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世相を斬る  2018.04.21

財務省のセクハラ問題 に思う

 新潟県の知事が買春で辞職した矢先、森友、加計問題でその対応に青息吐息の財務省の高官のセクハラ問題があり、次官が辞職した。

 いずれも、その任務においても最高レベルにある高官だ。ただ、財務省の次官は国民投票によって決められたポストではないが、責任の重さ・権力、そして、政治を動かしている立場から言えば、列記とした公人である。真偽のほどは、第三者からしてはなんとも言えないが、録音されたテープの内容を聞いて、本人も、「言葉遊び」でなら、(当初は、自分ではないが、と否定しているが、そのあとで、会話の一部であり、全体では、意味合いが違う。)(財務省のなかでは)有り得る話だ、と全く責任はないかの如くの発言をしている。あきれた話だが、逆に、彼の立場に立って物事考えると、財務省の感覚がみえて来ないわけではない。いったいそこには、どんな魔物が住んでいるのだろうか?

 

 毎年2,000人足らずの人が国家公務員の試験に合格するが、大蔵省ともなると、国家公務員試験で相当優秀な成績でないと入れない。国家公務員になるだけでも大変なのに、次官ともなると、東大の法学部を優秀な成績で卒業し、トップの成績で大蔵省に入っている。とにかく、東大に入るための高校時代、大学の入学試験、そして、東大での公務員試験対策と、絶えず、仲間からは尊敬され、うらやましがられ、ちやほやされて、青春時代を過ごしてきたのだろう。ただ、これは、今の文科省が作った「ゆとり教育のなかでの、点取り虫要請教育法」の卒業生だ。彼らがどんな学生時代を過ごして来たか? 人間形成のためになにを考えて勉強してきたか? 天下の東大を卒業したら、自分の培った知識でどのように社会に貢献しようと考えていたのか? はなはだ疑問に思う。

 

 そんな彼らだが、財務省に入ると、ここは、入省年次により、完全に昇進のレールが決まっているのだ。あと何年たてば、どこの局の、どのポストに、つけるかが一目瞭然。ただ、そのレールに乗って走るにしても、役人の世界では、あまり目立つようなことをしてはならない。つまり、自我を前面に出して、仕事をやりすぎではいけないし、また、上司の方針に逆らってはいけない。上司からの命令は、金科玉条だ。ただ、ただ、黙々と上司の示した方針に従って、上司の命令を十二分に忖度し、「うん、なかなか良くできた。愛い奴じゃ。」と、腹で思わせながらの毎日である。たとえ、世間一般的な常識で、このようにしたほうがよいと思っても、それを表に出してはいけないのだ。これでは、どんな人間にも憂さが溜まる。

 上司の顔色を伺いながらの仕事にうんざりしているところに加え、上司のいう事は、永田町の言いなりだ。彼らは、親の七光で代議士になったもの、組織の力で金を集め、この金に目がくらむ、まるで蜜にまつわりつく蜜蜂や、蟻のような人たちに囲まれ、好き放題に税金をむさぼっている国会議員、日本の大学を卒業はしたものの、箔をつけるために海外留学し、卒業したかどうかもあやふやな議員、挙句の果ては、国会での議決だけのために人気投票で選ばれたようなタレント議員、などなど、優秀な霞が関の官僚からすれば、天下の東大まで出てきて、こんな連中に頭をぺこぺこ垂れて、彼らの言いなりになる上司の姿が、なんとも惨めに見えてくる。しかし、これにじっと耐えているのが偉くなった高級官僚の生き様である。ある政府と密接な関係をもって活躍していた人が言っていた。高級官僚の人達は、30歳代くらいまでは、真剣に国家大計のことを考え、自分の力を発揮したいと考えているらしい。しかしながら、官僚を務めているうちに、それこそ、「上司を見ていると、結局、長いものにはまかれろ」となってしまうのだ。そして、考え方も、仕事の仕方(忖度の仕方も含めて)も、上司と同じような人間像になり、そして、自分の信念はなくなってしまう、のだそうだ。

永田町の人間がどれほどの力をもっているかはわからないが、何ら、具体的な施策も立てられず、国会で内容の無い議論ばかりして、高い議員手当を手にしているのを見ていると、天下の国家公務員試験にバスした霞が関の人間も、いつしか自分の信念も忘れ、骨抜きになり、やる気を失い、金に目がくらんだ永田町の連中の言いなりになってしまう。上司もみんなそうして偉くなって、おいしい汁を吸っているし、自分も、そのことをよく理解していないと、周りから置いてゆかれ、将来はないと思っているのだ。だから、さも、私の上司も同じようなことをしていた、私だけがしていることではないなどという口実を平然と口にするのだ。

 

 財務省に対して、テレビ朝日が公然と被害者はわが社の記者ですと名乗り出た。海外では、日本にも、”Me Too運動の動きが出てきたと報じている。諸外国と比べ、女性の地位については、まだ、大きな開きがあると思う。とにかく、相手は、財務省であり、その後ろには、政治的な魔物の力が見え隠れしているからだ。今回の問題をいろいろ考えてみると、まず、こうしたことは、当の財務省の官僚本人が、「自分だけがしていることではない。」と、言っているように、今回のことに限られないようだ。記者と官僚との両方の意識について考えると、まず、記者の側からすれば、昨今の取材合戦の煽りをうけ、少しでも特ダネをとらないと自らの業績が認められないし、また、局としての評価も上がらないとの意識があったろう。一方、官僚の側からすれば、自分には、国家という後ろ盾があるし、自分のもっている情報は、核心は隠しても、金にはなる。いな、それ以上に自分の個人的な欲望を満たす手立てにもなると、だれもが考える。それを抑えることができるかどうかだ。そこには、善悪の明確な境界線があるわけではない。法的な立場から他人のことはとやかく言うことができても、言葉で表現するとなると、なんとでも言い訳の付く理屈はある。それこそ、「言葉遊び」だ。このことはやたら、「真摯に」とか、「最大」とか、「最善」とか、「速やかに」など抽象言葉にご執心のどこかの宰相を見ればよくわかる。そんな両者の力関係の中で起きたことで、「何も私だけがしていることではない。」と言っているかのような発言からも、このようなことは過去にもあったであろうことは容易に想像がつく。ただし、時代が変わっていることに官僚のほうは、もっと神経を使わなくていけない。

 

 一方、テレビ局は、取材合戦で明け暮れている。今の日本のマスコミのように、チャンネル数が多いと、どこもかしこも番組作りに大変な苦労をしていることはよくわかる。そこには、マスコミが抱えている過当競争の姿がある。番組の内容を見てみればそれが良くわかる。番組の制作費をあまりかけずに、視聴率を稼がなくてはならない。とにかく視聴率が上がらないと、スポンサーが逃げてしまうのだ。そのために、テレビ局の記者が、多少の無理・難題も顧みず、少しでもインパクトのある情報を得ようと戦々恐々としている。

 

 おそらく、今回の問題と似たようなことは、他社でもあったかもしれない。しかし、ことは、記者と官僚という関係であり、弱者と強者との関係だ。恐らく、財務省は、強引にもみ消しを計るだろう。しかし、テレビ朝日も被害者として名乗り出た以上は、其れなりの覚悟がある筈だ。

 財務省の大臣が、「被害者は名乗り出なさい。」とのような発言をしているが、まったく、立場と常識を逸した、思考能力の低さを感じさせる発言だ。その財務省が、もみ消しを計ろうと躍起になることは確かだ。一番の心配は、テレビ朝日に対する仕打ちだ。まさか、名乗り出るとは思わなかっただろうし、ここまで来てしまったのは、計算違いもいいところで、次に何をしてくるかだ。考えられるのは,テレビ朝日の番組のスポンサーへの嫌がらせだ。こんなことは、財務省にすれば、裏に手を回していくらでもできるし、スポンサー会社の広報担当を呼び出し、「お宅は、確か、テレビ朝日に広告を出していたよね。」、否、「お宅の広告をテレビ朝日で見たんだけど。」くらい言葉で十分その効果がある。これで、テレビ朝日のスポンサーが離れてしまうのは一目瞭然だ。こんなことが許されるのが今の世の中だ。他者からすれば、これは、自局のシェアーを上げる絶好のチャンスとも見えるかもしれない。しかし、これは、決して他人事ではない筈だ。

 

 では、どうすればよいのか。

今回の問題は、テレビ朝日と財務省の問題としてとらえるとことは、闇に埋もれる可能性がある。本質は、財務省、あるいは、霞が関全体の考えを変えることだ。それには、マスコミは、国民に真実を伝えるという責務を担っているのであるから、今回の問題を、記者と霞が関、並びに、永田町との問題としてとらえる必要があると思う。すなわち、記者サイドとしては、ただ単にテレビ朝日だけの問題ではなく、すべての局の記者を今回のような事件から守り、真実を公にしていくという意味で、団結する必要がある。幸いにして、ここには記者クラブがあるのだから、今こそ、マスコミ各社は、ここに集結し一団となって、記者の取材が、記者と官僚が11で行われたり、あるいは、官僚が個人的に利する裏取引のような形で行われないようにすべきであると思う。いまマスコミの放送を見ていると、元経産省の弁護士さんや、元経産省の官僚であった大学の先生などがたくさんいる。彼らはテレビでいろいろ詳しい解説や、当たり障りのない批評をしているが、このような人たちこそが率先して、こうした、マスコミ全体をまとめて、記者を守る運動を起こしてはどうかと思う。庶民の街頭署名もよいことだと思うが、それで危機感を感ずるような高級官僚ではないのだ。まずは、今回の被害者をテレビ朝日一社にするのではなく、マスコミ全体の問題であると、それぞれの放送局が認識し、団結すること。その旗振りを、元経産省の弁護士さんたちがすべきではないかと思う。自分たちの仕事の裏で苦労しているのは、こうした記者たちであることをよく考えれば、決して他人ごとではないはずだ。

 

日頃、テレビをあまり見ない私だが、日本のマスコミ、とりわけ、テレビ局は多すぎると思うし、また、視聴率狙いが昂じて、聴取者の受け狙いの内容の無い番組ばかりのような気がする。だから、二つの局くらいは無くてもよいのではないかと思う。他局からすれば、今回のテレビ朝日の行動を、陰で喜んでいる経営者がいるかもしれない。ここで、一局でもなくなれば、そこに広告を出しているスポンサーを抱き込むことができるからだ。しかし、そんな経営者の考えでは、真実を報じていく責務を担うような報道に携わる資格などない。いつ自局の記者が、今回のような被害にあうかもしれない。否、もう、すでに起きているかもしれない。自分のところでは、大丈夫とは決して言えないのだ。とにかく、相手は、まったく、社会的な常識に欠けた権力亡者たちなのだから。今こそ、マスコミの経営者は、単なる視聴率争いばかりに明け暮れるのではなく、国民に対するオピニオンリーダーとしての本来の姿に戻ってほしい。まずは、マスコミ全体が、一致団結して、高級官僚の悪しき慣習を正していく姿勢を見せてほしい。

 

これも、意図のない「言葉遊び」です。

被害者は、名乗りでろと アホ大臣  腐ったタロー芋

大臣が この程度かと サルが言う  去る者は追わず