「黒沼槐山の歌碑」-重願寺-
「たづねても聞かまほしきを道のべの 小笹かくれに鶯の鳴く」

黒沼槐山は日本西洋画会の草分けとなる浅井忠(上記)に花鳥画を教えたという
佐倉藩主堀田正睦に仕えた佐倉藩の御用絵師。
浅井忠に自分の名前から一字とった「槐庭(かいてい)」の号を与えている。
碑文は、槐山の門弟青野浩が書いたものです。

「浅井 忠」-佐倉市美術館-

佐倉藩の江戸屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過し佐倉藩の藩校・成徳書院で四書五経、儒教を学ぶかたわら、13歳の頃から南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び「槐庭」の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。
1875年(明治8年)に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年(明治9年)に工部美術学校に入学、西洋画を学ぶ。卒業後は、新聞画家として中国派遣などを経て1898年(明治31年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる、その後1900年(明治33年)からフランスへ西洋画のため留学し、日本の西洋美術を牽引することになる。1902年(明治35年)に帰国後、京都美術学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり後進の育成に努力した。正岡子規にも西洋画を教え、夏目漱石の小説「三四郎」で深見画伯として名前を変えて登場している。

「西村勝三の像」

佐倉藩側用人に子に生まれ、佐野藩で砲術助教を勤めたが脱藩。横浜で修業の後、慶応3年(1867)江戸で伊勢勝商店を開業。
明治2年(1869)大村益次郎から今後の洋装軍隊の拡充、生活の洋風化等から靴の需要が拡大するとの事により、製靴を勧められ、弟の綾部平輔と製靴事業の創始を決意し明治3年(1870)伊勢勝造靴工場・製革工場を設立して軍靴を製造、近代的製靴業の先駆者になった。
明治4年、佐倉藩の士魂を磨いた「成徳書院」の武道場を改造し製靴の業を教えたのが西村茂樹・勝三の兄弟である。大塚岩次郎(大塚製靴創始者)もここでその業を習った一人である。
渋沢栄一は「西村は何時も国益を優先し自己の利害を顧みず百難を排して日本の工業を創始した」と、その士魂商才の面目を絶賛している。

「国立歴史民俗博物館」

歴博は昭和58年3月に開館した。
日本の歴史と文化について総合的に研究・展示する歴史民俗博物館で、佐倉城址の一角約13万㎡の敷地に延べ床面積3万5千㎡の壮大な規模を有する歴史の殿堂です。
原始・古代から近代に至るまでの歴史と日本人の民俗世界をテーマに、実物資料に加えて精密な複製品や学問的に裏付けられた復元模型などを取り入れ日本の歴史と文化について容易に理解を深まられるよう展示されている。
大学における学術研究の発展及び資料の公開等一般公衆に対する教育に資する為の大学共同利用機関として設置された。
「佐倉順天堂」

「佐倉順天堂」は、1843年、長崎で蘭医学を修め、江戸で開業していた藩主堀田正睦の招きを受けた佐藤泰然が佐倉に移り、佐倉本町に蘭医学塾「順天堂」を開設したことに始まります。泰然は新しい外科手術や種痘などを行ったほか、佐藤尚中をはじめ、明治医学界をリードする多くの人材を育て、近代医学の先駆者としてたくさんの足跡を残しています。
現在、佐倉順天堂記念館として順天堂関係の資料を展示公開しています。
一般公開されている建物は1852年(安政5年)に成田道の向い側から移転されたもので、千葉県指定史跡に指定されています。

「秋の佐倉城址公園 乳母が池からの風景」

本丸跡のある佐倉城址は、土塁、空堀など城の面影を残した美しい公園になっています。この公園では、春は桜、秋は紅葉など、四季折々の自然を楽しむことができるほか、園内には茶室(三逕亭)があり、休日に一般向けの茶席が開かれます、のんびりとした風景の中でお茶を満喫することができます。 園内には悲しい伝説がある姥が池、県天然記念物の夫婦モッコク、空堀の跡が佐倉城の昔を偲ぶよすがとなっています。「姥が池」(うばがいけ)は、昔、この池のまわりで家老の娘をおもりしていた姥(うば)が、あやまって娘を池に落として沈めてしまい、困り果てて自分も身を投げたということからこのような名がついたそうです。

「城址公園 堀田正睦・ハリス像」

幕末、攘夷鎖国のなか、開国へ当事者の像、正睦像は平成18年、ハリス像は平成21年日米修好通商条約締結150周年を記念して佐倉ライオンズクラブから寄贈された。
堀田正睦は幕末の佐倉藩藩主。文政8(1825)年藩主となり,奏者番,寺社奉行,大坂城代を経て天保12(1841)年老中となる。困窮する佐倉藩の財政再建に成果をあげ、
佐倉藩内の蘭学を盛んにしました。老中首座在任中の1857(安政4)年には江戸城で
アメリカ総領事ハリスと会見、通商条約締結を内定しました。
タウンゼント・ハリスは、アメリカ合衆国の外交官である。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。
民主党員、敬虔な聖公会信徒で生涯独身。

「佐倉藩藩校成徳書院跡」

碑の表には「佐倉藩藩校成徳書院跡」の文字。裏には成徳書院の絵図と1792(寛政4)年の藩校設立から1871(明治4)年の廃藩置県による藩校廃止を経て、1910(明治43)年に現校地の同市鍋山町に移転するまでの経緯が刻まれている。
藩校は明治後集成学校と改称し、現在の佐倉高校へと引き継がれた。佐倉高校には我が国最初の蘭和辞典「ハルマ和解」が収蔵されている。
同校の前身となる旧佐倉藩校創立220周年記念事業として、藩校のあった佐倉市民体育館敷地内に記念碑「佐倉藩校・成徳書院跡」を建立。