212日(火)オアフ島 ホノルル

ハワイの旅はいよいよ終わりに近づいてきた。明日は帰国しなければならない。

今までハワイ諸島やオアフ島の各地を訪れ、ハワイのいろいろな顔を見た。ハワイを訪れる前の印象とかなり違っていた。毎年、芸能人が冬に訪れる華やいだワイキキの風景がハワイのすべてのように写るが、このようなところはワイキキ周辺のごく一部で、大部分はポリネシア系住民の生活や中国や日本から移住した人々のたくましい生活がそこにあった。

ハワイ諸島の各地で外資の巨大な資本できれいに開発されたリゾート地は周辺の地元民の生活とかけ離れた存在であった。海外から直接リゾートに入り、ここで滞在し、帰国する。地元民と接触することなく。  

ホノルルにはカメハメハ王一族の史跡が多く残されている。そのほとんどがイオラニ宮殿周辺に集中し、そのほとんどを徒歩で訪れることが出来る。ハワイ滞在最後の日はこの辺を中心に史跡めぐりをする。

ホテルのバンヤン・コートでいつもの通り、朝食を取り、路線バス22番に乗る。宮殿前を今まで何度もバスで通過しているので気軽な気持ちでバスの車窓から外の景色を眺めていた。しかし、いつまで経っても、見覚えのある景色がない。留学生らしい日本の若者に聞くと「もう通り過ぎた」という。急いで、バスを降りた。どうも感じが違う。通りを行く住民に尋ねた。教えられた方向がおかしい。  

「えい!急がば遠回りだ!」とばかり、一旦、ワイキキに戻り、ワイキキから ホノルル空港行きのバスに乗換え、空港からワイキキ行きのバスに乗る。今度は、見慣れた景色のあるところに来たのでバスを降りた。ここはイオラニ宮殿前だ。日本の若者の話、道行く人の案内はみな間違っていた。しかし、ワイキキから路線バスでホノルル空港まで行ったが一時間以上時間がかかった。途中、チャイナタウンや開発から取り残された古い町並みをゆっくり眺められたので収穫といえば収穫だ。バスから見るチャイナタウンはどうみても観光客が訪れる気分になる町の様子ではない。治安上不安なところの様に見えた。  

・イオラニ宮殿
広い敷地内はなにやら華やいだ様子で多くの人々が宮殿の建物の前に長い列が 出来ている。宮殿建物のテラスにはセレモノニー用の垂れ幕がかかっている。地元の人々は着飾って集まり、長い列の人たちは、見学にきた観光客。我々も宮殿内を見学するためにここにきたが、この長い列を見て見学を断念した。
今日は快晴で、日差しが強く、何時見学できるかわからない長い列の後ろに並ぶ元気がない。  
 

アメリカには建国以来、王制が存在しなかったのだからアメリカ国内唯一の「王宮」である。イオラニとはハワイ語で「天国の鳥」。カメハメハ3世が首都をオアフ島に移してから代々王家はここで執務・居住をしてきた。宮殿はオアフ島の酋長マタイオ・ケクアナオアにより1844年に建てられたが1882年、カラカウア王により3年の歳月を費やし新しく建て直した。宮殿は石造りの重厚な建物で内装はコア材がふんだんに使われ、天井からシャンデリアが下がり、王の執務室には当時では最新の電話が設置されたという。      

カラカウア王の死後、妹のリリウォカラニが女王になる。彼女は「アロハオエ」の作者として有名であるが、反面、気の強い女性で、王権拡張のため憲法の改正をひそかに企てたが、企てが漏洩し、宮殿内に幽閉される。変転ののち、ハワイ王国は消滅し、ハワイはアメリカ主導の臨時政府の基に共和国となり、女王はハワイ国の一市民になった。
イオラニ宮殿正面の門の扉に今でも王家の紋章が。
 

・イオラニ兵舎  
中世の砦のような石造りのがっしりとした建物がある。これはカメハメハ5世の警備と儀式を勤める兵隊の兵舎であった。この兵隊はカラカウア王の即位後、
Royal Guard(近衛兵)と呼ぶようになる。この建物は現在の州政府ビル付近にあったが、1965年、イオラニ宮殿脇に移設した。正面入り口を入ると中庭があり、昔の大砲が置かれていた。中庭にある売店にはハワイ王朝に関する書籍などが販売されていた。

われわれは、今までになんとなく溜まった小銭を全部集め、額に入れて飾るハワイ諸島のカラフルな地図を買い求めた。売店の人は快く小銭の山を受け入れ、丁寧に数えて くれた。とても親切だった。

・カメハメハ1世ブロンズ大王像  

ジェームス・クック来航百年を記念して1878年に建てられた。毎年、王の誕生日とされる6月11日に色とりどりのレイが飾られる。  

 

 

 

 

この銅像はボストン出身の彫刻家によりイタリアのフィレンツェで原型がつくられ、フランスのパリで鋳造された。完成した像をハワイに船で運ぶ途中、南米の海岸で沈没。再度鋳造されて、無事ハワイに到着したのが現在の像。海中に没した像はその後、引き上げられ、大王の生地、ハワイ島のノース・コハラに据えられた。ブロンズ像のカメハメハ大王はとてもハンサムだ。モデルは大王ではないようだ。  

ここでハワイの近代化とカメハメハ王国について触れて見たい。 1800年初頭ごろまで、ポリネシアの島々には文字がなかった。宣教師たちは布教の傍らハワイ語を学び、ハワイ語のアルファベット表記に取り組んだ。1822年、ハワイ語の書籍が印刷され、ハワイ文化に文字が出現し、1840年に旧約聖書が出版された。

ハワイ王国はキリスト教の布教とともに急速に近代化が進む。古来の生活規範であった数々のカブ(タブー)が廃止され、古来の信仰の対象であった神殿などが破壊された。宣教師渡来からわずか20年足らずでなぜ、ハワイはキリスト教化したのであろうか。宣教師の努力以外に、王族たちが近代文明を積極的に受け入れ、彼らの生活様式を大きく変えたことが主たる要因のようだ。  

1778年、クックの 来訪で西欧文明に接し、王族は急速にそれを取り入れ始める。1819年カメハメハ大王の死後、摂政のカフマヌ王妃が旧習のカブを否定し、カブの掟を破っても天罰がくだらい事を自ら示し、キリスト教を信仰した。

 

 

・ハワイ諸島の統一  
カメハメハ1世は1750年ごろ、ハワイ島北部のコハラで生まれた。当時は島ごとに大酋長が君臨し、いつも、勢力争いで血を血で洗う戦いが絶えない。この戦乱のハワイを統一したのが、カメハメハ1世であった。

カメハメハ1世の幸運は1778年にキャプテン・クックがハワイを訪れたことに始まる。金属製の武器を持たないハワイ人にとって西欧の金属製武器は驚きであった。石器時代に近い時代の中で、産業革命時代の近代文明に触れたことになる。彼は当時、20歳代の若者であり、紙が水を吸い込むように西欧文明を吸収していった。

彼はイギリス船から大砲を購入し、白人を参謀役にしてハワイ統一に乗り出した。近代兵器を持つカメハメハ1世軍と古来の武器をもつ他の酋長との戦いは自ずと結果ははっきりしていた。 カメハメハはハワイ島を振り出しに、マウイ、ラナイ、モロカイの各島を制圧 し、1795年にオアフ島を支配下に入れハワイ王朝が誕生する。

カウアイ島は強い潮流で、カウアイ島を攻撃できなかったが、後年、カウアイ 王が帰順を願い出て、1810年、ハワイ全島が統一された。カメハメハ1世は当時、捕鯨基地としてにぎわっていたマウイ島のラハイナを首都としたが、1845年オアフ島のホノルルに首都を移した。
ハワイ統一から9年後の1819年ハワイ島、カイルア・コナで没した。遺骨は古式に則り、隠されて埋葬され、今でもその埋葬場所が不明である。

・ホノルルが首都になった。  

現在では多くの観 光客が近代化された、巨大リゾート都市、ワイキキを訪れるが、ほんの2世紀前までは「水が湧き出る(ワイキキ)」意味である。

 

 

ここには沼や池があった。タロイモやココナッツの林がある湿地帯であった。 ここはまた、ウナギやエビなどの魚介類が豊富に捕れる場所で、子供たちもここで遊んでいたのであろう。  

 

 

 

 

 

1895年ごろに撮影されたダイヤモンド・ヘッド頂上からみたワイキキ。タロ芋畑や沼などの湿地が広がっている。海岸沿いに大きな建物が見えない。わずかな時間で世界的なリゾート地に大変貌したワイキキ。  

 

 

ホノルル周辺の史跡のほとんどがハワイ統一後の新しい年代のものだ。イアオ宮殿のはす向かいにあるカワイアハオ教会を訪れた。ハワイには古来の信仰(ポリネシア系)があった。カメハメハ大王の死去の翌年、見計らったように、宣教師団が訪れ、キリスト教の布教活動を行った。この布教活動が出来たのは当時摂政として実質的に権力を握っていたカメハメハ大王の寵妃カアフマヌの援助があったといわれる。1821年草葺の小屋が建てられ、ここから布教が始まった。ホノルル最古の教会である。  

1836年、石造りの大規模な教会に建て直しが始まった。たくさんのさんご 石のブロックが用いられ、1842年、現在のカワイアハオ(神聖な泉の意)教会が誕生した。この教会は1862年までハワイ王朝の礼拝堂として使われ、王の戴冠式もここで行われた。王朝初期にはここで議会が開かれるなど歴史的に由緒ある建物である。教会横の小さな入り口からの教会内を見学することができるが、我々は外観のみの見学にした。  

・神聖な泉(Kawaiahao)の石  
カワイアハオ教会の正面に向かって左、キング通り側に石積みの小さな泉がある。本来の泉は少し離れたところにあったといわれる。今も人工的だがこんこんと泉がわいている。

 

 

 

 

・ルナリロ王廟  
カメハメハ5世が1872年に死去により、カメハメハ王族の血筋が途絶えた。後継者として指名されたカメハメハ5世の妹、カママルも1866年に他界。王国議会の選挙によりルナリロが王位についた。彼はカメハメハ一族の遠縁に当たるので貴族階級に疎んじられ、座り心地の良い王位ではなかった。 歴代カメハメハ王は親英派で、ルナリロ王は新米派。アメリカ人勢力から強い支援を受けていたが彼は健康に恵まれず在位は1年1ヶ月、1974年、41歳で死去、この廟に眠る。

・ハワイ州の紋章とダミアン神父  

ハワイ州政府ビルを遠くから見ると屋根はなだらかな曲線になっている。ビルの中央は吹き抜けになっている。火山島ハワイを象徴したものだという。 正面には大きなハワイ州紋章が掲げられている。

ダミアン神父の像
神父はベルギー人でハワイのハンセン病患者の救済に捧げ、自らも同じ病にかかり死亡。神父の死後88年経った1977年に「聖人」として列せられた。

 

 

 

                                               自由の鐘?

 

 

 

 

 

ハワイ州ビルの海側にハワイ王国最後の王女、リリウォカラニの像がある。  
女王は王権拡大の新憲法発布を試みるが失敗。1893年、政変に敗れ、イオラニ宮殿に軟禁された。「政変に対してハワイ人から罪人を出さない」事を条件に退位した。その後、ハワイ王国は消滅、1894年ハワイは臨時政府のもとに共和国となり、リリウォカラニはハワイの一市民の身分となり、ワシントン・プレイスで生涯を閉じた。女王は音楽の才に恵まれ、数多くの歌曲を残しているという。その中で特に有名なのが「アロハオエ」であろう。  
 

 

イオラニ宮殿付近にはまだ沢山史跡があるが、お昼もかなり過ぎ、御腹が空い てきた。それに歩きつかれた。食事が取れる場所を探したが、適当なレストランがない。あちら、こちら探しながら歩いてゆくうちに、アロハタワーが見えてきた。ハワイで乗船前に初めて訪れた場所で、アロハタワー周辺にたくさんレストランがあることを思い出し、そこで昼食をとることにした。  

久し振りに来た。懐かしい。海側にいくつかのレストランがあり、こんなレストランで食事をしたいと思っていた海岸沿いのテラスレストランに入る。  

 

 

 

 

まずはビールを注文

 

 

 

 

 

 

 

乾いた喉に快い刺激。うまい!パスタを注文。通常のオーダーでも大盛り。カロリーを心配しながら、「今日はよく歩いたから

いいや」とばかり、きれいに平らげた。  

 

 

 

 

時刻はもう3時過ぎ。今夜はホテル主催のギターコンサートに招待されているので、史跡めぐりはまた、いつかハワイを訪れた時までお預け。アロハタワーからアラモアナショッピングセンターでバスを乗り継ぎ、ワイキキに戻る。 このバスターミナルも何度かお世話になった。ちょうど、観光客用のトロリーバスが来た。このバスは主要な観光地を巡回するのでお任せ観光客には便利であろう。  

ホテルに戻り、シャワーを浴び、汗を流し、少し、ドレスアップしてこれからギターコンサートに出かける。コンサートは系列のシェラトン・ホテルで開かれる。コンサートが始まるまで少し時間があるのでホテルの様子をカメラに収めた。  

 

 

 

ホテル正面ロビー。エンタシス調の柱、白い壁、オーク材の重厚な床、分厚い絨毯。とても落ち着いたすばらしいホテルであった。  

 

 

 

 

 

 

ホテルの中庭バンヤン・コートに出る。

 

 

 

 

 

 

多くの人がこれから始まるワイキキの夕日を見ようと集まっている。苦労して登ったダイヤモンド・ヘッドの頂がはっきり見える。

 

 

 

 

 

ダイヤモンド・ヘッドはハワイのシンボルだ。この山を見てどれほどの人たちが感激したことか。われわれも大いに感激した。  

 

 

 

 

ワイキキの空が茜色に染まり始めた。われわれのハワイの旅も今日で終わる。もっと滞在したい感傷にとらわれる。  

 

 

 

すばらしい日の入りである。これほど美しい日の入りは今回の旅で最初であり、最後となった。

 

 

 

 

 

 

シェラトン・ホテルのギターコンサートに出席する人達は皆、ドレスアップしていると想像していたが、皆さんラフな格好で、コンサートは画廊の一室で行われた質素なものであった。  

 

 

 

 

 

コンサートが終わり、ホテルに帰るときはまだワイキキの海岸に薄明かりが残っていた。ワイキキの砂浜を歩きながらホテルに帰る。カミサンは裸足になる。ワイキキの砂は細かく、足に優しい。清掃が行き届き、安心して砂浜を歩けそうだ。  

 

 

 

 

人影もめっきり少なくなったワイキキの海岸

 

 

 

 

 

 

もうすっかり暗くなった。遅いお昼でまだ御腹が空いていない。
今夜はラーメンもグリーシーな油っこい食べ物も欲しくない。野菜サンドとビールを買い込みホテルの部屋で食べ、その後、バンヤン・コートで行われているコンサートを聴き、いつものようにトロピカルドリンク、ブルーハワイを飲みながら、ハワイ最後の夜を過ごした。
 

 

 

    

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