのだが、これは、国土が日本の26倍、東海岸と西海岸では、時差が5時間もある国だと思えばなるほどという気もする。ここはもともとアメリカインディアンの人たちが生活して土地なのだ。ここにヨーロッパから、そして、東欧からも、アフリカからも、南米からも、自由と成功の夢(アメリカンドリーム)を求めて、実に世界中の国々から人々が集まっているのだ。そんななかで、この地にすむヨーロッパから来た人たちの話のなかに、こんな話がある。

アメリカには、5つの種類の人たちが住んでいる。白人、赤人、黒人、ヒスパニック、黄色人種だ。

この言葉の裏には、なんとなく人種差別の匂いがする。中西部に住む白人とは、主として、ドイツ系、並びに、東欧から来た移民の子孫たち。そして、赤人は原住民・インディアンを指す。黒人は勿論かっては奴隷としてアフリカから来た人たちの子孫である。白人、赤人、黒人は英語を話し、米国籍もとっている。しかし、ヒスパニックの人たちは、スペイン語を話す人たちで、ヨーロッパからの人たちではなく、メキシコからアメリカに入って来ている人たち。彼らは時として不法入国で、低賃金労働者であり、実際にアメリカの産業を支えている原動力になっているが、しかし、アメリカでの地位は決して高くないのだ。一番、下のクラスだと思われているのが、中国、韓国、そして、日本などの黄色人種。現地の人たちはイエローと呼んでいた。とくに、私の住んでいたネブラスカは、ベトナム戦争の難民受け入れ州となっており、アメリカは、ベトナム戦争での償いのつもりであろうか、こうした難民を政府が手厚く保護している。こんなことも、先祖がアメリカに移住してきて、いまだ裕福にはなれない白人たちは、ある種の僻みがあるのかもしれない。とりわけ、あまり知識レベルの高くないアメリカ人、比較的歴史の浅い移住者たちの気持ちのなかに、自分たちのステータスを維持したいという何かがあるのかも知れない。

そんなことを考えると、彼らの意識の中で、特に気になるのが、なぜ赤人が白人の次なのかということ。

確かに、この中西部に住む白人たちは、他の人種の人たちより裕福な生活をしている。しかし、それは、この地に住んでいたアメリカ原住民たちを追い出して、自分たちの世界を作り上げた結果だということが、まだ頭のなかにあるのだ。おじいさんたちが苦労をしてこの地を開拓したのは、まだつい最近のこと。でもその歴史の中には、アメリカシンディアンたちとの摩擦が絶えなかったのだ。インディアンたちを追い出し、今は、保護居留区のなかに押し込め、自分たちの生活が成り立っていることは、アメリカのどこに行っても感ずることができる。それには、まさしく、白人のインディアンに対する、申し訳なさがあるのではないかと思う。

そのように思うには、ここの国における白人とインディアンたちの関わり合いについて、その歴史を紐解いてみたからである。そして、それは「Lewis & Clarlの探検」から始まる。

  白人とインディアンとの出会いは、もちろんこれだけではない、それ以前にもフランス人は、貴婦人たちに珍重されていたカワウソの毛皮を求めて、カナダの東海岸からアメリカ中北西部まで来ていたし、綿花の輸入のため、南部に入っていた。スペインはメキシコからテキサス、カリホルニアまで統治していた。当時、鉄砲はフランス商人たちが、そして、馬はメキシコの軍隊がアメリカにもってきたとの話がある。

さて、そのフランスやスペインに代わって、イギリスがアメリカ・インディアンとのかかわりを持つようになったのは、そして、その出会いはどんなものであったのだろうか。それを知る手がかりがここにある。

 

Wikipedia からの引用

ルイジアナ買収と西部探検隊

ルイス・クラーク探検団の有名な地図。その当時のアメリカにおいて、コロンビア川、ミズーリ川との水源とロッキー山脈との関係を正確に描写し、アメリカ北西部の地図を改正させた。

1803年に行われたルイジアナ買収は、西海岸への拡張開拓の関心を刺激した。購入が行われた数週間後、西部開拓の主唱者であり大統領となったジェファーソンは、議会へ探検に充てる2500ドルの資金を「西部の海洋までも探検するために、理解ある10人から12人程の役人に送る」ようにさせた。当時彼らは既に定着していたイギリス人フランス系カナダ人のハンターや罠猟師間で発展の可能性がある衝突を憂慮すると共に、アメリカ・インディアン諸部族、植物学地理学、西部地形やその地域の野生動物についても研究していた。北アメリカ大陸においてルイス・クラーク探検隊は北アメリカを横断した最初の団体ではなかったが、1793年にカナダからメキシコ(ほぼ)の北、コースト山脈より太平洋へ渡った最初のヨーロッパ白人である、アレグザンダー・マッケンジーの探検隊からおよそ10年後に結成されたものであり、アメリカ主導で最初に太平洋にたどり着いたアメリカ白人の探検隊である。

その後探検隊の発足が正式に決定し、ジェファーソンはメリウェザー・ルイス大尉を探検隊を率いる隊長に選出して以後は「発見隊」として知られることになった。ルイスはその後相棒としてウィリアム・クラークを選んだ。合衆国陸軍官僚による承認の遅延が原因で、その当時クラークは公式には少尉の階級にしか就くことができなかったが、ルイスは隊員にそれを隠し、クラークも共に「大尉」と称して常にリーダーの地位を分かち合ったという。

行程

ジェファーソンが手紙で指示した通りに、クラークは探検の準備をした。クラークは2つの大型バケツとそれより小さいサイズの5つのバケツ一杯の塩、大量の乾燥豚肉、そして薬を購入した。

当初33人の隊員で構成されていた探検隊は、現在のイリノイ州ハートフォードに近いキャンプ・デュボワを出発し、1804年5月14日よりその歴史的探検を開始した。その後すぐにミズーリ州セントチャールズでルイスと落ち合い、およそ40人になった隊員達がミズーリ川西方に沿って行った。まもなくして、ミズーリ川沿いの最後の白人入植地であった、ラ・シャレットを過ぎた。探検隊はミズーリ川に沿って進み、現在のミズーリ州カンザスシティネブラスカ州オマハを通った。

1804年8月20日、発見隊は急性虫垂炎と見られる症状で軍曹チャールズ・フロイドの死を経験することになる。彼は現在のアイオワ州スーシティ近隣である、フロイド・ブラフに埋葬された。8月の最終週の間、ルイスとクラークはヘラジカ鹿バッファロービーバーがいっぱいに群がる、グレートプレーンズの端に辿り着いた。そして彼らは同時にスー族の領域に足を踏み入れてもいた。

彼らが遭遇した最初のインディアンであるヤンクトン・スー族(ナコタ族)は、ミズーリ川沿い西遠方の同属部族、テトン・スー族(ラコタ族)よりも穏健なインディアン部族であった。ヤンクトン・スー族はルイスとクラークから贈り物として受け取った5つのメダルに満足しなかったが、隊員へ川の上流にいるテトン・スー族には警戒するよう告げた。その後上流でテトン・スー族に遭遇するが、彼らは敵意を示しつつも同じくメダルの贈り物を受け取った。酋長の一人は彼らの領域を通り抜けるために支払う代価として、探検隊にボートを一つ要求した。彼らは次第に険悪になったため、探検隊は戦う覚悟をしたが、戦いが始まる直前になって、双方は互いに後退し退却した。戦わずに事を済ませた一行は、マンダン族の領土で冬が訪れて旅を一時中断するまで、手早く西方(ミズーリ川上流)へ旅を続けた。

 

インディアンとの出会い

Dayton Duncan and Ken Burns 「 Lewis & Clark }  The Jkourney of the Corps of Discovery ょり 

第四章  Children