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「黒沼槐山の歌碑」-重願寺- 「たづねても聞かまほしきを道のべの 小笹かくれに鶯の鳴く」 黒沼槐山は日本西洋画会の草分けとなる浅井忠(上記)に花鳥画を教えたという 佐倉藩主堀田正睦に仕えた佐倉藩の御用絵師。 浅井忠に自分の名前から一字とった「槐庭(かいてい)」の号を与えている。 碑文は、槐山の門弟青野浩が書いたものです。 |
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「浅井 忠」-佐倉市美術館- |
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「西村勝三の像」 |
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「国立歴史民俗博物館」 歴博は昭和58年3月に開館した。 日本の歴史と文化について総合的に研究・展示する歴史民俗博物館で、佐倉城址の一角約13万㎡の敷地に延べ床面積3万5千㎡の壮大な規模を有する歴史の殿堂です。 原始・古代から近代に至るまでの歴史と日本人の民俗世界をテーマに、実物資料に加えて精密な複製品や学問的に裏付けられた復元模型などを取り入れ日本の歴史と文化について容易に理解を深まられるよう展示されている。 大学における学術研究の発展及び資料の公開等一般公衆に対する教育に資する為の大学共同利用機関として設置された。 |
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「佐倉順天堂」 「佐倉順天堂」は、1843年、長崎で蘭医学を修め、江戸で開業していた藩主堀田正睦の招きを受けた佐藤泰然が佐倉に移り、佐倉本町に蘭医学塾「順天堂」を開設したことに始まります。泰然は新しい外科手術や種痘などを行ったほか、佐藤尚中をはじめ、明治医学界をリードする多くの人材を育て、近代医学の先駆者としてたくさんの足跡を残しています。 現在、佐倉順天堂記念館として順天堂関係の資料を展示公開しています。 一般公開されている建物は1852年(安政5年)に成田道の向い側から移転されたもので、千葉県指定史跡に指定されています。 |
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「秋の佐倉城址公園 乳母が池からの風景」 本丸跡のある佐倉城址は、土塁、空堀など城の面影を残した美しい公園になっています。この公園では、春は桜、秋は紅葉など、四季折々の自然を楽しむことができるほか、園内には茶室(三逕亭)があり、休日に一般向けの茶席が開かれます、のんびりとした風景の中でお茶を満喫することができます。 園内には悲しい伝説がある姥が池、県天然記念物の夫婦モッコク、空堀の跡が佐倉城の昔を偲ぶよすがとなっています。「姥が池」(うばがいけ)は、昔、この池のまわりで家老の娘をおもりしていた姥(うば)が、あやまって娘を池に落として沈めてしまい、困り果てて自分も身を投げたということからこのような名がついたそうです。 |
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「城址公園 堀田正睦・ハリス像」 |
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「佐倉藩藩校成徳書院跡」 碑の表には「佐倉藩藩校成徳書院跡」の文字。裏には成徳書院の絵図と1792(寛政4)年の藩校設立から1871(明治4)年の廃藩置県による藩校廃止を経て、1910(明治43)年に現校地の同市鍋山町に移転するまでの経緯が刻まれている。 藩校は明治後集成学校と改称し、現在の佐倉高校へと引き継がれた。佐倉高校には我が国最初の蘭和辞典「ハルマ和解」が収蔵されている。 同校の前身となる旧佐倉藩校創立220周年記念事業として、藩校のあった佐倉市民体育館敷地内に記念碑「佐倉藩校・成徳書院跡」を建立。 |