佐倉市寺崎「寺崎城址」

 佐倉駅の西、寺崎にあり、密蔵院や古峰神社の敷地となっている。高台には寺崎城址の由来を刻み込んだ石碑が建っている。寺崎城は、千葉城を落とし主家千葉氏を乗っ取った馬加康胤が康生元年(1455)に入ったところと言う。文明16年(1484)に本佐倉城に移るまで、ここが千葉氏の本城となった。
北西端には櫓台と思われる土塁の高まりがある。高さ5mほどで、5m四方くらいある。ここからは、佐倉市を一望の下に見下ろすことができる。

「城山にのぼりて見れば野の果てに 勝どきあげる 武士ら著わす」実川 侑靖

佐倉市生谷「ぽっくり弁天」

京成臼井駅南2km生谷地区に「ぽっくり弁天」があります、近くに真言宗、豊山派の専栄寺
「ぽっくり弁天」の前には、生谷の鎮守様の高産霊神社があります。
脇に立つ弁天様由来記には
「当神社は寛文年間(1661年頃)に生谷松山1番地に霊水の涌くといわれる水源地に建立され、無病息災長生きのうえ、最期は美しく老い、長患いせずに 「ポックリ」 大往生するという霊験あらたかな神社として信仰をあつめています、
生谷土地区画整理事業実施に伴い、現在の地に遷座されました」と記載されています。

千葉市「千葉神社」

守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院として建立され、千葉家三代忠常により先に御分霊が祀られ、 その後、忠常の次男、覚算大僧正により伽藍が整備されたと伝えられる。
千葉家,代々一門の守護神として、千葉宗家のみならず千葉氏一族の信仰が篤く、千葉氏宗家の元服は代々この寺で行われた。
江戸時代までは北斗山金剛授寺尊光院と称する真言宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離によって神社となり、本尊も祭神に改められた。ただし、妙見菩薩と天之御中主大神は長年神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があり、今日でも同社が日本有数の「妙見信仰」の中心とされている。
時崎の弁天さま」の池 

池の中の島にある弁天社は、古くから「時崎の弁天さま」として近隣からの信仰が厚く、隣接する普門院(子育て観音)とともに子育ての信仰を集めていました。
「普門院」は急な階段を登ったところにありました、境内には「聖観音菩薩」が立っており、像の裏面に日本の寺1000寺達成を記念した「碑」がありました。
時崎の弁天さまの池は豊富な水が池に満ち、かんがい用水源として時崎及び隣接する落井両谷津の田地を潤し、コイ・ウナギ・ナマズなどの様々な生物が生息していました。

「航空黎明期のパイロット」飯沼金太郎(佐倉市妙経寺)

印旛郡佐倉町中尾余町に父飯沼徳次郎、母くらの長男として明治30年(1897年)に生まれた、「飯沼」は母方の姓で、くらの実家は酒々井町の造り酒屋、現在の飯沼本家です。金太郎は埼玉県の所沢飛行場等で気球や飛行機の製作・研究の傍ら操縦訓練に励み、大正7年(1918年)飛行機操縦卒業証書を取得した。大正9年開催された「東京大阪間無直陸飛行大会」に参加したが、エンジントラブルで、スタートが遅れ、その焦りもあり、操縦ミスで丹沢山系に激突、パイロット生命を立たれた。
その後昭和8年亜細亜航空学校、亜細亜航空機関学校を設立、後進の指導に活躍した。

「庭園からの堀田邸」

1890年(明治23年)に建てられた堀田正倫(1851年 - 1911年)の邸宅、芝生を植え込んだ明治様式の洋風庭園の中に建てられている。正倫は、佐倉藩第6代(最後)藩主、官位は従五位下、相模守、明治維新後華族(伯爵)となった。
敷地内に明治時代の千葉県を代表する農業研究機関である堀田家農事試験場を併設していた。
2006年国重要文化財(建造物)に住居部5棟と門番所・土蔵が指定された。

「岩名 仁王尊」

「岩名仁王尊」は京成佐倉駅から岩名運動場に入る道の左側の道を入る、段差のある石段を登ると仁王門と毘沙門堂がある、仁王門に収められている仁王像(木彫り像)の胎内銘には「寛永七(1630)年八月修理」とあるそうです、この仁王像は伝弘法大師作(佐倉市文化財)だそうです。
元の寺(二峯山玉泉寺)は一度焼失し、毘沙門堂は1981年代に再建されたもののようです。「木造金剛力士像」には伝説がある。鹿島川に流れてきて、岩名の川岸に漂着したものを近郷の人々が引き上げようとしたが重くて持ち上がらず、岩名の人々だけが運ぶことができたとされています。このため岩名の地に安置されたとあります。

「成田山 仁王門」

成田山の総門をくぐり、大本堂・境内への階段を登ると仁王門が有ります。
仁王門は 国の重要文化財に指定されている、天保2年(1831)再建された。
左右に密迹金剛、那舞羅延金剛、裏仏には広目天、多聞天が奉安され、境内入口にあって伽藍守護の役割を果たしています。門に隣接して仁王池があり、放生池として生き物の生命を
いとおしむ「不殺生」を教えています。