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   学生時代

小学校に上がる前  
小学校時代  
中学生  
高校時代  
入学試験  第5問が解けた  
アルバイトでは  
大学院  

  

    

1.       小学校に上がる前

 これは母がよく言っていたことだが、兄貴(父の後を継いで静岡県の役人になった。後に副知事になった)が、物覚えが良く、何でも要領が良いのに、それに比べ次男坊だった私は、物覚えが悪く、何でも人を頼りにし、自分では何もできない、めっきりだめな弟だったらしい。もちろん当時は幼稚園もなく、誰も何にも教えてなんかくれる人がなかったのだから、それが普通だったのかもしれないが、ある時、何の弾みか、1から10まで数えることが出来るようになった。ところが、そればかりか、10の桁も1から9を付ければよい、と言うことに気が付き、たちまち1から99までの数を数えられるようになった。そしたら、数を数えるだけでなく、2桁の足し算、引き算もこれらの数字の仕組みが分かれば簡単に計算が出来るようになった。だから、100円をもって、買い物に行くときには、いくらの買い物をした時には、どれだけのお釣りになるのか、家から50mくらいのところにあるお店まで、走って使いに行くときには、その走っている間に自分で計算をして、お店の伯母さんには、「此れこれを下さい。値段がいくらだから、お釣りはこれだけになるね。」といった具合でよく買い物に行ったものだ。小学校にあがる前に、すでに2桁の足し算、ひきざんができるようになったので、そうするとお店の伯母さんが、「この子はすごくできる子だよ。」と言ってほめてくれるし、母はお釣りが間違いないので安心して、私にお使いの手伝いをよくさせていた。 褒められるものだから、自分でもいい気になり、喜んでよく使いに行ったもんだ。タバコが、20円、30円の時代のことで、100円というお金が随分と貴重な時代であったから、今の様に3桁の計算をする必要のない時代の話で、世の中がまだ単純・明快な時の1950年代の頃の話である。しかしながら、このことから私自身の中に、物事を理論通りに考えていけば、非常に簡単で、分かりやすく、しかし応用が無限大に広がっているという考えが養われつつあったのではという気がする。こうしたことを考えながら、それからの私が、何にでも挑戦し、自分で納得のいくまで、工夫をし、そして、曲がりなりにも解決策を見出す、そんな人生であったことを思い起していろいろな経験を纏めてみたいと思う。

 

 

2.       小学生時代

 兎に角、算数が好きで好きで学校でもいい恰好が出来た。2年生の時だったが、そのころドリルという問題が授業の合間によく行われた。確か算数の時だったのではないかと思う。とにかく他人よりも素早く計算できたので、時間が余ってしようがない。何度見直してもそれでも時間があるものだから、答案用紙の裏側に絵をかいて時間つぶしをしていた。遊び半分もあってか、その絵が1/3ずつ回して3人で仕上げるものだった。そんな絵を描いているのを、先生に見つけられ、ひどく叱られた。その先生は若くて、美人で、よく一緒に遊んでくれたのでとても好きだったが、この時はショックだった。もう二度としないと反省の気が湧き、それからは、勉強と絵描き遊びは別なものと言うことを子供心に悟ったような気がした。算数の計算は、家でもよくやった。三つ年上の兄と競争して、3桁の足し算引き算の計算をした。兄が10問、私が7問といった具合だ。母が二人の問題を作ってくれた。 二人とも小学生だったから多分小生は3年生だったのではないかと思うが、これで、兄を負かすことが無上の喜びとなり、ますます算数が好きになった。これで兄が数学嫌いになったかどうかは知る由もないが、母がこうした子供の教育を家庭の中でしていたことは、本当に感謝する次第である。

 

3.       中学で

  中学では、一斉テストというものがあり、一学年の生徒が全部の学科で同じ問題のテストを受け、その結果が全店数の総和で1番から番号がついた。丁度、兄が進学校に入るために、御殿場のははの実家に預けられ、ここで、この学校に入るために猛勉強を始めた。この家族も満州からの引き揚げ家族で、その家は6畳のたための部屋が一間、それに4.5畳程度の板張りの部屋があり、あとは台所という家である。ここに、祖母と伯父の家族が4人で暮らしていた中に受験生が紛れ込んできたと言う環境で、兄は頑張って、希望の進学校に合格することが出来、後日談であるが、その頑張りは相当なものだったらしい。なにしろ、祖母というのが、女手一つで、4人姉妹と一番下が息子という過程を築き、敗戦当時は満州で暮らしていたとの事で、とてつもなく厳しい人で、兄は負けることが許されずに相当頑張ったようだ。丁度、この家の向かいに伯母夫婦、一家6人が住んでおり、この家族も満州からの引き揚げ家族だったが、その次男坊が兄と同い年でやはり受験生として兄と張り合っていたらしい。二人で夜遅くまで受験勉強をしていたのだが、2人で相手が頑張っているのを障子の節穴越しに隠れて監視し合い、相手の電気が消えるまで勉強をしあっていたとの事であった。そんな兄の話を聞いて私も是非この進学校にと、中学2年の三学期から、父の知人の家に移住をし、実際には元の家から通ったが、転校することになった。転校の条件は、学力テストで一番になることだった。この条件をクリアし、田舎の中学から町の中学に移ったのだが、とにかく、田舎の中学では学科の進み具合が遅れていて、このため、英語や、数学では、幾つかの章を飛ばすことになった。そんなわけで、英語は後れを取ってしまったが、数学だけは負けまいと、必死になって穴埋めをした。自分で教科書を丁寧に読んで問題の解き方を自分なりに理解をするのである。そんなことが出来るようになり、2年から3年になる春休みに、新しく手に入った3年の教科書を自分で初めから問題を解くまで、理解をし、その休みの間に、一冊丸々問題を解いてしまった。こうなると、学校に行って数学の時間にゆとりができ、学年での成績もどんどん上がり、自分でも、町の中学でもやってゆけるとの自信がついた。

 

4. 高校時代

 難問問題集と別解

 町の中学でやっていける自信がついた。目指していた静岡県でも3本の指に入る進学校の沼津東高にも合格し、いよいよあこがれの高校生になった。否かの中学で天才と言われていた人が、沼津東高から東大に合格したという話もあったが、兄は、東高に入学したものの席次が3桁だった。数学の点数も20点とか、30点というのがいつもで、私もその程度になればよいと考えていた。ところが、入学して、初めてのクラス分けのための試験の成績が、13番だった。まさかと思っていたが、此れには自分でもびっくりしてしまった。そこで、自分なりの勉強法やら、友達から勉強の要領を教えてもらうなどして、成績が一けたになることが当たり前になった。国語と、英語が苦手でこの二科目の成績が悪いと10番以下になることもあったが、数学だけは得意で、この時間だけは自分が主役になれたような気がする。受験対策で、授業は問題集を順番に解いてゆき、授業が始まる前の休み時間に、一人ひとりが自分に割り当てられた問題の解答をしてゆき、それを先生が説明するというのが、通常の授業であった。自分に割り当てられた問題が上手く溶ければ、授業は楽しいが、いつもそういう訳には行かない時には、数学の特異な人に教えてもらい、回答を黒板に書いておく。そんな授業であったが、自分では、特別に難問と言われ、星印が二つ、三つと突いた問題もほとんど解くことが出来、問題の解けない友達にもよく教えてあげた。授業では、先生が模範解答のようなものを披露してくれたが、そうした問題の解き方には、模範解答ではなく、別解と言って、少しひねくれた考えで問題を解き、これをみんなの前で披露し、先生のコメントを頂くというやり方を楽しんだ。

 自分たちに割り当てられた問題集のほかに、兄の使い古した問題集をよく使った。兄は難しい問題を飛ばしてやっていたので、そうした問題だけを解くことが楽しみとなった。これも難なくこなし、此れでは、東大に入るためにはもっと難しい問題にも挑戦しなければならないと、当時、湘南電車と言われた電車に乗り、東海道線で東京の神田にまで繰り出して、超難問だけを集めた問題集を買ってきた。流石にこの問題集にはずいぶん悩まされたが、こうした問題に挑戦し、これを解いた時の達成感が忘れられない思い出となった。

 

5. 大学入試   第5問が解けた

 高校の成績が思いもかけず良い成績だったものだから、大学国立の一期校といって、当時の難関中の難関の学校に行くことにした。自分では、「大瀬の若人の家」という、生徒だけで自分たちの力を結集して「海の家」といっても、ちっちゃなバンガローのようなものを立てることをしていたものだから、建築学科に行きたかった。最もあこがれていたのは、東大の建築学科だったが、ここに行くためには、当時、工学部では日本一難しいと言われていた理科I類にいかなくてはいけない。ここに受かるかどうかは博打のようなことで、落ちたら浪人するしかない。家が貧しかったので、それなら少しランクダウンをして、京都大学の建築家はどうかと思ったが、東校の成績から東大への合格者の数を一人でも増やしたい。そこで何としても東大を受験すべしとの周りの意見に押され、安全策をとり、少しランクの下がった理科II類を受験することにした。一次試験に合格し、いよいよ二次試験に臨んだ。二次試験では、国語、英語は何時もあまり高い得点は考えられず、まあまあの出来ではなかったかと思うが、問題は数学である。問題は6問出て、もちろん、全問出来るに越したことはないが、これは並大抵のことではない。自分でも5問解ければ、合格できるかどうかは分からないが、国語と英語の点の低いのはカバーできると考えていた。そして、問題の数学の試験。4問は難なく溶け自信はあったが、問題なのは5問目だ。これが循環関数のようで、何度計算しても解が出てこない。10分やっても、20分やっても、答えが出ない。もう駄目だと思い、自分でも半ばあきらめて、もう一度挑戦して、同じ計算をした。ところが残り5分という時になり、解が出てきたのではないか。これはうまく行けば、割を考えても20点は稼げる。東大の試験では、1点でも多くの受験生が泣いているのが現状だ。そんな中での20点とすれば、これは大きい。という訳で、私が東大に合格したのは、この数学の5問目が解けたことによると今でも信じている。後日談であるが、この年の合格点は理科II類の方が、理科I類よりも高かったとの話もあった。

 

6.  アルバイトでは

  今でもこの数学の第5問が解けたことで東大に合格したと思っている。実の付いていたとしか言いようのない人生の転機だった。大学に入学したのは誠に幸運だったが、東京での住まいは、駒場寮に入った。当時の寮は同好会が主体となっていて同じ趣味を持つ学生が何人か集まり部屋割りをしていた。みんな下宿のできない貧乏人の子息ばかりだったが、それでも頭はいいし、希望は大きい学生ばかりだった。だから、お互いに助け合い、楽しい寮生活を送った。学生服や学帽など買ってもらえないし、必要な時には友達のものを借用するのが当たり前だった。寮は學校の中にあるし、授業が始まっても、5分程度は先生も遅れて来るので、それに合わせ、時間が来てから部屋を飛び出すような生活だった。だから授業には休むことなく出席し、出席しておけば期末テストも不可は取らないという状態だった。教養学部では、政治や法律などもとらなければならなかった。こちらはなかなか勉強といっても、何をすればよいのか分からなかったが、寮の先輩から、あの教授は期末テストでこんな問題を出すから、これを勉強しておけばよいと入知恵をもらい、また、どんな問題が出ても、授業に出ていたことがすぐにわかるような回答を答案用紙一杯に書いておけば、不可はとらないとの有難い対策を教わった。お陰で可どころか、良、或いは運よく優までもたくさんいただいた。そんなこともあってか、教養学部ではそこそこの成績をもらった。専門の学部に進む時には、教養学部での成績順と言うことになって居た。成績の良いものは、法学部とか経済学部など文科系の学科に行く者もいた。2番だけ私より優秀だったものが、経済学部に行き、後に通産省のお偉いさんになった者がいた。もっともこの人、賄賂で捕まってしまったが…。私の方は、理科I類とII類のものが、同じ評価で決まるという理学部の化学科に進学した。数学が好きだったが、ここの学部は、成績が余程良くなければ進学できないし、また、数学科というものが、単なる計算ではなく、学問としては、哲学の様だということを聞いて、これではとても自分では手に負えないとあきらめてしまった。

 そんな駒場から本郷への進学の様子だったが、駒場時代に生活のためにアルバイトをよくした。殆んどが家庭教師の先生というものだが、2年の時にある都立高校の生徒の家庭教師をしてほしいと頼まれた。よくよく話を聞いたら、都立の西校の学生で、英語はよくできて学年で、成績は10番以内。でも数学は問題を解く時間がかかりなかなか10番以内にならないので、数学を教えてくれという。都立の西校といえば、当時は全国でも一位だった都立の日比谷高校につぐ都立高校で、毎年数十人の生徒が東大に行くという学校だ。ここで一桁だという成績だから、私よりも頭の回転が速いことは確か。しかも、家庭教師という名前はついているが、持ち出してくる問題は、難問ばかり。二時間の家庭教師の時間の中でいくら頭を捻っても解けないような問題ばかりだ。そんな時には、寮に持ち帰って考えて来るからと、むしろこちらの頭の訓練のための、家庭教師というより、勉強仲間としての付き合いをした。そんなことをして時間をつぶしていたが、ある日、母親から、「おかげで、数学が、学校で1番になった。」と喜んでくれた。とんでもない、いい勉強をしたのはこちらの方だった。この学生、案の定、現役で東大の理科I類に合格し、その後、工学部の建築科に進み、余に有名な丹下健三教授の所で活躍し、後にレバノンのベイルートの都市開発を手掛けたと聞いている。数学や理科系の学問だけでなく、美的感覚も鋭く、建築というよりも都市設計の分野でも活躍していたようである。

 

7. 大学院  

 専門は化学科に進学したが、数値計算の世界は物理化学が主で、こちらは理科I類から来たものが、大半を占めていたのではないか。そんなこともあり、有機化学の分野に進み、物質の化学反応の分析というよりも、物質の反応が進むときにいろいろな選択肢があるが、どの経路を通り、どんなものが出来るのかを見極めるのが研究の対象となった。そんなことに熱中しているときに、この問題は化学反応論の考え方からすれば、一番障害の少ないところに反応が進んでいくという理論であることが分かった。そして、その障害は、化学結合のできる時のエネルギーによって決まっていることが知られている。いわゆる化学反応の活性化エネルギーというものだ。このエネルギーが分かればどんな時でも反応の起きる温度により、反応のスピードが制御されているのである。但し、問題なるのは、このエネルギーが出来る化学結合により異なると言うことである。だからこのエネルギーを知りさえすれば、化学結合が出来る速さを知ることが出来るし、いろいろなものを反応させて物を作る時には、同じ温度で反応すれば、出来る化合物がどの程度の速さでできるのか、また、反応が幾つも同時に起こる時には、その化合物の割合を知ることが出来るのだ。主反応と副反応ではこの活性化エネルギーが異なるということだ。また、逆にこの活性化エネルギーを知っていれば度の温度で反応させれば、主生成物のできて来る割合を知ることが出来るという訳である。大学院の研究室では、いろいろな反応をしたが、結局は、その反応の活性化エネルギーをどうやって求めるかと言うことを学んだ。これが、後の私の仕事の上で非常役に立つ手段となった。