世相を斬る 2018.04.21
日大アメフットチームの不祥事について
2018.05.29
学生アメフットボールの東西の名門、日本大学と、関西学院大学との親善試合でとんでもないあるべからざるルール違反が起きた。バスをし終え、全く無防備となったクォーターバックの選手に、ディフェンスの選手が、アタックをし怪我をさせたというのが客観的な事実の表現なのかも知れない。このような状態で、アタックをするというのが、アメリカンフットボールのルール違反であることから問題を発し、ルール違反でアタックをした選手が、このプレーの卑劣さに良心がとがめたのだろう、そのようなことになった自らの心境と、そうせざるを得なかった状況の説明会見をし、選手の側からの真相を説明した。
これだけなら、世間でよくある、言った、言わないの見解の差による問題だけかも知れない。しかしながら、この問題の裏に潜んでいる問題には、昨今の日本人のモラルの欠如の問題が潜んでいるような気がする。
まず、問題が学生のスポーツの場で起きたことだ。競技であれば、何でもそうであるが、技を競い合う場では、必ずルールがある。このルールは、社会で言えば、法律のようなものだ。法律は守ってさえ居れば、それでよいというわけではない。その法律の精神、あるいは、歴史をも理解し、たとえ、法律で定められたことではなくても、守らなければならない倫理的なものもある。だから、法律を守るのは最低限の話であり、それだけで、我々の生活が幸福になるというわけではないが、まずは、何が何でも守らなければならないのである。それが、スポーツの場合には、ルールであり、そうすることがスポーツマンシップといわれるものだ。
従って、このルール違反に対しては、どのような状況にあるにしても、これは、厳しい罰則が与えられて当然だ。無意識のうちに犯したルール違反、あるいは、スポーツマンシップに反するようなバイオレーションに対する罰則は、ファウルとして教育的な懲罰があたえられるわけだ。
文科省、スポーツ庁長官 は何してる?
反則をした行為の責任は、違反者が取るにして、そのようなことが教育の場、しかも、大学という教育の場で起きたことについては、監督・コーチに責任があるばかりでなく、日大という大学にもある。それが、監督・コーチの会見、ましてや、その監督が理事の立場にありながら、大学としての学長の会見を聞いているとまるで他人事のような言い訳をしている。学長が大學は教育の場であるという意識があるのであれば、まずは、この監督・コーチを解任、監督の理事を辞職させることだが、それが全く感じられない会見だった。
このような意識を持っているものが大學という教育の場にいることに、文科省はどのように考えているのだろうか? スポーツ庁の長官もスポーツという場で起きた今回の不祥事について、健全なるスポーツマンシップをスポーツの選手が養うためにはどのような教育をすべきか、具体的な施策を講じてもらいたい。とりわけ、監督・コーチが責任逃れをし、自らの大學で起きた不祥事の処理を第三者に任すような学長など、教育者としての自覚が全くない。日本大学が国から多額の私学助成金を貰って、教育機関として運営されているのであれば、若者の教育機関としての責任を自らの考えで果すべきである。今のような状態であれば、日本大学が大學として存在する意味がない。そのような意味でも、現在、日本大学に支給されている私学助成金(毎年83億円余りが使われている。)を停止すべきと考える。これが、教育の現場に立っている者に、教育とはどういうものか、を考えてもらう良いカンフル剤になる。今、ゆがめられている大学教育の本来のあり方を大學に考え直させる具体的な施策であると思う次第。
まるで教育者しては不適格な大人が教育の現場で大手を振っている。そんな連中には、私学助成金の停止は、反省する最も効き目のある処置だ。文科省はこれを契機に教育者をどのように育成しようとしているのかを明確に示す必要がある。
スポーツ庁長官も、スポーツの現場で起きたこうした事件は、スポーツが国民に親しまれる場と考えているとするなら、スポーツの監督、指導のあり方についても、国家的な見地からの指針を示してもらいたい。そうでなければ、スポーツ庁の存在意義が薄れてしまう。政治家であるならそんな危機感を持って欲しい。
マスコミの体たらく
真実を伝えることが使命だと嘯いて、とにかく事件を面白くあおりたて、どこかに悪者がいれば、ここぞとばかり、あれこれ関係のないことまで穿り出し、これを話題にして、番組の時間稼ぎと視聴率のアップを目論んでいるテレビのワイド番組。シナリオは出来ているし、どうでも良いようなフリップを、まるでクイズ番組をしているように作って、決して結論や、意見を出さず、最後は、いつも、「冷静に見守りたい。」「注意をして、見ていく必要がある。」などと、まるで他人事を楽しんでいるかのようだ。この度の悪質アタックをした反則者に同情し,まるで、江戸城の松の廊下の刃傷沙汰事件のような扱いをしている。これで、自らは正義の味方とでもいいたいのだろうか。教育の現場で起きた事件であるなら、今の教育のどこが悪いのか、銅改善すべきなのか、あるいは、法的な欠陥があるのなら、コメンテーターとして出てくる弁護士の資格を持った人達は、国として何をすべきなのかを指摘してもらいたい。
マスコミが、ルールを破り、悪質なアタックをした本人が、名乗り出て会見したこと、また、組織に対して、その裏に潜んでいる様々な問題を提起したことに、これをまことに勇気ある、美談のように取り上げ、一部に反則を犯したものの罪を軽くするようにもって行こうとしている節がうかがえる。本人が可愛そうとか、立派な行動だとか言っても、今、一番、苦しんでいるのは、この反則を犯したものかも知れない。それであれば、この話題がマスコミの興味半分の報道から1日も早く消えることが、彼の一番の救いではないかと思う。罪を軽くして欲しいという、人情好きな大衆の風潮に迎合しているようなマスコミだが、この事件は既に、刑事事件としての扱いがされるのであるから、これ以上、根掘り葉掘り、何時までもクイズを解くような面白番組としての取り扱いをやめるべきだ。
問題が教育の現場である大學そのものであるなら、問題の本質を明らかにし、文科省に対して、何をして欲しいのか、建設的な意見をもっと前面に出した番組にしてもらいたい。また、そうした、具体的な議論の出来るコメンテーターの議論の場として番組を組み立てて欲しい。
マスコミもまた己の存在意義を見失いつつあるのではないか。
2018.0529
まさしく、 アメ、フット 血が出る でなく、
雨、降って
地、固まる。
とゆきたいものだ。