アメリカ東岸白鯨ツアー1
 
鯨文化・熱中人の人々9人が”『白鯨』の地・米国ニューイングランド探鯨ツアー”
に出かけました。男性6人女性3人の賑やかで楽しい旅になりました。

6月13日土曜日に東京新宿で事前の『顔合せ・打合せ会』を開き、新型インフ
ルエンザも沈静化し, 心配はほぼなくなり予定通り7月8日の出発と決まりました。

7月8日6人は朝成田出発。7月8日朝シカゴ着、乗換午後ボストン着。 早く出発された
3人と合流。 レンタカーで一路南下、フェアフェブン・ニューベッドフォードに向かいました。

7月8日午後ニューベッドフォード・フェアフェブンに到着しました。橋を挟んで
二つの市は接し、沢山の漁船・ヨット・クルーザー・冷蔵庫等が見られました。教会の
ような高校の古い大きい建物、立派な教会、昔の捕鯨船長や船員が住んだと思われる
外壁を20a位の四角の板で覆う木造民家が立ち並ぶ落ち着いた町並みなど、
石の文化と共に木の文化も満喫しました。街を歩いていると魚貝の匂いが
して、昔は鯨の匂いがさらに加わった漁港だったと思われます。平地ばかりのため

日本の漁港漁村の印象とはかなり違いがありました。漁船はダブルリガー型。
二つの小型底引き網を両舷に曳く仕組みです。ホタテ貝・ハマグリを海底から
追い、掘り出し袋状の網に入れる仕掛けに自動車のタイヤが多く使われていました。
(New Bedfordではこの底引き網を使う船をScalloperと Dragger
(groundfishing boats)といっております)
またロブスターを、篭に餌の魚を入れて捕る「ロブスター篭」を積んだ小型漁船も
見ました。米国でもロブスターの料理はお高いようです。クラムチャウダーが有名で
小さく丸いクラッカーを入れて食べる洋風?スープが美味しいと思いました。

街には鯨の絵・鯨を捕る銛(モリ)をモチーフにした大壁画・商標・看板が
方々で見られデジカメで撮る素材が山ほどありました。フェアフェブンの
ジョン・万次郎が世話になった捕鯨船長の家・ニューベッドフォードの
鯨グッズ店・書画店等、市内を散策し、探鯨のしまくり。

7月9日はニューベッドフォードの市立図書館・ニューベッドフォード捕鯨博物館見学。
博物館と博物館図書館の非展示資料の見学。昼食時博物館のフランク博士、ラッセル館長との
会食をしました。街中・鯨関連施設・骨董店やクジラグッズショップ・ビジターセンター
などで大いに探鯨を楽しみ、さらに心行くまで博物館とミュージアムショップも見せてもらいました。

フェアフェブン・ニューベッドフォード 

ジョン万次郎関連史跡
  
遭難していたジョン万次郎を助け、アメリカへつれて帰り育てたホイット・フィールド
船長の墓がフェアフェブンにあります。船長の家もあり、聖路加国際病院の日野原重明
先生などが保存活動をされております。万次郎が通った小さな学校跡もありました。

アメリカの捕鯨船”ジョン・ハウランド号”のホイット・フィールド船長が、難破し 鳥島
にいた5人の日本人漁師達を救出。その中の最年少者であった土佐出身の(中浜)万次郎
が 船長に同伴してアメリカ行きを決意。それが日米の友好関係を結ぶ最初の絆になった。
  西暦1841年6月(JOHN HOWLAND Whaleship by Arthur Monizの絵葉書より)

鎖国時代、アメリカの捕鯨船に遭難漂流中の日本人の多くが救助されています。 
これだけ多くのアメリカ捕鯨船が日本近海:ジャパン・グランドに来ていた訳です。

1824年 ナンタケットのオーロラ号(Aurora)、 日本人9人救助
1839年 ナンタケットのゼンロッパ号(JamesLoper) 長者丸漂流民7人救助
1841年 ニューベッドフォードのハヲラン号(Howland)土佐漁民5人救助
1843年 マンハッタン号(Manhattan) 漂流民22名(幸宝丸・千寿丸)救助
1852年 アイザック・ハオラン号(Howland) 永久丸漂流民4名救助
1852年 ペリーの日本遠征艦隊サスケハナ号(Susquehanna)に栄力丸の
漂流民16名が、サンフランシスコから香港に送られた後、移されている。
外国船が漂流民を救助して日本に引き渡そうとしても鎖国日本は
当初、外国船を拒み漂流民を受け取ってくれませんでした。
万次郎も鎖国日本に帰れば殺されると思っていたくらいです。 

アメリカ捕鯨船の規模
1844年:捕鯨船は644隻、総トン数は200,484d、全乗組員は17、600人
1846年:捕鯨船は735隻、総トン数は233、089d。
(内ニューベッドフォード所属は254隻、ナンタケット船は75隻)

1847年:全世界の捕鯨船数はおよそ900隻といわれ、米国船は722隻(80.2%)。

1853年(ペリーが来航した年):捕鯨船は661隻、総トン数は206,286d、乗組員は20,000人。

2万人のヤンキーホエラーと捕鯨船が太平洋に来て多くの鯨を捕っていました。

船名は原文のまま(参考資料:「黒船異聞」:川澄哲夫著・発行:有隣堂)


ホイット・フィールド 船長(左)と二人の夫人 (中・右)の墓。

再婚した奥さんが万次郎を温かく育てた夫人です。広々とした墓地
に、アメリカの小さい国旗がたてられている墓が結構見られました。
日本では国旗がたてられている墓など、殆ど見ることが出来ません。
「国旗」や「国歌」を大事にし自国をを誇りにするアメリカが
ここにありました。フェアフェブンの家々には大きい国旗、
クロスした小さい国旗を立てている民家が多く、古い家には建築年月
(例1860年等)が表示されており歴史を残していました。
 
万次郎の歴史

万次郎が救助されたJOHN HOWLAND号(Whaleship)By Arthur Moniz

1827年 土佐国中浜村(高知県土佐清水市中浜)の漁師の次男に生まれた。
1841年1月万次郎14歳。延縄漁の操業中に嵐にあって漂流。
5日半の漂流後、無人島の鳥島に漂着、奇跡的に助かる
1841年 6月28日ジョン・ハヲラン号が5人の土佐漂流民を救助。
143日間鳥島の無人島生活をした万次郎も無事救出された。
1841年11月20日万次郎が乗ったハヲラン号はオアフ島ホノルル入港。
1841年12月 2日ハヲラン号オアフ島のホノルル出帆。
万次郎は船名のジョンの名でハヲラン号に乗り組むこととなった。
土佐の他の4人はホノルルに残留した。

1843年 5月 8日故郷のバザース湾に投錨・この捕鯨漁は終了した。
3年6ヶ月・抹香油の収穫は2761バレルと記録されている。
万次郎は一先ずフェアへブン・チェリー・ストリート11番地
にあるウィットフィールド船長宅に落ち着くことになった。
間もなくウィットフィールド船長は再婚して、郊外にある
シカントネッキの農園に移り、万次郎も一緒に住む。
万次郎は英語力不足のため、「小学校」からやり直して猛勉強。
小学校は10ヶ月ほどで終わり、専門学校ハーツレ・アカデミーで学ぶ。
捕鯨の経験と努力により、専門学校は優秀な成績で卒業した。

1846年5月16日フランクリン号ニューベッドフォードを出帆、
喜望峰周りで日本漁場に向かった。この船にジョン・万次郎が乗り組んだ。
フランクリン号は、長い航海の末、グアム島アプラ港に入港した。
     1847年3月12日万次郎は、鎖国している日本の外国捕鯨船に対する仕打ち等
の悪い情報を得てウィットフィールド船長に「琉球に上陸し、港を開き捕鯨船が
薪水食料を補給出来るよう努力する積り」と夢のような手紙を出す。
外国船の漂流民に対する救助、暖かいもてなしと比べて、日本の 
冷たい仕打ち、取調べ、拘留など違いを痛感していた万次郎でした。
フランクリン号グアム島を出帆、琉球に立ち寄ったが
万次郎の日本への帰国計画は実らなかった。
フランクリン号船長が狂乱の病にかかりマニラに降ろすこととなる。
        
1848年1月19日万次郎が乗ったフランクリン号はマニラ出帆。
エイキン一等航海士が船長となり、航海が再開された。
このため、万次郎は「鯨突き」の一等航海士に選ばれ昇格。
1848年10月17日エイキン船長のフランクリン号ハワイに辿り着く。
1848年11月3日万次郎が乗ったフランクリン号は
ホノルルを出帆、アメリカへの帰港の途につく。
? 万次郎はシカントネッキにあるウィットフィールド農園に帰る。
元船長はアメリカの鯨捕りになることを万次郎にすすめる。

1849年11月27日万次郎はシテギリシ号でニューベッドフォードを出帆
カルフォルニアのサンフランシスコへ渡る。万次郎はシテギリシ号船長に
日本への思いを話し下船する。
万次郎、ゴールドラッシュに沸く金山で大金650jを稼ぎ日本への 帰国の意志を固めた。
万次郎は商船イライゼ号に乗り、オアフ島に渡る。
残っていた土佐漁民3人と会い「帰国の意志」を伝える。
1850年12月17日万次郎、筆之丞、五右衛門の3人は上海行きの商船
サラボイド号に乗船。購入した捕鯨ボート「アドベンチャー号」も乗せる。
ハワイ・ホノルルを出帆し、生まれ故郷の日本に向かった。
1851年1月2日琉球沿岸に着く。万次郎たちは捕鯨ボートに乗り移り、
琉球本島の摩文仁間切小渡浜に上陸した。万次郎は25歳になっていた。

上陸後、万次郎は直ちに捕らえられ持ち物もすべて没収され、詮議を受ける。
その後、万次郎たちは、琉球、薩摩、長崎へ送られる。
1852年1月22日ペリーは東インド艦隊司令長官、遣日使節の内命を受ける
1852年8月25日万次郎たちは長崎での吟味も終わり、土佐(高知)に送られる。
土佐(高知)でも長い取調べを受ける。

1852年11月16日万次郎は中ノ浜の故郷に帰り着く。

1853年7月8日東京湾・鴨居の沖合いにペリーの黒船艦隊が並んで停泊。
日本の御用船が横付け。日米の交渉が動き出した。
1853年7月25日江戸の土佐藩邸に幕府から「万次郎に関する書状」が届く。
1853年9月3日呼び出された万次郎は土佐(高知)城下を発し、10月2日江戸へ着いた。
幕府要人にアメリカの政治情報を話し、アメリカ捕鯨船のための開国について
意見を述べる。
薩摩藩の島津斉彬、土佐藩主山内容堂や江戸幕府の
老中阿部正弘などに開国をすすめた。やっとフィールド船長への思いを果たした。
残念ながら幕府とペリーとの交渉の場には万次郎は顔を出していない。

帰国後、幕府に登用された中浜万次郎は国益と航海術の
習得にもなるとして捕鯨振興を幕府に建議した。
1857年4月 万次郎、築地軍艦教授所の教授を命ぜられる。
1857年11月万次郎、幕命により函館に捕鯨伝習に出張。
函館丸へ行くも乗組員が敬遠、思いを果たせず江戸に帰る。

1860年 日米修好通商条約批准書を交換の遣米使節団の一人として
咸臨丸に乗ってアメリカに渡った。
ウィットフィールド船長にも会っている。
    1859年〜1863年万次郎は幕府から「鯨猟之御用」を仰せつかり、
3回小笠原諸島におもむいてアメリカ式の捕鯨を試みたが成功とはいえなかった。
帰国後の登用・ねたみ・試験操業の失敗等万次郎の「栄光と挫折」がみられる。

1868年 開成学校(東京大学)の教授に任命される。
1870年 普仏戦争視察団として欧州へ派遣される。
1898年万次郎は71歳で死去。墓は東京雑司ケ谷霊園にある。 
 
(参考:黒船異聞 川澄哲夫著 有隣堂、    捕鯨U  山下渉登著 法政大学出版局、
   日本捕鯨文化史 矢代嘉春著 新人物往来社)     

ニューベッドフォードの市役所の前にある街の風景等 
 
鯨の絵や捕鯨船・銛類の看板等が見られます。写真の”The Black Whale”
はT-シャツ屋さん。土産物屋さんも多くクジラグッズ等が
沢山売られていました。日本では鯨本は非常に少ないですが、鯨・捕鯨・
捕鯨船の鯨本や絵・ポストカード・版画などが多く売られていました。
日本とアメリカの文化?の違いを感じました。

右の銛先を見ている像は銛の先の改良をしたLewis Templeの像
銛先が鯨体に刺さるとピンが折れてT字状になり、銛を抜け難くした。
捕鯨の効率が格段に向上し、The Temple(toggle iron) といわれました。
 
『THE TEMPLE or toggle iron』 モリの可動式頭部及びモリ数種
参考”Whales,Whaling and Whalecraft"

 
市役所の前にある捕鯨モリを投げる勇壮な銛士のモニュメント.1913年製。

『アメリカ捕鯨の歴史』はこちらをご覧下さい
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★捕鯨の歴史・アメリカ式捕鯨

映画「白鯨」の舞台になった教会
 

映画「白鯨」の舞台になった教会・船首型説教壇
教会の説教壇は、映画公開の後部屋の反対側に復元されたもの。
映画より簡素なもので少し残念!

「白鯨:はくげい」はアメリカの作家メルビルが書いた長編海洋小説です。
1851年刊。白い巨大マッコウクジラ「モビー・ディック」に片足を
噛み切られた初老のエイハブ船長が執拗に、復讐の長航海をし、赤
道付近で3日間の死闘を繰り広げ敗北、船もろとも海の藻屑になる
という物語です。捕鯨船ピークォド号の一人生き残った青年
イシュメルという乗組員に語らせる設定になっている。

(THE CHASE-MOBY DICK by Arthur Moniz)
メルビルも捕鯨船に乗った経験から、書いているのでアメリカ式捕鯨
の教科書的価値があります。沢山の本が売られていました。
"MOBY-DICK" A Picture Voyage By Herman Melville
をゲットしました。定価30jを21jで購入。
海洋・航海・捕鯨法・漁具類・鯨体解体法・鯨油製法
・鯨類・捕鯨絵画に関して詳細に書かれております。
一等航海士のスターバックは”スターバックコーヒー”にも見られ、
白鯨は数回映画化されました。グレゴリーペックの船長役は見ごたえ
がありました。日本語翻訳も多くの方が手がけています。
長編白鯨に挑戦してみては如何!努力が必要です。
小説・映画の舞台は今回訪問した各地域です。

New Bedford市立図書館

図書館にある捕鯨絵図、油絵の数々。
 
捕鯨船の模型と捕鯨船固有のプライベート旗
船のマストに飾る満艦飾の旗とは全く違う捕鯨船の『印旗』です。

アメリカ式捕鯨船隊の絵図。セミクジラやマッコウクジラを捕って
作った鯨油・ロウソクは当時、アメリカの一大輸出産業となりました。
クジラさんが人間社会に光・灯火をもたらしました。
New Bedford博物館の図書館と研究室等

「ニューベッドフォード捕鯨博物館・付属図書館の建物」
「海に棲んでいたとされる海獣(古代鯨)のイラストをマークにしている」
星座「クジラ座」にも同じような鯨絵が付いております。


ニューベットフォード捕鯨博物館・ケンダル研究所・所長・
歴史学博士スチュアート フランク氏の詳細な説明を受けました。

収蔵されている日本の古式捕鯨絵図の説明場面。「小児の弄鯨一件の巻」 
「勇魚取絵詞」 「鯨絵図」 「北亜墨利加州船一件」 「鯨舟絵図」 等を見せて貰いました。
 
(左)「小児の弄鯨一件の巻」(木崎攸軒盛標が作成した捕鯨図説・
「肥前国(州)産物図考」の巻物写本。原本もアメリカのピーボディ
&エセックス博物館に収蔵されている。かなりの物がアメリカに渡っています。
(右)『鯨絵図』
 
『鯨舟絵図』   『一鯨入網七浦潤』の文字
 
『古式捕鯨絵図』
 
『古式捕鯨絵図』
 
『古式捕鯨絵図』 『勇魚取絵詞」
 
 『鯨絵図』
 
『北亜墨利加州船一件』
捕鯨絵画 ・ 油絵など
上の古式捕鯨図『日本画』とは大いに違いますね!洋画そのもの!ここにも文化の違い!
日本ではあまり見られないので珍しい絵画でした。掲載はごく一部です。  
 
「舷側で解剖している捕鯨操業図」 「危険な捕鯨図」
 
「三本マストのバーク型捕鯨船」       「荒れる海の捕鯨船」
 
「捕鯨操業風景・クジラは昔風」    「捕鯨船操業絵画」
資料室

資料庫は元銀行の厚い扉の金庫跡。資料庫で研究中の可愛い女子学生さん  

元銀行の金庫が資料室として使われていました。 資料室での熱心な説明場面 。
火災に強い金庫。今は扉は動かないようです。画像・映像資料、玩具等日本の資料もありました。
 
どでかい本の山々 と 貴重な印刷本が入った書棚
 
印刷本で 最も貴重なのは『ゲスナーの本』(左)とのこと・ 「ノルウェー式の捕鯨船模型」
  
NEW BEDFORD捕鯨博物館
 
 『博物館のクジラ尻尾のオブジエ』『館内フロアのクジラのスケルトン(骨格)』
未展示の収蔵スクリムショーSCRIMSHAW ・すごい未公開のクジラ資料の数々。
スクリムショーというのは捕鯨船員達が航海中、暇に任せて
クジラの歯・骨・ヒゲ板・木などに絵や形などを彫刻したり色々の形を
作ったりした物をいいます。アメリカで骨董品として売られ、
すごく高価でした。現在も技術者が歯科の機械を用いて
作り売られております。昔の船員はナイフ・針・釘・ノコギリ
・ヤスリ・サンドペーパー等を使って作る素朴なものでした。
箱・かご・置物・杖:ステッキ・ゲーム・動物・ナイフの柄・
こうもり傘の骨部・鳥かご・大工道具・印鑑・衣料ピン・リング・
糸車・女性用胸当て・針入れ・パイカッター・パイ伸ばし棒・
レターオープナーなど多くの種類がありました!びっくり!!!!!!!!!
マッコウ鯨の歯に描いた婦人像
 
 スクリムショー:マッコウクジラの歯に描かれた婦人絵。
裾が広がったスカートはセミクジラのヒゲ板で膨らませているのかもわかりません。
当時プラスチックがない時代、ヒゲ板は非常に高価、鯨油とともに重要輸出品となりました。
 
ものさし状のものはコルセットしたときに胸部に入れるものだそうです。 
腰を絞って細く見せ、胸を綺麗に見せるBUSKといわれる用具。ヒゲ板や鯨骨
に綺麗な絵や模様が彫られ、長い航海の間待っている愛する家族や恋人に贈物
として持ち帰ったようです。アメリカにもヒゲ板や骨で作った物差「クジラ尺」もありました。
   
「コウモリガサの骨」   「ステッキ:杖」   「パイ・カッター」
  
「糸巻き器」  「描かれたマッコクジラの歯」   「装飾品:リングなど」
ここではスクリムショーの画像を掲載しましたが、このほかに多くの
種類の資料が収蔵されております。また昔の捕鯨船の航海日誌:
LOG−BOOKが貴重な資料になっていて、研究・公開が待たれます。
日本ではいくらかの日誌はありますが航海日誌は保存されておりません。
博物館・ミュージアムショップ 

グッズショップと看板

マッコウクジラ・ザトウクジラ

スクリムショー 箱など

スクリムショー 入れ物など 

スクリムショー・ナイフ    壁掛けクジラの色々
レストラン&クジラの地ビール. 味も香りもさまざま!

レストランでの満足した顔・顔   箱に入った銛の絵ビール(スーパーマーケットで)

捕鯨銛を描いたビアー
 
クジラの尻尾ビアー

動物絵のビアー アザラシ・サメ
街の中のクジラたち
  
家の玄関の飾り・「可愛いマーメードとイルカ」 「冷蔵庫のザトウクジラ壁画・ワイランド作」
   捕鯨船とクジラのマーク・
骨董品屋さんの探鯨 色々ありますが歯や骨は日本に持ち帰れず残念!
 
「鯨の木箱」        「鯨の置物」


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