佐倉の紹介(佐倉市役所HPから)

昭和29年3月31日、佐倉、志津、臼井、根郷、和田、弥富の6町村が合併し、佐倉市が誕生し、32年には四街道町の一部(現在の千代田地区)が仲間入りしました。32年に印旛大橋が完成し、次第に印旛沼から渡船が姿を消すなど、市民生活にも変化が現れます。40年代に入ると、大型団地の造成が進み、住宅地としての性格が強まり、昭和46年には東関東自動車道佐倉インターチェンジがつくられるなど、交通体系も急速に整備されました。58年3月には国立歴史民俗博物館が佐倉城址に開館し「活力ある文化都市」をめざす佐倉市の新しいシンボルとして内外から注目されています。

佐倉市内 正岡子規の歌碑

「常盤木や冬されまさる城の跡」佐倉城址公園内
正岡子規は、佐倉を二度訪問しております。
最初は明治24年春の「房総旅行」の際
2度目は明治27年に開通したばかりの総武鉄道に乗って佐倉を訪れ、佐倉城址を中心に散策しております。
その時に当時の様子を文章や俳句に残しております。句碑は、その時に詠んだ二句の内の一句です。(S58.3佐倉市建立)

「露枯の佐倉見上ぐる野道かな」 小沼公園内
この句は上記の明治27年に佐倉に訪れて詠んだ二句の内の一句です。
JR佐倉駅から彫刻通りの鹿島川に架かる橋を越え左折すぐに小沼公園があります。
この句碑は昭和57年4月に建立されています。

「馬渡の「八坂神社」

馬渡の成田街道の近くの「八坂神社」です、八坂神社のある馬渡地区は江戸から明治に掛けて宿場であったため、正岡子規も成田山に行った際、この地に宿泊した。
御祭神は須佐之男命・天照皇大神である。神社の裏山は下総まわたし宿百観音で、市文化財に指定されている巨杉のご神木がある。
「文巻川夕照の石碑」

歌碑は「露ふかき物井の堤過来つゝゆふ日にわたる文巻の川」
この和歌は、江戸時代に、佐倉に住んでいた鐘山人という人が、近江八景や金沢八景の模して、佐倉八景を選び、詠んだ「文巻川夕照」の句です。
四街道市と佐倉市の境の川で、JR物井駅近くの鹿島川の支流で当時は物井川又は文巻川呼ばれていました。
なお、佐倉八景は「近村暮雪」「学寮夜雨」「菊水山晴嵐」「飯野帰帆」「聴雨晩鐘」「寺崎落雁」「樋口秋月」「文巻川夕照」です。

佐倉城址公園の「花菖蒲」

花菖蒲は、昭和46年佐倉市の「市の花」に指定されています。菖蒲園が、鹿島川の畔から、佐倉城址公園内に移設され、現在では約46種9千株に増えています。花菖蒲は、公園内に約29種、約9,000本が植えられています。花の時期には自然を求める多くの人が満開の花菖蒲を堪能できます。佐倉城址公園の本格的な整備は昭和54年度から始まり、水堀の復元・本丸跡・出丸跡・三逕亭(茶室)などが整備されました。また、昭和58年、公園隣接地に国立歴史民俗博物館が開館し、現在に至ります。

郷社「麻賀多神社」(佐倉市城)

城の麻賀多神社は保元2年(1157年)頃に創建されました。平安時代の末期です。神様は「和久産巣日神」<ワクムスビノカミ>で和久は稚・若「産巣」は生成・育成の意で、人物・事業・穀物の生育を司る神様として崇敬されている。城麻賀多神社はかって六崎村といわれた、六崎・城・石川・表町の氏神様である。祭りでの神輿の巡行は「明神祭り さーらばさし」(然らば久し<ああ、また、まつりがやってきた><しばしのわかれ、また、来年もまつりが出来ますように!>の独特の節回しで荘重且つ勇壮に行われる、また、古くから行われている奉納相撲は子供、青年会によって毎年実施されています。「麻賀多神社」は印旛郡東部地方に18社存在し、佐倉市内には11社ある。


「2012年「成田山」の平和大塔

2012年の新春を過ぎ、節分も過ぎた、2月成田山の平和大塔遠影
平和大塔は昭和59年(1984)建立。
二十基壇、内部五層、層高58.10mの仏塔
第二層の明王殿に安置されたご本尊の不動明王は総高6mです。
第五層の金剛殿には、大日如来、阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の五智如来が奉安されています。