(通算第60回)
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     各地区の紹介 G [中志津・下志津原・下志津@]
          『日本砲兵揺籃の地』の記念碑があります         (約4.8キロ)  
コース                   
西部地域保健福祉センターー0.6ー中志津ふれあい公園ー.3ー高千穂神社ー0.7ー新住宅地0.4日本砲兵揺籃の地0.5ー下志津原庚申塔0.4木戸場の庚申塚1号墳と三山碑ー0.2ー馬頭観音ー1.7西部地域保健福祉センター 

今回は中志津(昔の「角栄団地」)から下志津原、下志津@をご案内しましょう。
 
     地図のプリントはこちらから              中志津ふれあい公園↓
    

中志津小史
 昭和40年、角栄建設により角栄団地の建設が始まりました。民間による初めての大規模団地の建設して注目を集めました。(昭和41年第1次入居開始)
 中志津は昭和52年5月に下志津、上志津など(いわゆる「角栄団地」)から住居表示の変更により誕生しました。区割りも7ブロックを基本としました。それが現在の中志津自治会の1区から7区の母体になりました。
 昭和43年11月に設立された中志津自治会は今年11月、創立40周年を迎える加入戸数約2,900戸、法人格を有する大規模自治会です。各種の
記念行事が計画されています。
 中志津の顔はこちらです。
「中志津ふれあい公園」(正式名称は、「中志津中央公園」)  管理は中志津自治会『美化サポート隊』が行っています。
高千穂神社
 境内にある『高千穂神社由来之記』(1977年1月建立)によると、1949年(昭和24年)10月、九州 高千穂神社の唯一の分社として、ここ下総国志津ヶ峰に建立したとあります。
 この神社の紹介には「初詣」「例大祭」「見事なヤエザクラ」などは欠かす事は出来ません。
 
見事なヤエザクラ                    例大祭における歌舞伎奉納
新住宅地
 南進し南小(佐倉市立南志津小学校)の正門の前に出る道を歩みましょう。中志津はこの小学校の手前で終了し、ここは「下志津原」。ここにも新しい住宅地が出来ようとしています。以前、市民が家庭菜園などとして利用していた場所です。     
日本砲兵揺籃の地
 近くのテニスコート付近に「砲兵射撃学校」当時の土塁・井戸跡・馬の水飲み場跡などがあったと言われています。
 明治6年(1873)フランスのルボン砲兵大尉を招聘し、南北三千米、幅三百米の射撃場を作り砲術を伝習させました。         明治19年(1886)陸軍砲兵射撃学校が創立され、同30年四街道に移転しました。この碑は、有志により昭和40年(1965)に建てられました。
少し引き返し十字路を右折し下志津の低地を越え、再び下志津原に出ます。
下志津原庚申塔
 場所は大日今宿北約500mの三叉路にあります。庚申塔2基に屋根が架けられた小屋の中に鎮座し、大切に守られています。
 左側は文字塔で「万延元年庚申2月」の造立、右側面には造立者の名前が刻まれています。右側は刻像塔です。「延宝4年丙辰8月吉日」(1676)の銘があり、三猿ではなく猿と酉が刻まれています。

 今日は南志津小学校の児童が調査にきていました。
木戸場の庚申塚1号墳と三山碑
小田急ゴルフ場を右側に見ながら間もなく左側にある下志津ふれあい会館の裏手に高さ約5mぐらいの山があり、石碑がたくさん建っています。古墳の上に全部で17基建てられています。この中に寛文4年(1664)に建てられたものがあり、千葉県で2番目に古いと言われています。
 ここから集落内の道を約300m北進するとそこが木戸場集落入口分岐点です。そこに建てられているのが「馬頭観音」です。いつも花がたむけられていて綺麗に管理されています。
 
 集落内の道を途中まで引き返し、中志津を目指しましょう。
 このあたりからは中志津がよく見えます。右端中央の小屋のあたりは季節になるとホタルが幻想的な光を発しながら飛び交います。
 
 中志津3丁目を通り、間もなく出発地点の西部地域保健福祉センターです。