若者の文化
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◎ 少年は下校中のバスで、バッグを背負った60代ぐらいの男性に席を譲ろうとしたところ、「ふざけるな」と怒鳴られた。さらに
「本当は座りたいはずなのにヘコヘコ席をわたしてねえ。嫌々なことぐらい、これくらい年とったら分かるのっ!!」
といわれてしまった、という内容だった。
掲載直後からツイッターをはじめネットでは大きな反響を呼んだ。
「優しい子の気持ちを踏みにじってこれで大人?」
「最近の高齢者っておかしいの多いよね、自分たち中心で世界が回ってると勘違いしてる」
と、男性を非難する声が多かった。
朝日新聞には全国から111通の意見が寄せられた。多くは親切な少年を励ます内容だったという。
その中には「『モンスター老人』敬うのは無理」とあきらめる見方もあった。ある30代主婦は、バイト中にチラシを配っていたらいきなり怒鳴られたり、
犬の散歩中に犬を蹴られたりした経験があるそうで、「私にとって高齢者は反面教師でしかありません」と厳しく非難する。
◎東京に住むアルバイトのAさんは渋谷の時給910円のそば店で働く。休みはほぼない。風邪をひいても「いつでもクビにできる」と社員に脅されるため
休みの希望さえ切り出せない。奥さんと1歳の長男がいる。奥さんは2人目のの子供を妊娠中でこれからもお金がかかる。正社員になるために転職活動を
したいが面接を受けるために仕事を休むとバイトの収入が減ってしまう。1時間のバイト代も惜しい。「自分の医療費を切り詰めなければいけないような
ギリギリの生活。こうなると出口が見つからない。」とうなだれる。
◎全国初の「18歳選挙」となった福岡県うきは市長選(7月3日投開票)で、新たに選挙権を得た18、19歳の投票率が38.38%だったことが分かった。
18、19歳は有権者全体の2%強に当たる581人で、うち223人が投票した。全体の投票率は56.10%だった。
新有権者の親からは「候補者の政策が子どもには分かりにくい」といった声が上がっていた。再選を果たした高木市長は「じくじたる思いでいる一方、全国初の18歳選挙に対し、
早々に一部の若者が応じてくれたことは心強い」とのコメントを発表した。
東日本大震災で児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の大川小学校の惨事について、
市教委は(1)避難場所を定めていなかったことで高台避難が迅速に判断できなかった(2)教職員の津波に対する危機意識が低かった(3)過去の経験から安全と思いこみ、
校庭に居続けた――と認定。津波で被災した石巻市内の小中学校のうち大川小を含む10校が、津波の際の避難場所を指定していなかった。
大川小の裏手には山があるが、地震発生から津波が襲来するまでの約50分間、児童らは校庭で待機させられ、直前に新北上大橋のたもとの三角地帯へ移動する途中で、
津波に襲われた。 説明会では、当時、大川小にいて助かった教務主任の男性教諭が、昨年6月の説明会の前日に学校に送っていた、柏葉校長と保護者にあてた
ファクスが示された。それによると、教諭は裏山への避難を提案したが、職員の間から「この揺れの中ではだめだ」との声もあり、当時の教頭からも返事がなかったという。
教諭は「想像ですが、教頭先生も迷われたのだと思います。ずっと強い揺れが続いており、道もない山に登らせるのをためらわれたのだと思います」
「最後に山に行きましょうと強く言っていればと思うと、悔やまれて胸が張り裂けそうです」と記している。
◎子どもの6人に1人が貧困状態にある。
そう聞いても、多くの人はイメージができないのではないでしょうか。
学校給食だけが唯一の食事だという小学生。一家で夜逃げをせざるをえなくなり、2年間、車上生活で勉強が大幅に遅れてしまった中学生。
家庭崩壊から10代でホームレス生活を送った男性……。
「貧しい家庭で育っても、努力して勉強すればそこから抜け出せるはずだ」というのはもはや幻想かもしれない。貧しい家庭に育つ子どもには努力する土台すら
与えられていないのではないか。
食事も満足に与えられなかったり、母子家庭で自分が幼い弟や妹の世話をしなければならなかったり、親から日々暴力を受けていたりしていれば、そもそも
勉強の意欲なんて湧くわけがありません。
(掲示板)
1.ある方のtwitterからです。
昔一緒に遊んでた男の子から、2枚の紙が届きました。その子は私の初恋の人で、今まで彼のことを忘れたことはありません。
ポストに入っていたその紙に彼の名前が書かれているのを見た時は、本当にすごく驚きました。
何年も前のことなのに、彼も私のことを覚えてくれていたのです。慌てて紙を開くと、一枚はびっしりと文字で詰まった彼からの手紙でした。
『覚えてるかな。君とよく遊んでたんだけど。手紙をいきなり送ってごめんね。でも、ちゃんと伝えておかなくちゃだから。
昔俺が言ったこと、覚えてる?
絶対また、会いに行くって言ったこと。残念だけど、それはもうできそうにないんだ。あれから俺も頑張ったけど、もう手を動かす
ことぐらいしかできない。こんな弱っちい俺じゃ、君と一緒に遊べないや。ごめんね。最後に、これだけ言ってもいいかな。
君のこと、今までもこれからも大好き。君を見守りたい。だから、最後のわがままを言わせてください。少しだけでいい、俺を、
君の心の中にいさせてください。こんな情けない俺と仲良くしてくれて、ありがとう。ずっと愛してる。』
最後の方は、紙もくしゃくしゃで、文字はガタガタに歪んでいたけど、それでもこれは、彼が私と共にいた証でした。
涙が溢れ続けましたが、どうしても私は、2枚目の淡々としたあの残酷な紙だけは今でも見ることができません。
2. 東日本大震災6日目。
大輔くん当時(12)=の遺体は通学先の大川小の手前ののり面で見つかった。ほかの児童と折り重なって横たわっていたという。
<眠るように>
安置所になっている高校に夫と急ぐ。 遺体は塩ビの収納袋に入れられ、体育館の床に寝かされていた。 「大輔」 口を半開きにしている。
眠っているようだ。この子はいつも口をパカーンと開けて寝る。 「寝てるだけなんだよね。起きてよ、ねえ」 肩を揺する。
反応がないと分かっているのに。 おえつが止まらず、息継ぎが苦しい。 ほっぺに手を伸ばす。ひんやりしている。死後硬直はまだ見られず、
ぷくぷくしていた。
一定期間仮安置が認められ、その間に火葬場を探す。 ドライアイスを葬儀屋さんから買ってきて、遺体の周りに敷き詰める。ドライアイスは
需要過多で品薄で、遠くに足を延ばさないと手に入らなかった。 火葬場はどこの市町村もふさがっていた。電話をかけまくって宮城県大崎市の
火葬場で空きを見つけた。それでも2週間待ちだった。 翌日から朝一に体育館に寄ってドライアイスを交換し、まだ見つかっていない家族を
その足で捜しに出るのが夫婦の日課になった。大輔君の遺体は冷やし過ぎでカチンカチンになっている。
閉じた目の目頭に血の混じった赤い涙がにじんでいる。 かわいそうで拭き取ってあげる。 次の日行くとまた出ていた。
3.長崎に原爆が投下された翌日に爆心地付近で撮影された写真で、黒焦げの状態で写っている少年の身元について、当時13歳で旧制県立瓊浦中1年のTさん
である可能性が高いことが分かったという。
「被爆から70年がたち(手がかりが)判明するとは信じられなかった。」と。
写真は1945年8月10日、長崎入りした旧陸軍カメラマンが撮影。あおむけで黒焦げ状態になった少年が写り、長崎原爆資料館に展示されている長崎の惨状を示す
貴重な一枚だという。詳細な撮影場所や身元は判明していなかった。
昨年7月、原爆写真展で、会場を訪れたM子さん(78)とKさん(76)姉妹が写真を見て、兄の谷崎さんとよく似ていると気付き、鑑定を依頼。
写真をコンピューターで解析し、あご、目、鼻、唇の特徴から「同一人の可能性がある」と結論付けた。
Tさんは当時、爆心地から約400メートル離れた長崎市岡町で下宿していた。原爆の翌日、父親が下宿付近で谷崎さんを捜したが、見つからなかったという。
4.1992年に26歳で急逝した尾崎豊さんの1人息子の歌手・尾崎裕哉さんが音楽特番「音楽の日」に生出演し、父の名曲「I LOVE YOU」など2曲を熱唱した。
テレビで歌唱するのはこの日が初めて。今は亡き豊さんにうり2つの切ない歌声に、ネット上では「DNAすごい」「鳥肌」などと書き込みが殺到し、反響が広がっている。
豊さんが亡くなったとき、2歳だった裕哉は、7月24日に27歳の誕生日を迎えた。ギターの弾き語りで「I LOVE YOU」を、その後、20歳の時、母親から
「お父さんがいなくてごめんね」と言われた時に作ったというデビュー作「始まりの街」を歌った。
”僕は幸せさ あなたは幸せを求めてよ”という歌詞で、母への思いと尾崎豊の子供としてが込められた歌に会場は静まり返り、聴き入っていた。
ネット上では「尾崎豊の声に似てるけど凄く優しい感じ。聴いてて鳥肌立ちました!」「尾崎豊が26歳でこの世を去って同じ歳になった息子。感動しかない」
「尾崎裕哉は尾崎豊のDNAを完璧に受け継いでる。ふと気付くと後ろに尾崎豊がいるような感じがする。本当に泣きそうになる。」などとツイートが殺到する反響に。
裕哉のオリジナル曲にしてデビュー作である「始まりの街」の方が、より父親の歌声に似ているという声も多く、「ご自身の歌のほうが尾崎豊だった!
尾崎豊の新曲なんじゃないかと思うほど…。歌い方がまんま憑依していた!親子って恐ろしい!」「尾崎豊のI LOVE YOUも好きだけど
尾崎裕哉のも好きだった。涙目で聞いてた」などの書き込みもあった。
5.
この春、高校を卒業した愛さんが福岡県内の里親の家に来たのは中学1年の夏。身長128センチ、体重26キロ。小学校低学年ほどの大きさしかなかった。
この春、里親の元を離れる愛さん。「小学生のころは、ずっとおなかがすいていた」と語る
持参した服はいずれも6〜7歳児のサイズで、多くに血痕が付いていた。
「骨が浮き出るほど痩せているのに、おなかだけぷくっとふくれていた」と、里親の山本直子さんは振り返る。
愛を診察した大学病院の医師は紙に0〜10の数字を書き、「0が死、1がアフリカの飢餓状態の子ども。彼女は1に限りなく近い2だ」と説明し、深いため息をついた。
「本当によく生きていましたね」
愛は九州北部で生まれ育った。幼いころから母と、母の交際相手の男、兄2人の5人でアパート暮らし。
男はいつも子どもたちに暴力を振るい、一番の標的が愛だった。気にくわないことがあると馬乗りになって殴られ、木刀や椅子でたたかれた。
この後遺症で愛は今も、怒鳴り声や大きな物音を聞くと過呼吸を起こすことがある。
家で満足にご飯を食べた記憶はなく「給食だけで生き延びた」。空腹を満たすため万引を繰り返し、小学生のころから警察に何度も補導された。
愛の左手首に3センチほどの傷がある。母に裁ちばさみで切られたときの傷だ。
6.東日本大震災で児童と教職員計84人が犠牲となった宮城県石巻市大川小の被災校舎について、市長は3月26日、保存する判断を示した。
「教訓を後世に伝えるために必要」「解体を望む人にも心を配ってほしい」。
6年だった長男大輔君を失った今野浩行さんは、市長の判断を聞き胸をなで下ろした。震災直後から「大川小の悲劇を二度と繰り返さない
ために校舎を残すべきだ」と信念を抱き続けてきたからだ。一方では、残す意義をみんなで考える機会が足りなかったとも感じるという。
児童23人の19遺族が市と宮城県を相手に起こした訴訟の原告団長を担う。その傍らで校舎に足を運ぶ。「死にたくなかった。なぜ助けて
くれなかったのか」。早世した息子の悔しさに思いをはせ、自らを奮い立たせる場になっている。
震災の2年後の真夏に大川小学校のことが忘れられずに訪ねたが、2年たってもまだ重苦しい、しゃべることを許さないような空気を忘れる
ことができない。みんな苦しんできたのでしょう。
7.
3年前の春、九州北部のある公立中学校。入学式に新入生の陽介(仮名、12)の姿はなかった。2日目も、3日目も。母親は電話で「体調が
悪いから」と説明するばかり。ぴんときた担任教諭は学校指定の制服業者に電話した。 「ああ、その子、受け取りに来てませんよ」
採寸して注文はしたが、約3万5千円のお金がなくて取りに行けず、登校させられなかった−。母親は、そう打ち明けた。
校長が立て替え、制服を陽介の家に届けた。担任の勧めで母親は就学援助を申請し、校長に少しずつ返済すると約束した。
4日目、陽介は真新しい制服に身を包み、ようやく校門をくぐった。
翌年からこの中学では、制服を取りに来ていない生徒がいないか、入学式前に制服業者に確認するようにした。スタートから子どもが
つまずくようなことがあってはならない。
「制服だけじゃない。収入のある家庭には何でもないことも、貧しい家庭の子にとっては関門なんです」。福岡市の学校関係者は打ち明ける。
市立中学校に修学旅行をためらっている14歳の佳純がいた。担任が「旅行代は就学援助で賄えますよ」と説明すると、母親は消え入りそうな
声で答えた。
「でも、きれいな下着やパジャマをそろえてあげられない。お小遣いも1万円なんて無理。惨めな思いをさせるくらいなら」。佳純は結局、参加
しなかった。
8.(名大 内田准教授)
明日、学校に行きたくないと思っているあなたへ、一つだけお願いがあります。「学校に行けない自分はもう死ぬしかない」と、自分で自分を追い詰めないでください。
身も心もボロボロになるまで頑張り続けたあなたに必要なことは「休むこと」です。誰かと比べる必要はありません。あなた自身がつらいと感じたら、無理して学校に
行こうとせずに、まずは休んでください。学校から逃げることは恥ずかしいことではありません。
あなたのつらさを、あなたと一緒に考えてくれる大人がいることを、知ってほしいのです。だから、もうこれ以上、あなたが一人でつらい気持ちを
抱え込む必要はありません。私たちはあなたに、生きていてほしいと願っています。
学校に行くのがつらければ、まずは休んでください。
9.ある方のブログから
大失敗をしでかして、穴があったら入りたい、もう死んでしまいたい・・・そんな経験、人間だれしも一度くらいはあるんじゃないでしょうか?
そんな時に、「気にしなくていい」と励まされたり、逆に「そんなことでどうする」と叱責されたりしても、わたしにはまったく効果がありませんでした。やたらと
原因を追究して、おせっかいにも解決してくれようとするような人もうっとうしいだけ。親切ごころはありがたいけど、「もう放っておいて」と言いたくなった
ものです。自分を責めて、前に進むことができない。
そんな中で、たったひとり、たったひとこと、こう言ってくれた人がいました。
「君のせいじゃないよ」
どこからどう見ても、どう考えても、あきらかにわたしのせいなのに、悪いのは100%わたしであるのに、その人は「君のせいじゃない」と呪文のように
言い続けてくれたのです。
そのうち、自分自身も「わたしのせいではない」と気持ちが軽くなってきたのです。本心では自己嫌悪の塊だけど、表面的には「わたしのせいではないから、
知ったこっちゃない」と動けるようになったのです。開き直りですね。 もちろん、他人のせいにすることはよくないことです。責任転嫁は絶対によくない。
だから、個人や団体なんかに責任の矛先を向けるのはいけません。「誰が」と特定するのは駄目。ただ、どん底から立ち直って先に進むためには、
とても効果のある言葉でした。
まぁ、ふだんからいい加減で人に責任をなすりつけてばかりいる人からの言葉だとまったく響かなかったのかもしれませんが、まじめで純粋なタイプの
人だったから感動したのかもしれません。この魔法の台詞のお陰で、そのあとも大抵のことは乗り切れるようになりました。
7.LINE
LINEが日本でこれほどの成功を収めているまさにその要因こそ、海外市場のほとんどで成功できない理由になるだろう。
日本で絶大な人気を博している無料対話アプリを手掛けるLINEは来月、東京証券取引所とニューヨーク証券取引所(NYSE)へ同時に上場する。
この好業績の秘密は、無表情なクマと感情を丸出しにするウサギにある。
クマの「ブラウン」とその連れ合いのウサギ、「コニー」をはじめ、LINEは多くの可愛らしいキャラクターをスタンプとして発売しており、ユーザーが
これを購入して友達に送る仕組みだ。スタンプの販売は昨年、ラインの売上高の4分の1近くを占めた。さらに、売上高の約4割はチャットアプリで
提供しているゲームで稼ぐ。ゲームの多くはLINEキャラクターが主役になっている。アプリではさらに、テイラー・スウィフトやディズニーといった
第三者が作成するスタンプやゲームも販売されている。
つまり、世界的なキャラクターのハローキティを生んだ国でLINEが大成功しているのは驚くにあたらないのだ。台湾やタイ、インドネシアなど
アジアの近隣諸国でも大きな存在感がある。
しかし、日本の「かわいい」文化の影響が薄い国でも成功を収められるのだろうか。データは心もとない。実際、日本とこのアジアの3カ国以外では、
過去1年で月間アクティブユーザー数が減少している。中国は参入して然るべき市場だが、同国では2014年からLINEへの接続がブロックされている。
月間アクティブユーザーの4分の3近くが海外の利用者とはいえ、LINEは依然として売上高の7割程度を国内で稼いでいる。
さらに懸念されるのは、1カ月当たりのスタンプまたはゲーム購入者数が約800万人で頭打ちになっていることだ。広告への事業多角化はある程度の
成功を収めている。ただ、全体のユーザー数が伸び悩む中、こうした事業の拡大は難しい挑戦だ。見込まれる評価額が55億ドルとすると、LINEの昨年の
調整後利益に基づく株価収益率(PER)は57倍で、フェイスブックの51倍を上回る。
LINEはIPOで調達する資金を使って海外展開の努力を倍加したいところだろう。何より、日本ではすでに人口の半分がユーザーになっている。
だが、LINEの世界市場での成功へ向けた道筋は一直線とはいくまい
8. 甲子園のベンチでスコアをつけることを夢見ていた17歳の女子マネジャーが、高校野球の福岡大会を前にした5月30日、小児がんとの闘病の末に亡くなった。
彼女の思いを胸に、残された仲間たちが夏に挑む。
舟木あみさんは福岡県古賀竟成館高校の3年では、ただ一人の女子マネジャー。中学時代からの友人でエースの谷口君は、投球後すぐに氷水で肩を冷やして
くれる気配りに感心していた。人一倍大きな声で選手を鼓舞するムードメーカーでもあり、最後の夏はベンチで一緒に戦うはずだった。
小さな異変が現れたのは昨夏の大会。スタンドで応援中に背中の痛みを訴えた。元気な声が聞こえなくなり、みんな心配したが、すぐ戻ると思っていた。
昨年12月、舟木さんは30人近い同級生の部員たちを大講義室に集め、告げた。 「腫瘍(しゅよう)が見つかったの。悪性なんで、入院することになるかもしれない」
目からは涙がこぼれた。 重苦しい空気が漂った。振り払おうと主将の緒方君が声を上げた。「頑張って、あみを甲子園に連れて行こう」
今年1月、修学旅行先の東京に、闘病中の舟木さんが家族に付き添われて現れた。野球部の仲間とスカイツリーに上り、浅草寺で写真を撮った。はしゃぐ姿に、
谷口君は信じた。「夏までには治る」。仲間と買ったお守りを渡した。 しかし、病状は好転しないまま、月日が過ぎた。
5月最後の土曜日、松永武監督が告げた。「みんなで見舞いに行ってこい」
病室に入るなり深刻さが伝わってきた。話ができず、視線も合わせられない。それでも仲間のギャグに手をたたいて応えようとする舟木さんに、1人ずつ励ましの言葉を贈った。
「甲子園に連れて行くから。一緒に頑張ろう」。約束する谷口君にうなずいた。「夏の大会でスコアを書いてほしい。勝ち進んで時間をつくるから絶対治して」と頼む緒方君の
手を握りかえした。そう誓い合ったはずなのに、月曜日の朝、舟木さんは旅立った。 最後まであきらめなかった舟木さんに、甲子園に行くことで恩返しをすることを誓った。
谷口君は決意を込める。「どんな苦しい戦いになっても絶対あきらめない。舟木には天国から甲子園のスコアをつけて欲しい」
9.Twitterから
私は、学生を卒業するまで女性と付き合ったことが無くまた、話しをするのも苦手でした。そんな私が卒業してすぐに友人の紹介で知り合った女性に告白して振られた体験に
ついて書いていきます。私は、卒業してからもまだ十分に女性と面と向かって話しをすることが出来なくてせっかく友人が紹介した女性ともあまり話せずにいました。
せっかくのチャンス、苦手意識を克服したいと思い友人が紹介してくれた女性に対して思い切ってデートに誘ってみました。
内心断られると思っていたけど、意外にあっさりとOKを貰いました。翌日、彼女を車で向かいに行きドライブしながら彼女がゲームが好きだと言うので、ゲームセンターに
立ち寄りました。私は、車のゲームが得意なので、彼女に良い所を見せようと車のゲームをして見事全面クリアすると彼女が凄〜いと褒めてくれてとても嬉しかったです。
続いて彼女がホッケーをやりたいと言い出したので一緒にやり始めました。彼女はとても弱く私が大差を付けて勝っていたのですが、泣きそうな顔をして可愛そうだったので、
わざと負けてあげました。そうすると彼女の顔は笑顔を取り戻し安心しました。この時は、何も感じませんでしたが今思うと女性はちょっとした事で機嫌が良くなったり
悪くなったりするので、難しいものだと思います。その後マクドナルドで食事をしました。この時、初めて女性と二人きりで面と向かってデートしたのですが、女性と
話しするのが苦手と言うのが嘘みたいに自然と話しが出来て楽しかったです。楽しいと時間が過ぎるのは早いものですね。彼女がもう家に帰らないと行けないと言ったので、
自宅近くまで送ることにしました。移動途中、連絡先を聞かなきゃとか次また会ってくれるかなとか色々考えているうちにあっというまに彼女の自宅近くに着いてしまいました。
この時、初めて女性に慣れていないのを後から痛感することになります。何をとち狂ったのかその場で告白してしまいました。彼女は驚きと戸惑いの顔を見せてしばらく
口を開きません。ようやく口を開いて話してくれたことは、ごめんなさい、他に好きな人が居るから付き合うことは出来ないということでした。
僕は、いさぎよく了承して彼女と別れました。その事を友人に話すとすぐに告白したので度胸あるなぁ〜と言ってくれましたが、今思うと私的には、何であんな馬鹿な事を
したんだろうと思います。唯一救いだったのは、告白したことで自分の気持ちを伝えることが出来たので未練が残らず良かったことです。女性との恋はタイミングを間違えると
成就しません。