ホームページ 隠された歴史 Lewis & Clark

 

アメリカ人にもっとも人気のある話、それは・・・・・・

  私がアメリカをドライブしているときに、スピード違反で警察に捕まった。場所はアメリカの西北の果て、フラッタリー岬でのこと。ネブラスカからグレイシャー国立公園を走り、シアトルに行ったあと、オレゴンに向かう途中であった。ちょうど、スクールゾーンで、確か制限速度を20マイル程度はオーバーしていたかもしれない。でも、それを認めると罰金を課せられ、事後処理が大変だ。それで、気がつかなかったふりをして、オートクルージングでドライブしていたので、スピードはオーバーしていたが、10マイル程度だと言い張った。たどたどしい英語での言い訳で、あれこれすったもんだしているうちに、お巡りさんが、業を煮やしたのだろう。「お前は、何しにここまで来た。」と、聞いてきた。そこで、「私は、日本人だ。ルイス&クラークの冒険のことを知り、彼らの冒険の即席をドライブし、インディアンの居留地を訪ねているところだ。日本に帰ったら報告書を書くつもりだ。」と、返事をした。すると、そのお巡りさん。急に態度がかわり、「それは、御苦労さんだ。では、気を付けてドライブを続けてください。」と。これで無罪放免となった。これこそ、まさに、「ルイスとクラークの冒険」のおかげだ。この冒険の話を知ってるのは、少なからずある程度の知識人だと思われたのだろう。これが、この話が 、アメリカ人に人気のある証拠だ。

 

 

著名な数百人の歴史家に、こんな質問をしたら、答えは………?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  A Secret Code and a Blank Check

.LewisClarkの探検隊の計画の中でThomas Jefferson は賭けでやるようなことはしないように心がけていた。二つの事実が、かれが派遣団の成功を保証するためにどこまでも支援するつもりでいたことを示している。

 Lewisからの神経を尖らせるようメッセージが、好ましくない人々に読まれることが絶対にないようにするため、Jeffersonは自分の弟子に特別の暗号コードを教えた。そのような秘密の必要性は、大統領にとって決して初めてというものではなかった。1790年に国務長官の時に、彼は外交上の連絡をとるために複雑な暗号機を発明した。しかし、Lewisは、大自然のなかでの旅にはその機械を携えて行くことはできなかったので、Jeffersonは彼に別の手段、アルファベットのマトリックスを使うような方法を習得させた。

 Lewisにコードを実際に使う方法として、Jeffersonはサンプルを信号化した、――これは、願いもこめられたものだが ――メッセージは、“私はミズーリの源流にいる。全てが順調である。そして、インディアン達はとても友好的である。”そのコードを解読するにはある一つのキーとなる言葉を双方が思い出す必要があった。Jeffersonは“チョウセンアザミ”という言葉を選んだ。

 この探検隊の間にLewisJeffersonの間でとり交わらされた書簡の中に“チョウセンアザミ”という言葉のないものがいくつか知られている。 ――秘密にしようという大統領の強い意向ではあったが、だれが、Jeffersonがそれを受けとらなかったとか、その証拠を隠滅したと言うことができるだろうか。

 

 別の証拠は、1803年の7月4日に書かれたJeffersonからLewisへの手紙である。その同じ日にルイジアナ買収に関するニュースが報道された。それこそ、それはどんな大統領と言わず、それまでに大統領がサインしたもののなかでは最も際立ったものの一つであるといえる。

そのたった一ページの手紙にLewisの使節団についての総括がなされており、もし、彼に彼が陸路で太平洋に出たときには、“仮に、西海岸で適当な船を見つけることができるなら、その船を使って”、海路で帰ってくるほうが安全だし、又、早く戻ることができるかも知れないと示唆している。

しかし、彼は、そんな船を買うための、あるいは、いろいろなものを買い揃えるためのお金は持っていなかったであろう。

 

  Jeffersonの手紙には問題解決のための答えが提示されていた。大統領は、Lewisが求めるどんな協力、もしくは、必要とする物資を提供するなど協力してくれた人には、それが、誰であれ、“合衆国の名において、その返済を誠意を持って固く約束するものである”、加えて、彼らが、海の船旅のなか、そして、世界のいかなる場所であっても探検隊がワシントンに帰る途中に出合った艦長であるとか、商人、外国の領事、あるいは、どんな国の市民であっても、その人たちに対して、“あなた方に援助をしてくれるような人々をより十分に満足させ、その人たちの信頼を得るために”、かれは決意した。“私、Thomas Jefferson(アメリカ合衆国の大統領である)は、あなたのために、私自身の直筆で私の名をサインした、この一般信用状を書いた”。それは、なんと、金額に制限のない信用クレジットであった。

 

 しかし、事態はかわり、Lewisは太平洋で船に出会うことは無かった。そして、探検隊が必要とする食料と、その地域のインディアンからの提供物以外にもはや交換するものすらなかった時には、Lewisは身にまとっている衣類のほうが、Jeffersonのこの例外的な白紙のチェックよりも比べ物にならないほど貴重なものであることを証明したのだった。

Lewisが“探検の間に、カヌーと馬、ならびに、みんなのために必要なものをうるために、交換品として提出した、ユニフォームのレースのコート、銀製の肩章、短刀とベルト、一本のハンガーとベルト、ピストルと野鳥狩のための道具など、全ての個人的な所有物に対して、帰還して政府に提出するためにまとめた控えの補償金としての支払は、僅か、$135であった。

 

 クレジットの手紙を使わなくとも、冒険隊は、その予算以上を使った。この探検隊が正式に編成されたときに議会は、JeffersonLewisが見積もった$2,500ドルの予算を公認した。しかし、全ての支払が終わってみると、その総額は、その15倍もの$38,722.35ドルであった。

 

 

 

 

 

“Make  yourself acquainted”

       ( 精通するように努力しなさい )

 

Thomas Jeffersontが、調査のための探検隊が遭遇するであろうインディアンの部族のことについて、指示したことは実に明快であり、 ――極めて広範囲にわたるものであった。“これのことに精通するよう努力をしなさい”と大統領は記録している。“あなた方のたびのなかで、許される限りその追跡の努力を怠らないように”、そして、彼は、沢山の研究すべき項目をリストにしてとうとうと説明した。:人口、喋っている言葉、食料、衣類、生活している住居、法律、習慣、交易の実態、“彼らの農業、漁業、狩猟、そして、戦争も含め、これらの普段のやり方と、その時に使用する道具などについて”、物理的な概観、病気のこと、“倫理観の状況、宗教、そして、これに関する情報”、などなど、その他多くのことが含まれていた。

 LewisClarkJeffersonの指示を実行することに最善を尽くした。彼らが遭遇したそれぞれのインディアン達について、数百にもおよび質問をし、興味のある項目について情報を収集し、できるだけ実際に自分達の目でみて、そして、日誌にその情報を書き込んだ。

 Lewisは、インディアンの部落のかわったものを記録することに卓越していた。彼の日誌のページは、料理用のポットからモカシンに至るまでのあらゆる事柄の記述がなされている。ある長い段落では、Arikaras族がガラスビーズを作る方法について丹念に記述していた。“そのやり方は、彼らの間のインディアンによって秘密にされていた”と注釈している。“そして、いまだに彼らの中でも極僅かの人しかそれを知っていない”とのことである。また、別のところでは、Lakotas族がバッファローの毛皮でテント小屋をどうやって組み立てるが説明していた。Mandans族のところでは、――スケッチも付け加えて、――彼らの戦闘用の斧について記述している。歴史家のJames Rondaが言うように、“彼は、ほとんど写真で撮るように正確に物事を詳述する自然学者としての能力を持っていた。 ”Lewisは、楽しみながら、自然界のなかで生息する生き物を記述し、分類分けする実際の物の見方を民族誌のなかに持ち込んだ。“

 Clarkはインディアンの習慣、とりわけ、酋長達の会合に関係した儀式などについは、もっとよく記録していた。リーダー達は着飾り、御互いの関係に従って着座し、そして、タバコをまわして、これを吸うと言うようなことがどんな重要な儀式でも同じように執り行われる。と彼は説明している。そして、数多くの部族のなかで、酋長の権威は、しばしば、信仰なものをよりどころとしており、それは、ただ漠然としたものでは決してないと理解していた。“威厳は”と彼は書いている。“酋長の秀でた功績として、戦士達の間では疑われることなく黙認されている。”と。

  他の隊員達もまた、彼らの独自の観察記録を付け足している。John OrdwayMandans族の間で使われている、埋葬地にある処刑台、インディアンの子供たちの輪と柱を使った遊び、そして、トウモロコシパンのこの地域の作り方などについて記録している。Joseph Whitehouseは、Salishの言葉の歌を必死の思いで解説している。Patrick Gassは、大工が職業であるが、かれは、土の家がどうして作られるのかを詳しく説明している。

 彼らは、インディアン達の間で、実際に見て、そして、記録しているものの何がしかは、探検隊が彼ら自信の文明のプリズムを通してみているものである。Gassは、Mandans族がバッファローの頭蓋骨に餌をやっているのを目撃して、:“彼らの迷信を信ずる気持ちは相当強く、頭をうまく使えば、生きたバッファローが来て、自分達に肉を供給してくれると信じるようになるだろう”と、これを嘲って言っている。

 難所であるBitterrootの山々をもう一度越えるときに、Nez Perceの若い調査隊のガイドが実施した儀式について記述している。:“昨日の晩、インディアン達がもみの木の焚き火を準備して、我々を楽しませてくれた。”と彼は書き、“彼らは、非常にたくさんの乾いた石灰を自分の体の近くに持っており、これを火の中にくべると、突然、これらの背の高い木の根元からてっぺんまで大きな炎が燃え上がるのである。…原住民たちは、木をこうして燃やすのは、我々の旅が好天に恵まれるようにとの祈りのためであると話ていた。”インディアンたちにとっては、これは習慣であった。Lewisたちにとっては、“この行事は、丁度、花火を演出しているように思えた。”( しかしながら、それからの五日間の天気日誌によれば、天気は大体晴れていたようであった。 )

 この調査隊の全行程をとおして、およそ50近くの部族と遭遇したが、これらの原住民アメリカ人の生活のめまぐるしいほどの多様性は、これらの日誌から非常に鮮明に( そのように記述されているわけではないが )、想像できるものの一つである。発見のための冒険隊が踏査した西部は“誰も住んでいない未開の荒野”でもなければ、ただ一つの“インディアンの世界”というわけでもなかった。インディアン達は自分達自身のことを、一つの完全に統一された集団ではなく、非常に沢山の種族からなり、――と考えていたが、そう理解するのも無理からぬところであった。

 LewisClarkは、バッファローの群れを追いながら、大平原を、わずか数分もあれば片付けてしまうことができるようなテント小屋に住みながら放浪している部族とあった;、また、あるところでは、丸い土作りの家に住み、移住せずに一箇所で生活し、農業を営んでいる部族;また、木の小枝ででたそまつな小屋にすみ、草の根を掘って食べて生活している部族;魚を食料のためにとり、厚い木の板でできた大きな家で暮している部族などに出会った。有る種族は財産として馬を所有していたが、一方では、全く馬を所有していない部族もいた。また、あるものはひときわ背が高く、また、ある部族では、自分達と他の部族とを見極めるために前髪を天頂のほうに引き伸ばしているものもいた。そして、背が低く、ずんぐりしていて、板で自分の前頭部を平らにすることで美しく見せるというような部族もいた。

 ほんの一握りの部族ははかれらがLewisClarkたちに会う前に白人というものを全く知らなかったが、彼らのほとんどが、すでにこの大陸に300年も前から到来していたヨーロッパ人の影響を少なからず受けていた。しかし、なおかつこの探検隊の出来事は、実際的に、アメリカが太平洋に向けて拡大していく以前に存在していた数多くのインディアン文化の、民俗学的な非常に貴重な基準として歴然と存在しているのである。
  ロッキーの山々を分割点として利用しながら、キャプテンたちは最終的には、“東部のインディアンに関する概要”と“西部のインディアンに関する概要”という形でまとめた。そして、そのなかには彼らが遭遇した( そして、その一部については彼らはただ耳にして聞いただけのものもあるが )部族のそれぞれの名前が分類わけされており、そのそれぞれに対してすくなくとも19項目に別れていろいろな記述がなされた。インディアン達が話す言葉については非常に注意深く編集されていたが、その探検隊の終りのころ、どこかに片付けられたか、あるいは、無くしてしまった。

 しかし、毎日付けられていた日誌は、依然として、豊富で、時に、驚くべき事実を今も詳しく伝えてくれている:そのなかには、どこかアメリカ人が楽しんでいる西洋双六に似しているChinooks族が遊んでいたゲーム、Nex Perceがどのようにして馬の去勢をするのか;Shoshoneの賭けの習慣;大事なお客はバッファローの衣を着て村につれていかれて、丸焼きの犬の料理のもてなしを受けるというYankton Sioux族の珍しい儀式などが記述している。

 そして、勿論、LewisClarkが、インディアンに関わるすべてのことについて心をひきつけられていたJeffersonに送ったいくつかの絵もある。大統領の好奇心を満すために、インディアン達の作った工作物を詰めた荷物を次から次へと送った:絵柄のついたバッファローの衣、弓と矢筒、カワウソの毛皮で作られた煙草入れ、Mandans族の土製の容器、Clatsopの円錐状の帽子、Chinook族のスカートなどなど、沢山のものが送られたのである。

 彼らはインディアン、そのものも送った。酋長の東部を訪問した当初の目的は、外交的な取引をしようとするものであったが、しかし、彼らが大統領に会いにいく道中で、合衆国があまりに広大であり、かつ、強力であるということを思い知らされ、彼らは、アメリカとともにうまく共存していこうという気になった。しかし、Jeffersonにとっては、かれらの訪問はこの大陸にもとと住んでいた人達について、さらに詳しく知るもって来いの機会であった。彼らの文化を示すものが、たちまちのうちにMonticelloのロビーを飾ったのであった。

 “Mandansの私の共に話してくれ…私はすでに彼らを受け入れるために両手を広げていると”とJeffersonは、キャプテンたちがSt.LouisMandans族の酋長のShehekeと共に戻っているということを知らされたときに、熱烈な手紙をLewisに送った。“多分、我々のところにいる間に、…彼をMontecelloに案内し、他のインディアンの部族から受けたものと同様、我々が彼の部族から受けた特別の友情をどのような形で言い表そうとしているのかを知ればきっと彼は喜ぶに違いあるまい。:われわれは今、事実、インディアンの記念館のようなものを建てる準備をしている最中なのである。”

 探検は両面通行である。東部への“発見のための冒険”をしたMandans族の酋長のShehekeのことを考えると、人々は、彼が土でできた家の部落に戻り、Charlottesvilleの近くの家について、そして、自分達を“偉大なる父親”と呼んでいる人々についての様々なことを報告しなければならないのに、彼がWashington,D.C.で見たことや、その行き帰りの途中での町の様子を聞くことにあまり疑問を持っていないのである。

 

 

 

 

 

  

大きな空白部分の充足    William Clarkの西部地域の最終的な地図(原本は長さが4フィートにも及ぶもの) は、細部にわたり非常に詳しく書かれている。そこには、Floydの墓の場所、Mandans砦、そして、Clatsop砦、さらには、沢山のインディアンの部族の名前と場所、そして、人口まで推定して記入されている。噂と、単純な、かつ、小さな山々を描いた、そして、北西経路の夢などと言った過去の淡い願望の全てが、Clarkにより、初めて、もっとたいへんな――そして、それこそ正確に――気力をくじくほど厳しいものであるということが明確にされた。

 

 Mapping the Unknown     

   ( 未知の世界の地図づくり  )

  William Clarkは、Clatsop砦に暫く滞在していた時に、一次しのぎに作った図面台で、革命的な記録を作成していた:かれの西部地域の地図である。彼が描いたどの線も、北アメリカの地理をリアルに表現するもので、それまで噂であり、想像の世界であり、推測の域を出ることができず、長い間、期待され続けてきたものが、ゆっくりではあるが次第に現実のもととして浮かび上がってきた。

 二年ほど前の、1804年の1月に、Clarkは、発見のための冒険隊がその度のなかで出くわすであろうものについて、その時の最も新しい情報を取り入れた地図を検証していた。そこには、太平洋からそれほど遠くないところに、単独の狭い山の稜線が示されていた。主要な川は、大陸の、基本的にはほとんど同じ標高の場所から別々の方角に向かって流れていた。西部の地域は、一口に言えば、白紙の状態であった。

 情報に基づきながら、Clarkは探検隊を待ち構えているその行程の長さを推定した。St. LouisからMandanの部落まで、 ――部分的にはすでに毛皮の取引業者によって道が開かれており、紹介されていたが、 ――Clarkの予測では、1,500マイルとされたが、これは、1804年に探検隊が実際に進んだ距離と、ほんの100マイル足りないだけであった。これに対し、Mandans族の部落から太平洋までは、最初の地図からClarkが予測したのは、1,350マイルであった。しかし、1805年に発見のための冒険隊が大洋に到達するまで進んだ行程は、およそその二倍の距離 ( 2,550マイル ) であった。

 Clatsop砦でClarkがこの地図の空白の部分の記録を集め、整理を始めた。彼は、地図作りの正式な訓練をしていたわけではないが、彼にはその天分があり、地図作りに素晴らしい能力を発揮した。西部地域を旅しているあいだ、毎日彼はコンパスを使って、全ての川の湾曲の具合や探検隊の通った道の形跡を読み取り、一つの地点から次の地点までの距離を記録するために、当時ではすでに使われなくなっていた推測航法のやり方を利用した。こうした旅の毎日の“コースと距離”は別の紙にシートに移されて、( たとえば、Clarkはインディアンの酋長にあげるつもりで、白紙の証明書の裏側を使ったりしていた ) そして、それをもう一度、この旅の重要な場所が書き込まれた大きな何枚か続きの地図の上に移しなおされていった。

 Clarkが、西部の基本地図を整理するときには、彼自身が個人的には見ていないような地域についても入手した情報をもとに仕上げていった。ミズーリ川の沿岸やMandanの部落で交易をする者たちはその大きな川の分岐点についての詳しい記述をするために役立つ情報を提供してくれた。そして、彼はインディアンの人達に出会うたび、彼らにその周囲の地形について詳しい話しをしてくれるように頼んだ。何人かの酋長は、距離をマイルで言わず、“睡眠の回数”( つまり、旅の日数 ) で説明するなど、秘密を守るために大雑把な地図を描いたりした。また、あるところでは、くすぶっているキャンプファイヤーの灰のところに地図をスケッチしたりした。そうかと思うと、山の状況を示すために彼らの家の土の床に溜まった埃とも砂とも言いがたいようなもので小さな山を作り、そこに川の流れを示すために細い溝を欠き描くなどしていた。

そうした全ての情報を元に、 ――そして、得がたい個人的な経験をもとに ――彼の命令に従い、ClarkClatsop砦からの見識は彼が二年前に持っていたものよりずっと明確になっていた。こうして彼が描いた地図はロッキーの山々をずっと正確に描写していた。:単に一つの稜線だけでなく、気ままな山々の広く帯状に連なるものとして、そして、東部の山々とは違い、広いばかりでなく、標高の高いものとして描かれていた。それは、さらにCascades山脈 と 沿岸地域というこれらの領域とも全く異なるものであった。

ミズーリ川の流れに沿っての非常に長いコースは( そして多くのその支流 )、結局は、事実に対する見せかけを打ち砕き、そして、その源流とコロンビアに導いてくれる流れとの間の隔たりが明らかに半日の陸路での行程をどのように見るかということを左右していた。

 地理学者であり、歴史家でもあるHohn Logan Allenの言葉を借りれば、“LewisClarkは西部についての新しい概念を携えて、再び文明社会に戻ってきた”。“彼らの新しい概念のなかには、西部地域の持つ豊かさと美しさとそして、広大さの夢に溢れている。しかし、その夢はもはやインドへの旅ではなかった” 

Clarkは、1806年の214日に彼の仕事を終了したときには、いかにも彼らしいところではあるが、全てのことについてもっと冷静であった。“私は我々がミズーリの河口のミシシッピー川からここまで、旅をして来た地域の地図を完成した。”と述べた。“私たちは、いま、北アメリカの大陸を横断する最も現実的、かつ、辿ることのできる経路を見出したということを確認した。” 彼の地図があまりにも端正に描かれているので、“現実的”という言葉と“辿ることができる”という言葉がここで改めて再認識された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

A New Frontier

   ( 新しい開拓者精神 )

 

  未知のものを探検する ――そして、多分、そこを統制するという国際的な競争に参画するというのは、勇気をもった計画で彼の国に挑戦した大統領の思考の産物であった。ある意味においては、それは、科学の進歩のために必要なものとして引き出されたものであり、また、別の見方からすれば、議会がその商業的に生み出される副次的な利益に一層の興味を持っていたからである。それは、国家が主導している科学というものの専門的な知識に頼っていたし、結局は、依然として、彼らの生活を既存のラインの上においている探検隊の隊員を助ける軍事的な支援に頼っていたのである。隊員達はヒーローとしての喝采を浴びたが、しかし、彼らの何人かは、自分達の大目標が達成されたあとは、もっと世俗的と思われるような仕事に自分を合わせることが困難であった。最初の予算を大きく上回ってさえいたのである。

 国家レベルの最初の調査隊であるLewisClarkの探検隊の多くの要素は、絶えず心に浮かぶのであるが、ほとんど入れ替えができるくらい、1960年代の月への合衆国のレースとよく似ている。確かに、違いが無いわけではないが、しかし、一世紀半の隔たりを越えて、なおかつそこに類似点が存在するのである。

 

 

 

派遣団の指令部屋  電話と、書籍と、科学用の様々な器具のある、Monticelloのこの寝室兼書斎から、

Thomas Jeffersonは彼の国を、未知の土地を探検するという伝統に導くていった。

 

 

 

 

発見のための冒険隊が送り届けたプレーリードッグやアンテロープの骨格は、決して

月の石ではないが、しかし、それらは大衆の興味を多いに引いた。Lewisが持っていったHarpers Ferryのライフルは宇宙服やつきの探索用のモジュールとみなすことはできないが、その当時においてはその類の道具としては抜群に優れたものであった。“携帯用の石鹸”が鉛の箱に詰められていたが、これは宇宙旅行のTangではないが、他に何も手段がないときに、滋養を与えるために使われたものである。大きなキールボートはサターンのブースターロケットではないけれども、ともに、“文化的”な世界の精通したところから未知の世界の端に彼らの貴重な荷物を運びあげた。ただ、ブースターは宇宙の果てに使い捨てられたが、探検隊はそれをつかってさらに前進した。

 地理学者であり、歴史家でもあるJohn Logan Allenの言うように、“多くの観点から、探検隊は月に行くようなものであったといえる。” ただ、 “顕著な例外はあるが、つまり、私は沢山の人がそれを忘れてしまっているかもしれないとおもうのだが、それは、Apollo 13号が困難に遭遇しているときには、絶えず地球とコンタクトしていたということである。かれらはヒューストンと会話をし、そして、問題をどのように解決すればよいの、絶えずアドバイスを受けることができた。一方、LewisClarkは、全てを自分達の責任において処理しなければならなかったのである。”

 これに、もし、さらに異なる点を付け加えるなら、それは、:大平原、そして、ロッキーの山々、さらに延々と連なる大陸の大分水嶺は、月よりもずっと身近な存在であるけれども、それが計画された時点ではその情報は圧倒的に少なかったのである。LewisClarkに当時の科学はなんの準備もしてくれなかった。大平原の広さ、ロッキーの山の高さや広がり、などは何も分からなかった。その代わり、彼らには、想像上の毛皮に覆われたマンモスであるとか、ウェールズ語を話すインディアンとか、ミズーリからコロンビアまでは半日の行程などという話しがなされた。Neil Armstrong1969年に「静かの海」に宇宙船を着陸させる以前に、月の荒野の地形は完全に研究され尽くしており、写真が撮られていた。彼はチーズでできた月の上を歩くことを想定して、人類にとって最初の偉大なる飛躍をしたわけではない。

 Thomas Jeffersonが発見のための冒険隊を太平洋に送り出したとき、彼は、今に至るまでずっと、その地域を探索するという軌道に国家を乗せたのである。それは、LewisClark19世紀のZebulon Pike から、John C. Fremontへ、そして、John Wesley Powellへと、さらには、20世紀の宇宙飛行士へも同じように繋げている伝統の始まりであった。それは、MonticelloMission  Controlとも繋げているのである。そして、それは、1806年に太平洋の見える高台にある木の幹に、バッヂとともに刻まれた名前と月の表面に残されてきた国旗とを融合しているのである。

 LewisClarkは最初の、という栄誉を得た:彼らはかれらが最後でないと分かってもがっかりはしないだろうし、 ――また、驚きもしないだろう。“私は、アメリカの自然がいかに生まれたか、そして、いかに育ってきたかが、開拓という考えのいい実証であると思う”と、有名な宇宙飛行士のJames Lovellが語っている。“我々は、若い国家であり、育ち盛りであって、そして、この開拓者であるという考えが、今世紀、今ここに、我々の魂のなかに根づいたものと考えている。私は、我々はこれからもずっと開拓者であり続けるものと思う。

 

 

 

 

 

 

 

  Bird  Woman

. 数多くの解説書が西に向かう冒険隊のガイドのことについて記述している。多くの絵画が太平洋へと向かう道を指差している彼女を描いている。映画では、William Clarkとの肉欲的な熱いロマンスがシナリオになっている。そして、彼女の慕情についての2人のキャプテンの間の殴りあいの喧嘩さえも描かれている。いろいろなインディアンの部族の間の口伝えにわる物語は、彼ら自身のことにように彼女に要求するようになった。彼女の死  ――そして、彼女自身の名前さえも  ―― 論争の対象となった。さらに、彼女にはアメリカの歴史の中で登場する他のいかなる女性よりも象徴的な存在となったのである。

 

 

彼女が生存している間に、彼女を描いた絵とかスケッチは何も制作されなかったが、アメリカの歴史のなかに登場する女性の仲では、今なお、Sacagaweaの存在価値は他の誰よりも大きい。この若いShoshoneの母親と彼女の子供 Jean-Baptisteの銅像は、ノースダコタの州都であるビスマルクの地に立てられている。

 

 

 

 

 

冒険隊のメンバーの中には、Mandansの村で冒険隊に加わった若いインディアンの娘であるSacagawea以上の神話の世界のようにひらめきを感じさせるものはほかに誰もいない。LewisClarkの日誌 ――彼女について、視覚的に全てを書いた記録として残っているもの ――こそ、神話と史実とをはっきりと区別しようとする時には欠かせないものである。愛称とされた“鳥のような婦人”という彼女の名前は、インディアンの言葉を文字で表そうとして、LewisClarkが“Sah-ca-gah-we-ah” 、ならびに、 “Sah-kah-gar-we-a”

(1814年に日誌のなかに他の記述が出てきた。編集者はスペルをSacagaweaと変更した。これは、最近になり書き言葉としてのスペルとして用意されたもので、多くの歴史家、ならびに、正式な出版社はSacagaweaを採用するようになった。) 彼女は彼らの道案内ではないし、また、道を指示したわけではなかった。探検隊が通ったルートのほとんどは、バージニアから来た男達にとってと同じように、彼女にとっても馴染みのない領域を通るものであった。二つの場所で、つまり、彼女の故郷と、帰りの旅で通った、今のBozeman峠に繋がる道 ――については、彼女は自分の覚えている地形であると認識し、冒険隊にそのことを告げた。しかし、その他の土地では、数千万マイルの旅のほとんどは、Sacagaweaは、導くというより、後について一緒に旅をしていたのである。

 

 このように言うことは、この探検隊の中での彼女の働きの重要性を減ずるかのようであるが決してそうではない。最初からLewisは、彼女は、“我々が、ミズーリ川からコロンビア川へと至る行程で我々を助けるために是非とも必要とする馬を頼りにしていたスネーク族との間の友好の協定を結ぶために無くてはならない唯一の頼りであった”と認めている。キャプテンたちは彼女の通訳としての役割を必要としていたし、 ――そして、彼女の部族へ親しく教会をしてくれることと同時に、である。

 

 彼女自身の部族の故郷からはかなり遠くではあったが、彼女が道案内もしなければ、通訳もしてないときに、Sacagaweaはとても重要なことを提供していた。ミズーリ川の途中で、Lewisは彼女によく注意をした。“ボートが事故に遭い、川に押し流され、そうになっていた薬とか他の価値ある重要なものを守るときには”、決して諦めることなく、“冷静に振舞うように”、というものであった。コロンビア川では、ある部族が最初は探検隊を疑い深く見ていたが、その時に、Clarkは注文をつけた。彼女を指差し、その通訳がSacagaweaが女であると理解するや否や、彼らは直ぐにみんな出てきて、新しい生き方、このインディアンの女の光景 ――を思い浮かべたようだった。

 

 これらの人々にわれわれが友好の意思があることを認めさせた。ここ25年間の間これまでの戦いをして来たインディアンのグループの中に、女を伴って来たものなど決してなかったと ――“彼女は生きているし、息をしているし、平和の旗の匂いがする”と。

 

 彼女のなした貢献のいくつかは、それほどドラマティックなものではない。

 

彼女は事あるごとにキャプテンたちに、彼らの食事に供するように手に入れた野生のチョウセンアザミ、スグリの実、カブ、そして、野生の甘草などを提供している。 ―― そして、胃痛から解法するためのウイキョウの根なども見つけた。LewisClarkが太平洋からJeffersonのために持ち帰るカワウソの毛皮の部屋着を欲しいと言った時は、その地域のインディアン達はブルーのビーズ玉以外とものとは交換しないと拒絶をした。探検隊がその時に持っていたものはすでにほとんど使い果たしていた。その時、Sacagaweaは交換が成立するように自分の腰に巻いていたブルーの飾り玉のついたベルトをはずして差し出したのだ。

 たとえこうした行為が、神話化されたSacagaweaの感傷的な、美化され、時に脚色されたものと完全にマッチしていないとしても、そんなこととは関係なく、彼女の行為は伝説化するに十分な価値のあるものである。

 彼女に敬意を表してキャプテンたちは、川の彼女の名前をつけた。そして、太平洋に冬の四半期に行くことを選択しなければならないという忌々しき決断をした時、Sacagaweaの選んだ道は彼女も他の隊員達と一緒に行くことを懇願することだった。しかし、Clarkが日誌の最後のところでChabonneauにこう書いた。“太平洋に通ずる長く、危険で、苦難の道を一緒に旅し、彼女が貢献した世話と奉仕に対して、我々が持っているもの以上に大きな報酬をもらうのに値するのは、お前の女房を置いて他には無いのだ。“

 もし、我々が、 ――ドラマチックに神聖化するのではなく、 ――この鳥のような女のこと、そして、彼女の心からの貢献を思い起こすとすれば、多分、彼女は“さらに偉大なる報酬”を最後に受けることになるだろう。

 

  Very Active, Strong and Docile

  とても元気で、強くて、従順 

 

Meriweither Lewis にとって、この大冒険隊での最初のバートナーであったのは、Clarkではなくて、Seamanと呼ばれた犬である。Lewisが、彼はニューファンドランド犬の血統で、非常に元気がよくて、強くて、なおかつ、従順な犬であったと書き残している。

 キャプテンは、東部のある町で彼を手に入れるために20ドルを払った、そして、1803年の九月の中ごろに、Lewisとキールボートがオハイオ川でClarkと出会う前の丸一ヶ月の間、Seamanは、既に、川のほとりでリスを捕まえ、それを、フライにして食べるのが、とてもすばらしい料理といっていた彼の主人のところに運んでくるなど、彼の本領を十二分に示していた。Lewis( そして、いまやClarkも同行していたが ) が、11月にミシシッピー川に到着するとその犬の冒険隊の中での位置づけは確固たるものになっていた。; 敬服したShawneeインディアンがビーバーの皮3枚を出してこのニューファンドランド犬と交換を申しいれたが、Lewis はあざ笑うように、勿論、交渉は未成立だったと書いている。

 冒険隊の誰もがそうであったように、Seamanもミズーリ川を溯るときには大変多忙であった。彼はアヒルを探し、ハンターが射った鹿を追いかけ、そして、ビーバー(その尻尾は、とても上品であった)の後を、かれらがもぐりこんだ巣穴から追い出すためのそのなかに飛びこんでいくことさえ厭わず、追いかけ回っていた。そして、Yellowstone の河口ちかくで、際立った働きをした。弱ったリスを引っ掛けてきたかと思うと、川の流れのなかにまで泳いでいき、アンテロープを捕まえ、それを岸まで引っ張ってくるなど、すばらしい働きをした。

 

探検の間、Lewisの旅の変わらぬお供は、こんな感じの一匹の大きなニューファンドランド犬であった。この犬はかれが20jで手に入れたもので、Seamanという名がつけられていた。Seamanはリス、ビーバー、そして、アンテロープを捕まえた。そして、彼もまた、茨や蚊に大いに悩まされた。

 

 

ある晩の真夜中のこと、バッファローが川の中になだれ込んできた時には、寝ている隊員をドンドンとたたいて目を覚まさせ、そして、キャンプからその大牛達を吼えて追い返していたのはSeamanであった。また、grizzly州というところでは、そこでは絶えず危険な熊との出会いがあるようなところであるが、ある晩のこと、それにもかかわらず隊員達は自分達がまったく襲われないことに気がついた。Lewisは、それは、 われわれの犬が毎晩、決まってパトロールをしていて、熊が来るたびに、必ずそれを知らせてくれたからである  と記録している。

冒険隊の誰もがそうであったように、Seamanも、また、耐えていた。サウス・ダコタでは、夏の暑さが彼をくたくたにしていた。そして、ビーバーが噛み付いて傷ついた彼の後ろ足の動脈を切って手当てしたLewisは、それが余りにもひどかったので、彼の生命を危ぶんでいた。Lewisが“われわれ、冒険隊の最悪の苦痛の種“と呼んでいたが、南京虫や棘のあるサボテンが、人間達と同様、当然こと、この犬の足にも災いをもたらしていた。蚊の大群もまた、彼の防ぎようもない鼻や目にまつわりついた。サボテンは彼の足の保護布に引っかかって穴を開け、そのかゆみで彼は自分で自分の足を噛み、掻いでいた。Lewisはそれは、“まさに、拷問台のなかにいるようだ“と記している。

 隊員たちと同じように、彼もまた、自分の名前にちなんだ地名をところがある。:Seamanクリーク(今は、Monture Creekと呼ばれている)という、Blackfoot Riverに注ぎこむ流れの速いところである。

 Blackfoot 山中で冒険隊が飢餓に瀕している間、Seamanが何を食べていたかの記録がない。( この大きなニューファンドランド犬をみて、コロンビア川に沿って行進している時にはインディアンからむさぼるように次から次へと犬を買い続けたが、この犬から食用の肉をつくろうなどと考える者など隊員のなかには誰一人いなかった。) 多くのインディアンの部族がこの犬の大きさと賢さに驚き、帰りの旅の途中で、3人のインディアンがSeamanを盗もうとした。そのとき、Lewisは激怒し、何人かの追撃隊を組織して、必要なら射殺してよいと送り出した。もし、その時、インディアンがこの追撃隊をみて、逃げ出さなかったなら、Seamanはこの冒険隊が最初の流血の惨事を起こしたそのもととなっただろう。

 そのSeamanが旅行記の中に最後に登場したのは、帰りの旅のなかの1806年の715日である。

 Lewisと一人の隊員が、再び Great Fallに来たとき――そして、またまた蚊に悩まされていたのだが、“われわれは、虫に悩まされ続け、そんなやり方ではとっても我慢できなかった“とのこと。

 Lewisは蚊帳のおかげでなんとかそれをしのぐことが出来たが、“われわれの犬は、苦痛のためにうなり声を出していた“と書いている。

 南京虫に噛まれ、うなり声を出しているというイメージだけを残して、Seamanは旅の記録から消えてしまった。次の二ヶ月の間、冒険隊がSt. Louisへと急いでいるところでは、それ以前のことも含めて、この犬のことについては一言も触れられていない。彼の上に何かが起こった可能性がある。 ――事故、生命にかかわるような病気、誤って川に落ち、急流にのまれた――そして、彼は再び、かってかれがリスを追いまわしてはしゃぎまわった緑あふれる林の大地には戻ってくることはなかった。

 しかし、Lewisやほかの記録をとる者がその事に注意を払わないで済むような何かでことが起きたとは考えにくい。事実、もし、だれかが旅の最後の行程で殺害されたとしても、だれも、そのことについては記録に残さないと思われるのでその程度のことのように思われる。SeamanMweiwether Lewisだけのペットでなくなってから、随分、時間がたっている。冒険隊の隊員たちにとっては、Clarkが彼を呼んだように、彼は“われわれの犬“となっていたのである。

 

                            完 Sep. 26