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3.  アメリカのサラリーマン気質

 

 アメリカのGM, フォード、クライスラーといつた自動車メーカーに代わり、トヨタ車やホンダ車の車が急激に増えている。日本の車がどうしてこんなに増えたかは、品質の良さ、燃費のよさと、価格ではないかと思われる。では、どうして、日本車が、品質のよくて、価格の安いものを生産することができたのであろうか? その時、すぐにわれわれの頭に浮かぶのは、トヨタ式の生産方式、「改善」と「カンバン」、そして、サービス残業ではなかろうか。

 日本からアメリカに進出した部品メーカーも、この方式を取り入れて、効率のよい、そして、価格の安い製品作りに励んでいる。しかし、現地従業員にとって、このカイゼンとか、カンバン、そして、サービス残業などはどのように受け止められているのだろうか。

 たとえば、カイゼン。この言葉もアメリカでは、外来語としてそのまま使われている。というより、その意味を的確につたえる英語がないというのが適当ではなかろうかとさえ思われる。生産ラインばかりでなく、事務所の仕事においても、作業のカイゼンは、われわれにとっては、当たり前の認識。カイゼンをすれば、成果をみとめられ、評価が上がり、業績の向上に繋がる。業績がよくなれば、それが、ボーナスにも反映されて、自分の昇進にもいい効果をもたらす。会社にも、従業員にも、四方八方、良いこと尽くめというのが、日本人の感覚だ。しかし、この論理はアメリカ人には理解できない。まず、彼らは、会社とは、仕事の内容とサラリーが一人ひとりの契約で決まっている。仕事の内容に記述されていることをそつなくこなしていれば、サラリーは保証されているのである。業績も上げても、それは、当たり前のことで、ボーナスがあるとしても微々たるもので、なにもそれでサラリーが上がるわけではない。自分の仕事の効率が上がれば、自分の暇な時間が増え、その分、余分な仕事をしなければならない。仕事をしていなければ、自分の代わりに他の人にその仕事が回る可能性がある。また、あまった時間で余分なことをすれば、それまで、その仕事をしていた人は、不要になり解雇される。となると、カイゼンは、決して自分のためになることではない。そんなことをなぜ日本人は一生懸命、目くじらをたてて、カイゼン・カイゼンというのか理解できない。だから、かれらは、自分の仕事ではカイゼンをしたがらない。会社が、カイゼン提案制度で、一件当たり数ドルの報奨金を出すといったら、彼等がやることは、自分の仕事のカイゼンではなく、他の部署に出かけて行き、その部署の問題点を根掘り葉掘り探して、それを提案する。これで、年間数百ドルも稼ぐ人間がいる。びっくりしたのは、一番提案したのが、掃除の叔母さんとくるから、全く、理解に苦しむ。

  カンバンは、下請け業者にとっては、全くいい迷惑の話。自動車メーカーの購買を担当している現地の人は、E-mail一本で注文してくる。勿論、これは正式の注文ではないが、とにかく、情報を流せば、彼等の仕事はそれで十分と考えている。ひどいのになると、自分はさっさとバケーションをとり、その注文忘れも、カンバンを盾に、一個、二個でも、今日の便に品物を乗せろといってくる。生産計画で、ものが足りないのは部品メーカーの責任と、いわんばかりだ。アメリカだから、長距離輸送の納入もあり、一週間前に確定注文をもらう約束になっていても、そんなものなど、あってなきがごときもの。発送日の当日にE-mailで、数量変更がくる。そのためにかかる費用はすべて部品メーカー持ち。これでは、部品メーカーが儲かるわけがない。

  日本の部品メーカーが注文を取るために、部品メーカーからゲストデザイナーという人材を派遣する。図面引きや、評価試験までやることがあるそうだ。会社の売り上げを揚げるための人質みたいなもので、これも、悪しき習慣とはいえ、必要悪かも知れない。ましてや、自分の仕事で、手当てのつかない残業をすることは、美徳にさえ思われているのが日本のサラリーマン社会だ。これがいわゆるサービス残業。ひどい場合には、月に40時間くらいする。しかし、アメリカの現地従業員は、残業すら拒絶する。背景には、残業してもサラリーが上がるわけではない。残業して、帰宅が遅くなると、子供の学校の迎えや、買い物にいく時間がなくなる。早く帰宅しないのは、家族に対する愛情、思いやりが足りないと思われる。なかには、昼勤のほかに、他の会社の二勤に行くものまでいる。安い日本の企業のサラリーでは家族が裕福に暮らせないからだ。昼間、一生懸命働くと、疲れて、二勤の仕事に差し支えるから、昼間の仕事は、だらりだらりとやるなどと言うものまで射る。仕事の効率を上げようなどという気持ちはないから、残業までして成績を上げようなどと言う考えはない。ましてや、残業代のつかない残業をするのは、自分に能力がないからだと思われると考えている。仕事の量が多くて、自分ひとりで間に合わないときには、もう1人雇えと言ってくる。

 彼等には、カイゼン、カンバン、サービス残業など、一体、何のためにするのか、全く理解されないのである。彼等の価値観からすると、こんなことに目くじらを立てる日本人は馬鹿に見えるだけである。

 

4. サラリーマン根性(?)  そんな現地の従業員が考えていることは、

 

 転職しなけりゃ、サラリーが上がらない

    ジョブ・ディスクリプションで、仕事の内容が変らない限り、自分のサラリーが上がらないので、彼等は、常に転職の機会をうかがっている。会社に出勤するとまず、インターネットを開き、社員の募集情報を念入りにチェックしている。転職するには、肩書きがものをいうので、やたらと外部講習に行きたがる。すこしでも自分の業務能力が広がれば、それで、サラリーが良くなるというわけである。安全担当で入ってきた人間が、会社の仕事は家に持ち帰り、殆ど会社に来ず、救急処置、環境問題管理などの外部講習にでかけ、23ヶ月たったら、突然会社を辞めた。外部講習の修了書を持って、他社に就職し、サラリーが一度に3倍になったというから、日本の企業も馬鹿にされっぱなし。こんな人間は、入社してくるときに篩に掛けることができるはずだが、人事のプロでない、日本の技術者上がりの経営者では、どうにも出来ないのだ。

 

転職できない男は、家族に対する「愛情が足りない」 

 かれらは、いつまでも同じ会社にいて、転職しようとしない人間、また、転職できない人間は、家族に対する思いやりが足りないと思われ、ひどいときには離婚にまでなる。だから、彼等にとっては、転職は当然のこと。途中入社でも、退職金があるわけではなし、自分のサラリーは、自分の能力次第。少しでも、自分をうまくアピールして、少しでもサラリーの高いところに就職できれば締めたものだ。だから、自分の能力のアピールはものすごい迫力だ。すこしでも知識があれば、自分はその仕事のプロだから、何でも任せてくれという。ところが実際に仕事を任せてみれば、プロジェクトマネージャーでも、仕事の段取りはできない、行程管理はできない、そして、レポートも書けないなんていうのがザラである。

残業をすると、能力が足りないと思われるのでは、かれらは自分の仕事が終わっていようが、いまいがお構いなく、定時で帰宅する。なかには、二勤のある者など、フレキシブルをよいことに自分の勤務時間をかってに変え、早出、早退を思いのままにしている。理由をつけたり、言い訳をするのはお得意のところ。ましてや、議論になったら、なまりのある英語でまくし立てるから、いい加減でこちらが折れてしまう。時間外までして仕事をしているのは、定時で仕事を終えることのできない、能力の足りない者のすることぐらいにしか考えていないので、自分の能力のないことを認めたがらない彼等は、決して残業をしないというわけである。

 

どんなに忙しくても、バケーションは取って当然。

 年間の就業時間が決められているので、その時間働いていればサラリーは削られることはない。バケーションは当然と認められた権利であり、これを行使しないのは、少しも美徳ではない。まさに、「何のために働くの」との感覚である。特に、三月には、日本の企業の場合には、年度末ということで、いろいろなレポートをまとめる時期。データが必要なのに、当の担当者は、私にはレポートなど関係ないといわんばかりに、サッサと一週間くらいの休みをとる。しかも、それが、1人や2人ではないのだ。特に事務所のサラリーで働く連中はひどいもの。こんなことで腹を立てようものなら、普段から、その準備をしていないあなたが悪いくらいにしか思われず、かえってそれを咎められる羽目になる。

 

  まったくゼロの、会社に対す帰属感

 業績上げてもサラリー上がらず、微々たるボーナス、魅力なし。昇進もなければ、退職金もなし。こんな会社に長居は無用、これが現地の従業員の意識。サラリーがジョブで決められているから、そのジョブが変らない限り、自分のサラリーも上がらない。昇進すれば、勿論サラリーは上がるが、会社も、どんどん昇進させると、ところてん式にみんなのサラリーが上がり、人件費が膨らむ。これではたまらないので、上のポジションが空いても、内部昇進をさせず、外から、人を雇ってくる。あわよくば、その時に、サラリーを下げたり出来るというわけだ。だから、上司のしていた新しいジョブに適応する内部昇進の障壁は高い。ましてや、退職金などないから、何年いようが、サラリーも上がらず、年だけ取っていく。長居をする理由がないから、会社に対する帰属感など全くない。会社の情報も、自分の知っていることは、できるだけ次の会社で役立てようとする。自分の知識が最大限生かされ、高く評価されるのは、同業の他社に移ることだ。そんな気持ちで仕事をしているから、自分に入ってきた情報は他人には漏らさず、自分の机のなかにしまいこんでしまう。ほかの部署の部下に情報を与えても、その情報が上司に流れるかどうかは保証できない。いや、そんなことはまずないと考えるほうが自然だ。情報がなくなるばかりでなく、ものもなくなる。仕事上、自分が会社の費用で手に入れたものは、自分の仕事についてくるもの。次の担当者がそれを使うかどうかはわからない。それなら、転職するときに自分もそれを持ち出す。会社に対する考えはこんなものである。

 

  講習を修了したら、サラリー上げろ  

  自分のサラリーは入社するときのジョブ・ディスクリプションで決められる。サラリーを上げるには、自分のジョブを拡充いるしかない。しかし、会社にとっては、不必要な能力、スキルは不要である。だから、会社の求めるものと自分の自己啓発の方向が一致していれば、サラリーを上げるために一生懸命努力する。しかし、現在の自分がいる会社では、周りのひととのバランス、自分の勤続年数などを加味されると少々の自己啓発では、サラリーのアップに結びつかない。そこで、会社が必要とみとめた外部講習に、熱心に通う。時間内で、外部の講習で技術を身につけることができるし、なにしろ、講習を修了すれば、自分に箔がつく。この箔がつくことをよいことに、今度は、会社に対して、サラリーのアップを要求してくる。日本人的感覚なら、会社の現状業務の延長で、本人のために講習に行かせたのであるから、その成果を会社に対して発揮するのは当然。賃金アップなんてとんでもない話と思うのであるが、そうは行かない。自分のスキルが上がったとなると、途端、それを売り物にして、職探しをはじめる。講習の修了書があるから、自分はその分野のプロだというわけで、これまで以上のサラリーの職をみつけ、さっさと辞めてしまう。これでは、会社はなぜ講習に行かせたのか、全く意味がない。しかし、こんなことは日常茶飯事でおきている問題だ。

 

  情報は、他人に教えちゃ、価値がない。

 自分のもっている情報、あるいは、業務の内容を他人に教えてしまうと、たちまち、それで自分の存在価値が薄れてしまうと考えている。確かに、業務の内容を上司に報告して、それが、自分以外の人にもできることであれば、すぐ人員合理化の対象になってしまう。だから、自分の業務の内容はできるだけ、自分の机のなかにしまっておく。そうすれば、上司も簡単には、他から人を連れてきたり、まわりの人にその仕事を回すことが出来ない。情報を漏らさないこと、みんなで共有しないことがわが身をまもる知恵なのである。自分にしか分らないことであれば、ミスしても、人に気付かれずに修正できる。自分の業務の内容を決して他人にもらさず、業者との取り決めなども、上司に報告しない。よほど、関係部署のひとがあれこれ知恵を絞り、まわりの情報を整理し、全体をよく把握していないと、長い年月の間にはとんでもないことになる。私のかかわっていた製造現場では、ある業者から、年間、200万ドルくらい原料を購入していた。長い業者との付き合いのなかで、お互いに便宜を図り、うまく行っているようであった。データはコンピューターに入力し、一括管理をしていたのであるが、毎月、原料の購入量を修正している。その修正は、当初は現場の使用量の把握が、不正確だとばかり思っていたが、数ヶ月、原料の購入についてチェックをしてみると、業者との馴れ合いで、時に、10パーセントくらい余分な請求が来ていることが分った。原単位は購入量を修正した数値で出していたので、誰もこのことに気付かない。そこで、購買を通さず、現場で在庫管理をし、業者からの購買システムの見直しをした。その結果、なんと、毎月、2,000ドル近く、余分に支払っていたことが判明した。これは、年間にしてみれば、20,000ドルにもなる。決して小さな額ではない。しかし、ミスをしていた当人は、すべて業者に任せていたほうが、間違いもなく、また、いろいろと無理がお願いできるからそうしておいたと平然としている。勿論、そんな言い訳が出来るわけがない。この担当者、後に解雇されたのは言うまでもない。

 

 実力なくても、肩書き立派

  入社するときに、ジョブ・ディスクリプションで、その人の能力をチェックするのであるが、これは、机上での試験。実務の試験ではないので、あれが出来ます、これも出来ます、何でも出来ます、と自己PRはとても上手だ。履歴書をみれば、少しかじっただけの業務でも、自分はプロだといっても、余程のことがない限り、ばれることはない。しかし、実務の実力の程は、全くだめということがしばしば在る。三ヶ月の試験採用の期間はあつても、一度内定するとなかなか、これを止めさせるのは難しい。ジョブ・ディスクリプションでは、仕事の内容は記述されているが、その仕事の処理振り、仕事の出来具合の評価までは記述されていないから、なかなか解雇の理由を見つけられないのだ。そんなわけで、企業のほうではなかなか満足のいく技術者、管理者を確保することができない。

 もともと、日本の企業にくるアメリカ現地の人のレベルは必ずしも良くない。過日、アメリカの2009年米優良大学のランキングが発表されたが、トップはなんと、厳しい規律で知られる陸軍士官学校だった。2位はプリンストン大学、3位はカリフォルニア工科大学、日本でも知名度の高いハーバード代、エール大、スタンフォード大は、5位、9位、そして、10位だったとのこと。アメリカの超優秀な学生は、軍に行くのである。軍や国の研究機関であれば、もちろん、世界のトップの内容の研究が、ふんだんな予算で研究できるのである。その次が、GEとか、ボーイングとか、フィリップス、デュポン、アップルといった、アメリカの一流会社にいくのだろう。そして、二流どこのアメリカの会社にも入社できないような人が日系の会社に勤めてくるものと思われる。とにかく、同じ技術レベルの人であれば、アメリカ企業の場合には、日系企業の3倍くらいのサラリーをとっていると思えば間違いない。ましてや、アメリカ中西部に流れてくる技術屋ともなれば、その程度は押して知るべしである。残念ながら、彼等には、日系の企業は、出世の出来ない職場であり、アメリカの企業に勤めるための一次的な避難場所と思われているのではなかろうか。

 

5.  アメリカ人に欠けているもの

  アメリカ人と一緒に仕事をしていて、何故、こんなことが理解できないと思うことがしばしばある。しかも、それは仕事上の能力ではなくて、サラリーマンとしてのモラルの問題だ。こうしたものは長年の生活習慣から生まれたもので、そこを理解しないと彼等とうまくやるのは無理かも知れない。日本流の考え方にするには、根気のよい指導と、サラリー面での配慮が必要なのかも知れない。そんなことを順不同にまとめてみたい。

 

 月極めの感覚がない。 

  彼等は、勿論、カレンダーはあるが、一年間を通して、どれだけの目標をかかげ、どのようにそれを達成するかという考えがない。そのため、毎月の目標達成のための整理などは苦手だ。われわれは、一月単位での整理が、ある程度の結果がまとまり、状況の把握がかなり正確で、また、仕事の軌道修正には手ごろな期間であると考えているが、彼等は、一年たって、結果を見ればそれでよいと思っている。かれらの生活は日曜から始まり、そして、土曜で終わる。一年間は、この50回の繰り返しで、何も、それを便宜的に12で分けた月ごとに仕事の整理をする必要などないと思っている。在庫などもいい加減なもので、しっかりやっているようでも、月末が土日にでもかかれば、その前の金曜日だろうが、次の月曜日だろうが、とにかくお構いなしである。売り上げにしてもしかり。月末で占めることなどない。それより週末で占めるほうが合理的と考えているのだ。勿論、売り掛けや、買いかけなんていう感覚はないので、いま、現金がいくらあるかしか分らない。したがって、毎月の損益など、滅茶苦茶だ。ものを買うときには、納入業者は、オーダーをもらっても、銀行の預金の状態を問い合わせ、銀行に現金がなければ注文に応じないことがある。したがって、経理はとにかく、今、会社は銀行にいくら金があるかだけをチェックしている。こんな状態だから、年度末に、それまでの予測では会社は、相当な利益を上げていると思っていても、いざ年度末で占めて、売り掛け、買いかけを整理してみたら、黒字どころか、赤字だったなんていうこともある。経理のプロが現地で管理しない限り、こうしたリスクは当然のことである。

 

 間違っても誤らない。

  彼等は契約社会であり、また、訴訟の国でもある。仕事の上でミスばかりしていると、それは、ジョブ・ディスクリプションに記述されている仕事を遂行できなかったということになる。だから、ミスしても、なかなか自分の過失をみとめない。間違っても、

 

それを、周りの人がみつけ、サポートするのが、周りの人の仕事でしょ。

自分の過ちは、上司の指導が悪いから起きたもので、自分には責任はない。

自分は神様ではない。神様ではない人間には、誰にも過ちを犯す可能性はある。

その過ちは、すでに、先日教会で懺悔した。だから、もう自分には罪はない。

 

こんな理屈を平然と並べて、自分の過ちを認めないのである。下手に認めれば、それは、会社に対して、解雇の口実を与えることになる。だから、責任逃れがまず先にたつのだ。

 

 残業しない。

  残業するのは、家族愛がない。

  自分のサラリーは、定時の時間内でする仕事に対して払われるもので、残業をしてまで頑張る必要はない。

  残業しているのは、自分に処理能力が足りないから、残業をしてカバーしているのだと思われる。

  二勤の仕事があるので時間がない。

  子供の迎えがあるので残業できない。

  ボランティアで、街の子供たちとスポーツをすることになっている。

  

 理由はともかく、とにかく残業拒否だ。会議があろうが、会社の上司の命令があっても、残業は拒否する。これでは、期限の来た報告書が間に合わなくても、ほったらかしになるのは当たり前。

 

 効率向上の精神はない。

   効率を上げて、業績が上がっても、自分のサラリーは上がるわけではない。なのに、苦労してまで効率向上などやる気はない。また、下手に効率が上がれば、自分に余分な仕事がかぶさってくる。

 

 無駄を省く意識はない。

   無駄という感覚が少ない。決められたとおりに、決められたように作業をしていれば、そこに無駄があっても、それをカイゼンする意識は全くない。変更したことに対しての責任をとりたくない。失敗すれば、それが解雇に繋がる。だから、基準を守り、一年間、何の進歩がなくても満足しているのだ。

 

 会社に対する帰属感がない

  特に、日本企業に勤めている人に多いことかもしれないが、外国資本の会社に働いていることの後ろめたさと、屈辱感からか、企業に対する帰属感は全くない。長いこと努めても、また、会社の業績に寄与しても、退職金があるわけではない。毎月のさらりーも、同じ仕事をしている間は上がらないし、少々のスキルアップもなかなか評価してもらえない。というより、評価の基準がないことが多い。そんな企業だから、いつ会社をやめて転職してもいいと考えている。むしろ、転職しないとサラリーが上がらないという考えが、普通であるから、転職志向、つまり、これは会社に対する帰属感の欠如は当たり前なのだ。

 

 6.  まとめ

 以上のような状況であるが、ここで、これらを、個人と企業との関係、そして、個人と社会との関係、個人と国家との関係ということで整理をしてみたい。

 

個人と会社との関係は?

 会社と個人との関係は雇用契約がすべてである。これにより、個人は義務と権利という意識をもつ。義務は、ジョブ・ディスクリプションに書かれていることを遂行していれば、ベネフィットを得ることができる。サラリーが保証され、バケーションを取ることが出来、そして、会社の保険を行使することが出来る。バケーションは、毎年、全部使いきる。アメリカは医療費が高いので、会社の保険制度は非常に重要だ。会社は、本人のみならず、家族の面倒まですべて見なければならない。これが、従業員には魅力なのである。アメリカでは、年収により、診てもらう街の医者のランクが仕分けされている。良い医者に見てもらおうと思うと、企業に勤めていることが前提になる。そんなにまでして、会社は面倒をみているのに、従業員のほうには、会社に対する帰属感は全くない。これは、これまでには何度も述べたが、退職金がないこと、昇進が難しいことなども大きな要因ではないかと思う。州によって雇用法がことなるので、何処に会社があるかによっても、就業規則の制約や、福祉厚生の内容がかわるので注意が必要だ。

 

 個人と社会との関係は?            

  まず、アメリカ人は残業をしない。その1つの理由に、定時以降は、ボランティアをしているひとが多い。家族サービスも大きな要素だ。日曜日には、教会にいくことが日課になっている。同じ教会に行くひととは友達になるが、よその教会に行く人とは、一線を画す。ましてや、日曜に教会に行かない人は、信心の薄い人として蔑まされる。その教会で、かれらは、宣教師から説教を聞き、懺悔をする。前の一週間で自分の犯した過ちを告白するのである。すると、その過ちを犯した罪を、キリストが自分のかわりに背負ってくれると信じている。だから、懺悔をすれば、自分の過ちは許されたのだと、かってに思い込んでいる。そんな本人に次の月曜日に、過ちを咎めると、その件は、すでに懺悔をした。いまさらそれを問題にするのは、差別ではないかと本気で反論していくるから、始末におえないが、これが事実だ。過ちは神の前では告白するが、他人の前で認めると生きてはいけない。それが、契約社会なのかも知れない。

 

  個人と国家の関係は?

  アメリカは、50の州の合衆国だ。ところが、アメリカでは、この州により、消費税率も違えば、雇用法も異なり、また、交通規則も異なる。州は独立した国と思えば間違いない。だから、彼らは他の州のことより自分の州のことが大事なのだ。環境問題もしかり。たとえば、東部海岸地域の州では原子力で発電しているが、中西部では火力発電が主力だ。だから、連邦政府で炭酸ガス削減のため、火力発電を規制しようなんていうのは、現実離れした議論である。そんなことをしたら、冬に電気のない状態で寒さを凌がなくてはならない州が沢山あるのだ。現地の状況、つまり、石炭を露天掘りしているワイオミングから、数分おきに石炭を満載した、100両連結の列車がネブラスカの大平原を横断しているのを見れば、そのことが良く分る。

  アメリカには現在でも、500部族にも及ぶインディアンが保護居留区で生活している。その保護居留区はアメリカ全土に散らばっている。このことは、ここがもともとインディアンの国であったことを如実に示している。そのインディアン達を狭い土地に閉じ込め、インディアンと争いながら、この大地を開拓してきたのは、現在、アメリカを背負っている世代の曾おじいちゃん、あるいは、そのおじいちゃん達である。当初は、この地には、薪にする木も、家を建てる材木もになかった。大地に穴をほり、草葺の屋根の下で、この地を実り豊かな農場にしてきたのだ。その歴史、インディアンとの戦いの歴史であり、また、自然との闘いの日々であった。そんな苦労を、アメリカ中のいたるところでうかがうことができる。大統領のリンカーンは、現代人は当時の苦労を忘れてはならないと、ネブラスカに国立の博物館、Homestead National Monument of Americaを設立した。ここから、アメリカの西部の開拓が始まったというわけだ。この国は、私の先祖が作ったものだという意識が非常に強い。

 

 日本の企業は利益が上がれば、それを日本に持ち帰る。しかし、アメリカは市場が大きいし、また、未開発の地域は沢山ある。ここに工業を興すには資金が必要だ。一部の裕福な人達を除けば、アメリカにはまだまだ沢山の労働力がある。その雇用を確保するために、どんどん資本を投入してほしい、と考えている。アメリカを支えているのは、税金なので在る。だから、利益は、税金で還元してほしいのだ。税金を払っているアメリカ人は、日本の企業が利益を持ち帰るなら、アメリカに税金を払うアメリカの会社に利益がでた方が良いと考えている。これが高じて、日本の企業がアメリカのメーカーからものを購入しようとすると、コストダウンしてメリットが日本企業にでるよりも、業者のほうに利益が出たほうが、アメリカに税金が入るので、コストダウンの必要はないと考えている。理屈は、まことに理にかなったものである。日本企業がアメリカで、存在感を確立するには、本社をアメリカに移すことを考えるくらいにしないと無理ではないか。税金はアメリカ人としての市民権を得る最低の条件だ。

 

 では、どうするのか

  以上、アメリカでビジネスをする場合、現地の人たちの考え方、そして、価値観について説明してきたが、こういう考えの人たちと一緒に仕事ができなければ、日本から離れて仕事をすることができない。価値観の異なる人たちと議論をし、仕事をスムーズに進めていくには、そして、会社の業績を上げていくにはどうすればよいのか。一番、大切なこと、価値観の違う彼等と信頼関係を築くことだ。価値観の違いをその壁を取り除くことは用意ではない。しかし、お互いに信頼感があれば、現実の問題を一緒に解決しようという協調の態度は生まれるはずだ。そのために必要なこととはなんであろうか。まず、かれらには、実務の出来ない人は信用されないということを心がけたい。どんなに立派なことを言っても、また、どんなに夢を語っても、現実の問題を解決する力がなくては、かれらはまったく相手にしてくれない。特に、具体的な問題が持ち上がった場合、的確な分析と、効果のある処置をする必要がある。とくに、前例のない問題では、解決策は、なにが正解であるかが分からないので、試行錯誤をする必要があるが、その取り組み方、熱意、そして、専門知識の奥の深さなど、その行動パターンにしっかりとした裏づけがあるかどうかで、見方が変わる。そして、彼等を動かすには、言い古された言葉ではあるが、

 「やって見せ、言って聞かせて、させて見せ、ほめてやらねば、人は動かじ」

そのものである。

じゃー、どうするか。 結論は、  

  敵を知り、己を知れば、百戦危うからず

である。

 どうするかは、皆さん方自身の問題ですが、是非、こうしたことを頭に入れた上で、一度、海外にでて、実際の問題に自ら、その解決策をさぐる努力をされてみてはいかがでしょうか。幸いにして、グローバル化を目指して、海外でビジネスをするチャンスに非常に恵まれている会社にいるわけですから、自ら志願して、自分の力を試されてはいかがでしょうか。