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住友化学  
蒸留塔の計算  
千葉製造所で  PEの HCP-IIIの開発  
O2触媒反応  
新規事業部  

 

 

 

8. 住友化学 

中研に配属になり、合成ゴムの第3成分であるENB( Ethylidene-norbornene )の原料となるVNB( Vinyl-norbornene )の製造を担当することになった。この化合物は、ブタジエンとジシクロペンタジエンのディールス・アルダー反応解析によって製造されるものであるが、ともにジエンであり、自己ディールス・アルダー反応を起こしたり、ジエンとして働く場合と単なる二重結合として働く場合もあり、とにかく反応が複雑極まりなく、副生物が多量に出て、純粋なVNBを合成することが非常に大変な反応であった。副反応を抑え、目的の反応を起こさせ、目的とするVNBを製造するためには、温度を200゜Cまで上げなくてはならない。私が入社する前までは、この反応をベッセル法でやっていたが、上司、とりわけ、のちに専務になられたその当時の所長の決断で、チューブラーで反応器を作りこれで一気に反応温度まで瞬間に上げて反応させろと言うことになった。それまではオートクレーブという反応器を使い細々と製造していたが、チューブラー反応器で連続的に大量に製造することが出来るのだ。チューブラーの場合には温度管理が非常に正確で、この反応の条件をいろいろと変えてやり、数種類以上もあるそれぞれの反応の活性化エネルギーを求めることが出来た。これは温度管理の難しいオートクレーブの反応器ではとても無理なことであるが、チューブラー反応器なら容易に目的を達成することが出来た。

こうして得た活性化エネルギーを用いれば、どの割合で原料を混ぜ、何度に温度を設定し、どのくらいの時間で、どの程度の選択率で目的とする化合物が生成するのかを机上で計算できるのである。こんなことが出来るようになり、その成果を技術輸出することになった。その会社で、このデータを使いいろいろテストをしたが、あまりにも正確に予測できたので、大変驚き、感謝をしていたと後で聞いた。当社でも後にこの反応で生産をするようになったが、それにはチューブラー反応器ではなく、相変わらずオートクレーブの汎用的な反応器法が採用された。多分安全策からそのような判断をしたのでは、これは私の憶測である。

因みにこの反応解析は、本社の技術計数部がやってくれた。そこにはIBMの最新のコンピューターが入っており、これを使い難しい反応解析もプログラム次第で、難なく解けてしまったらしい。この時の式は、ルンゲ・クッターという多関数・一元方程式を解くものだったと後に聞いたが、これを指導していたのが、後の住友化学の会長になられた石飛さんで、住友化学を辞めてからもいろいろお世話になった次第だ。

 

 

 

 

9. 蒸留塔の計算

この反応で生成される化合物の中から、目的とする化合物を取り出すのがまた一苦労だ。なにしろ沸点が似たようなものが、高い割合で混ざっているのだ。これを分離するのは、蒸留塔いかなく、その設計が厄介なのだ、それぞれの化合物の蒸気圧曲線を用いて、気液平衡を参考に圧力と温度を調節して、分離に必要な蒸留塔の段数を求める。こうなると、もう化学よりも化学工学の世界だ。当時、ようやく自動計算器が導入されて、わが中央研究所にもちっちゃなコンピューターが設置された。このコンピューターの性能は、レジスター(変数)が3つで、計算のステップは、約190ステップだった。それでも当時最もよく使われていた手回しの計算機よりずっと早く、使い勝手も驚くほど便利で、このコンピューターを思う存分使用した。多分この計算機は、化学工学部門が利用するために設置したものであったが、その使用時間の半分は私の蒸留塔の段数計算だった。なにしろこの計算機は、データを入れただけで夜は一人で繰り返し計算を限りなくしてくれるのであるから、全く便利なものが出来たと感心していた。

 

10. 千葉製造所で  HCP-IIIの開発

住友化化学が汎用樹脂の製造に進出し、その製造技術をイギリスのICIから導入した。国内でも数社がそれぞれの会社が技術導入して同じような製品を販売していた。他社では、高圧法の製造技術とともに低圧法の製造方法も導入し、幅の広い用途に、それぞれに特徴の性質をもったポリエチレンを製造・販売をしていた。当社は高圧法の製造技術しかなく、何かと製造量に制約があった。これを解決する方法として開発されたのが、製造温度の制御を信じられないように下げて製造しようというのだ。このアイディアは当時この技術開発の研究をしていた当社の大江工場の研究部から出てきたもので、ここでは、パイロットプラントでいろいろなことを確認していたが、この製造所にある装置がまだ小さく、十分製造が出来なかった。中研で化合物の製造に必要な化学工学にも興味を持ち、先のディールス・アルダー反応の解析も一段落していた折、研究所から、千葉製造所へとの転勤が命ぜられた。まさか自分が製造現場に勤務するなど、天下の東大まで行って、修士まで取りながら製造所なんてという、プライドの許さないことだとの思いもあったが、大会社のこと、こんなこともあるかとこの辞令に従って、製造所の一製造現場に勤務することとなった。しかも、全く知識のないポリマーの製造であり、右も左も全く分からない職場である。そこで半年ほど、交替勤務に入り、製造現場で技術班の言いなりにとなって、兎に角安全第一の大型反応器の運転に付き合った。半年の間、この高圧法のポリエチレンの製造に関し知識を付けたが、このことがこれから先どれだけわが身を助けたことか計り知れない。ポリエチレンの製造方法の改善は、大江工場が担当していたが、これを一気に千葉の大型の反応装置でやろうという訳だ。千葉にも技術者がいたが、製造技術の開発は、すべて大江の研究所に従って執り行うという不文律のようなものがあった。しかし、私には、そんなことは関係なく、千葉の現場に応じたやり方で技術開発をしてゆこうということが、技術者として当たり前のことと思われた。ポリエチレンの製造で重要のは、できたポリエチレンの性質は、反応温度が低いほど良いものが出来た。その一方で、重合反応は、発熱反応で出来るだけ高い温度で製造すれば、製造単価に影響する収率を上げることが出来るこの矛盾する二つのことを同時に行うことは土台無理な話だ。これを何とか解決する方法はないかと様々な方法でポリエチレンの製造技術が化学工学の立場から改善しようという訳だ。詳細は省くが、反応装置を改善する必要があった。そのためには当時のお金で数千万円がしたのではないかと思うが、これを当時の製造所の所長が、ぽいと出してくれた。そのおかげで、研究所に従うのではなく、製造所の独度の考え方で新しいプロセスを可率することが出来た。こうして、高圧法のプロセスでは到底考えられないような良好な性質を有する様々な製品を、高い収率で得ることが出来るようになった。当時ポリエチレンの収率を1パーセント上げると0.5/Kgの費用削減となった。これを、一部の製品で月に数百トン製造・販売していたものを数%上げたものだから、その収益効果は、1,250/月となり、製造所ばかりでなく、事業部全体の、否、会社全体の収益向上に寄与することが出来たと思っている。

こうしたことが出来たのは、この製造の反応条件からできる製品の性能をコンピューターを使って予測することが出来るようなプログラムを自分なりに作ったことによるものと信じている。プロセスも製造所が改善したものであり、このプロラスをどのように運転すればどういった性質のものが出来るかをコンピューターを使って予測できるようにしたのだ。こうして、製造所の収益向上に貢献したことにより、社長賞という栄誉ある技術表彰をしていただいた。この技術は、HCP-III( High Conversion Proces-III )と呼ばれ、その後、ブラジル、中国、ハンガリーと、そして、20年後でもサウジアラビアで活躍していると言われている。これで、少しは自分の努力が実ったのではないかと思っている。

 

11.  O2触媒重合

 ポリエチレンの製造は、温度を200C近くまで上げて、ここに触媒を投入させて反応を開始させる。一度反応が始まると今度は、重合の反応熱が出てこれを冷やすことが必要となる。この反応を起こすのが重合触媒で、高圧重合の時にはラジカルを発生する過酸化物が

この働きをしている。この過酸化物に代えて、―酸素を使ったら重合反応が進むのではないかという発想がなされたが、これがなかなかうまく行かないで長い間、研究開発が進んでいなかった。小生が勤めていた千葉製造所には、ベッセル型の反応器の他に、長さにして1キロいじょうもある、チューブラーの反応器があり、これで反応の起こる状態を経時的に観測することが出来た。通常の過酸化物で重合が開始する温度で酸素を投入しても重合がなかなか実現しないのは、この反応器での温度分布を見ていると、酸素を投入してもなかなか反応が進まないことが分かった。学生時代に酸素は基底状態が、ビラジカルの三重項状態にあり、酸素は、温度が低い時には、ラジカルクェンチャーとして働き、反応を抑えているのでは、だから反応を開始するためにはさらに高い温度でもっと大量の酸素が必要なのではと考えた。過酸化物を使用するときには、デトネーションと言ってエチレンが重合するときにその制御が効かず爆発を起こす領域にちかくなるので、安全性を考えて大量の酸素を投入することを控えてきたのだ。このデトネーションに対しても対策を考えて、安全性に関しても対策が取られていたので、製造装置を使った実験で、思い切り酸素の投入を少し多めして反応の様子を見た。するとどうしたことだろう。重合反応がおこり、反応の温度制御もうまく行っていることが分かった。こうして、酸素を触媒として使用することが実現した。一度反応が起これば、触媒としての働きは、過酸化物も酸素と変わらないので、目的とする性質をもったポリエチレンを製造することが出来る。酸素触媒を使用することは、温度分布を確認することが出来るチューブラー反応器での重合までで、それ以後の研究がどのようになって居るかは分からないが、是非、酸素触媒の重合反応の反応速度についての検討をお願いしたいものだ。

 

12. 新規事業部

住友化学の石油化学の担い手であった大江製造所が、シンガポールでの石化事業の開発とともに閉鎖されることになり、石油化学の本体が大量に千葉に移ってきた。とりわけ、ポリエチレンの研究部隊が千葉に移ってくると千葉での製造技術の開発に様々な制約が出てきた。そんな中で、製造部隊から研究部隊へと移動することになった。製造現場では、好きなように開発をしてきたが、今度は全て旧体然とした大江の研究方式で仕事をしなければならなくなった。中研時代、そしとて、千葉製造所での自由奔放なやり方が通らなくなり、自分でもこれから先のサラリーマンとしての生き方を考えることとなった。

スーパーエンプラの製品

そんなとき、本社への辞令が出て、今度は新規事業部だという。名前は人並みだが、よくよく聞いてみると、まだほとんど売れていないものの販売が、というよりも、物を使う市場を創造することである。殆んど全くと言っていいほどの市場開拓で、中堅で開発した新規のポリマーの販売先を造ること、用途を開発すること、ポリマーに合った商品を開発することなどであり、新規事業とは、一企業のすることどころか、世の中で初めてのことをしてゆこうという訳だ。そんなことをしながら営業とはどういうことかを自分なりに勉強することとなった。化学会社の研究者として身を立てることを覚悟していた者にとっては、まさに青天の霹靂であった。取り扱うようになったのは、エコノールというポリマーである。このポリマーが特殊なもので、超耐熱性のある樹脂で、そのころはまだ、電子・電気部品の発達もこれからの段階で、今日ほど用途も、使用料も多くはなく、カバン一つに製品サンプルを持ち歩いて、ユーザーとともに製品開発をして歩く時代だった。 そうこうしているうちに、イギリスのI.C.I.からPES,PEEKという樹脂の輸入販売をすることになり、エコノールとともに、こうした特殊販売についてのメーカーと言うことで、業界の発展のために教宣活動に注力することになった。化学を学生時代に学んだこともあり、ポリマーの性質を、分子構造と結びつけて説明するなど、様々なポリマーを販売している知者の人とも交流するようになった。次第に産業界も特殊樹脂について注目をし、用途も開発され業績も随分と改善された。新規の用途を探すという段階から、如何に宣伝をし、上手く売って儲けがいくらの時代となって行った。そんな営業を以下にしていくべきかを考えているとき、川崎製鉄との共同で販売を始めたKPシートのトヨタへの売り込みを担当することとなり名古屋に転勤となった。こうなると、研究者として身を立てようと考えていたこととは全く違い、全くの企業の一歯車で、今までの知識も何の役にも立たない仕事をすることとなった。KPシートと同じように、スタンバブルのシートとして、出光がXシートというものをバンパービームとして樹脂型枠として販売しているという話があり、この樹脂製品をトヨタに売り込むことがメインの仕事となった。樹脂の販売とは違いユーザー好みの営業マンにならなくてはならない。そんなうやむやな気持ちで営業活動をしているときに、清水建設の研究所から樹脂型枠を解発する話が持ち上がった。当時、型枠には、合板が使われていたが、その材料はほとんどが東南アジアからの輸入木材で、熱帯雨林の伐採により、毎年広範な面積のものが消失されているという。熱帯雨林は、空気中の炭酸ガスを吸収して成長しており、この面積がなくなるということが空気中の炭酸ガスの濃度の現象を妨げており、かつまた、使用済みの型枠が燃やすことで処分をされており、これによっても大量の炭酸ガスを排出していることになる。こうしたことから南洋材を材料とする合板型枠に変えて樹脂型枠を解発しようという訳である。当初はKPシートを材料にしてという話であったが、当社も樹脂メーカーであり、樹脂製品そのものを解発してはどうかということを考えて、成形でこれを作ることにした。自分の発想で、しかも一営業マンが製品開発をすることは極めて難しかったが、製品を作れば清水建設で評価してくれるということになり、名古屋の営業所手で、将来の成形も考えて、住友化学が開発したSPMという成形法が使えるように、自ら設計図を描き、試作品を作ることにした。但し、成形品の試作はできないので、強度が強いKPシートを各パーツごとに切り取りこれをつなぎ合わせ、設計図通りの形に仕上げた。製品の評価の信頼性を確保するために2個の製品を、名古屋営業所の会議室で、みんなが居なくなってから毎日手作業で大工仕事を始めた。お陰で、事務所の中には樹脂の補強のために練り込まれたガラス繊維が舞い散り、翌朝は、空気が汚れて、しかもチクチクするとのクレームが出た。しかし、こうしてできたものを清水建設で打設評価をしたところ、でき上ったコンクリートの壁、打設後の剥離性など予想以上の成績だった。しかも、打設時にはコンクリートの流れがよく見え予想外の結果となった。こうして、成形によるサンプルを作る段階となったが、樹脂製品を製造する成形の権威者という人からは、実際の成形では到底成形が無理だ、どうしてそんなものを作るのかとのクレームが届いたが、実際に成形をしたら思いもよらないせい傾向が出て何の問題もなく製品を得ることが出来た。更には、こうした製品を研究所で成果が出たことにしてほしいとの要望もあり、此方には、製品を商品にすることが目的であるので、この要望に応えて、製品の開発を研究所の成果にした。

樹脂型枠の開発はこのようにして進んでいったが、問題は、伐採によって熱帯雨林が亡くなっていくのであるが、その影響が環境に対してどれだけの程度で、地球の温暖化につながっているかが具体的には分からない。と言うことで、木製の型枠を樹脂型枠に代替すればどれだけの炭酸ガスの発生が少なくなるのかを数値化することにした。それには、樹木がどれほど炭酸ガスを吸収して育っているのかを数値化する必要がある。樹木がどれだけの炭酸ガスを保有しているかについては、これまでにもいろいろな報告がなされているが、樹木の成長速度について記述しているものはない。そこで、樹木の成長は、炭酸ガスの吸収が律速になっており、その吸収速度は、この葉に対する炭酸ガスの吸着速度に比例するものとして、この吸着の程度を、吸着速度式をもとに作り、樹木の成長速度を求めた。すると、熱帯雨林だけでなく、杉やヒノキなどの亜熱帯地方の樹木、並びに極寒地の樹木の成長について も同じような式で表現でき、樹木の成長の速度も計算できるようになった。こうした数値を使い熱帯雨林の成長の度合いを表現することにより、樹木の年齢と、その時の炭酸ガスの吸収度合いを見ることが出来、型枠の材料となる熱帯雨林の伐採がなされる時期により、合板型枠の製造の樽に排出する炭酸ガスの量を算出できる。そこで、建築現場での合板の使用量と、その繰り返し使用の回数、並びに、最終処分の仕方により、一つの建築現場でどれだけの炭酸ガスを発するかを計算できるようになった。

 ちなみに、この計算により樹木の成長年数と伐採による、炭酸ガスの累積量との関係を示した図を掲げたが、熱帯雨林を78年で伐採してしまうと、伐採に後に植林をしたとしても炭酸ガスの吸収が200t/haの割合で無くなってしまうことになる。

 

 これは余談であるが、このようにして作成した樹木の成長速度に関する式が、雑草の成長速度を表す”Richardの式とよく似ていると認められ、それが契機となって、小生が、東大の建築学科の研究生として席をいただいた。誠にありがたいことである。

 

 これに先立ち、樹脂型枠についても、LCAというコンセプトの下、これを建築現場で使用した時に、コンクリートの壁の単位面積当たりでどれだけの炭酸ガスが発生することになるのかを算出できるようにしてあった。こうして、異なる材料を使った目的を同じくする製品のLCAの評価が出来るようになり、樹脂型枠の環境対策としての評価が一層認められるようになった。