旅行(りょこう)、旅(たび)とは、住む土地を離れて、ひととき他の土地(場所)へゆくことである。
旅は見聞を広める。夫々の地域に生活があり、培われた文化、歴史がある。
旅は疲れを癒す事も出来る、未知への挑戦のチャンスにもなる、しかし、何もない旅も有る。
旅の先々で見た風景の写真を掲載しています。


 
法隆寺境内「正岡子規句碑」

「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」有名な正岡子規の句碑が法隆寺境内
聖霊院前の「鏡池」側にあります。子規は佐倉藩・浅井常明の長男として生まれた洋画家で明治期活躍した浅井忠とも親交があった。
法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築です、塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心として東院伽藍に分けられています、境内の広さは18万7千㎡です。
境内には飛鳥時代を始めてする各時代の粋を集めた建築物が軒を連ね多くの宝物物が伝来しています。
国宝・重要文化財に指定された物は約190件、点数にして2300点に及んでいます。
夢違観音像(白鳳時代)、推古天皇ご所持の仏像と伝えられる玉虫厨子(飛鳥時代)等々の
国宝を大宝蔵院で見学する事ができます
法相宗大本山「薬師寺」

薬師寺は天武天皇により発願(680)持統天皇によって本尊開眼(697)更に文武天皇の御代に至り、飛鳥地において堂宇の完成を見ました、その後、平城遷都(710)に伴い現在地の移されたものです。
金堂は龍宮造りと呼ばれる各層に裳階をつけた美しい堂です、堂内、中央に薬師如来、右に日光菩薩、左に月光菩薩の薬師三尊像(国宝・白鳳時代)を見学できます。
大唐西域壁画殿では平山郁夫画伯が30年の歳月をかけて完成された玄奘三蔵求法の精神を描いた壁画を見る事が出来ます。

「仏教美術資料研究センター」

仏教美術資料研究センターは、奈良公園内にあり近くには奈良国立博物館があります、仏教美術に関連する調査研究資料の作成・収集・整理・保管と、関係する図書・写真などの公開を目的として、昭和55年に設置されました。
建物は、明治35年竣工、同年奈良県物産陳列所として開館し、設計者は、建築史学者で古社寺保存修理事業に尽力した関野貞です。木造桟瓦葺で、小屋組や壁などに西洋建築の技術をとりいれつつ、外観は和風を基調としています。正面に唐破風造の車寄をつけ,窓にはイスラム風の意匠もみられます。構造・意匠に東西の要素を巧みに取り入れた明治中期を代表する近代和風建築として高く評価されています。

東大寺「大仏殿」

聖武天皇の発願により創建された東大寺の本尊は「華厳経」の教主である盧舎那仏で、
天平勝宝四年(752)四月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修された。
盧舎那仏は宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味です。
東大寺は国分寺として建立され、国家の安寧と国民の幸福を祈る道場でしたが、同時に仏教の教理を研究し学僧を養成する役目もあり、奈良時代の六宗さらに平安時代の天台と真言も加えた宗所が設けられ、八宗兼学の学問寺となり、多くの学僧を輩出しました。

「国立新美術館」
国立新美術館は、東京・六本木にある美術館である。
地下鉄大江戸線「六本木駅」から地上に出ると「東京ミッドタウン」「六本木ヒルズ」「サントリー美術館」が見えます。歴史上の著名人の墓があり、春桜の名所でもある「青山霊園」が近くにあります。
国立美術館として東京大学生産技術研究所跡地に、2007年(平成19年)1月に開館した。
設計は黒川紀章、 敷地面積、30,000m² 延床面積、47,960m²です。唯一コレクションを持たない美術館です。

「東京ミッドタウン」

東京・赤坂にある複合施設である、2007年3月に開業した。
ショッピングセンター、オフィスビル、ホテル、美術館、ホール、医療機関、駐車場、公園など、多様な施設から構成されている、最も大きな構造物であるミッドタウン・タワーは、地下5階・地上54階・高さ248mであり、それまでの東京都庁舎に代わり、東京都内で最高層のビルとなった。
一帯には江戸時代、長州藩毛利家の下屋敷などがあった、明治時代からは大日本帝国陸軍の歩兵第一、第三連隊の駐屯地となっていたが、第二次世界大戦での日本の敗戦後にはアメリカ合衆国に接収され、米軍将校の宿舎として使用された。これがサンフランシスコ講和条約発効後の1960年に日本に返還され、陸上自衛隊の駐屯地となるとともに、防衛庁の本庁舎も設置された。

「新宿御苑」

東京都新宿区と渋谷区に跨る環境省所管の庭園である、江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地である、1879年に新宿植物御苑が開設され、宮内省(現在の宮内庁)の管理するところとなったが、第二次世界大戦後は一般に公開され、現在は環境省管轄の国民公園として親しまれている、2006年に「新宿御苑」の名を冠してから100周年を迎えた。
例年4月には総理主催の「桜を見る会」11月には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催される、大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもある、新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部です。
新宿御苑は、内藤家の9万5千坪余と、当時すでに私有地化していたものの、もとは内藤家の屋敷地であった隣接地を合わせた17万8千坪(58.3ha)の土地に誕生することとなりました。

徳川家霊台(高野山)
3代将軍徳川家光によって創建された、右手が家康の霊屋、奥に秀忠の霊屋がある、神である家康の霊屋前には鳥居が立っております。
紀伊続風土記によると建立は寛永20年(1643年)に造営落成とあります、また誌で秀忠霊屋の構造材には寛永10年と言う墨書があります。
三間四方の一重宝形造で江戸時代の代表的な霊廟建築として重要文化財に指定されています。

女人堂・お竹地蔵尊(高野山)
高野山ケーブルを降りてバスに乗り高野山に向かい最初のバス停が女人堂です、江戸時代まで高野山が女人禁制であったために建てられたお堂です、女性の結界所または弘法大師を遥拝する場所、宿泊所として建てられた、高野山には女性用のお堂が高野七口と言われる登山道に有ったが現存するのは(不動坂口)女人堂だけです。
お竹地蔵尊は女人堂前にあります、案内板には「この地蔵尊は安政年間江戸の大地震でなくなられた人々のため、又自分の父母の菩提のために自分の身を仏様に捧げて30年の年期奉公し身を粉にして蓄えたお金で建てられたお地蔵様です。建立された人は横山竹さんと申される女性で江戸のかたです。女人堂前のお竹地蔵さんと崇められ、今なお多くの参拝者で線香の煙が絶えることがありません。お願い事は縁談、神学、子授、水子供養等をお聴き届け下さいます。
総本山 金剛峯寺」との説明が書かれています。

「シロアリの墓所」(高野山)
高野山の開祖である弘法大師のお墓は「奥の院」にあります。
「奥の院」の周囲には、少しでも弘法大師の近くでお墓を立てて、極楽往生したいと願って建てられたお墓が、20数万基もあるそうです。 その中には豊臣秀吉や織田信長などの時の権力者達のお墓もたくさんあります。戦国武将の方、有名な方、無名な方、いろんな方のお墓がたくさんあります。
あの大きな墓石は、近くで石が採掘出来たのか?採掘出来なければ、何処から運んできたのか?また、重機の無い時代どの様にして山に運んだのか?疑問が浮かんだ。奥の院へつづく道に「しろあり やすらかにねむれ」と書かれた「 シロアリ」のお墓がありました。
また、ロケット、福助、コヒーカップ等の墓所もありました。