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本社の誤解

 アメリカの市場は大きい。世界の消費経済の30%を占めている。人口は日本の2.3倍だから営業効率はかなり良い。アメリカで開発された製品を高い特許料を支払っても、日本の高いもの真似技術と効率的な日本の生産技術を使えば、開発費は要らないし、関税の自由化でアメリカにもって行けばどんどん売れる。こんなに日本の製品が売れるのだから、現地で生産すれば、輸送賃がなくなり、生産規模の拡大でさらに製品は安くなり、膨大な利益が生まれるはずだ。少々の言葉の壁など、ものづくりは人間をあいてに仕事をするのではなく、ものが対象なのだから、技術さえしっかりしていれば、そして、その技術の管理がしっかりできていれば、何の問題もなかろう。それでも、多少の日常会話ぐらいはできなくては困るだろうから、短期に英会話の訓練くらいはさせて、アメリカに技術屋を送り込め、という具合で、日本のメーカーのアメリカ進出が始まる。

 

 最初は、日本の駐在員も、海外勤務手当てと日本の給与の二本立てで、海外勤務は出世コースであった。ところが、実際にアメリカでものづくりを始めると、なかなか思うように利益が上がらない。そして、そのうちに駐在員の給与も、事務屋さんが、いまや外国は決して遠くないというようなことを言い出し、なにも海外勤務手当てなど不要とのことで、本国の給与にすこし色をつけたぐらいの給与で、社員を海外に派遣する時代になった。

 

そして、いまや、アメリカに進出した部品メーカーの大半は、アメリカの現地製造会社の赤字の処理に大変な苦労をする時代になった。確かに、不景気になり、生産量が思うように増えないところに原因の一端があることは間違いないが、しかし、アメリカ進出の現実は、日本の本社が理解しているほど甘くないというのが、いまの現状ではなかろうか。

では、一体、どこに日本の本社の誤解があるのだろうか。

 

 そこで、私の短いアメリカでの生活、そして、アメリカ中を見て歩き、アメリカ人の価値観の背景などを考えながら、この原因がどこに潜んでいるのか、そして、これからのアメリカへの進出に不可欠な要素について、考察してみたい。

 

人件費は3

 ご存知のようにアメリカは長い間、ものづくりの技術を支配してきた。その結果、彼らは、同じ能力をもつ日本のサラリーマン、従業員の三倍の給料、そのうえ、縦割りの労働組合に入っている人たちは、終身の保険などの福利厚生が保証されている。ちなみに、ある営業マン、彼の能力は、日本の営業マンと比べて特別な能力を持っているとは思えないのだが、年棒は21万ドルであった。また、ある新卒の建築士の資格を持っているという人の給与は、8万ドル。これらは、サラリーマンのごく一般的な話である。また、時給、つまり、Wage workerの給与を見ても、一流会社に勤める人たちは、$2025/Hrは、ざらである。日本の同じような仕事をする人達の時給が1,0001,500円程度と考えると、これが如何に高いかが分かる。このことは、アメリカでものづくりをすると、固定費の中に占める人件費は、日本での人件費の3倍はかかるということだ。だから、アメリカに進出する日本の企業が、FSをやるときには、どんな技能レベルの従業員を想定しているかにもよるが、日本人スタッフと同じレベルの人を必要とするなら、そのための人件費は3倍必要ですということ。

 

 ところが、現実はどうかというと、FSをするときには、日本人の給与並みか、あるいは、せいぜい、1.5倍程度の給与で現地の人間を雇おうとする。あるいは、実際にその給与であっても、人は集まるのでこれで収益計算をして、2年も経てば、あるいは、3年も我慢すれば利益が出る、などと稟議書を回す。ここに、アメリカ進出失敗の要因が隠されているのだ。確かに、日本人の1.5倍もの給与を出せば、これはアメリカのトップレベルの技術者は無理にしても、まあ、日本人スタッフ並みの人間は集まるだろう。少々のレベルの低いものは、そのあとの社内教育をしてやれば、これで十分にいけるはずだ、と本社にとっては、大判振る舞いをしたつもりになる。

 では、実情は如何であろうか。たとえ、日本人の給与の1.5倍のサラリーを提示しても、アメリカの技術屋の手にする給与の半分程度。しかも、そこは、文化も価値観も違う、そして、アメリカ進出といっても、利益はすべて日本に持ち帰るような腰掛ビジネスしかしていない東洋の敗戦国、日本の企業だ。そんな会社に来るアメリカ人の心情を考える必要がある。そもそも、アメリカの優秀な大学、そして、そこで優秀な成績の人間、技術者はアメリカの民間企業なんかには就職しない。大体は、予算がふんだんにあり、人生に大義名分のたつ国防省、つまり、軍にいく。彼らの給与と、終身の保証はわれわれの想像以上のものがある。そして、その次に優秀な人たちが行くのは、政府、ないしは大学関係への就職だ。じゃあ、民間企業にはどんな人たちが行くかといえば、超一流の会社であれば、このクラスの人たちの一部が集まるかもしれないが、大体は、やや優秀程度の人たちと思えば間違いないであろう。そして、普通の民間会社、ここで、普通というのは、アメリカで市民権を得ているアメリカに本社をおく大手の会社ということ。これが、アメリカでは、学業でも、また、人格的にも普通の人間がいくところ。そして、忘れてはいけないのは、彼らの給料が、日本のおなじレベルのサラリーマンの3倍程度の給料を手にしているということ。だから、日本の企業にくる技術屋となると、こうした企業に入ることができない連中が応募してくるのだ。かれらのレベルは、はっきり言って、中の下くらいと思えばよいだろう。この人たちは、アメリカの普通の会社には、入れない連中なのだ。だから、1.5倍程度の給与でも働かざるを得ないのである。こういっては失礼だが、如何に、トヨタ、ホンダが日本で超一流の会社とはいえ、それは、日本でのはなし。アメリカの社会にしてみれば、確かに利益は沢山上げているが、その会社は、東洋の狂ったような経営手法でアメリカ市場をかき回しているに過ぎない会社。そんなところで、自分の人生の目的まで失って働くような人間は、アメリカ社会でははみ出し者のいくところ、くらいにしか見ていないのである。

 

 本社が高い人件費を出して、優秀に人を集めたにしても、このことを払拭することはできない。ましてや、少々の高い給与くらいで、日本と同じような効率でものが生産できると思ったら大間違い。このことをよく調査したうえで、アメリカ進出工場の運営を云々すべきかと思う。

 

 会社に対する帰属感は全くなし

 

 日本人は実によく働く。なぜか。それは、日本人には一つの企業に長く勤めることが美徳の象徴であるかのような考え方がある。長年勤務すれば、退職金も増えるし、また、会社の中での地位も、勤続年数によって上がっていく。これが、一昔前までの日本の企業の姿だったのではないかと思う。最近になり、必要な人は派遣社員でまかない、仕事がなくなれば人員の整理をしてゆく。こんな姿が会社の経理状態をよくしているかのごとく、言う人たちがいる。しかし、その典型的なのが、アメリカの社会であり、そのアメリカの企業の実態がどうなっているかをよく観察してみる必要があるのではないか。

 アメリカの雇用は、職務ごとに人材を調達する。仕事の内容を公にして、その仕事に対してサラリーを提示する。雇われる側と会社がこれで合意すれば、契約を結び、社員として採用される。派遣社員ではないので、一度社員に採用するとなかなか解雇はできないが、しかし、その反面、こうして雇われたアメリカの社員の感覚は、全く日本の派遣社員と一緒だ。その顕著な姿は、一口で言えば、会社に対する帰属感というものが全くないに等しいということ。

 そもそも帰属感というのは、個人的には業績をあげ、昇進、昇格、そして、昇給をすることを目的に、会社に対して貢献しようという姿勢だ。それは、その結果として、退職金がもらえる、社会的な地位はある程度は確保できるというもの。それが会社を通して実現するのだ。しかし、派遣社員は違う。かれらは、仕事のプロだ。契約に書かれた仕事をして、契約した報酬を得れば、あとは会社に対しては何の借りもなければ貸しものこらない。仕事が終了すれば、さっさと会社を辞めて、次の仕事を探すというわけ。ボーナスもなければ退職金もない。そんな会社の将来の発展など、全く眼中にないといってよい。これがまさしく、ボーナスも決してないわけではないが、その額はすずめの涙ほど、そして、何十年勤務しても退職金が払われないアメリカ人のサラリーマンの会社に対する態度だ。彼らは、今、居る会社で新しい知識や技能を身につけたら、あるいは、少しでも、それに携われば、自分はまるでその道の一流の技術者であるかのごとくのアピールをして、さらに高い給料を求めて転職するのである。一つの会社で長いこと居るのは、こうした転職ができない、あるいは、向上心のないことの証拠。大体が、高い給料を求めて転職しないような亭主は、家族の幸せを考えていないと女房から非難されるほどだから、かれらは、会社の発展などということには何の興味もなく、自分の次の職業をいつも探しながら、今の会社に来ているのである。

 これに加えて、会社が外資系の会社であれば、その会社の本社がアメリカにあるならともかく、アメリカのビジネスで設けた利益を、ことごとく日本に持ち帰ることを考えているような日本の企業をどのように見ているのだろうか。

 こんな話がある。ある購買担当者。アメリカの業者からものを買っているが、日本のトップは、いつも、コストダウンの交渉を迫っている。でも、業者にコストダウンをさせても、儲かるのは日本の会社。会社が儲けたからといって自分の給料が上がるわけではない。それなら、業者のいう提示価格で買って、その会社が少しでも儲けたほうが、アメリカに税金が沢山入ることになる。だから、なにも、目の色を変えて、原料や部品のコストダウンなど、やる必要がない。アメリカの業者を大事にしたほうが、国のためになる。日本の企業の勤めるアメリカ人がこんな風に考えてもちっとも不思議ではないのである。

 

 自分が努力して、日本の企業に設けさせて、その利益を日本に持ち帰るなど、アメリカ人のすることではない。アメリカ人なら、アメリカの利益になることを考えるべきで、自分の会社が儲からなくても、自分と取引をするアメリカの会社が儲かれば、そのほうが理にかなっていると考えている。

 

 帰属感のない社員になにができるか。

 

日本では、サラリーマンが副業を持つことを禁止しているし、自分がアルバイトをしているなどということは、あまり公にはできないことだ。ところがアメリカでは、サラリーマンが昼間の仕事とは別に夜の仕事を持つことはざら。自分の回りのアメリカ人と比べ、あるいは、自分の実力からすればもっと給料が高くていいはずなのに、それと比べれば給料が低いと思っている彼らは、当然、手当てのつかない残業など、ばかげた話。むしろ、残業する連中は能力がないから、ぐらいにしか思っていない。彼らは、定時になればさっさと帰宅し、次の仕事場に急ぐ。スーパーのカウンターで働くもの、病院の経理をするもの、仕事は様々であるが、これは間違いなく豊かな生活を確保するための術なのだ。それが高ずると、昼間の仕事で疲れると、夜の仕事がつらいから、昼間はできるだけ体力のいる仕事はしない、失敗してもその日のうちに取り返そうなんていう気はさらさらない、文句を言われる前にさっさと帰宅する。ひどいものになると、定時では夜の仕事の開始時間に間に合わない。そこで勤務時間がフレキシブルであるのをよいことに、自分の勤務時間をかえてします。あさ、一時間早く来て、定時の一時間前には帰ってしまう。会議があろうが、トラブルがあろうが全くお構いなし。そんなのが、一人や二人ではない、半分以上のアメリカ人がこんな感覚で会社に来ているのだ。そういう彼らに、会社に対する帰属感などあるはずがない。ましてや、業務改善や定期的なレポート提出など、彼らは全く聞く耳持たずの精神状態なのである。

 

社内教育など、全く無益

 

 終身雇用が前提であるような日本のサラリーマンは、大学卒の定期採用で、仕事に対する経験が少なくても、また、どれほど仕事ができるか不確かなところがあっても、将来の業績に対する貢献を期待して、かなりの初任給を出す。会社は、そうした人材を社内教育でレベルアップし、世界に通用するビジネスマンに育てていく。一つの会社のなかで、昇進していくためには欠かすことのできないプロセスだ。しかし、アメリカでは、それぞれのポストには、社内外から公募し、その職務の契約をする。つまり、一人ひとりが契約社員なのである。だから、この契約のもとで働く社員は、その契約の中に書かれたジョブをこなせば、サラリーが保証されている。ジョブが良い結果を出してもそれは当然のはなし。それでサラリーが上がることはない。反対に、ジョブを十分全うできなくても、自分なりの能力でその仕事をそつなくこなしていれば、サラリーは間違いなく手にすることができる。だから、現在の職務を効率的にとか、業務を改善しようなどという気はさらさらない。社内教育をして、レベルアップを図ろうと、新しい技術や、職務に挑戦するように指導するが、その結果は、自分は新しい、また、一段上の技術を身につけたのだから、仕事をする前に、まず、サラリーを上げてほしいという。もし、そうでなければ、彼らは、その教育の成果をアピールして、さっさと新しい仕事に転職してしまう。つまり、下手に社内教育をすれば、それは、どこか新しい仕事を探して、もっと高級の職業に就きなさいと勧告しているようなものだ。会社が金を出して、社外講習に行け、などといおうものなら、彼らは、このときこそチャンスと勉強し、そして、その講習の修了証書を履歴書に列記し、高いサラリーの職業を探し回っている。こんな状態だから、会社は、必要な人間は社内教育をして育成するなんていう手間はかけず、安い給料で新しい人を雇おうと必死になっているのである。

 日本の企業では、社員が複数の職場を兼務、あるいは、いろいろなプロジェクトに一人のひとが掛け持ちで参加することがある。日本では当たり前のこのようなことをアメリカでやろうとすれば、これに納得してついてくる人間は、自分の業務暦が増えたことになり、大喜びでがんばる。しかし、三ヶ月もして、その仕事の内容が分かれば、実務はできなくても、その仕事の内容を知っているということで、立派に履歴書には実務暦として書き加えることができる。こうして、現状のサラリーの2倍、3倍の職業に転職していくサラリーマンはいくらでもいる。安全問題を担当するということで入社してきた女性。いま、注目されている環境問題についても担当させてくれと言ってくる。会社は、一人で二役もしてくれるのでこれは助かるとおお喜び。そして、外部の講習会、役所との会議、内部資料の整理などをまかせ、新しい資料や、測定具など、どんどん金を使って彼女を育成する。ところが、半年もしないうちに、彼女は自分の職歴に、安全・環境問題担当。システムを作り、大いに会社に貢献などと書いた履歴書を引っさげて、大手の会社にマネージャーとして採用された。給与は一揆に3倍とのこと。そのあと、その会社は、今度は、人事の人間が、安全と環境問題を兼務して仕事をしている。これが日常茶飯事でおきているアメリカのビジネス社会のサラリーマン根性なのである。

 

給与のアップしない昇進など、拒否

 

 日本と違い、アメリカの住宅物件は安い。2000万位で、大きな庭付き、ガレージつき、ベッドルームが三つもあり、なんていう物件はざらにある。が、安いといって、つぎからつぎへと、サラリーが終身で保証されていないサラリーマンが家を購入し、ちょっと不景気になり、家のローンが払えなくなり、これが、アメリカの経済破綻につながったことは周知の事実。かれらは、家のローンと日常生活費が払えれば、そのほかの贅沢はあまりしない。贅沢より、家庭内の充実した生活が大事なのだ。それには、まず、家族とともに過ごす時間をしっかりと確保できること。子供の世話、学校の送り迎え、地域のボランティア活動、庭の手入れ、そして、レジャーなどが仕事よりも優先されるのである。契約でサラリーが決まっているし、そのサラリーは昇給することも期待できない。ましてや、ボーナスはないのだから、大体は今の現状に満足している。もっとサラリーのほしい人は、他の会社に転職するほうが手っ取り早い。下手に社内で昇進し、ちょっとのサラリーアップなど受け入れれば、時間の拘束だけがきつくなり、家族からは不満が出、ひどい場合には離婚にさえなりかねない。そんな状況だから、責任ばかり、と言っても、アメリカの場合、上司の責任というのは、ほとんどが時間的な拘束が増えることぐらい。年間サラリーの決まっている部下の給与を査定するような職務上の権限はほとんどないし、また、新しい仕事の企画をするにしても、現存の部下はそんな企画には協力しようともしない。となると、企画した自分が一生懸命やるしかないのだ。そんな状態だから、少々の給与のアップなどで昇進して、拘束時間だけ増えるのでは割があわない。こんなことは誰にも容易に分かる。社会的な名声と、実益が伴う昇進の場合は別として、ほとんどの場合は、こんな昇進は拒絶するのが普通だ。

 

社外講習は、転職のため

 

 より高い給与を求めて、転職するのは、家族のため、そして、自分の名声と名誉のためと考えているアメリカ人は決して少なくない。これが当たり前だから、普通のアメリカ人は、日本の人事異動の感覚で転職している。転職しても、職務を納得した上だし、契約書に書いてあるジョブディスクリプションに書いてないことまでやる必要はないのだから、さして、新しい職場に移ることに障壁が高いわけではない。こういう事情を反映して、大学でも実務の習得には特に力を入れているようだ。でも、実際には社会での実務経験を如何に充実させていくかが非常に大事だ。そこで、彼らは、夜間学校に通う。仕事は定時に帰るのが当たり前だから、通勤時間のほとんどかからないかれらは、毎日数時間の学校生活は用意にできる。とりわけ、実務を教科の内容にしているコミュニティーカレッジなどに通う人が多い。2年くらいで、卒業となるから、彼らは、その肩書きを引っさげて、職探しをするのである。家が安いし、アメリカ中どこに行ってもしっかりした収入さえあれば、生活には困らない。やる気のあるサラリーマン、そして、家族を幸せにしようとがんばるサラリーマンは、ほとんどがこうして自己啓発をしている。でも、それは、今の会社に貢献しようとしてやっているのではないことをよくよく知る必要がある。

 こんな話がある。ある自動車の部品メーカーのエンジニア。なかなかのやり手だが、設計のために、新しくCADCAMシステムを導入した。もちろん、これには、それを使いこなす技術を習得しなければならない。会社は、当然のことながら、これを使いこなして仕事の効率化を図ろうというのだから、数十万も出して、その講習に派遣する。そして、講習が終了し、会社でこのシステムをつかい、三ヶ月もしたら、このシステムを使いこなすことができるようになった。そこで、彼は、自分は新しい技術をマスターしたのだからサラリーを上げてほしいと社長に直談判。確かに、アメリカ人にとっては当然の話し。自分にはそれだけの能力があるし、これを使えば会社に貢献できるはず。それなら、これだけのサラリーはもらって当たり前と来るわけだ。会社は、サラリーを上げるために講習会に行かせたのではない、と説明しても、そんなことは通用しない。なら、自分はその実務能力と経験を履歴書に書いて転職するといってサッサと他の会社に移っていった。そこで、新規プロジェクトのマネージャーとなったそうだが、そこまでは良い。そのあと、自分の新しい仕事の助っ人として、こんどは昔の自分の部下の引抜を始めるのだ。そうなると、会社にとっては二重の痛手。一体、何のために社員のレベルアップを図っているのだ。まさしく、社外講習への派遣など、コミュニティーカレッジと同様の意味合いなのである。彼らは、会社から派遣されて、技術の習得のために社外講習に出かけることほどうれしいものはない。おお喜びなのだ。日系の会社に勤めれば、最初のサラリーは安くても、自分に転職の準備とサラリーアップのチャンスを与えてくれるのだから、こんなに素晴らしい会社はないと思っている。まさしく、自分の履歴書に箔を付けてくれるのだ。日本的なやり方で、こんな社内教育を推進していると、やがて、それが如何に無駄な金であったかを思い知るのだ。

 

 

東洋人に命令されたら、それは、「人種差別だ」

 

南北戦争による奴隷解放、そして、公民権運動の結果の人種差別の撤廃。もはや、アメリカには、肌の色や、風俗習慣、価値観の違いなどに基づく人種差別などなくなったと、多くの人が思い込んでいる。しかし、アメリカは広い。そして、まさしく、種種雑多な人たちの国、沢山の独立国家とも言うべき州の連合体なのだ。そこに人種差別がなくなったなどという甘い考えは全く感じられない。たしかに、人口の集中する東海岸や西海岸は、差別などほとんど感ずることはないかもしれないが、アパラチア山脈から西側、そして、とりわけ、ミシシッピー川から西側は、いまだにアメリカのなかでも、まさしく発展途上国の感がする地域なのである。そして、こうした地域には、まだまだ白人至上主義、人種差別が歴然として残っているのだ。

 アメリカ中を旅して感じたことに、こんなことがある。アメリカの通常のレストランに入ると、そこのウェイトレスは、すべからく、白人だ。そして、全国でファースト・フードを展開しているMcDonaldの店の入ると、白人と黒人のウェートレスが目につく。最近はやりで、もう少し、割安感のあるファースト・フードのSubwayに入ると、今度は、カウンターの向こう側はほとんどが黒人の従業員。しかも、レベルがMcDonaldよりも悪いことがはっきりと分かる。創造するに彼らのウェージもこのマナーのよさに比例しているものと思う。つまり、普通のレストランには、黒人はウェートレスとて働くことが非常に難しいのだ。同じこと、衣料品などの店に行っても良く分かる。ちょっとした洒落た店の従業員に、黒人や東洋人はまずいない。こうしたところに就職しようと応募しても、まず採用されない。店の主人は、お客が、黒人や東洋人にサービスをしてもらうのを嫌がっていることを良く知っているのだ。こんな感覚が今でも歴然と残っているのが、アメリカの中西部なのである。

そのくせ、私の友人の奥さんがアメリカの有名なデパート・シアーズに採用されたときのこと、彼女は、アメリカ生活、二十五年の経歴の持ち主、もちろん話す英語に遜色はない。その彼女、東洋的なスマイルと、その接客の良さ、そして、面倒目のきめ細かいこと、これがたちまち評判となり、彼女の売り上げは、たちまちアメリカ中のコンペで優勝するほどのものだったという話がある。白人の売り子のサービスの悪さ、そして、ものを買いに来たお客には、品物を売ってあげるような態度がアメリカでは通常、まかり通っているのである。にもかかわらず、従業員に白人以外の人たちを採用に踏み切れないのは、彼らの意識の潜在的なところに、未だに人種差別が残っているからなのだ。

そんな彼らだから、日系の会社に勤務していても自負心、つまり、ここは白人社会の国であり、東洋人や黒人は、自分達の国に出稼ぎか、生活のために仕方なく来ている人種なのだという意識が底に流れている。ましてや、ろくに英語も喋ることのできない日本人など、まさしく、いまだに、影でジャッブとよんでいる、そんな意識で会社に来ているのである。

そして、あるとき、彼らの仕事振りをチェックし、かれらのやるべき仕事をメモに書いてわたし、それを実行するように指示したが、これも一向にやらない。何度いっても、やらないし、自分のやり方を変えようとしないので、ある日、「あの件は、どうなっているのか」と聞いたら、「I don’t know.」と平然としている。そこで、「これは、お前の仕事だろ。ちゃんとやれ」と、叱ったら、たちまち、「そんな言い方は今までされたことがない。これまでのアメリカ人のマネージャーはこれでよかった。それを、きつい言葉で命令するのは、これは、人種差別だ」と言い出す始末。また、これを、人事担当が真に受けて、指示の仕方が悪いと言い出す。こんなことが、平気でまかり通るのが現実なのである。彼らには、彼らの言い分があるかもしれないが、こんなことが人種差別として問題にされるということは、かれらの意識の中に、人種差別が未だに残っているという証拠以外の何者でもない。

言葉の壁、風俗、習慣の違い、そして、宗教の違いなど、すべてにわたり、自分達こそが正義であるという意識が未だに残っているということに、これから国際社会、とりわけ、アメリカに進出する場合には注意をしなければいけないと思う。

 

報告書をだすと、自分の身が危ない。

 

 日本なら、毎月自分が遂行した仕事をまとめて報告書を書く。これをもとに半期ごとのボーナスや、毎年の年間業績の査定が行われるから、自分の実績をできるだけ細かく報告しようと努力する。また、プロジェクトにしても、定期的に報告会をひらいて自分のやってきたことをきめ細かく報告する。そして、結果の分析と、今後の方針、予定など誰が見ても理解できるようにまとめるのが慣例になっている。これにより、周りの人も自分の仕事の内容を理解し、その人が障壁に突き当たったときなどは、これを助けようと協力してくれることになる。これが日本の普通の会社の組織的な活動ということになろう。

 アメリカに行っても、同じように従業員が毎月の報告書を書くと誰もが思う。ところが実際はどうだ。彼らは、まず、毎月報告書を提出するなんていう意識は毛頭ない。なんで毎月報告書を書かなければならないのだ。自分の仕事は自分で責任をもってやっているので、他人には知ってもらう必要などない。また、自分の仕事にとやかく言われるのは、自分の能力のないことを指摘されているようで、そんなことに時間をさいてまで仕事をしたくない。大体、自分のやっていることをこと細かく報告していたら、仕事の内用が公になり、自分の存在意義がなくなる。となると、会社はもっと安いサラリーの人間を雇い、自分は職を失いかねない。そんな馬鹿げたことはとんでもない話だ、と思っている。

 もともとアメリカ人には、月単位で仕事をするという習慣がない。もちろん、サラリーのひとは、月ごとにサラリーを受け取るので、月が代わることぐらい分かっている。しかし、自分の仕事の業績を毎月まとめて、評価するなんてことは何の意味もないものと思っている。仕事が月により代わるわけではないし、また、月が代わったからといって、自分の職務が代わるなんてことはない。仕事は、淡々と、そして、なんの変化もなく続いているのである。今月に間に合わなかった仕事は、継続してやればよいし、世の中はどんどん

変化しているのだから、何も、毎月、どうのこうのと議論したところで何の意味があるのか、といった調子だ。だから、たとえば、購買部門にしても、今月いくら買い、いくら買いかけが残り、在庫がいくらあるかなどというのは、全く意味のない議論だと思っている。日本人の経営者は、毎月の経理状態を把握し、前年度と比べて、どんな変化があったかなどと議論しているが、ビジネスの流れのなかでは、そんなことは一過性のものであって、それに時間をかけて報告書をつくるなど、時間の無駄に過ぎないと考えているのだ。彼らにとって大事なのは、いつでも銀行に金があること。だから、売り掛けや、買い掛けがいくらなんていうのは、全く意味のないことと思っているようだ。こんな調子だから、会社の帳簿もいい加減なもの。期末になって、売り掛け、買い掛け、在庫を調査するが、これが一年間分を一揆にやるものだから、このときには会社の業務を停止してまとめる。でも、そのときには、わけの分からぬものが続々出てきて、やたらとその他の項目に巨額の金が計上されたりするのである。

 こんな状態だから、一体、会社が儲かっているのか、どうかがよく分からない。売り上げが極端に落ちているのに、会社には儲けがあったり、年末には、二年分くらいの材料在庫があり、これを一度に処理して、会社が思いもかけず大赤字なんていうこともある。如何に、アメリカ人が大雑把とはいえ、会社の経理がこんな具合では、到底、日本式の経営管理などおぼつかないのである。

 

残業やるなら、転職する

月締めの感覚がないから、彼らには、仕事のタイムスケジュールの管理ができない。否、そんなものを管理する必要などないと考えている。自分の能力で、勤務時間のなかで仕事をしていれば、それでサラリーは保証されている。期限など守らなくても、誰も文句は言わないし、サラリーがそれで下げられることもない。そんな意識だから、残業などもってのほか。ところが、日本的な経営からすると、サラリーマンは仕事をすることで契約しており、仕事が済むまでは、どれだけ時間がかかろうが終わりまでやり遂げるのが当たり前と思っている。ここで、大事なことは、アメリカ人は、サラリーは、自分の能力で決められた時間のなかで仕事をしていれば、それに対する代償であって、仕事がやり遂げられたから支払われるというものではない、と考えている。もし、それでも自分が仕事をやり遂げられない場合には、自分に対する負荷が高すぎるということだから、会社は、自分に助手をつけてくれと、言わんばかりである。こんな調子だから、毎日の仕事か、定時が来て、終了していなくても、あるいは、一緒にプロジェクトをしている日本人スタッフがまだ仕事をしていても、自分はさっさと帰ってします。他の部門への必要な連絡もしなければ、遣り残した仕事の報告もなしにである。こんなときに、サラリーをもらっているのだから無理やり残業して仕事の切の良いところで帰れ、と言おうものなら、たちまち、次の日から、職探しをはじめる。彼らにしてみれば、安い給料で働いて、なぜ、そんなに責任ばかり押し付けられるのかと、いうわけである。

 

失敗しても、その対策を採らない会社が悪い

アメリカが契約社会からなのか、とにかく、自分のしくじりに大しては、徹底的な言い逃れをする。仕事でミスしても、絶対に自分の過ちを認めようとしない。トラブルが発生したとき、周りの人間がその対策に大わらわしているとき、とうの本人は、机にすわり、一生懸命、言い逃れを考えているのであるから、あきれてしまう。あるとき、購買の担当者が発注を忘れた。たちまち、原料の在庫が切れそうになり、大騒ぎとなる。そして、何とか対策がとれ、一件落着したあとの、その張本人の言い草は、こんな調子。「確かに、私が忘れました。しかし、人間には忘れることは誰にでもあること。だから、私には非は有りません。ですから、これから会社は、私が忘れているということを確認できるような組織にしてください。」 これが、ミスをした人間の言い逃れである。ごもっとも、ご立派といって済ますことができるでしょうか。でも、これが実態です。

 こんな話を聞いたことがある。ニューヨークに事務所をおく日系の大手商社の話。そこには、人種差別問題が常に存在し、アメリカの法律で、黒人を何lかの割合で雇用しなければならないとのこと。そして、入って来た社員の話。あるとき、会社の経理報告に大きな誤りが生じ、大事になったのだそうだ。原因を調査したら、これが、コンピューターへの入力間違いだったのだそうだ。明らかに、その黒人の社員のミス。しかし、彼は自分のミスを認めようとはせず、「自分は、入力は正しくした。しかし、そのときに限り、コンピューターの調子が悪く、正しく作動しなかった。そのためにトラブルが生じたので、自分は、なんの落ち度もない。」と居直り。そして、次の日に、二度と同じミスをしないようにと念を押したら、「そのことは、すでに昨日報告して、処理済のはず。なんで、同じことを何度も、指摘するのか。それは、人種差別ではないのか」と逆に噛み付いてきたのだそうだ。日本的に考えれば、「ふざけんな。」といいたいところだが、これがアメリカのビジネスの現場の実態。どこの会社でも苦労している現実なのです。

 

有給休暇は、100l消化。 一割の効率ダウンはあたりまえ。

 

サラリーマンは、ジョブディスクリプションに従い給料が保証されているので、雇用契約に書かれた権利は100l行使する。会社に対する帰属感や、奉仕をしようなどという気持ちはさらさらないので、有給休暇もサラリーのうちと考えている。入社後、数年も経つとだいたい年間20日程度のPaid Vacationがもらえる。通常、一週間の休みをとると5日間の有給休暇を使うので、この計算では、まるまる一ヶ月は休みを取れることになる。これを平然と毎年、年末に行使するサラリーマンがいるのである。日系の会社であれば、年度末は沢山の報告書をまとめなければならないときに、これをやられる。普段からレポートを書くことのない彼らは、年間の集計がどんな風になっているかなどというのは、全く意に介していない。そして、日本人のスタッフだけが汗水流してかれらの仕事を補填しているのである。長年勤続を是とする日本的社員管理では、年間の有給休暇はよほどのことがない限り行使はしないが、毎年、恒例のように休みをとられると、これは人件費がそれだけ高くつくことになる。つまり、有給休暇の分だけは労働効率が悪く、支払っている人件費より10l程度は自動的に高くなることが当たり前なのだ。いくら、サラリーの人間は、仕事をどれだけして、何ぼだと説得しても、かれらの価値観は、頑張ったからと言って、褒賞がでるわけでもなし、結局は、サラリーは同じなのだから、なにも、契約書に書かれていること以上に仕事をする必要などない。そんなにまでして頑張るのは、家庭を顧みない、貧相な人生観を持っている人以外の何者でもないと見ている。こんな従業員のモラルで、効率的な仕事ができるわけがなく、また、少しでもコストダウンをして収益の向上を目指そうなどといっても、これは、馬の耳に念仏ぐらい。かれらには理解されない。

 

安い給料、バックマージン当たり前。

 

 ただ、かれらが必死になって仕事をするときがある。それは、設備や、材料を買う予算が認められ、そして、その購買の担当者になったとき。これは、会社のお金を公然と使うことができるばかりでなく、業者を選定する権利を行使できる。もちろん、数社の競合見積もりで、最終的な納入業者を決定するのであるが、そのときには、必ずしもコストが安いから決めるわけではない。担当者は、業者の評価をするのに、その業者の質を見る。その質とは、自分にバックマージンを期待してのその業者のサービス振りだ。これに大変気を使う。業者のアフターサービスなど、実際に実行されないと評価できない部分もあり、書いてあることなどはどうにでもなる。そこで、ほとんどは担当者の判断一つで決定される。そのときに、業者と担当者の癒着が始まる。業者は何がしかのバックマージンを提供する。アメリカの購買システムでは、このバックマージンを手にするのは、業者に対して便宜を働いてあげたお礼であるから、別段悪いものでもなんでもないと考えている。否、むしろ、お互いの利益があるのだから、当たり前のことなのである。たとえ、会社が少々高い買い物をしたところで、それは、会社の問題。自分にはなんの関係もないことである。それよりも、自分は、よそよりも安い給料で会社のために働いているのであるから、こうした利得はあって当たり前と考えている。だから、購買担当者が、業者とトラブルがあると、自分の会社のことよりも、業者の都合ばかりを強調し、業者をかばったりしている。こんな話がある。

 原料を購入するときに、納入が遅れた。これで、会社は、生産スピードを落とさなくてはならなかった。理由は、雪のため道路に交通規制があったという。アメリカでは、雪による交通規制など日常茶飯事。だから輸送業者はそのときの対策はちゃんとしている。しかし、それても遅れた。これは、業者の落ち度であるのは間違いない。業者に厳重に対策をとるように申し入れることを指示すると、「雪で遅くなったのは、天然災害。これは如何しようもないので、納入業者には落ち度はない。それにクレームをつけるのは、業者との関係を悪くする。関係が悪くなると、よいサービスが受けられないので、私はやらない。」と。また、逆に、こちらの都合で、受け入れ態勢が十分でなく、引き取りが遅れると、今度は、「業者にこちらの責任で迷惑をかけた。一時間につき、数百ドルの弁済をしたい。現場の責任者が認証してくれ。」とくる。これでは、いつも、業者の立場で仕事をしており、一向に事態が改善されない。そこで、業者との取引契約はどうなっているのかと正すと、そんなものがあると自由が利かなくなかる。かえってこちらの要求が通りにくくなるから作らないほうがよいという。こんな状態で数年間も平気で続けている。調査をしたら、その結果、その業者に対して、年間20万ドルの過剰支払いをしていることが判明した。これだけの利益を上げていた業者は、たちまち業績が悪化。すると次には値上げを要求してくる。しかも、それを業者の言いなりになり鵜呑みにして認めているのである。もともと、その道のプロでもない人間に購買を任せて、月報も無し、業務の解析もせずに任せている会社に責任があることは確かだが、それにしても、こんなことが平然とまかりとおる国であることに十分注意が必要ではないかと思う。

  

では、この現実の問題を解決するには如何すればよいのだろうか。

 優れた人事担当者を雇いなさい。

     ( 人事担当者に、金をかけろ  )

 アメリカのビジネス社会のすべてがこうであるとは限らないが、いわなるコンチネンタルのアメリカ人のサラリーマン根性というか、彼らの習慣というものはこんなものではなかろうか。日本の企業は、アメリカ進出にあたり、先進国の労働者なのだから、日本人以上の仕事をすると思っている。確かに、一部の猛烈アメリカ人もいる。そういう人たちは、確かによく働く。しかし、一般の雇用人のレベルは、どんなものであるかを冷静に評価しておく必要がある。というわけだ、これらは、一例かもしれないが、彼らの価値観からすれば、当然の姿であることがわかる。

 アメリカの一流会社は、これまで、世界の生産技術というものをリードしてきた。それが社会で認められ、技術者、サラリーマンは福利厚生まで含めて、非常に高いサラリーを得ている。そうした高いサラリーを得ることができるのは、それを支える安いサラリーで頑張る人たちがいるからであるが、私の知るかぎりでは、日本の会社の人事部が期待するようなビジネスマンのサラリーは、日本人の給与の2倍から3倍もらっていることは確かだ。日本的にいえば、会社に対する帰属感を持ち、ビジネスを良くしようと頑張るサラリーマンを雇おうと思うなら、日本人の3倍の給料を支払わなくては、そういう人たちは日本の企業には来ませんということである。ということで、会社がアメリカでビジネスを展開するときには、まず、日本人並みの仕事をする人を雇うのであれば、日本人の3倍の給与を支払う、か、さもなくば、日本人並みの給与でくる従業員は、日本的な表現をするなら、なんの専門的な知識ももたず、学歴もない連中しか来ないということを承知したうえで、どちらの道を選んでビジネスを展開するのか、スタディをすべきと思う。それには、まず、人事担当の人間がアメリカという国をもっと知るべきと思う。そして、最初にアメリカでの人事管理のしかたを確立し、その効果を確認した上で、工場進出、技術移転の段階に入ることが良いのではないかと思う。つまり、まずは、人事担当者が出かけていって、モラールの高い会社をどのように作るかの戦略をつくるべきなのだ。そのために人事担当者を本社が用意するか、もしくは、現地の優れた、その仕事の成果を期待できるような人事担当者を雇いいれるかだ。現地の担当者の場合には、何度も言うようであるが、日本人の担当者の3倍程度の給与を提示しなければ、期待するような人材は確保できない。たとえ、その給料が現地の日本人社長の給料より高くなったとして、現地にしてみれば、それが当たり前の給料なのだ。これを惜しんでいては、現地に良い会社を作ることなど程遠い。

 

そして、技術移転に言葉の障壁は問題にならないなどというのは、昔の話。いまや、情報の均一化が始まり、世界中がいつも最先端の技術を使える。技術移転も、しっかりとした意思疎通がないかぎり、世界で競争できる生産技術は出来上がらない。技術屋が言葉の障壁で余分な神経を使わないように、そのサポーターは欠かすことができない。これだけの手間隙と、コストをかける決意がなければ、アメリカに進出しても思い通りの利益を上げることはおぼつかないと言っても過言ではないだろう。

 

 何でもかんでも社長が口出しするな

       (組織の権威を明確化しろ )

 

 アメリカの従業員は、一人ひとりが雇用契約をして、仕事の内容とサラリーが決められている。それに加えて、これまでも述べてきたように、もともとが会社に対する帰属感が薄いので、会社のために何とかしようなどという気はない。となると当然、モラールは低いし、業務の内容も一人よがりの判断で、自分の好き勝手に仕事をする。組織はあっても、上司の言うことなど意に介しない。別に上司の評価が悪くても、サラリーがさがるわけではない。また、出るとしてもすずめの涙程度のボーナスなら、なにも、いやな仕事をして頑張る必要などない。つまり、組織のなかで頑張らなくても、自分のサラリーが下がる、あるいは、解雇される心配など全くない。こんな状態だから、組織がうまく機能するはずはないのだ。組織をまとめる立場にあるマネージャーも、部下を評価したところで、それで部下の給与が左右されるわけではないので、何の意味もない。仕事上、組織上のボスとはいえ、ボスの権威が発揮でき、部下がボスのいうことをよく聞いて、その期待に応え様と頑張るのは、それにより自分のサラリーが決まるときだけだ。日本の企業の場合には、現地の社長ですら、そんな権限を持たないときがある。あったにしても、いつも本社の顔色を伺いながらの、給与査定であるから、全く組織内の命令系統が有名無実となっている。あるサービス部門の担当者。組織上、自分は、社長直轄の部署となっている。他の部署で不都合があり、その部署の部長が、トラブルの改善を依頼したら、その本人の言い草は、こうである。「自分の上司は、組織上社長だ。他の部署でトラブルがあったにしても、私は社長の指示がなければ動くことはできない。だから、仕事を私にしてほしければ、社長に指示を頼め。」という。これが、契約社会の弊害だ。彼は、だからと言って、雇用契約に書かれていることに違反しているわけではない。たとえ、会社の仕事がこれでうまく回転しなくても、それは自分責任ではないし、また、サラリーを下げられる心配はない。ましてや、それで解雇になるわけでもない。そして、自分は暇な時間をもてあまして、あっちの部署に行き、こっちの部署にゆき、油を売って暇つぶしをしているのである。雇用契約を見る限り、かれらに、職を失う、サラリーが下げられるという危機感はまったくない。もし、それができるとするなら、それは、社長以外にはいないから、自分は、まずは、社長に取り入り、社長のご機嫌取りばかりを考えるようになるのである。組織の機能を十分に発揮させ、モラールを高めていくには、従業員の危機感と、権限の委譲をしっかりと明確にする必要がある。ボスに対する報告の怠慢、業務指示にたいする怠慢、拒否、そして、目標を達成できないものは、しっかりとその評価をして、減給、解雇ができるような仕組みをつくることが大切だ。日本のボーナス制度が優れているというわけではないが、少なくともボーナスには業績が反映するし、短期の成果が評価されなければ、期待するボーナスは得られないと理解されている。このシステムを必要とはおもわないが、しかし、業績を上げたときには、その成果に対して、しっかりと褒章を与えるシステムを作ることが必要ではないかと思う。それも、すずめの涙ほどではなく、一ヶ月分の給与くらいを出すべきであろう。それでないと従業員の会社に対する忠誠心など生まれるわけがない。

 

 最近は、社内E-mailのシステムがしっかりして、社員の誰でもが直接社長に直談判できるような形ができている。何の権限もない上司にいちいち報告するなど面倒この上ない。必要なら社長に直接話しができるのだ。上司に文句を言われても、自分は社長と直談判して、直接指示をもらっているので、文句を言われる筋合いはないという。これでは、中間管理職の立場はまったくない。責任だけ追及され、なんの権限もないのでは、組織があっても、機能しない。会社の仕事は、組織で仕事をするということをもっと意識すべきである。よく、私のところには毎日、何百というメールが入り、私はその対応に毎日忙しい、などという人がいるが、これはまさしく、組織がうまく動いていないことの裏腹の現象。権限の委譲と、意思判断の機能の委譲ができていれば、必要最小限の対応済むはず。如何に少ない時間で指示をするかということのほうが、上に立つひとには大事なのではなかろうか。

対外的な窓口は、以前は、その組織の長が責任をもってあたることが当たり前であったのが、いまでは、社内メールで、有名無実化しているのだ。社内のモラールを再構築する必要があるが、これには、一つは命令系統と、そして、報告義務をしっかりとすること。このことに経営者は十分な注意を払わないと、組織の効率的な運営はできない。社長にはいつも、自分の権限の委譲をどのように進めるべきかの創意工夫が必要なのではないか。

 

                    2009/07/01

                                        ( 鈴木 誠二 )