龍角寺古墳群「101号墳」

印旛沼東岸域は古墳時代後期~終末期の古墳群が郡在する下総最大の古墳密集地で全体の古墳数は370基に及ぶ、その中にある龍角寺古墳群は総数114基を数え6世紀~7世紀にかけて形成されたと考えられている、写真は古墳時代後期に築造された円墳の101号古墳。
直径約25m、高さ約3.5m、2重の周溝が墳丘をめぐり、墳頂部や墳丘裾部、中堤部と張り出し部に 円筒埴輪や朝顔形埴輪、人物・動物・家形埴輪を備え、鉄製の刀、鉄鏃、馬具などが副葬されていました。
(現地案内板から)

成田山 大野屋」

 成田山の参道を新勝寺からを登ってくると古風な望楼が見えてくる。
間口8間、奥行14間の大規模な木造3階建で、入母屋屋根北東側流れに望楼を頂き、参道に向かって縁を張出す外観は、成田山の門前の風景でも異色である。
建物は平成17年2月9日(第45回) 登録有形文化財として登録されています。
建設年代 : 昭和10年 構造形式 : 木造3階建、スレート葺、建築面積603㎡です。

年末「辻斬り」の風習

私の住む地区では、「辻斬り」といわれる行事があります。毎年、年末の時期に行われます、この「辻斬り」という行事は、年末の大掃除が終わって、魔除けの役を果たす「竹にシデ付けたもの」を家の門近くにを挿し、家に悪霊が入って来ない様にするものだそうです。
歳神様を暖かく迎え、悪霊に取り付かれること無く一年家族が健康で無事に過ごせるよう祈念する昔からの風習です。

佐倉市高崎「麻賀多神社」

佐倉市内からJR総武本線の線路を過ぎて和田に抜ける道、右側、 国道51号線手前の高崎に「麻賀多神社」はあります、鳥居をくぐり神社の清められた境内に入ると清々しい感じが致します。
佐倉では鏑木町にある「麻賀多神社」が旧佐倉藩の総鎮守で、「まかたさま」と親しまれ、崇敬されて有名です、「麻賀多神社」は印旛郡市に18社あります、惣社は成田市台方の麻賀多神社です。(式内社で、旧社格は郷社)御祭神の稚産霊命は古事記に「和久産巣日神」日本書紀に「稚産霊命」として記載されている名前の神様です、伊勢の神宮外宮の御祭神「豊受姫命」の御親神です。

「高速(佐倉IC)近くのヘリポート」

佐倉IC近くにヘリポートが、度の様なヘリポートか調べてみました、森ビルシティエアサービス㈱のヘリコプター離着陸場でした。空港管制の諸条件により上空待機することなく、ヘリコプターの離着陸が可能となり、時間をロスすることなく都心へのフライトが可能との事です。
アークヒルズへリポート(赤坂)~成田(佐倉)へリポートは、ヘリコプターで15分、成田空港へはハイヤーで約15分です。運航はヘリコプターのエクセル航空が担当しています。

「本佐倉城跡・ビューポント」

本佐倉城は文明年間(1469-1486)に千葉氏の居城として千葉輔胤によって築城された。
大正18年(1590)に豊臣秀吉により千葉氏が滅ぼされるまで、当主9代が居城し下総の首府として栄えた、千葉氏滅亡から400年、その間、本佐倉城はひっそり眠る続け、ほぼ当時のままの姿で再び目覚めようとしています。(パンフレットから)
ビューポントは遙か遠くには筑波山まで望める、見張りには絶好な場所です、印旛沼は当時、現京成線のすぐ側まで来ていました、沼と城までの間は湿地になり敵の侵入を阻んでいました。
見学日は筑波山も見え、スカイライナーも見る事が出来ました。

伝説「酒の井」(酒々井)

「酒の井」伝説は酒々井区の円福院神宮に伝わる「考子酒泉」「地名由来」「伝承碑」伝説の3つからなる珍しい伝説です。
「考子酒泉」伝説は鎌倉時代に武士の子弟の教科書である「十訓抄」(鎌倉中期の説話集)に書かれている養老の滝説話が広まったとされています。
酒の井説では「親ともに酒」であり「酒」の部分が強調されています。また自然の湧水ではなく集落の井戸となっています。(酒々井町ふるさと歴史読本3より)
碑の近くの、スイッチを押すと、井戸から水が涌きだし説明の音声が流れます。

「小篠塚 城址」

小篠塚城址は、山王団地入口から市民農園を越え51号に抜ける道の左側の高台にあります、城らしい建物などは何も有りませんが、「小篠塚城址をきれいにする会」により整備がされています。
城址には正慧寺があり、高台からは51号線、馬渡地区が良く見えます。
小篠塚城は鎌倉時代末期、千葉氏により築城され、1590年豊臣秀吉の小田原攻めに先立ち、豊臣方に平定され小篠塚城は落城して小篠塚城は廃城となったようです。
近くには「大篠塚城址があります」