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昭和十三年 | |||
二月十六日 |
結婚 (夫 二十五歳 私 十九歳) 台北の台湾神社で結婚式。 新婚旅行はなく夫の姉が経営するY旅館に泊まり、後すぐに国際電話観音受信所へ行く。 十軒ばかりの社宅。 庭は百五十坪位ある広さで草取りが大変。 台所は薪で焚く大きな竈、今まで薪で焚いた事などなか ったので火をつけるのに苦労した。 周りは畑や沼や台湾人の家ばかり。 町に出るのはトロッコかバスしかなく、 買物は小使さんが各家のをまとめて買って来るので、なにを買えば好いのか解らない。 休みの時には一時間位かけて台北に出てY旅館に泊まり買い物をした。
新竹の油田へ中国より空襲 無線施設のため兵隊が来て、受信所のまわりには土のうを積み警備にあたる。 社宅は十軒ばかりで、 周りは畑や台湾人ばかりの田舎、夫は会社へ行ったきりで夜は十九歳の私には恐か ったが、隣の所長さんの妹が来てくれる。 又夜中には社宅の周りをめぐる兵隊の靴音が心強かった。 昼間は兵隊のシャツ等の洗濯を社宅の四・五人の奥さんとする。 Nさまの奥さんの突然の流産に大騒ぎ。 医者のいない田舎で一時間以上かかる台北の病院へ行く。 後はY旅館で養生をする。 受信所や送信所の人は、台北に出掛けたときはこのY旅館に世話にな っていた。 三月、国際電話と日本無線と合併してKDDとなり、退職金六百円也(家が一軒買える額)を貰う。 すぐ博多の下臼井にいるお爺ちやんに百円也送ったり、夫の背広を買ったりする。 友達のT様がたびたび来ては日本航空に来ないかと外国の話をしたりお土産の話をしたりするので、夫は直ぐのり気になり、今の仕事に飽きたと言って辞表を出す。 丁度お爺ちゃんが台湾に来てY旅館に泊ま っていた。 Y旅館はいつも無線の人が出入りしていたので、 私達の事はなんでもわかってしまう。 今度も直ぐわかり、お爺ちやんが所長に頼んだらしく辞表を握りつぶされ、 合併後最初の転勤で兵庫県の小野受信所に行くことになる。
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七月十四日 |
母急に亡くなる お爺ちゃんは母の叔父なので母はすごく喜んでいるのに、「お酒やご飯を直ぐ出さなかったと」怒って何処かに行ってしまった。 母は死ぬような苦しみで三人の医者も来て近所の人がご飯の支度をしてくれている。 私と父は母のそばにいたので直ぐ仕出屋にたのんだがそんなに直ぐには無理だ。 私がおろおろしていたのに母が気がついたのか苦しい息のなかで「お爺ちゃんも歳をとつて長いことないのだから辛抱しなさいね」と言う。 後高雄病院に入院して少し良くなつたかにみえたがとうとう駄目だ った。 死に際に「子供が出来たら手伝いに行くからね何もしなくても好い。 着物も汚れたら送りなさい。 洗い張りして縫つてあげるから」と言って亡くなる。 私のことが心配だ ったのだろう。 でもお葬式にはお爺ちやんも出席して、夫が私の実家の為になにかと味方になるのを見てやきもちをやいていたのか、 「お前は誰の子や!」と云ふ。
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九月 |
いよいよ小野受信所に転勤の日が来る ひとまづ下臼井のお爺ちゃんの家へ行く事になる。 私は大きなお腹をして心細かったが社宅があかないので暫く下臼井に残ることになり、夕方夫は駅に切符を買いにゆく。 酒を飲んでいたお爺ちゃんが「シズエ、ここに来て座りなさい」と言って文句を言いはじめた。 「勝手に結婚して勝手に子をつくって云々・・」だと。 結婚のときは式の費用まで送つて呉れたのにと涙が出て来る。 丁度その時夫が帰 って来たので泣きながら私も連れて行ってと言うと、 夫は始めてお爺ちゃんに「シズエは何も知らないのだ。 皆僕がしたことだ。 そんな事を言うならシズエを連れて行く!」と言つたら、お爺ちゃんははじめて「そうだお前が一番悪い!」と言 ってだまってしまった。 後で夫の打明話によれば、私の父にはお爺ちゃんはもう承諾しているとの手紙を出し、お爺ちゃんには私の実家は承諾しているとの手紙を出したら、両方とも相手が承諾しているので反対することも出来ずいやいやながら決ま ったようだ。 私の父は親戚どうしなので反対をしていたので、 あとで父とお爺ちゃんとごたごたが続き、そのしわよせが皆私に向かって来た。
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十月
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夫が迎えに来て小野受信所行く 神戸の三の宮から播丹鉄道で三木まで行き、三木から乗り換えて小野まで。 小野から車で山の中の受信所へ。 受信所は軍事的にも重要な施設のため、会社や社宅のまわりに土手をめぐらし、入り口には憲兵隊の名で「無断立ち入りを禁ず」との立て札が建てられていた。
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昭和十四年 二月 二日
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長男 誕生 夫は喜こんで下臼井に電報を打ったが、すぐにお爺ちゃんから「おめでとう男子か女子か知らせよ」と電報がきた。 数日後お宮参りの着物を送ってきた。
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昭和十五年 | |||
五月 |
塩、味噌、砂糖、配給制に |
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昭和十六年 | |||
四月 |
米配給、衣料切符制、菓子(子供一人月十銭一袋) |
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十二月 八日 |
大平洋戦争始まる |
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昭和十七年 | |||
四月 |
支那大陸より神戸へ初空襲 |
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四月二十九日
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次男 誕生 次男の産月もせまった丁度春の大掃除(此の頃は毎年必ず春と秋全国一斉に大掃除をする様に決められていた)の時で、畳を全部庭に出して干していた。 空襲の知らせで夫は直ぐ会社につめかけて帰 ってこない。 私は仕方なく大きなお腹で一生懸命畳を家の中に運び掃除を済ませたが、無理がたたったのか毎月少しづつ出血し、温まると必ずお腹が痛む日が一週間位つづいた。 夜は灯火管制で電灯に黒い布を被せて暗い。 二度三度とひどい痛みがきたので村のお産婆さんを呼びに行 って貰つたが、 途中で痛みが止まってしまった。 病院だと陣痛促進剤を使うのだろうが、古い村のお産婆さんは何もしないで帰ってしま った。四月二十九日 前の夜から痛んで二分置きに痛みだしたのでお夫にお産婆さんを呼んで来て貰ふがまた昼頃になって痛みが止まってしまった。 助産婦は帰ってしまうし、夫はねむいのを起されて不機嫌で「お前は大げさだ」と怒り出す始末。 申し訳なくてお昼のご飯の支度をしようと立ち上つた途端又ひどい痛みが来て夫は慌てて助産婦を呼びに行 った。 助産婦は謝りながら駈けつけて、一時間後に大きな男の子が生まれた。 少し大きすぎた様だ。 ( 長男 (八百匁) 次男 (九百三十匁) )
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八月 |
夫のインドネシア・セレベス島赴任 数カ月前夫にシンガポールへ行ってくれないかとの話しがあり(占領した場所に無線施設を作るため)私のお産がせまっていたので断っていたが、今度はセレベスの方に行く話だ った。 軍からの要請で断れなくて行くことになる。 いくら民間の会社でも最前線の基地なので何時どんな事が起こるかもしれないし、もう既に東支那海では船が次々と沈められている。 受信所の社宅のお向いのK様は早く軍属でシンガポールに行き、奥様と女の子と男の子二人と社宅に残って居た。 女の子はまだ赤ん坊で何時もおんぶしていたが、髪を束ねたピンが女の子の目に刺さり、運悪くそこが化膿して神戸の病院に入院したが、片目は失明したとの事。 御主人の居ないときにどんなにか苦労なさ った事だろうと思った。 中堅の会社の人は歯が欠ける様に次々と南方へと行き、M様の奥様も子供二人を連れて四国の徳島のお里に帰られた。 後はお互いに文通で確かめ合った。 六月末、東京本社へ打合せその他でM様の御主人たちと一諸に出かける。 M様の御主人は家庭思ひの優しい人で、逐一奥様に報告して来る。 「会社から空き箱を貰つて荷造りをして置く様に」と葉書が来たと。 夫からは全然連絡がなくて何時もM様の御主人から来た便りで夫は後から出発するらしいと教えて呉れる。 長男は小さいし赤ん坊もいて、毎日が忙しくて何をして好いのか解らない上、夫の消息もM様からの連絡で知るだけだ った。
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福岡の下臼井へ引越し 夫が突然六月末に帰って来て、「何も準備していないで何をしていたのだ 着替えも送つてよこさないで」と帰るなり怒鳴りつける。 住所も解らないし又衣料切符も持って行 っているのに何も買わないで文句ばかり言っている。 このころは衣料切符がないと買えなかった。 後からの話では、浦和の姉の家に泊まって、子供達を連れて遊びに出かけたりして財布を無くしたとの事だ った。 大いそぎで荷造りが始まる。 庭に天幕を張って、会社の大工さんが箪笥等の荷造りをしてくれた。次男はおとなしくて全然泣かないので「赤ん坊がいるのを知らなかった」と大工さん達は驚いていた。 私達は福岡の下臼井へ行く事になる。 又つらい毎日かと思うと帰りたくなかったが、「お前はそんなに親不孝か!」と怒鳴られる。 お爺ちやんが迎えに来て、夫は加古川まで送 ってくれる。 軍国の母は泣かないのだそうだが涙が出て仕方がなかった。 私が二十三歳、長男が三才、次男が生後九十日だった。 毎年夏にはお爺ちゃんへ孫を見せに出かけていたが、 此の頃は博多まで神戸から九時間位かかっていた。 子供を連れての一人旅は無理で行き戻り夫が送り迎えをして呉れたので、夏のボーナスは殆どなくな った。 しかしお爺ちゃんはお金がほしかったらしく、夫の姉に手紙で「長男夫婦は何もしてくれない」と愚痴をこぼしたらしく、姉から「年寄りらしくして上げなさい」と手紙が来る。 なにかある度に姉から文句を言って来る。 夫はお金より孫の顔を見せた方が喜ぶと思っていたらしいが? 年をとると誰でも愚痴っぽくなるらしい。 夫の弟は満州の拓殖会社に勤めていたが、お金の使い道がないと手紙が来る。 お爺ちゃんは「子供達は家から持ち出すばかりでなんにもして呉れない」とこぼしていた。福岡に着いた途端、お爺ちゃんの態度がすごく冷たくなった。 厄介者が来たとゆう様に、長男が「おじいちゃん、おじいちゃん」と親愛の情を示しているのに「せからしか、何とせからしか子かいな」と言つて逃げて歩いている。 「せからしか」とは「うるさい」と言う言葉だ。 今まで静かに暮していたのでうるさいのだろうとは思うが、あまりにもひどいので、やはり来ない方が好かったのではと悲しかった。 夫は「お爺ちゃんの面倒を見てくれ」と言っていたが…。
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子供の病気
次男が急に高熱を出す。 驚いて博多の原病院に行くと「丹毒だから直ぐ入院する様に」とのこと。 赤ん坊だし心配したが病院の院長がとても親切で、夜中まで何度も診て下さ って命をとりとめ、割に早く退院出来た。 丁度村に百日咳が流行っている時に来たので、子供達に忽ち伝染してしまった。 夜眠れない程の咳、咳と共に食べたものを吐くので眠るひまがない。 長男は神戸に居る時から風邪をひくと耳が悪くなつていたが、途端に耳にきて痛が って泣くので耳鼻科へ通う日がつづく。 神戸でも耳が痛いと泣かれるとどきっとする程医者通いがつらかった事を思ひ出していた。 雪が降った日など一里以上の道を、長男をおぶってネンネコを着ていても寒さで医者に着いた時はふるえがとまらなか った事を思い出す。 耳は毎日通はねばならず、今のように好い薬もない時代だったが人に聞いた名島町の病院へは、バスと市電を乗り継いで、次男をおぶって長男の手をひいて毎日かよ った。 食べ物はお粥ばかり。 お爺ちゃんはお菜は皆自分の前に引きつけて食べた後残りを呉れる。箱崎から魚屋さんが時々売りに来るのでたまさか買って煮ていると、「何をしてるのだ」と言う。 自分勝っ手にしてはいけないのかと次に魚を買った時「どうしますか?」と聞くと、「煮るに決まっとろうが!」という。 食べ物もどんどん無くなってお菓子等殆んど無い。 乾燥バナナ位が少しあった様だ。 台湾はまだお菓子が豊富らしく、父から毎月お菓子を六斤缶で二つ何度も送って来る。 ビスケット、飴、金平糖,煎餅、等、長男の名前で送って来る。 (神戸にいる時も台湾からお菓子を沢山送ってくれた。 その頃月十銭のお菓子の配給しかなかったのでM様にも裾分けしたものだつた) 年老いたお爺ちゃんも欲しいだろうが、私から分けてあげるとプライドの高い人だから嫌うだろうと、「台湾から送って来ましたから」と皆渡してしまったのが失敗だった。 茶棚の上に置いて長男に自由に呉れない。 私が取りたくても前の長火鉢の前に一日中座 っているので取る事が出来なくなってしまった。 長男が欲しがるので「頂戴と言いなさい」と言ったら長男はおづおづと「お爺ちゃんお菓子を頂戴」と言っている。 すると「言はなくてもやる、何ていやしい子かいな」と怒鳴る。 怒鳴られるのが恐くてうじうじしていると「何故頂戴と言わないのだ!」と怒る。 三才児(満二才)なのに長男が可哀想で悲しくつらか った。 あんまりなので次からは送って来ても半分は私達の押入れに隠した。 長男宛に送って来るのだが、お爺ちゃんにあげないと又いじめられないかと心配だったので…。 そのうちにお乳が出なくなってしまった(余る程出ていたのに)。 食べ物の故や心労の故だと医者は言う。 医者の証明がないとミルクの配給が貰えないのだ。 医者はまた別居を薦めるが「お爺ちゃんをたのむ」と言われているのでしかたない。 証明を受けてミルクを買い次男に呑ませようとするが、今まで母乳に馴れてしまっているので直ぐ吹き出して泣いてばかりいる次男も可哀想で私も泣きたくなる。 ミルクは結局おじいちゃんが大喜びで呑んでいた。 年をとると子供の様になると言ふが本当にそうだと思 った。 長男の耳鼻科通ひは続いていたが、注射の跡から水ほうそうに罹患する。 今だったら医者の責任問題だが戦争中の事でどうしようもない。 消毒薬も不足してる時で高熱が出て忽ち耳へ悪影響が出て来た。 命に関わる事なので紹介された名島町の病院に入院して手術をうけることになる。 小さな子がどんなに痛く苦しか っただろうと可哀想で泣けてしかたがなかった。 最初の耳が痛いと言った時から医者にかかっていたのにこんなにひどくなるなんて、医者に対しての不信がつのる。此の頃の病院は物資がないので自炊をしなければならない。 お米は下臼井から持つて来てくれるが、時々家にいたお婆さんが米を売ってしまって持って来ない。 お菜は引売りの人が病院に来るので買って行った。 お爺ちゃんには毎月会社の南方部第二課から送 って来る弐百円(家族の手当て)から五十円を食費として毎月渡していた。年金生活だったお爺ちゃんは、よく村の老人仲間と旅行や呑んだりしてお金に不自由する時があって、郵便局の生命保険からお金を借りていたらしく、お爺ちゃんが亡くなった時亀山の郵便局長さんが私に「此の借金はどうしますか?」と聞かれたので返金して済ました。 お爺ちゃんは神戸の御影で郵便局長をしていたので亀山の郵便局長とは友達だったらしい。 なにしろ戦争中で物資や食料不足で殆ど闇で買うので高い。 医者も消毒薬のアルコールが少ないのに酒の代わりに飲んだりして殆ど無かったのではないだろうか、医者同志でアルコールを飲んだ話をしているのを良く聞いた。 赤ん坊を連れての入院なのでいわれない苦労ばかり。 ガスの出が悪い。 皆が使い出す時間になるとガスが出なくなるので朝四時に起きて食事の支度。 それでもガスはチョロチョロしか出ず時間ばかりかかる。 手術の後もなかなか傷口がふさがらず、再手術をした方が好いとのこと。 早くから治療していたのにだんだんひどくなるなんて悲しくて涙が出てくる。 お爺ちゃんと相談するため下臼井に帰ってお爺ちゃんに言うと、 「医者の言う通りにするより仕方なかろうも」と言うだけで涙が出てくる。 思いあまって朝日新聞社の人(兄が勤めていた関係)に頼んで夫の所へ手紙を届けて貰ひ返事を持 って来て貰ったが、返事は「医者の言う通りに」との返事だった。 入院している病院の前の子供のいない床屋さん夫婦が毎日私の姿を見ていて、「そんなに長い間入院するのでは大変だろう。 家の二階が空いているので来い」との事で手術後そこの広い二階に間借りして病院に通ったが、再手術の話で私が悩んでいるのを見て「土居町に元九州帝大病院の先生だった人でとても上手だと言う病院があるからそこに移 った方が良いかもしれない」と、荷物(戦争中なので何処の病院も自炊で鍋、茶碗、着替え、布団、おむつ、)をリヤカーに積み土居町の病院まで運んでくれた。先生は「根治手術などしなくても大丈夫だ」と力強い限りだった。 やはり大したもので、手術後どんどん好くなり思ったより早く退院する事が出来た。 「これからも風邪をひくと耳から少し汁が出るが命の心配は絶対に無いから」と言われて涙が出る程嬉しか った。 もつと早く此の先生を知っていたらとつくづく残念に思った。 あの親切にして下さった名島町の床屋さん夫婦は戦争で亡くなったのだろうか? 会いたいと思い戦後行って見たが分からない。 その後夫と歩いて探して見たが、もう名島町と言う町の名も無い。
次男は病院にいる間看護や洗濯、食事の支度などで抱いてもあげられず寝返りも出来なか った。 朝は四時から食事の支度。包帯の洗濯おむつの洗濯などと、退院間近になって私も余裕が出て抱っこしたりしたのでいざり這ひをする様になる。
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昭和十八年 | |||
三月 七日 |
お爺ちゃんの死
下臼井に帰って暫くすると、お爺ちゃんは目まいがしたり胸が苦しいと言う。 十二脂腸虫の故との事で、駆除するために知人の竹下病院に入院する。 私は少し風邪気味だ ったが竹下まで次男をおぶって長男の手を引いて見舞いに行く。 一月の冷い風が気持ち好いと思つた程その時は熱があったらしい。 病室に入るとお爺ちゃんは駆除のために食べてはいけないのに(絶食して寄生虫をとるので入院しないと出来ない)隠れてお餅などを食べている。 折角入院したのに子供みたいだ。 結局駆除は失敗に終る。
帰ろうとすると院長先生が丁度見えて、私の顔色があまりに悪いのでおかしいから診てやろうとの事。 熱を計ると三十九度ちかくある。 「早く帰って安静にしていなさい」と言われたが赤ん坊と三才児をかかえては寝てなどいられない。 雪の中おむつを洗ったり食事の支度をしたりと忙しい。 そうこうしている内に息をすると胸が痛くなって来た。 熱も下らないし、どうもおかしいので博多駅前の病院でレントゲンをかけて診ると肋膜炎だとのこと。 入院した方が好いと言われたが、手伝いもいないのに入院も出来ず、薬だけ飲んで寝たり起きたりしていた。 でもおむつは洗はなければ誰もしてくれない。 次男は二、三日堅粕の叔母に預 って貰ったがお乳が張って痛くて仕方がないので連れて帰る。 結局寝たり起きたりしてる内に何時の間に治ったようだった。 その内お爺ちゃんは失敗のまま退院して帰って来る。 夫からは何の便りもない。 長男の再手術の時、朝日新聞の人に頼んで飛行機で返事を貰って来てくれたのだが、出す気があれば手紙位出せるのにと思 った。
お爺ちゃんは二月(十九年)に入つて急にお腹が痛いと言って寝ついてしまった。 十二脂腸虫の故だとの事だが医者嫌いの薬嫌いで、私が時間が来て薬をすすめると「うるさい其処に置いておけ!」と大声で怒鳴る。 お見舞いに来ていた人が驚いている。 家に居たお婆さんも怒って面倒をみなくなった。 でもとても痛がるので家ではどうすることも出来ないので、二月の末九州帝大病院に入院する事にな った。 珍しくその頃夫から手紙と共に「千円也」をお爺ちゃんにあげてくれと送金してきた。 お爺ちゃんはすごく喜んで、「息子が送金してくれたので医者にかかれる」と年寄り仲間が見舞いに来る度に話している。 此の頃は酒も煙草も配給で一人にいくらと決まっていた。 酒好きのお爺ちゃんにはつらかつた様だったが、赤ん坊も一人として数えたので配給の時はすごく嬉しそうだった。 九大に入院するとの知らせで堅粕の叔父夫婦は親切に雪がパラパラ降る寒い日に博多駅前に並んで(タクシ−は燃料不足で少なかつた)長い間待つてやつとタクシーを連れて来て「病院へ行こう」と言うと、「こんな寒い日に行けるか! 絶耐に行かん!」と強情をはつて「いらん事をするな!」と叔父様達を怒鳴りつけている。 夫に好く似てると思った。 叔父夫婦はとうとう怒って帰ってしまった。 その後ますます痛みがひどくなり苦しみだしたので早く入院をしなければと、リヤカーに布団ごと乗せて雪の降る中を堅粕の叔父の兄と下の叔父様(堅粕の叔父の姉婿)達に引かれて九大病院に行く。入院しても医者の言う事は絶対に聞かない。 薬も「こんな薬が効くものか」と言つて飲まないし、医者が「食べ物を食べて早く体力をつけて虫を駆除しなければ」と言つても、「こんな物が食えるか」と言 って食べないのでどんどん衰弱していった。 アイスクリームが食べたいと言うので、証明書を貰って病院の地下の売店で病人用しか無いのを買って来る。 「ああ美味しい」と喜んで食べても二匙位しか食べられない。 十二脂腸虫のため心臓までやられ貧血しているので輸血をするとのことだが、0型なのでむつかしいし、又親類の人に0型の人が二人位いたが嫌が って逃げて帰ってしまった。 二日前に夫の一番上の姉さんに来て貰ったら0型だつたので早速輸血をして貰ったが効果はない。 おむつを嫌がりトイレに行きたがる。 いよいよとの事で親戚の人を呼ぶ。 此の時始めて私の母の異父弟を紹介される。 私が一人で暮らしているのを心配していてくれたそうだ。 此の頃は物資不足が益々ひどく、病院は自炊でお粥もつくらねばならない。 我が家はまだ小作の米が少し残つていたのでよかったが、付添いの人の御飯も毎日作って持って行かねばならない。 次男のおむつがあるし、お爺ちゃんのおむつもあるしで大変だ った。朝四時半に起きて御飯を炊き、おむつの洗濯、子供の食事、七時にはお櫃一杯の御飯と重箱一杯のお菜(殆ど野菜のごつた煮)を持って、次男をおぶって、長男の手を引いてバスと電車と乗りついで病院へ。 一日病院にいて、午後六時吉塚から汽車で亀山まで(バスが早くなくなるので)。 それから丘を越えて下臼井へ。 長男を歩かせてなので大変だ。 帰ってから夕食の支度、子供の世話、明日のお菜の準備で寝るのは十二時過ぎ。 夜中は赤子の世話で何回も起きるし、朝は又四時起き、よく続いたと思う。 若さなのだ。 三月七日お爺ちゃん少し元気な様だから早く帰って少し休みなさいと姉に言われ帰って暫くしたら、「すぐ来る様に」と呼びにくる。 行って見ると親戚の人も皆来ていて、私が来るとおんぶしている次男に向か ってお爺ちゃんはおどけて見せたりしていたが、直ぐ意識不明になって亡くなってしまった。 外には雪がハラハラと降っていた。 あの暗い家に、子供と三人だけで、夫はどうなるか判らないし、何とも言えない淋しさで涙が出てくる。葬式には沢山な人が来て、お詣りの人には「おとき」と言う御食事を出す習慣があり、お米を二俵、野菜も俵で沢山買って、近所の人が何人か来てお膳を出した。 夫の一番上の姉の旦那さんは何もしないで何処かに行 ってしまうので「ギゾウ ! 何をしているのっ!」と姉さんに叱られているのが可笑しかつたが、旦那の「ギゾウ」さんは怒りもせず何かぼそぼそと弁解している。 今までの気苦労と疲れで気分が悪くなりねてしまった。 お爺ちゃんの遺言で(堅粕の叔父と立花寺の叔父立ち会いのもとに)お婆さんには帰って貰う。
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昭和十九年 | |||
暮 |
九州の空襲始まる 夜箱崎に空襲がある(何を狙ったのかわからなかったが)。 高射砲の音や火が見える。 そしていよいよ飛行場建設が始まる。 福岡空港を乗り降りする人の何人が此の飛行場の出来るまでのことを知 っているだろうか? 稲や麦がよく実り、菜種の花が一面に咲いていた農地が埋められ、平和な村の家々が壊され、墓まで崩されていく。 お国の為と言う大義名文のために不平も言わず自分達の手で。
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勤労奉仕
毎日毎日勤労奉仕が始ま った、早く飛行場を造らねばならないのだ。 町の家の間引きも始まり、その勤労奉仕も割当てられる。 千代町、吉塚の方へと出かけ取り壊した家の後片付けだ。 いよいよ本格的な飛行場造りが始まった。 「一軒に一人は必ず出る様に!出られない人は雇つてでも出る様に!」との事だが雇う人などいる筈がない。 飛行場のまわりの溝を掘りに毎日子供二人を連れて出かけた。 堅粕の学校の近くから、ずっと下臼井の方まで、大勢でするので割に早い。 飛行場の中にあった村は全部立退きのため家を壊しに出掛ける。 瓦や柱、板等は又使うため丁寧にリヤカーに積んで運ぶ。 土地は我々のお墓の近くの土地を皆で提供してそこに移り住むことになる。 戦後お墓が無くなった人々で丘の上に共同墓地(納骨堂)を建てることになる。 飛行場にはバラス(大きな石や砕石)をトラックでどんどん運んで来て埋めて行く。 学生や民間人(戦争に行かないひと)が勤労奉仕でシャベルや鍬、つるはしを使 って黙々と建設に協力している。 ある時突然の雷雨に逃げ場所のない広い所でシャベルに落ちて学生が一人亡くなったと聞いた。 今まで博多へ行くのに真直ぐ歩いて行けたのに今度は飛行場の周りをぐるりと廻らねばならず、市役所や病院に行く時は大変だった。 仕方なく飛行場建設のトラックに手を上げて運転台に乗せて貰 った。 幼い児連れなので、わりに親切に乗せてくれて助かった。 だんだん食料も無くなって来た。 配給は時々で大根半分とか魚(鯖等)半分とかがあったが、忽ち配給も無くなって来た。 満州からの小豆の配給が二合位あったが、横流しがあり市会議員の所には二俵の小豆があるとの噂があ った。 衣類も無いので着物の裏地で子供達のシヤツを作ったりしたが糸も無い。 始めて糸と服が配給になったが、男の児ばかりの家に赤い糸、五歳の児に中学生が着る様な服が配給になる(この服は長男が中学入学の時に着る)。 平尾の方に飛行隊の兵舎が出来、捕虜収容所が出来、飛行場建設の為に連れて来られた朝鮮の人のバラックが出来た。 捕虜はイギリス人で、小串末次様の前の広場から隣の横の道を通つてトロッコの線路がひかれ、裏の山から削りとつた土を飛行場の埋め立てにする為朝から夕方まで土を運んでいた。 彼等の食事は豆入り肉入りご飯で、スープもつき、我々よりよっぽど良い(我々は南瓜の団子汁かジャブジャブ粥)ものを食べているのに、栄養が不足するのか、畑から玉葱や茄子、胡瓜、トマト等を盗って食べている。 煙草が配給で少ないのですごく欲しいらしく、隣の家の窓まで来てねだっている。 でも皆ほがらかで面白い。背のたかいスミスと言う人はよくふざけた格好で人を笑わせていた。 「日本は土を手で堀りトロッコで運ぶが、イギリスは機械で堀りブルトーザで運ぶ」と自慢して、「クリスマスにはイギリスから迎えに来るさ」と何時も言 っていた。 昼食の時は、何時もお湯を沸かす番をしてるのは将校で、仕事は何もせず威厳を保っているし、部下もよく言う事を聞いていた様だった。 トロッコが転倒して怪我をした人もいたとの事だ。 飛行場の排水をよくする為に小笹を一人二十把刈れとの命令で、二股瀬と箱崎の中間位の川筋に行く。 鎌など使つたことが無い私は一把刈るのが大変。 農家の人はスカッスカッと刈 っていく。 昼近くなった時「上臼井が火事だ!」と大声で走って来る人がいる。 皆は慌てて走り出した。 殆どの人が笹刈りで家を空けているので、私も子供二人を連れているので、遅れながら走る様にして戻る。 上臼井の叔母様(母の異父妹)の向かいの家が火事で、叔母様の家の藁屋根に飛び火して少し焼き、消えた。 荷物を出した広い庭に叔母様はほっとしたのか涙をためていた。 飛行場建設の為に来ている朝鮮の監督の人は一般の広い家を借りたり兄弟で一軒の家を借りていた。 我が家は日本人の現場監督の年とった人に座敷を貸していたが異動の為直ぐ居なくな った。 Oさんの所に居た若夫婦の金さんとゆう綺麗な人は、よく隣や私の家に遊びに来てお話をしたり、私達の食料難なのを見て同情して朝鮮餅や肉等を持って来てくれた。 私達一般人には殆ど米の配給は無か ったが、炭鉱の人や朝鮮の工事現場の人には一人米六合の配給があったので、余つた米は闇で売つているとの事だった。 「風呂が無いので風呂に入れて欲しい」と金さん達が言うので、気の毒でお隣と家とで交互に入れてあげていたのでお礼だと。 炭鉱は増産増産で、米の配給は一日一人六合もあり、やはり闇売りをする程なのに、一般の人には全然と言っていい程無い。 月に三合位の時もあった。 熊本は米が余る程とれているのに県外輸出を認めないので、福岡県は炭鉱をひかえ一般の人まで賄えない状態だ った。 或る日朝鮮の人の飯場が火事になり、凄い炎で、まるで紙が燃える様に燃えている。 後で聞くところによると山を越えて火事場泥棒が来て凄かったとの事。 空襲に供えて裏山に防空壕を掘ることになる。 村中の人が入れる大きな壕だ。 掘った土は、壕の前に爆風よけの土手を築き、壕の中は炭鉱の様に材木をはめて行く。 杉の木を伐 ってきたのを女だけで杉の皮を剥ぐ。 何本も何本もで大変だ。 その合間には、お宮様の下につくっている航空隊の防空壕を掘った土を、二人一組でモツコに入れ、担いで外に出す仕事があった。 雪が降る日も長男を連れ次男をおんぶして運び出す。 長男は焚き火の傍に火にあたらせているが、寒さにべそをかいて泣きそうにしている。 でもどうしようもない。 近くの人が見かねて見てくれた。 よその人は皆、年寄りや戦争に行けない人がいて留守番がいるが、我が家は親子三人でいつも子供を連れて行かねばならない。 「一軒に一人は必ず出せ」との命令で。 南方からは何の便りも無い。 M様からは御主人から便りがあり、夫がが無事であること等も知らせてくれる。 日本は布や靴が不足しているらしいからと、布や靴を送ってきたとのこと、うらやましく思 ったりした。 飛行場の建設も殆ど済み朝鮮の人も次ぎの建設工事場の春日原の方へ移動して行った。 金さんの若夫婦も別れの挨拶に来て困った時は米でも肉でも上げるから来いと言って別れて行 った。
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空襲が激しくなつて来た
箱崎の空襲では、高射砲の音や曳光弾が綺麗いに光って見える。 落下傘で下りた米兵も捕ま ったとのことだった。 お隣の叔母さんと金さん夫婦を尋ねて行く事にする。 飯場はバラック建てのすごく汚い所で、気の毒で仕方がなかったがとても親切にして呉れて、朝鮮餅や肉(密屠殺かもしれないが)を分けて貰 って帰る。 帰りは暗くなって博多駅から輪タクに乗って下臼井まで帰る。 お金を払おうとすると、運転手は「お金はいらないから野菜を呉れ」と言うので、庭に作っていた水菜や分葱等を沢山抜いてあげると喜んで帰 って行った。 食料が如何に無かったかが判る。 お金があっても何の役にもたたなかった。 お爺ちゃんは好い時季に亡くなったとつくづく思った。 亡くなって直ぐから土地は国に召され、飛行場建設は盛んになり、急速に食料は無くなり、味噌、醤油、塩、まで無くな った。 塩が無いので箱崎の浜まで一升瓶をさげ海水を汲んで来る状態だった。 お爺ちゃんの亡くなった時はまだお米も少し買えたし、みじめな思いをしないで済んだので好か ったと思った。 隣の叔母さんと少しの衣類などを布団のつづらに入れて、大八車を二人で曳いたり後押しをしたりして粕屋郡の江辻の親戚の家に遠い道を疎開した。
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燃料がない
庭を掃いた落ち葉から鼻をかんだ紙(ちり紙等はなくトイレも新聞紙だつた)まで薪の代わりに燃やした。 九州は石炭で風呂を焚くため、石炭を馬車一杯買って庭隅に積んでいた。 今は風呂どころか食事用の豆炭も配給がない。 人手がなくて出来ないのだそうだ。 裏山を越えると亀山炭鉱がある。 そこの豆炭工場に苦役にでた人には帰りに一袋分けて呉れる。 一袋といっても今の米袋二つ位のものだ。 子供達を隣の子に(小学五年)預け、叔母さんと村の人何人かと出掛ける。 まだ熱い豆炭をコンクリートだけの広い作業場に広げて冷し、冷めた順に袋に詰めてゆく。 手も顔もモンペも黒くなって、夕方六時頃まで働いて、帰りに一袋の豆炭を貰いリヤカ−に積んで帰る。 くたくただが家の用事が待っている。 皆軍優先で、民間には廻って来ないのだ。
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微粉 (石炭の粉)
隣の叔母さんと、志免の炭鉱の近くの小川に沈殿している微粉を取りに行く。 次男を又預けて、リヤカーの後押しをして、黒々とした小川に長靴で入り、シャベルでドロドロの微粉を掬い、リヤカーに積む。 水に浸かった泥を運ぶ様なもので重いこと。 亀山からの坂道をリヤカーを押して登るのがつらかった。 何日か続けて庭隅に大分溜まったので、今度はこれを固めるための粘土を取りにいく。 亀山へ行く坂道の下に沼がある傍に粘土がある。 又これが重くて食べていない身体に応える。 適当な粘土を微粉と混ぜて、手のひら程の大きさに丸くして庭の日当たりの好い所に干す。 これで当分風呂も焚けるとほっとする。
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食 料 難
配給が殆ど無くなって来た。 庭に大根、甘薯、南瓜、人参、キャベツ等を庭一杯植える。 農家は欲が深くなって、外におつかい物を持って行かないと南瓜も分けて呉れない。 衣類を欲しがる。 我が家の衣類もだんだんと無くな って来た。 庭だけではたりないので、Sさん(海軍の御主人が戦死をして子供を四人抱えていた)と二人で亀山え行く山の側を開墾して大根の種を蒔く。 なにしろ今まで何もした事のない二人がするので、出来たのは鼠のしつぽ位の大根。 それでも貴重な食料で、刻んで雑炊や団子汁に入れて食べた。 江辻のTさんが一人で田植えを頼まれ、お隣の叔母さんと手伝いに行く。 子供を連れて泊まりがけだ。 苗取りを始めると凄い雷雨。 でも濡れたままつづける。 殆ど叔母さんと二人で田植えを済ます。 食事だけはたっぷり皆で頂けるし、広い町の共同風呂に入 って子供達は大喜び。 かがんでする仕事なので、太股の筋肉がコチコチになって痛くて、上がり框に足が上がらない。 済んで帰る時子供達の下駄を作って呉れた。
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昭和二十年 | |||
四月 |
長男の入学
先輩後輩を呼び、しきたりの「お披露目」をする。 座敷の大きなテーブルで鶏ご飯に、煮しめとお汁だけで済ます。 東平尾の学校まで二キロだが元気に通う。 今まで弱く心配ばかりして来たが、学校に通う様になって丈夫になって来た。 でも、入学当初は皆の中に入って行けなくて、お遊びの「子取ろ子取ろ」の時も絶対中に入らず、外で見ているので先生が「坊ちゃんは今まで誰と遊んでいたのですか?」と困 った様な顔をしている。 先生は堅粕の人で、我が家が昔から近在に知られた旧家だったのでとても丁寧にしてくれる。 長男はだんだんと馴れてきて、空襲警報が鳴ってもなかなか帰って来ない。 心配で防空壕にも行けずハラハラしながら待っていると、のんびりと山の中を道草しながら帰って来る。 山は灌木が茂 っていて空が見えず恐く無かったらしい。 亀山で下校児が艦載機に狙われて危険だとゆうので、村の入り口の馬小屋を分教場にして勉強する事になったが、 毎日の空襲で使われなか った。
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お 菓 子
甘いもの等何も無い。 大根や人参を甘いと言って喜んで食べる。 長男の学校では野草(あかざの葉)を摘み乾燥させて持って来たらビスケットをあげるとの事。 子供達は一生懸命(あかざの軟らかい葉)を摘み、干して学校に持 って行く。 一月位して十枚位の仄かに甘い(砂糖ではないらしい)ビスケットらしき物を貰って来て喜んで食べている 。 聞くところによると、粉の代わりに何か土が混ぜてあるとの事だった。 此の頃は人だけでなく、馬の餌も無いらしく茶殻を乾燥して出す様にとの事。
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脱 走 兵
飛行場も出来兵舎も平尾の方に出来て軍人が沢山入って来た。 我が家のミシンも徴用で一年間航空隊に持って行かれた。 設営隊の軍人は白い服を着て待遇が悪いらしく、脱走する人が多か ったらしい。 何時も子供たちに声を掛け肉を持って来て呉れたりした時には縁に腰かけて家族の事を話していた将校が、或る夜遅く来て戸を叩く。 「脱走兵を探しているのだが水を一杯飲ませてくれ」と言う。 悪いけど女一人なので戸を細く開けて渡す。 将校が去り暫くして長男のおしっこをさせるため戸を開けかかると便所の角の所にひとが隠れている。 ドキッとして急いで電気を点け「誰なのっ!」と大声で聞くと、「国道への道を教えて呉れ」と言う。 恐いので直ぐ教える。 白い服の設営隊の人だ。 可哀相だとおもった。 人の話では、炭鉱に逃げていた何人かが捕まり重営倉に入れられたとの事だった。
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無 線 通 信 兵
本家と我が家の間にテントが張られ通信の機械やモ−タ−が置かれ通信兵の若い二人が本家の納屋で通信をしていた。 北海道(大森様)と四国(関様)の二十代の人で、人なつっこくお姉さんお姉さんと話し掛けてくる。 時々家で煮たものを隣の叔母さんと持 って行ったり郷里の話を聞いてあげる。 或る朝背の高い大森さんが血相変えて飛び込んで来て「お姉さん大変だ関君が電気にやられた」と言って飛び出して行った。 ドキッとして手足が震え冷たくなる。 モーターの故障を直していて三千ボルトの電流に飛ばされたとの事だった。 おとなしい真面目な浅黒い人だ った。 軍医が直ぐ来たが駄目だった。 血の斑点が見える。 お父さんが来て本家の座敷で葬式を済ませ四国に帰られた。 人間なんてなんと脆いものかとつくづく思う。 だんだんと空襲が激しくなる。飛行機を隠すため、志免の炭鉱に行く山道の崖に壕を掘りに勤労奉仕。 赤土で灌木の茂った所に何ケ所か掘り、その後飛行機を飛行場から綱で女ばかりで引っ張 って来て壕に隠す。 無線隊は壕の中で仕事をして、隊員は各民家に寝泊まりする。 家の広い人は必ず誰かに貸さなければならないので、家は女一人なので建設隊の人は嫌で無線の兵隊に貸す事にする。 お座敷に無線の兵隊が十人位寝泊まりする様になる。 関西の人らしく陽気で、家のアコーディオンを弾いて歌ったりして賑やかだ。 昼間は壕に仕事に行き、夜は交代の様だ った。 薪が無く風呂も焚けないでいると、帰りに壕を作る時に出た丸太のたち屑を担いで来て割って風呂を沸かして呉れた。 兵隊が十人もいると心強い。空襲が頻繁になって来たので家は何時も開け っ放しで、中廊下を隔てた茶の間の方で何時でも山の防空壕に逃げられる様にモンペをはいたまま。 大切な物は帯芯で作った鞄に入れて何時でも持ち出せる様にして子供を抱える様にしてねた。 一日中サイレンがなる。 一機位来ても誰も逃げなくなった。
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艦 載 機
或る日、昼食中といっても南瓜汁だが、飛行機の沢山飛ぶ音がする。 「あれは何処の飛行機かしら?」と兵隊に聞くと、「日本のだろう」とのんびり言うので安心していたら、ヅヅーンという音が何発も聞こえ飛行場の周りを廻 っては落とし、廻っては落としと兵舎(家の東南の方)の方から爆弾の落ちる音がだんだんと家の方に近づいて来る。 兵隊達は何時の間にか居なくなっていた。 爆弾が落ちているのにやっと警戒警報が鳴っている。 庭に掘った小さな壕に入っていたが、爆弾の音がだんだん近づいて来たので飛行機が向うに過ぎた間にと、長男を連れ、次男を脇に抱えて山の防空壕へと走 った。 途中何処からか「危ないぞ!伏せろ!」 と大声で叫んでいる。 見上げると裏山すれすれに低空で一機こちらに向って来る。 飛行士の顔まで見える。 其処は広い南瓜畑で隠れ場所がない。 もう直ぐ壕なのに親子三人で伏す。 ダダーンと凄い爆風で足許がフワーと浮く。 二百キロ爆弾が近くの飛行場に落ちたのだ。 爆弾が斜めに飛んで行くのが見える。 通り過ぎた隙に防空壕に走り込む。 壕の入り口には日の丸のマークを付けた特攻隊の人が四、五人すでに入つていて、私が子供を抱えて走り込むと「大変でしたね−」と声を掛けて呉れた。 途端に涙が溢れて来た。 敵機が去って解除になったので家に帰って見ると、何時もは外す事も出来ないガラス戸が外れ、ガラスが割れ飛び散り、爆風で持ち上げられたのか屋根裏の塵が部屋中に散らばり、足の踏み場も無いほどだ。 まだ恐怖心が去らず、兵隊は兵舎につめかけたまま帰って来ないので防空壕で夜を過ごす。 爆弾騒ぎの時は、隣の叔母さん達は先に逃げてしまって、子連れの私達は取り残されてしまった。 いざとゆう時は人の事等考えていられないのは当り前だが,終戦後も又そんな経験をして淋しかった。 この空襲で農協や下校児が機銃掃射を受けた。 逃げ惑う子供を低空で追いかけたとの事だった。 村の防空壕には無線の兵隊も入って仕事をしていたので、軍が薄暗いが電灯を点けて呉れていた。 大分湿気てはいるが布団も着替えもある。 或る日、次男の子供布団が無くなつている。 市会議員の奥さんが探して呉れたら、上の方の人が盗んで隠していた。 物の無い頃で、一寸小綺麗な赤ん坊の布団を見て欲しかったのだろう。 大分叱られていた。 次の日家の大掃除をしてやっと家に帰る。 割れたガラスの配給があったが足りない。 飛行場には竹べらの飛行機を並べ、本物は裏山の奥の壕に隠していたので損害は無かったが情けなかった。 高射砲も全然撃たなかった。 兵隊達は大豆入りのご飯を丼一杯食べ、私達はじゃぶじゃぶ粥か団子汁。 子供達は中廊下のガラス障子越しにそれを見ていると兵隊が分けて呉れようとする。 何となく惨めで、癖になるといけないので兵隊の食事の見えない玄関の部屋で暮らす事にする。 服装は何時もモンペに地下足袋で、直ぐ飛び出せるようにモンペのまま寝る。 子供の靴も下駄も無いので、藁を貰って来て藁草履の作りかたを教わる。 藁をよく叩いてボロ布の裂いたのを藁に混ぜて作る。 飛行場では黒い胴体の爆撃機が続けて飛び立つ。 一機どうしても足が出ず飛行場の周りを何度も廻っている。 村の人まで心配してハラハラしながら列んで見守っている。 その内や っと足が出て着陸し、皆一斉に拍手が湧いた。 毎日毎日飛行機が来ては出て行く。 夜は整備の爆音が一晩中続いている。 爆撃機が春日原の近くに不時着して、救援に駆けつけた人を巻き添えにして爆発。 相当の人の犠牲者が出たとのこと。 爆発の音は下臼井まで聞こえた。 操従士がだんだん不足して未熟なのか、着地に失敗して飛行機がよく落ちる。 或る日、勤労奉仕の目前で小型特攻機が帰って来て着陸した途端、逆立ちをして宙返りをした。 直ぐ救急車が来たが、飛行機の下からのそのそと這い出す姿が見え、ほ っとすると同時に皆笑い出してしまつた。 又今日も、東平尾のお墓の所に飛行機が落ちたと話している。 飛行場の傍にあるお墓だが本当によく落ちる。 祟りかもしれないと墓を移転する事になる。 その勤労奉仕に行く。 此の辺は土葬だつたらしくかめの中に水が溜まり気持ちが悪い。 でも墓の移転以来飛行機の落ちた話を聞かなくなった(殆ど飛行機が飛ばなくなった故かもしれないが)。 飛行機も無いし、戦争もひどくなって来た。 あちこちで日本軍は負けている。 B29が来てもなすが儘で、高射砲も撃たないし飛行機も飛ばなくなった。 太刀洗飛行場が爆撃された時は、下臼井の我が家までズズーン、ズズーンと地響きが伝わ って来る。 一トン爆弾だとか。 此の間の板付飛行場に落ちたのが二百五十キロ爆弾だから、如何に凄いか判る。 裏山のひくい所から、八幡を爆撃している敵機が蚊トンボの様に群が って見える。 ニュースでは防空壕に入っていた人が全部やられたとか。 一トン爆弾では此処の防空壕など一たまりもない。 跡には大きな池の様な穴が開くとの事だった。
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六月十九日 |
博多大空襲 B29が何十機も来て、柳町の辺から千代町にかけて円型に囲む様に焼夷弾が落とされた。 逃げ場を失つて川に飛び込んだり、防火用水(家の前の小ささな用水桶)に入って死んだり、銀行の地下室に逃げた人百人以上が蒸し焼きにな ったり、自分の家を火事から守るため努力して亡くなったり、悲惨な話しばかりだ。 我が家は離れていて被災を免れるが、あの赤い凄い炎は今だに忘れる事が出来ない。 長男は小さいので怖いもの知らずで壕に入らず、爆風よけの土塁の上に上がり燃える博多の町を見ている。 爆発する音がひっきりなしに聞こえる。 油山の一ケ所も燃えている。 灯が漏れていたのか誤爆なのか? 警報解除の後も何時までも赤々と燃え続け、時々何かの爆発音が聞こえる。 千代町のガスタンクがやられなかったのは不幸中の幸であった。
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中原の叔父様心配して来る 怖くて家に帰りそびれていると、 夜九時近く中原の叔父様が(私の母の異母弟)はるばると夜の道を自転車で鶏ご飯のお握りを重箱に入れて迎えに来て呉れる。 まだ博多は燃えているし、飛行場の周りを通らなければ来る事が出来ない所で危険なのに、本当に有り難く嬉しくて涙が出そうになる。 市会議員の奥さんや隣の叔母さんが「私達が面倒を見るので大丈夫ですから」と叔父様を説得したので叔父様は帰って行った。 (でもいざとなると誰も自分の事だけで一杯で他人の事等の面倒を見て呉れる筈がない)お握りの美味しかった事を思い出す。 次男はまだ四歳(数え年)なのに、警報が鳴ると「ジュキンジュキン」と防空頭巾を被り縁の下に潜りこもうとする。 大人が慌てふためくので怖いと思うのだろう。
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特 攻 隊 特攻隊の人がよく下臼井にも現れる。 防空壕にも一緒に入る事もある。 特攻隊の人が出撃する時は道に列んでお見送りをした。 亡くなられた方も多く、裏山の上のお寺に十位、遺骨の無い白木の箱が祀 ってある。 交替でお通夜のためお詣りに行く(まだ家族に引き取られるまえ)。 特攻隊の人も時々お詣りに来ていて色々な話を伺う。 爆撃に出かける時は少しも恐くないが、爆撃が済んで帰る時は凄く恐いのだと。 「雲の中から何時敵機が現れるか」と追い駆けられる様な気持ちだと話してくれた。 この寺はご主人が亡くなり女の住持様だつた。 警報が頻繁になって、食べ物も夜火を焚くと目立つと言うのでなるべく昼の間に煮た。 また、夜は殆ど壕で過ごす様になった。 六月十九日の博多大空襲の後、市役所に用があり博多へ行く途中、何度か警報が鳴るが隠れる場所は無い。 駅から海が直ぐ見える様に焼けてしま っているが、駅前少しと博多ホテルは焼け残っていた。 あちこち瓦礫の中の防空壕の跡へ線香が立てられ、その匂いと何か異様な臭いとが一杯漂っている。 浜の倉庫には大豆が一杯蒸し焼きにな って燻っている。 食料難なので少しでも食べられる物をと取りに行った人も、その臭いに食べられなかったそうだ。
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八月 六日 |
原爆投下 広島、長崎と続けて原爆を落とされ、何十万の人が亡くなる。 航空隊の兵も背中に火傷をして帰って来たとか、髪の毛が焼けて背負つた子が焼け死んでいるのも知らず逃げて行く人とかまるで地獄の様な話が伝わ って来る。 前は白い服は目立ち飛行機に狙われるので黒い服を着た方が良いと言っていたが、今度の原爆で黒い服を着ていると火傷がひどいので白い服を着る様にとの事。 又、今迄はB29一機の時は偵察なので逃げなくて良かったが、之からは一機でも避難する様にとの事だった。 時々空から錫のテープがキラキラと光りながら落ちて来る。 子供達が拾って来るが、之は電波探知機の妨害の為だとの事。 日本では、「探知機を作るのに必要な為ダイヤモンドや金を供出する様に」との事で、 私も父の遺品のダイヤモンドの指輪や金の指輪、又お爺ちゃんの菊の紋章の入 った金盃も皆供出する。 しないと非国民と言われるので。 又葡萄も探知機に必要な(酒石酸)をとる為供出せよとの命令。 自分の家でも食べる事が出来ず、木を伐り葡萄作りを止める人も出て来た。 母の叔父の所も葡萄や梨を栽培していたが、もう止めたいと言 ってこぼしていた。 |
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八月十五日 |
終 戦 天皇の声を聞きながら、ほっとすると共に涙が出て来た。 嘘の様に静かな日だつた。 毎日毎日空襲警報で防空壕え行ったり来たりの日だったが、今日は飛行機が来ずシーンとしている。 不思議に思 っていたが降伏を放送で知る。 忽ち兵隊の間に混乱が起き、上官の命令は全然役にたたない。 勝手に軍のトラックを持ち出して、倉庫から軍の食料等を積み、あっと言う間に居なくなってしまった。 家に居た人は殆ど関西の人なので一緒に帰 ったらしい。 航空隊にはすごく沢山な物資があり、何年も見た事もないチョコレートまである。 村の人達も軍の物資の入れてある壕に殺到している。 今までの抑圧された生活から開放され、今後どうなるかも解らないので秩序も何も無くな った様だ。 之から先どうなるのか、殺されるかも知れないとゆう気持ちが脳裏を掠める。 兵隊が居なくなった後若い隊長丈が残って、「色々お世話になりました何のお礼も出来なくて残念ですが」と十枚位の軍隊毛布と子供達に航空食のチョコレートを少し呉れて、淋しそうに去 って行った。 手榴弾を手に持っていたのがすごく印象に残って居る。
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進 駐 軍 進駐軍が上陸して来た。 終戦後、博多ホテルから駅まで一帯は家が残っていたが、進駐軍が博多ホテルで火事を出し、それを消すのに類焼を防ぐためか乱暴にも周りの家を爆破して、結局博多駅まで全部焼けて海がまる見えにな ってしまった。 飛行機も次々と上陸して来る。 婦女子があちこちで暴行されたとか、色々なデマかもしれないが流言が飛び交い、 村の女の人は勿論男の人まで何時の間にか居なくなってしまつた。 行く当ての無い私は、どうしょうかと悩んでいる内に村はまるでゴーストタウンの様にシーンと静まりかえっている。 お隣の叔母さん達も何時の間にか居なくなつていた。 午後三時過、さすがに心細くなり母の里の中原に行こうと決心する。 子供達の一寸した身のまわりの物や、大切な物をリヤカーに積み行く。 巡回の兵隊の二、三人に見送られて、小学校六年生の時母に連れられて歩いた道を、記憶を辿りながらヨタヨタと出掛けた。 渡辺鉄工所(飛行機を作っていた工場で、父の従兄弟が技師長をしていたので好く覚えていた)の横を真っ直ぐ行った事を覚えていた。 雑飼隈の鉄工所辺りに来た時はもう暗くな って来たが、天の助けか、私達を見守る様に月がこうこうと道を照らしている。 殆ど家等も無く藪や田圃の続く道だ。 ふと前を見ると若夫婦らしい人が大八車を曳いて行く。 声を掛けると中原の次の村の仲村に行くと言う。 ホッとして後をついて行く。 灯火がチラチラと時に見える淋しい道だ。 竹林や畑道を過ぎ無我夢中で、汗びっしょりなのもわからず若夫婦の後をついて行く。 子供達はリヤカーで居眠りして居るのかおとなしい。 八時過ぎ、亡き母とよく夕涼みをした村の入り口の店の灯がポツリと見えて来た。 もう其処だ。 若夫婦に礼を言って叔父の家の門を入る。 中庭の大きな柿の木が腕を拡げて迎えて呉れる様に枝を拡げている。 玄関に入ると叔父の「大変だ ったろう」との一声に私は涙が溢れて来た。 後で聞いた話では板付の国道は何処に行くのか、次から次と荷馬車に荷を積んだ人が一晩中続いたという。 直ぐ夕食を御馳走になり寝かせてもらう。 こんな田舎でも山奥に逃げる準備をしていたと話す。 叔父は着替えや布団等を取りに行かねばと、翌朝暗い内に荷馬車で下臼井に出掛ける。 暗い田圃から牛蛙の声が凄く大きく聞こえる。 整理箪笥に衣類、布団等を積み中原に行く。 二、三日たってからだったろうかラヂオの放送で、「福岡市民の皆様家にお帰り下さい。 何事もありません」と何度も放送している。 暫くして序々に帰り始めているとの放送が始まる。 皆家を開けっ放しで逃げたので心配にな ったのだろう。 私は毎日する事も無くご飯焚きや掃除の手伝いだけでお世話になるのがつらくなったし、叔父様にも子供が沢山いるし、迷惑を掛けたくないので帰る事にする。 子供達は前の門川や広い庭でのびのびと遊んでいる。 山芋のむかごを取って来て煎つて食べたり遊ぶ事にはこと欠かない。 又叔父様に送って貰って下臼井に帰る。 大分進駐軍も入って来て村の中にも姿を見せる様になる。 飛行場建設をしていた捕虜の兵もイギリスに帰れると喜んで、私達の家にまで挨拶に来て帰って行った。 絶対に玄関の戸は開けない様にとの事。 あちこちで婦女暴行の事件があるとか黒人兵が悪いとか、 色々な噂が伝わ って来る。 裏庭で、掬って来た微粉でたどん作りをして部屋に戻ると、土足の跡が畳に付いていて整理タンスの上の目覚まし時計が無くなっている。 次男が少し玄関の戸を開けたままにしていたらしい。 お隣の帰還していた叔父様(招集で朝鮮に行つていたが、戦前は竹下の油工場の工場長で、よく食用油やバターを頂いたりした。 陸軍少尉だった)が警察に届けに行ったら、警官は「戦争に負けたのだから」との一言だけだ ったと。 米国に帰るのに土産を物色しているらしく、丁度ポケットに入る大きさだったからだろう。 裏庭で畑仕事をしていると、庭にまで入って来て手真似で日之丸の旗や扇子を呉れと言う。 殆ど寝巻を着た事がない。 何時どんな事があるか判らないのでモンペのまま寝起きしていた。
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戦後の食料難 益々食料が不足して来た。我が家の百坪の庭もご多分に洩れず少しづつ色々な物を植えた。 鶏舎(一羽鶏がいたが餌になる糠が人間の食料になったので処分した)の跡に人参、南瓜、梅の木の根元にはニラ、垣根には山芋のむかご、生け垣の間にはラッキヨウ、庭には水菜、チシャ、甘薯、馬鈴薯豌豆、分葱、日当たりの良い家の側にキャベツ等冬には大根が良く出来て子供達は甘い甘いと生で齧つている。 人参も甘いと喜ぶ、甘薯の茎もわりに美味しかつた。 表のお坪には植え込みの陰につわ蕗、茗荷、スベリヒユも食べて みた。 庭には柿、葡萄、栗、さくらんぼ、金柑、梅、桃、無花果と果物はあるが、家で食べる前に一晩で無くなつてしまう。 農家の人はなかなか売って呉れないので田植えの手伝いに行って米や麦を少しづつ貰う。 Kさんと言う第一生命代理店もしている人に頼まれて名簿つけや封筒書きを手伝う。 家で出来るので好い。 昼間は他の仕事を夜十二時近くまでして麦を少し貰う。 又、上臼井の叔母様(私の母の異父妹)が古い着物で子供の服を作 って呉れと持って来たので縫ってあげて食料を貰う。 又田植えの忙しい時には、ご飯焚きを頼まれ手伝いに行く。 子供に食べさせる為に。 終戦後は進駐軍の命で飛行場に勤労奉仕(但し此の時は一日出ると二合の米の配給券を呉れる)。 地下足袋にモンペ、シャベルを持ってだが、戦争中の様な重労働では無い(進駐軍は女性にはきつい仕事はさせないとの事)。 隣の叔母さんと交替で行く(子供を見て貰う為)。 時々二人を留守番させる事があった。 昼のご飯を分けて置くが、ある日長男が学校から帰って次男の分も少し食べたらしく、夕方かえって来ると次男(四歳)は膝に来て離れず、「アキアのをお兄ちゃんが食べたの」と言う。 食べ盛りなのに何時もお粥ばかりだから仕方ない。 二人とも可哀相で泣けて来る。 長男は私が工合が悪くて寝たりすると、まだ六歳なのに豆炭の火をおこし、お粥を焚き、お汁を作って次男に食べさせたりして居る。 皆自給自足だが、米は米軍から貰った切符で少しだが買えるので助かる。 配給は小麦が皮のまま少し貰える。 之を毎日毎日自分で挽いて、ふすまも入ったまま大根の薄い汁の中に団子にして入れ、三人で食べる。 甘薯も配給があるが1KG位。 これで一月持つはずがない。 駅前の闇市に行けばいろんな物がある。 有る所には何でも有る様だ。 堅粕の叔父の所に行くと何時も白いご飯、バターと何でもある。 煙草も配給で、煙草が欲しくて農家の人等が煙草屋をしていた叔父の所に賄賂を持 って来たらしい。 進駐軍の命で、壕に隠してあった飛行機を、又勤労奉使で飛行場まで引張って来る。 子供達は、飛行機の風防ガラスが好い匂いがすると取りに行ったりしていたが、 米軍は日本の飛行機を一か所に集めてガソリンをかけて燃やしてしま った。 何の為の苦労だったのかとつくづく思った。
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引 揚 者 引揚者がぼつぼつ帰って来る。 内地勤務の兵隊は、一番早く土産(軍の物)を一杯持って帰って来たとの事。 夫からは何の連絡も無く、会社の南方部第二課からはセレベス方面は行方不明との通知が来る。 この頃はき っと捕虜収容所に居たのだろうと今は思う。 表の方で靴音がすると、もしや夫ではと何度も耳をすます。 博多には、引揚者の人が沢山駅の近くの寺に収容されていた。 此処からそれぞれの故郷に帰って行ったのだろう。 駅前の闇市には何でもあるが、凄く汚く値段が高くて我々には買えない。 ひもじかつたのだろうが、引揚者の一人が畑から度々野菜を盗んだらしく、捕ま って村の人からリンチを受け、殺されると思う恐怖心から脱糞したと一年生だった長男が帰って来て恐ろしそうに話す。 人間の心に潜む鬼を見た感じがした。 Y旅館の兄弟が金沢に引き揚げていたが、姉達を残して福岡の山九運輸KKに我が家から通う。 食料が無く何もしてやる事が出来なかった。 新聞記者の兄夫婦が一番の船で帰って来た。 姉は大きなお腹を抱え、沢山あった荷物も皆捨てて行李三つ位でわが家に辿り着いた。 衣類は夏、冬、秋の三枚づつだけしか持ち出せないので、和裁の上手な姉は単衣は二、三枚重ねにして持 って来たとの事。 哀れで涙が出る。 続いて姉の親兄弟が、やはり我が家を頼って来て、直ぐ郷里の大分へとた って行った。 一時は我が家には十人位の引揚げ者がいた。 兄は大きな新聞社だけにサービスがよく、米一俵と慰労金が出たとの事だった。 兄は当分博多の引揚者援護局に勤めるため我が家から通う。 共産党の志賀義夫が帰 って来てインタビューをしたと言っていた。 私の父も、二度目の母と妹と共に引き揚げて来て暫く家にいたが、山下病院の近くに間借りする。 兄夫婦がいたので、相変らず薪が無くてSさんと兵舎を壊しに行く。 バラックなので壁板も薄く簡単に壊せる。 大分薪になり助かった。
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昭和二十一年 | |||
五月
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夫帰って来る 三日続けて夫の夢を見る。 顔のシミまではっきりと。 兄に話すと、「シゲちゃんが帰って来たら悪いから」と直ぐに山下病院の所に間借りをする事になり、 大八車を借り私も後押しをし妹も手伝 って堅粕の近くまで来る。 妹が「一寸堅粕に寄って来る」と走って行ったかと思ったら直ぐ息せききってて戻って来て、「姉ちゃん兄さんが帰って来ている」と息をはずませている。 慌てて堅粕に行くと夫はさつぱりとした格好ですまして座 っている。 まるで戦争等無かった様にお客様ぜんとして居る。 私は一辺に肩の荷が下りた様にがくんとして涙が溢れて来た。 正にそのまま、身体に感じたその通りなのだ。 でもどうしてこんなにのんびり悠々としていられるのだろうかと、心外でもあった。 赤ん坊と三才の幼児を置き、年老いた父親もいたのに何の心配も無いよそ事の様な顔をして居る。 心配だったら朝早くても夜遅くても飛んで帰って来る筈なのに、その冷静な顔が今も不思議に残 っている。 次男は帰って来た夫を、お父さんと言う人だと思ったらしく「お父さん何時帰るの?」と聞いたり、「お父さんの家にこんなのある?」と言ったりする。 すると夫は本気で怒 って、「此の家も何もかも皆お父さんの物だっ!」と怒鳴る。 次男はびっくりしてそれから名を呼ばれても隠れる様になった。 会社からは待機して居れとの連絡。 命がけで仕事をして帰って来たのに会社は冷たい。 戦地に行かなかった人が席を占め、席が無い故らしい。 その故でいらいらしているのか、私の言う事する事に直ぐ腹を立て怒る。 「コレラが流行 っているから外で食べないでね」と言うと、 「生意気な事を言うな! お前と俺と幾つ年が違うと思っているのだ!」と怒鳴る。 「昔は優しかつたのに生意気になった」等と、ことごとに言う。 妹がそれを聞き見かねて「戦争中の大変な時に幼児二人を抱え、一人で五年間もや って来たのだものしっかりしていなければ生きて行かれないのよ。 強くなるのは当たり前でしよう!」と言って呉れた。 その時からあまり言わなくなった。 ほっとした故か、身体の力が抜けて工合が悪くなり、食べ物を吐く様になったので、堅粕の家に次男と一緒に行き医者に診て貰うが原因が解らない。 一月位食べられず痩せ衰えてしま った。 下臼井では私が死ぬかもしれないと噂をしていたとか。 次男まで私と同じ様に吐いたりする様になる。 堅粕のお婆ちゃんが栄養をつけねばと、次男に鰻を食べさせたら途端に元気にな った。 精神的なのか 栄養失調だったのか解らない。 途中何度も帰れと夫が迎えにくるが、堅粕の叔母達に留められる。 大分好くなったので次男を堅粕に預けて下臼井に帰る。
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十月
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小野受信所勤務となり小野へ 夫はひとまず一人で九月に兵庫県の小野へ行く。 KDDは戦後の財閥解体で逓信省管轄となっている。 そして十月、引っ越しの為夫が帰って来る。 お金が封鎖になり、一ケ月千円しか引き出せないので、引っ越しの費用(駅迄の馬車代、荷物を送る貨車代、乗車券)が足りない。 会社は後払いとかでどうしょうもないので、私の訪問着と帯をK様に買 って貰う(娘さんの為に欲しいとの事だったので)。 小野受信所に来たものの仕事が面白くないらしかった。 その時狛江工場(東京)のF工場長から「こちらの会社に来て助けて呉れないか」と手紙が来る。 南方でご一緒だ った局長さんのT様の紹介との事だった。 銚子で漁業無線を作るのだそうだ。 夫は直ぐ大のり気で出掛ける。 狛江工場は昔のKDDの修理工場で、唯一の赤字工場のため切り放されて独立していたらしい。 でも又一年間小野受信所に残される。 三男がお腹にいたが食料難は相変わらずで産み月まで畑仕事、六十坪の田を借りて二度芋を植える。 山から苔を採って来て土を焼き、薩摩芋の苗床を作り、苗を作って芋を植えた。 合間に兵隊の古いシャツ(配給)で子供達の服を縫 ったり、又夫の着替え(冬物)のズボンをお爺ちゃんの古いマントを解いて縫い、狛江に送ったりする。
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昭和二十二年 | |||
六月 五日 |
次男の死 満五才の次男は行動半径が広く恐いもの知らずで、蛇を掴んだり無線の鉄塔に登ったり、社宅の井戸の内側にぶらさがったり、山奥の池に同じ位の子と釣りに行ったりと、毎日の様に近所の人の知らせで心配ばかりさせられていた。 産婦人科の医者は遠く、バス等無い田舎で、検診に一里以上の道を歩いて出掛けて帰って来ると、三月の寒い日に小川に落ちたと長男に裸にされて震えていた。 臨月でも食料を確保しなければならない。 近くの精米所に麦を挽いて貰いに行く時ついて来ていた。 何時の間にかいなくなっていたがつまらないので家に帰ったのだろうと思つていたら、 精米所の近くの大きな防火用水に溺れていた。 用水の側に下駄を脱いでいたので、蛙か何か取ろうとしていたのではと思う。 狂った様に泣く私を会社のひとが支えて呉れるが、 頭の中は何も考えられないほどくるくる廻っていた。 夫が東京から帰って来た。 申し訳なくて「御免なさい」と謝るとお父さんは「や っと之で一人前の家庭になったのだ。 世の中には何事もなく過ごしているひとは居ないのだ」と慰めてくれたその言葉が一番慰めになった。 こんなに悲しい思いをするのは嫌だ、子供が居なければこんな悲しい思いをしなくて済んだのにとも思った。 折角此処まで一人で育ててお父さんにもすっかり馴れて来ていたのにと夜になると思い出して眠れない日が続いた。
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七月二日 |
一月後、三男生まれる 難産で会社の看護婦さんにお世話になる。 三男が生れたので悲しさを紛らす事が出来た。
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十月
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東京狛江に引越し
内職
子育てが忙しいし会社がいまにも潰れそうで給料も遅配、欠配で合併した時の退職金の残りも会社に貸したりする程、食料の配給も少ないしで会社の畑を耕し麦を作ったり野菜を作 ったり内職をしたりする。 新宿の古着屋に紋付きの着物と帯を売る。 給料がちびちびとしかでない。 調布の古物商に三味線を売って帰って来ると浦和に住む夫の一番上の姉の旦那が来ていて「お金を貸して呉れ」との事、今売 って来たばかりのお金を夫に言われて渡す。 内職は、豪徳寺まで三男をおぶってぼろ布の端布を一抱え貰って来て、洗濯をし、アイロンをかけ、継ぎ接ぎしておむつを何枚も作り持って行くと手数料を呉れる。 前にした写真を貼る小さな物は千枚で十銭で大変だ ったので(それより)少しは好かった。 その内近くの古着屋をしている自転車屋の奥さんに頼まれ、戦争で焼けた大人の着物の良い所だけ取って、子供の着物を縫って呉れないかとのこと。 之は好い手数料だった。 又社宅の奥さんが、赤ん坊の前垂れのアップリケが好いと世話をして呉れたがどれも内職の賃金は大した事なかったのだった。 おしまい
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