ホームページ 隠された歴史 Lewis & Clark Corps of Discovery
第7章
まだ、わたしはとりわけじれていたというわけではないが、我々の誰もが、すでに我々は、この旅のなかで最も危険な、そして、困難な場所に差し掛かっていると信じていた
: そして、誰もが、克服と不屈の精神を用意して我々を待っている困難に立ち向かう心構えができていた。
Meriwether
Lewis
月15日 1805 冒険隊は再びカヌーをミズーリ川の川面に浮かべて前進した。しかしながら、泥だらけの水は彼らをまっすぐに西の山、そして、太平洋に運んでくれたわけではなく、南の方に進ませた。
ClarkとYorkに、あと2人の隊員が本隊に先立って、Shoshone族とかれらのすべからく重要な馬に出会えることを期待して先行部隊として出かけた。Lewisはカヌーの世話を引き受けた。
北の方角は、モンタナのHelenaである。カヌーは、Lewisによれば、“これまでに見た中では最も目を見張るような崖”が迫ってくる峡谷の中に入っていった。 ――川の端から千フィートくらい垂直にそそり立つ固い岩でできた崖である。“この場所の風変わりな情景から”、“わたしはここをロッキーマウンテンの門と呼んだ”と記録している。
しかし、さらに前進すると、ミズーリ川は再び、広い草原の中を流れるようになった。Clarkは、まだ少しばかり残り火のあるキャンプの火などがあるインディアンの居た形跡に出くわしたが、そこでは、なにも発見できなかった。Sacagaweaは、ただ落胆しないように慰めるだけだった。この地点までこの探検隊がとったルートは他の探検隊も通ったことはないし、また、彼女も気がつかなかったが、彼女は、今、自分の故郷に帰っていたのである。
7月22日。 そのインディアンの女は、ここがどこであるかが分かるようになり、われわれにここは彼女の部族が住んでいる川であり、三つの支流がここから、それほど遠くないところにあると断言した。この僅かの情報で、これまで文明社会では知られていなかったミズーリ川の源流をちょっと見ただけで、いまや、納得し始めていた隊員たちは、多いに元気付けられた。
Meriwether Lewis
7月の終り近く、St.
Louisからほぼ2,500マイルの地点、ここは三つの小さな支流が合流してミズーリ川となっている分岐点であるが、ここに彼らは来ていた。Lewisはそこが、“アメリカ大陸の西の地域の地理的な基準点である”と理解していた。そして、その地点の経度と緯度を記すために天文測量を実施した。
キャプテンたちはその支流に、ルイジアナの買収に財政的な調整で貢献した財務長官のAlbert
Gallatinにちなんで、Gallatin、そして、買収達成で国をまとめた国務長官のJames
Madisonにちなんで、Madison、そして、Lewisが、“我々の栄冠の立案人である偉大なる人物、Thomas
Jeffersonの”“その栄誉をたたえ”と書いているが、Jeffersonという名前を付けた。
そのJeffersonが西を指差し、そして、彼らはそれに従って探検に出た。Lewisは曲がりくねった、狭い流れと隊員たちの悪化する健康と気力で苦しみもだえながらゆっくりと前進していると記録した。
7月31日 今日は獲物をとることができず、とうとう我々の新鮮な食料が尽きた。
新鮮な食料を潤沢に持っているときには、隊員たちに、食料が尽きることを気にかけるようにと理解させたり、それを最低限に倹約させたりすることは不可能だと気付いた。しかし、わたしは、その状況になれば、それが簡単に彼らにわかるものと想像した。・・・
いまや、我々のクルーは手足が不自由な連中ばかりとなった。2人は腫れ物ができ、彼らのいろいろなところから悪性の吹き出物が出ているし、1人は、石で大きな打撲傷を負い、また、ある者は突然腕が脱臼し、幸いにして、いまは良くなったが。そして、5人目は、カヌーの上で、滑って後ろ向きにひっくり返り、背中をひどく打ってしまった。
8月2日。我々が渓谷の中で真昼の太陽の強烈な日差しの熱で息が詰まりそうになっている一方で、これらの山の頂きは、まだ部分的に雪に覆われていた。ところが夜になるとあまりの寒さのために二枚の毛布では十分な暖をとることができなかった。・・・キャプテンClarkは、この晩、彼のヒザの内側に痛みを感じて、そこが腫れあがっているのに気づいた。
8月3日。川の流れはますます急になり、以前よりも川幅はずっと狭くなった。いたるところで我々は人とカヌーの荷役を強いられ、岩と砂礫のところを引っ張り上げなければならなかった。
8月4日。 Charbonoは足の痛みがひどく不平をもらしており、明らかにそれが我々を遅らせる原因となった。・・・キャプテンClarkの足首の痛みがひどくなり、彼はもう歩くことができなくなった。
8月5日。 Drewyer
[ Drouillard]が足を滑らせて非常に危険な滝にはまった。指の一本をくじき、足をひどく痛めた・・・隊員たちはこの日はとても疲れたので、船で進むことは止め、陸を進むことを強く望んだ。
Meriwether
Lewis
全てがうまくいっていないように思われた。へさきのロープがプツンと切れて、カヌーがうねる川に転覆した。自分の持ち場が水浸しになるのを防ごうとして、Joseph
Whitehouseは流れの中にある岩床と船の間に挟まれ、かれは最後には船の下敷きとなった。“流れがあと、2インチ狭かったら”、Lewisは記していた。“彼は間違いなく押しつぶされて死んでいただろう”と。
Clarkの足は、とげの有る梨に刺されたところからばい菌が入り、彼は熱を例の「Rushの稲妻」の薬で下げてもらった。8月の1日、この日は彼の35歳の誕生日であったが、この日までに彼の足首の大きな腫れ物が化膿し始め、彼は、見るからに歩けなくなってしまった。僅かながらの慰めとして、Lewisが、彼らが通過したこの小さな流れのことを彼の友に敬意を表してBirth
Creekと名づけたことだ。
Jeffersonと名づけられた川は小さな流れの支流になっていた。探検隊の本体が先発隊の残したメッセージを見失い、さらに遅れを取ってしまった原因となったところであるが(ビーバーが、メモが付けられていた枝を噛み倒してしまったからであるが)、間違った支流にはいりこんでしまったところである。若いGeorge
Shannonが狩にでかけ、また、探検隊からはぐれてしまい、数日間、心配で気を揉む日が続いた。
そして、いまだ、Shoshoneと彼らの馬の形跡はなにもなかった。“もし、我々が彼らを見つけることができなかったら、”、Lewisは彼の日誌の中に打ち明けている。“わたしは、我々の冒険の成功を公にすることが非常に難しくなると心配していた”と。
そんな時、再び、ほんの僅かの希望の光となるような知らせがSacagaweaから来た。以前、あの三つの支流の分岐点で、彼女は隊員に、五年以上も前になるが、Hidatsasが彼女を捕らえた場所を示した。いま、彼女は別の目印となるような場所指し、それから判断して探検隊が少なくとも正しい道を通過していることが分かった。それはBeaverhead
Rockといわれる岩で、今日では、モンタナのDillonの北にある場所である。
8月8日 インディアンの女が小高い平原の場所を思い出した。・・・彼女が教えてくれた場所は、西に向かって連なる山脈の向こう側に川があり、そこに沿って彼女の部族が夏の間居留していた場所からたいして遠いところではなかった。その丘を彼女の部族は、その形がビーバーの頭の格好によく似ているところから「ビーバーの頭」と呼んでいるといっている。彼女は自信をもって我々に、この川に沿っていけば、必ず彼女の部族を見つけることができると、さもなくば、その川の源流の西に、しかもそれはここからそう遠くはない場所の筈で、そこにすぐに出られるといった。
今、我々にとってはそれらの人々に出きるだけ早くめぐり会うことが最も重要であったので、わたしは次の日にその源流に向けて小隊を率いて、先に様子を見に行くことにした。・・・この川とコロンビアに繋がる山の峠、そして、川を下り、わたしがインディアンを発見するまで。率直に言って、それが何とかして彼らを見つけ、あるいは、馬を保有する他の人たちを見つけようというわたしの決意であった、たとえ、そのために一ヶ月の旅が必要だったとしても。
Meriwether
Lewis
8月9日に、LewisはGeorge
Drouillard、John
Ordway、そして、Hugh
McNealと共に、Clarkの指揮するビーバーヘッドの川に残った本体とカヌーから離れ、Shoshone族の探索に出かけた。そして、2日目に、彼らが山に続く小さなクリークに沿って前進しているときに、前を進んでいたパーティが、少し離れたところに馬にまたがるインディアンを見た。
――彼らが四ヶ月前にMandansの部落を離れてから初めて見るインディアンであった。
Lewisはその光景に大喜びをした。そして、彼の銃を横に置いて彼の親しくなりたいという意思を態度で示した。馬に乗った、たった一人の男は4人の隊員が前に進んでくるのをみて疑念を表した。Lewisはそのインディアンから200ヤードも無いくらいのところまで近づき、そして、“tab-ba-bone,tab-ba-bone”と叫んだ。この言葉はSacagaweaが彼に彼女の部族のものが“白人”と言う意味で使っている言葉だと教えたものだ。
Shoshoneは急に走り出した。
そのインディアンが再び止まり、あたかも我々を待っているかのように、馬を覆して我々の方に向いた。その時、わたしは、彼は私が護衛を連れずにいけば、わたしが来るのを待っているのだと確信した。そして、わたしが彼から150歩ぐらいのところにきて、もういちど“tab-ba-bone”と繰り返し、手に小さな飾りを持って、彼にわたしの肌の色を見せて、確認させるためにシャツの袖をまくり挙げ、さらに、彼の方に親しみを込めて近づいて行った。
キャプテンから有る程度離れたところにいた彼の護衛たちは、Lewisが彼に止まるように合図をしているのが分からなかった。多分、インディアンはLewisと護衛部隊が違った方角から近づいてきて、ワナにかけるのではないかと恐れていた。あるいは、Shoshoneが以前に白人には一度も会ったことがなく、白人を言い表す特別の言葉がなかったと言うのが事実かも知れない。Lewisがこのときを見越してSacagaweaに疑問を抱いくと、微妙な差は取り除かれたようだ。この“tab-ba-bone”とは、実はShoshone族では“よそ者”の意味であった。
原因がなんであれ、結果は、同じであったとLewisは記している。キャプテンがShoshoneの男から100ヤードも無いほどに近づくと、
突然、馬の向きをかえ、鞭をうち、クリークを乗り越えて、一瞬のうちに柳の茂みの中に消えてしまった。その瞬間、彼と共に我々がプレゼントとして馬を得るという望みが全てなくなってしまった。そして、わたしは、その時、わたしが最初にインディアンを見たときに抱いた喜びと期待の大きさと同じくらい、悔しさと落胆を感じた。
次の日8月の12日であった。この日はキャプテンたちがMandanの砦から船でおくったものが、ミズーリ川を下り、ミシシッピー川に出て、それから、ミューオーリンズの港を通り、フロリダを回り大西洋の海岸線を北に登り、最終的に東部に到着した日である。
Jefferson大統領はかれのMonticelloの家の庭にインディアンのトウモロコシを植え、部屋の壁にはエルクの角で飾り、そして、二匹の生き残った動物であるピグミーとプレーリードッグはその当時のまだあまり有名ではなかった国立の自然科学博物館、ここは、フィラデルフィアの独立記念ホール、つまり、ジェファーソンとかれの仲間が現在のロッキー山脈にまで広がる新しい国の領土を拡張するより30年まえに築かれた建物であるが、そこに送られたものと思われる。
彼は、標本を詳しく調べ、Lewisのかれらのこれからの予定についての自信に満ちた手紙を読み、そして、Clarkが作った地図を広げて彼らがこれから通るであろう経路を辿り、ジェファーソンは、探検隊はすでに北西部の峠を過ぎて、西部の大洋に出でいると想像したに違いない。
しかし、確かにかれらは大洋に近いづいてはいたが、事実はそうではなかった。冒険隊は、地図の上から想像していた山と実際との違いをまざまざと思い知らされるという時であった。
8月12日 わたしは夜が明けると直ぐに
Drewyer [ Drouillard] を、インディアンたちがどのルートを通ったのか探してくるように斥候に送り出した。彼は、昨日、我々が山の上で見失った馬のひずめのあとを追い、丘を登って行った。そして、およそ1時間半ほどして戻ってきて、私に・・・
われわれはとても大きな、インディアンの通路にいることは確かだ・・・だから、わたしにはすぐにこの山を越える峠が見つかり、今晩のうちに偉大なるコロンビア川のその水を飲むことができるとの希望がわいた。
よく踏みならされたインディアンの通り道が我々を、山の尾根に導いてくれた。そこの脇には小さなクリークが見えた。Hugh
McNeal がその流れを一跨ぎした、そして、“かれは神に”、“これまで、際限のないと思っていたミズーリを生きて跨ぐことができたことを感謝した”とLewisは記録している。彼らは、急いでクリークの源のほうに向かってさらに登っていった。
さらに登っていくと、そこには、水の湧き出る泉があった。これこそ、われわれがこれほどまでに苦難の日々と休息のない夜をすごして捜し求めた、偉大なるミズーリの最も奥深いところにある泉であったのだ。
Meriwether
Lewis
Lewisは、その小さな泉の湧き出るところで、彼自身と隊員たちが一息つくために極僅かの間の休息を取った。元気を取り戻し、胸の高まりを感じて、彼はさらに先を急いだ。山の尾根は、あとほんの僅かではあるが、その先2,300ヤードのところにあった。
彼は、まさにその時、ルイジアナの領域の最も遠い境界線、アメリカ大陸の分水嶺 ――そこを越えた向こう側は、川の水は西に流れるというロッキーの山の背に近づきつつあった。そこには今だかってアメリカ国民は立ち入ったことのない場所であった。彼は、こここそ北西部の峠: 三世紀以上に渡って探検隊のゴール、それは、Thomas
Jeffersonがここを見つけ、合衆国のものであると主張するために彼を派遣したことの偉大なる栄冠ともなるところ、であると信じた。
一歩一歩を踏みしめながら、Lewisはこの探検隊と自分自身の生涯の栄冠を受ける瞬間となるその時のことを考えながら近づいていった。先のほうの見晴らしのよい場所から見るその景色は、そこにある科学的なこと、地理学的なことから、彼にそこがコロンビア川の流域であり、そのかなたには大平原があり、やがて、川は太平洋に流れていくと理解させた。
にもかかわらず、さらに沢山の山々が連なっていた――“高い山々の連なりはなおも我々の西に広がっている”と書き、“その山々の頂にはところどころ雪をかぶっているのがある。”と説明している。
その瞬間、Meriwether
Lewisの足元に広がる気力をくじくような景色を見て、この分水嶺を横切る単純な水の流れの夢は ――Christopher
Columbusにまで思いが及ぶような夢 ――瞬時に霧散してしまった。
しかし、Lewisには彼の落胆に浸っている余裕は無かった。かれは事務的にかれをさらに前進させるものを持っていた。彼は、その大分水嶺を越えて探検を進めるには何とか馬を見つけなければならいないと思い、その馬を見つけることに僅かの希望を抱いていた、そして、彼はなんとしてでも彼らを西の大洋に導いてくれる川を見つける必要があった。
彼ら、全員の成功と ――おそらく彼らの生還そのものが ――それにかかっていた。
Friends
Stephen
E. Ambrose
1803年の6月19日にキャプテンMeriwether
LewisがWilliam
Clarkに書いた手紙は、まさに、LewisとClarkの研究家であるDonald
Jacksonが述べているように、“国のレベルでの達成によりもたらすことができる偉大なる事業への最も名だたる招聘の一つ”であった。その手紙は、何時いかなるときにおいても最大の友情を失わず、偉大な冒険と、そして、限りない探究に、友情をよりどころとして挑戦することの出発点となっている。
LewisとClarkは、多くのアメリカ人にとって、その名がLewisandclarkであるかのごとく、その功績により1人の人と思われている。しかし、1803年に彼らが一緒にいたのはほんの僅かであった。ClarkはLewisより4年ほど早く、バージニアで生まれたが、小さいときにケンタッキーに移っていた。6ヵ月間ではあるが、Lewisの上官としてのClarkという形で、彼らは共に軍隊に所属していたことがある。LewisがClarkにオハイオで土地についての調査を依頼するビジネスレターを送ったことがあるが、そのほかには彼らの間にはどんな秘話も残っていないし、また、どんな往復書簡も無かったのである。
しかし、軍隊にいた6ヵ月の間に、彼らは御互いに相手の度量を知り、友人となった。彼らの相手に対する信頼は、彼らが共に西部に最初の一歩を踏み出す以前にすでに完璧に出来上がっていたのである。
この友情がどの程度のものであったかを詳しく知る術はないが、しかし、彼らの手紙のやり取りからも分かるように、彼らがLewisandclark
となるかなり以前からすでに存在していたということについては疑うべくもない。大成功の筋書きを述べた後でLewisは、“私の友よ、これで、貴方はその計画の統括的な全貌を知り、そして、この探検隊の意味と目的を理解できたでしょう。そして、もし、貴方が、私とともに苦難を乗り越え、危険を克服し、その栄誉のためにあえて挑戦しようということになんらかの不安を感ずるのであれば、どうか、私には貴方以外にその喜びを分かち合う友人はこの地球上には他にいないのだということを信じていただきたい。”と、告げた。
そして、Lewisは特別な計らいを提案した:Clarkがキャプテンとしての立場で、指揮官としての権力をもつというものである。Lewisはそうしなければならないというわけではなかった。;彼は、副官としての任務を提案することもできたのだ。指揮権が二つに分かれているということは決してうまく働かないし、それは、あらゆる軍隊のなかでは、命令は縦のつながりであることが神聖であり、基本であるという理解をしている男達にとっては悩みの種であるし、非常の事態で二つの違う命令が下されるということは不文律なのであ
る。しかし、Lewisはそれをあえて実行した。彼にはそれが正しいものと思われたのである。それは、彼がClarkについて理解していることに基づいており、かつ、彼がClarkに対して抱いていた気持ちでもあった。
Lewisは、Clarkに、例え正式な隊のメンバーとしてではなくとも、一緒に来るように要請した。彼は手紙を、もし個人的な、あるいは、仕事の上でClarkが提案を受け入れるのに妨げになるようなものがあるのであれば、Lewisは、Clarkが“ミズーリ川を遡る間だけでも友達として同伴できることを望んでいるし、そうしてくれれば、これ以上嬉しいことはない”と言って結んだ。
これに対し、Clarkは、自分を束縛しているものは何もないし、Lewisの誘いに対し、“喜んで参加する”と返事をした。彼は、“これは、多くの困難を伴う誘いであると理解してのことである。しかし、私の友よ、私こそ、あなた自身と同じように敢えてそうした探検を進んでやってみようという友人は貴方以外にいないと思っています。”と、決意を固めた。
そして、続いて次のような手紙を書いた。“友よ、私は全身全霊を持って、貴方と行動を共にします。”と。
1803年の10月15日に、LewisはキールボートにのってClarksvilleに着いた。彼は船を止めて、自分のパートナーとなる男に会いに出かけた。その時、Clarkは自分の長兄であるGeorge
Rogers Clark将軍のところに住んでいた。彼らはClark将軍の家のポーチであった。彼らが御互いに手を固く握り締めたとき、ふたりとも、オハイオ川のように壮大で、彼らの大志と夢のように大きくて、彼らの友情のように深い御互いの顔を見合わせてにっこりと笑った。その晩、晩餐の席に、2人のこれからヒーローになろうとしている男たちが、老いた正真正銘の英雄と共にいたことになる。この三人の偉大なる話し手達こそ、知恵と想像力と、記憶と実践での経験、そして、それまで知ることのなかったインディアンの、熊達の、そして、山々についての壮大な哲学を持っていたのである。彼らのとどめのない会話のなかの問いかけや、問答、そして、その言葉のなかに興奮と歓喜が溢れていた。
オハイオ川を下り、そしてSt.
Louisからミシシッピー川を横切りウッドリバーに入っていった。LewisはClarkに天文学を講義し、天文観測に使う六文義器の扱い方や、Jeffersonのところで学んだことをいろいろと講義した。:一方、Clarkは西部の川についての船乗りの心得などをLewisに教え、また、軍隊で学んださまざま技能を伝授した。その冬、彼らはウッドリバーにキャンプをはり、そこで過ごした。二人のうちのどちらかは、いつもSt.
Louisの近くにいて、これからの旅に必要なものを買い集める必要があった ――
が、これがなかなか厄介で、たいへんな仕事であった。
こうして、ふたりは、Lewisが軍部からClarkの参加の承諾を得たときには、彼らは別々の行動をしていた。たた、その承諾は、Lewisが約束したような、キャプテンという肩書きではなく、副官としての任務であった。Lewisはがっかりし、そして、明らかに味方を失った。彼は、立場上の優位性を取ろうなどとはいささかも思っていなかった。いまこそ、全ての指揮権を自分のものにする時などとかれには到底思えなかった。そればかりか、彼は直ぐにClarkに手紙を書いた。あまりよい知らせではないが、そして、“私自身は、その階級のことについて、我々の隊員の誰一人、そして、そのほかの人にも、なにも知らせないことが一番よいことだと思っている”と付け加えて。
そして、それらかの七年間というもの、軍の長官、
Jefferson そして
Meriwether Lewisと
William Clark 以外には、軍部の知るところでは、この発見のための冒険隊の指揮官はキャプテン
Lewis であり、Clarkは彼の代理指揮官としての副官であると言う事実を知るものはいなかった。
これこそ、まさに、かれらの友情そのものである。状況は危険な可能性に溢れていた。彼らは4,000マイルにも及ぶ大自然のなかを踏破したのである。その間に、そうでないと確認されるまでは、本来、敵であると思っているインディアンたち、彼らは始めてみるよそ者はすべて自分達の餌食だと思っているのであるが、そうしたインディアンたちにかこまれての旅であった。彼らの前途には、超えなければならない数々の山々、漕ぎ渡らなければならない急流、そして、荷物を担いで運ばなければならない多くの滝など難関が待ち受けていたのである。毎日のこうした出来事のなかで、一時たりとも彼らの意見がことなっていたなら、それは、しばしば命にかかわるような場合もないわけではなかったが、そんなときには、Lewisは
Clark の立場を引き上げて意見を尊重する積りでいた。しかし、実際にはそんなことは決して起こらないと信頼していた。それは、Clark
についてもまったく同じであった。
彼らがミズーリ川を溯り、旅に出る一週間前のちょっとしたことが、彼らの友情がどのようにものであったかをよく説明してくれる。
探検の行程のなかで、彼らが塩の必要性、そして、犬の肉に関して必ずしも意見が一致していたわけではない。 ――
Lewis は塩が必要だったし、犬の肉を好んで食した:一方、Clarkは塩には無関心だったし、犬の肉を食べるということについてはどうしても彼自身受け入れることが出来なかった。しかし、かれらが、議論をして意見をことにしたわけではなかった。そして、非常によく知られており、もっとも難しい状況が起こった。それは彼らがミズーリ川とマリアス川の合流地点に来た時であった。どちらがミズーリ川の本流であるのか?
そのとき、水夫としての経験を持っている何人かの隊員たちは、キャプテンのどちらかに、それは、マリアス川だと進言した。しかし、キャプテンたちは協議をして、隊員たちの言っていることは間違っていると宣言した。彼らのリーダーシップの質の高さに限りない尊敬をもつて、隊員たちはキャプテンたちに言った。“自分たちは、キャプテンたちが指示する方向がどちらであろうともついていく心構えは出来ているが、それでも自分たちはまだもう一方の川の方が正解だと思っていると、とても愉快に”言っていた。
しかし、結局はLewisとClarkのほうが正しかった。そして、彼らがミズーリ川をさらに上流に進んで三つの分岐点のあるところに達したときには、ひとつの分隊は
Shoshones族を探し求めて陸路を歩き回るなど、彼らは状況に応じて分かれて行動をした。以前は、彼らはいつも一緒に行動し、新しい川を見つけたときなど、;Clarkか、あるいは、Lewisはその名前を提案し、いつも同意をするのであった。彼らが分かれていた時には、新しい川、もしくは、流れをはじめて確認した隊員が、ほかの隊員も同意してくれることを信頼して、そこに名前をつけたのであろう。ClarkはLewisの敬意を表して川に名前をつけたし、また、LewisもClarkにちなんで川に名前をつけた。
キャプテンたちは、お互いに相手のために死んでもよいという覚悟が出来ていた。彼らは探検隊がおこしたたった一つのインディアンとの戦いが起きたときには一緒にいたわけではないが、彼らは今にもいさかいが起きるような瀬戸際にいるときはいつも一緒であった。とりわけ、旅の往復での
Sioux族との遭遇の時などがそうである。彼らは、決してそれを臨んでいるわけではないが、必要ならいつでも戦うぞという、お互いに同じことを考えながら、一緒に立ち構えていた。
彼らはお互いに相手のことを心配し、相手に尽くすことを考えていた。1805年の8月に、LewisはClarkの足に棘が刺さったときにはそれを抜いてやり、温水でClarkの足を暖めてやった。Clarkはそのとき、Shoshonesを探して歩きまわっている時であったが、棘のある西洋梨が刺さり、彼の足は皮がすりむけ、血のついた裂けた肉がむき出しになっていた。“私は、苦痛の種となっていた足にできた腫れあがった水ぶくれを破った“と記録している。それは、まさに彼らしい表現である。
キャプテンたちは話し合った。そして、もっとほかの陸路を使った探検が必要であるということで意見が一致した。Clarkはその指揮を申し出た。;彼は棘のある西洋梨など気にせず、インディアンと遭遇する機会を見出したかったのだ。Lewisが記録していた。キャプテンCは、彼の足の水ぶくれと発熱のためにとても弱っていた“けれども“、彼は、私が彼を楽にさせてあげたいという申し出を快く受け入れるどころか、朝になったら、自分のルートを何とか開拓して探検して見たいと主張した。かれのその熱意を見て、私がカヌーとともに残ることに同意した。
1805年の9月に、Lewisがかなりひどい胃腸の痛みを煩ったが、このときには、Clarkが看護婦の代わりを務める番であった。彼の心構えは非常に良かったが、取り扱いの方法はあまり良いものではなかった。かれは、Lewisはあまりにも症状が重く、“おとなしい馬にさえ乗ることも出来ないほどだった“と記録していた。彼は、LewisにRushの丸薬を与え、“Rushの稲妻“といわれて薬よりもよく知られた、神話的な効き目のある吐剤を飲ませた。ただ、それは、彼がなすべきことのなかでは最も悪い部類のものではなかったかと思われる。次の日に、Lewisは以前よりもさらにひどい症状となった。Clarkは我慢すること以外にもどうすることも出来なかった。:彼はLewisに何がしかの塩を与え、そして“Tarterの吐剤“、さらに別の下剤を与えた。そして、次の日には彼は“ヤラッパと塩の塊と[
jalap:下剤として用いられる
]、Tarter
吐剤など“を与えたが、また、同じように悪い結果となってしまった。
Clarkはかれ自身何が出来るというものではなかった。Lewisやほかの者達(
同じよう病気になっていた
)のように、彼は、根の煮たものや、時には、乾燥した鮭を食べていた。十月の5日に、Clarkは記録にしていた。“キャプテンLewisと、私も、根の煮たものを夕飯に食べた。それは、われわれの食欲を満たしてくれたが、においがかなり強く、そのためにわれわれはその日の夜は一晩中息がつけないほどであった。“ その二日後の彼の日誌の冒頭に、“私は、すこしも良くなって居ないが、いろいろなことをしてくれたことに感謝している“と書いた。Lewisは症状が重く、かれは男達の仕事をほとんど指揮することが出来なかった゛からである。
幸いにも、彼らには若さがあり、並外れた体力を持っていた。ともかく、彼らは全快し、元気を取り戻したのである。
帰りの旅の途中、彼らは別れ別れに行動することにした。7月の4日のことである。ClarkはYellowstoneを探検するために南に向かい、Lewisはさらに新しい発見をするために北への探検をすることにした。それぞれが、未知の地域を千マイルほども旅しなければならないというものであった。そして、別れ際に、かれらは、6週間経ったら、Yellowstone
河口で落ち合う約束をした。
Lewisは、狩猟の時の事故で尻に被弾をしてしまった。;彼が再開する地点に到着した時には、彼はカヌーのなかで腹ばいになっていた。友人のその状態を聞いたClarkは、カヌーに飛び乗った。かれは、この場でLewisに会うのに際していろいろと警告を受けていたが、しかし、Lewisは起き上がり、傷はたいしたことがなく、三週間か四週間も経てばよくなるだろうと友を安心させた。“この情報が私の気持ちを非常に楽にさせてくれた“と、Clarkは述べた。
Clarkはそれからの三週間というもの、Lewisの傷ついたところを消毒し、そこをリント布で巻いてやることを、毎日二回ずつ繰り返し施した。その結果、彼は、“私は私の力で私自身の大事な友であるキャブテンLewisが少しでも早く回復することが出来ると言えることを非常に幸せに思っている、また、彼が、今日、初めて歩くことが出来た“と日誌に書いた。
彼らが、St.
Louisに帰還したときに、Lewisはいち早く、
Jefferson あてに、Clarkが希望する仕事に直ぐに着手できるように依頼の手紙を書いた。“われわれの旅の間に私の尊敬する男であるキャプテンWilliam
Clarkから授けられた彼の骨折りと奉仕に鑑み、私は決して誇張して言うなどというようなことはできない。:もし、閣下、われわれがお互いに専念してきたこの困難を伴う企画の大成功に、何がしかの名声が与えられるべきものとするなら、彼こそ、私とともにそれが与えられるべきであると、あなた自身、ならびに、この国の人々にも、是非、それを認識していただきたいものであります。“ その後の一年間、Lewisは大統領に働きかけ続け、報償と名誉を授与されるときにはClarkはLewisと同等の取り扱いを受けるということを確実するための協議をしていた。そして、この旅を、“LewisとClarkの探検“という言葉で表現したのは、Lewis自身であった。
Clarkは、この探検の後、直ぐに結婚し、彼の伴侶を
St. Louis につれて来た。そこでの彼らの立場は、Lewisがルイジアナ上流地域の統括者、そして、Clarkはインディアンにかかわる問題の監督者であった。LewisはClark夫人に結婚のお祝いとして、シェイクスピアの完全セットをプレンゼントした。数ヶ月間、彼らは同じ屋根の下で生活し、:Lewisが彼自身の屋敷を手にいれたときには、Clarkも彼の仕事部屋で一緒に仕事を続けた。Clarkの最初の息子が出来たときには、Clarkはその子に、Meriwether
Lewis Clark という名前をつけた。
1808年に、Lewisの財政的、かつ、精神的な環境が極めて悪くなり、それが、1809年には彼の友達をとても苦しめることになった。彼は、Lewisに金を貸し、彼を居酒屋とか舞踏会などという感覚から遠ざけるようにし、出来るだけ、彼の面倒を見るように心がけた。ほかにもいろいろな問題があったが、その中で、Lewisは致命的な痛手を被ったのは、彼が信用を基に軍部に書いた伝票だった。彼は、事態を正しく進めるためにワシントンに向かった。Lewisが出発してからの明後日に、Clarkは彼の兄弟に手紙を書いた。“Lewis総督は、膨大な額と思われる請求書のために、近いうちに破滅するのではないかと思われる・・・
私は、これまでの数年間に昨日のように思いの日を送ったことがない。彼の債権者がなかに押し入ってきて、・・・彼を非常に苦しめており、彼は、それはぬぐいさることができない同情を訴えるようなものだと私に説明した。 ――私は、いまだかって、このルイジアナのこの地にLewis総督以上に正直であり、純真な男が居たなんて信じることはできない。もし、彼の気持ちが安らかになるのであれば、私は彼を気持ちよく送り出すべきだった。
“私は、すべてのことが好転するものと思っている。そして、彼は大成功をしてここの地に再び戻ってくるでしょう。――どうか、優れた総督のことについての好ましくない悪評などが流されていることに言及しないでください。“
二人がこれ以後再開することは無かった。しかし、Nathez
Traceでの旅の途中での悲しく、さびしい死を迎える、彼の生涯の最後の日に、Lewisは彼の召使に、Clarkは自分の苦しい立場をよく理解しており、これまで、ずっとそれを助けようと尽力してくれたと語った。彼は、おもっていることを正直に述べた。彼は、いつも気にしていたのだ。多分、彼が死ぬ直前に、Lewisは彼の友人のことをとても快く思いだすひと時を見出すことが出来たのであろう。
1972年に、イタリアの有名なレポーターであるOriana
FallaciとインタビューをしたHenry
Kissingerは、自分自身は法律と秩序を復活させるために町に乗り込んできたカウボーイのようなものだと言った。彼は、アメリカ人は、そんなイメージ(
彼は、ドイツ人はそんなことはないと付け加えるようなことはしなかったが、ドイツでは、彼は少年というイメージで表現していた。) を好んでいるのだ、と述べた。そのカウボーイは、正真正銘、男らしい、一匹狼で、――彼の先祖の、山で狩猟をする山男のように――西部を象徴するようなイメージを持っているのだ。それは、Owen
Wisterの小説 The
Virginian(1902) から始まったものであろう。Wisterは Theodore
Rooseveltのハーバード時代の友人であり、その物語の主人公のモデルのある部分にはTeddyを取り入れた。彼は、その小説をTRに献呈した。実際に、ルーズベルトは、ノース・ダコタで数週間をただ一人で狩に出かけるなどの時間を費やしていたばかりでなく、自分たちの住んでいるところよりも西部の方をよく旅行し、研究していたのだ。
映画は、このWisterのイメージをかなり強いものにした。それは、西部の風景、場面、そして、劇的な情景に完璧なまでに身を入れている。Tom
Mix から
John Wayneへ、そして、現代の
Kevin Costnerへの流れのなかで、孤独なカウボーイというものが、全てのハリウッドのテーマのなかで最も持続性のあるものを提供した。世界第二次大戦といえどもウェスターンの頂点に達することはできないのである。
しかし、彼らが西部について語っているように、高い危険性を乗り越えていく孤独な人間はしばしば、ロープの端で終結してしまうが、一方、政治的な指導者は馬の上から見つめているのである。西部を作っているものはチームワークであり、我々の西部について知っているような知識ではなかなか理解できないような何かによって形作られているのであった。ここに、いまなお、Lewisが彼の日誌を出版できなかったことに対して支払われた別の価値があるのである。LewisとClarkの物語がもっと知られれば知られるほど、それが例となって、チームワークというものが、西部について物語を書く人とか、映画を作る人達にそれだけ沢山の西部におけるいろいろな経験を提供することになり、自由人とか、在郷軍人達にはあまり歓迎されないが、チームプレーを心がける人達をもっと励ますことになるだろう。
LewisとClarkさ発見のための冒険の隊員達が誇示したことは、自分達が協力し、そして一人一人がチームの一員として行動するならば自分達にはできないことは無いということである。ここに、貴方は32人の、御互いが信頼し、固い絆で結ばれているがゆえに、夜中に誰かが咳きをしても、直ぐにそれが誰であるのかがわかるような男達を見ているのです。彼らは、闇のなかでも影を見れば、それが誰であるのか見分けることができたのだ。肉を食べるときに塩をかけて食べるのが好きな人間はだれなのか、足が最も速い隊員はだれか、雨の日に最も手際よく、すばやく火をおこすことのできるのは誰なのか、を御互いに知っていた。キャンプファイヤーを囲んで、彼らは御互いの両親のことを語り合い、友を尊敬し、各人がそれぞれの希望と夢を話し合った。そして、彼らは、友人のためであるなら自分の命を喜んで提供するというところまで、相手を信頼するようになった。隊員たちの相互の団結力は増し、兄弟の絆のようになり、そして、彼らは、今日、まさに驚くような偉業を達成するにまで至ったのであった。
この発見のための冒険隊の融和力を高め、一つのチームまでに育てたのは言うまでもなくキャプテンたちである。それは、実に、家族同然といえるものであった。これこそが彼らの最大の偉業であったといえる。彼らは、彼らに与えられた仕事を、効率的、かつ、効果的にこなすために、ローマの軍隊か、あるいは、他のなにか歴史の中に出てくるような特別優秀な一団のように、分かれて実行していたが、それは、そのどちらかの一つかがあえて危険を冒してまで分割された指令を実行したというのではない。
1805年の8月の状況を思い出してみよう。発見のための冒険隊はその時、Jefferson川を遡る道を進んでいた。隊員達は、一日中、冷たい山の雪解け水に胸の深さまで浸かりながら、カヌーを掲げて行進し、足が棒のようになり、疲れ果てていた。そして、やっと休憩地点まで辿り着いたのだ。Clarkがその時の状況を、“隊員達は我慢を強いるようなたいへんな労力に非常に不満げであり、何とか川から離れたいと言っていた。そこで、私はかれらを奮い立たせた。”と記録していた。Lewisはもう少し詳しい記録を残していた。:彼の記録では、“隊員たちは極度に弱まり、そして疲労の限界に来ていた;彼らは川の中を
運ばしていることが原因となっている極度の疲労に不平をもらし、陸路を進むことを望んだ。キャプテンClarkは、彼らを励まし、そして、奮い立たせていた。”となっていた。
誰でも、Clarkがどうやってそれをしたのか知りたいと思うだろう。しかし、それはLewisが是認したことは確かである。困難と闘うような状況の下では、キャプテンたちが御互いの意見を異にするようなことは一日に何回でも起こりうる ――どちらの分岐を進むべきか、だれを狩猟に出したらよいか、Shoshoneの探索には誰を斥候に出すべきか、隊員たちをどの程度発奮させるのか、キャンプはどこに張るのが適当か、もっともっと沢山のことが有る ――が、かれらは本能的に合意していた。彼らが別々の行動に別れたときに、この機会に示されたように、彼らの信頼は、そこで遭遇する挑戦がどんなものであろうとも、彼らは御互いに同じような対応をするものと思うほどのものであった。彼らは、御互いに、相手が自分とおなじような行動をするものと確信していたのだ。これは、まさしく、彼らの専門家としての能力の高さと、
――
そして、御互いの友情の深さによるものであった。
彼らの友情とは、他の人間関係から発するようなものとは少し違っていた。馴染みの付き合いとも違い、それは、愛情の上に成り立っていた。また、愛し合うもの同士、あるいは、結婚した2人の仲の関係ともまた違って、嫉妬などは伴わないものであった。子供と両親との間の感情とも違い、非難もなければ、憤慨もないものである。友情は型のなかで定義されるようなものではない。仕事上の協力者の関係は契約に基づくものである。結婚もその類であるが。両親は法律により義務が伴っている。子供についても然り。しかし、友情という関係は自由に成り立ち、自由に与えられ、自由に高められていく。
友人は決して御互いに誤魔化しをするようなものではないし、また、利益を求めるものでもない。御互いの成功を共に誇りとし、失敗したときには共に意気消沈するようなものである。友情は御互いが相手の世話をするものである。相手の面倒をみ、そして、御互いのことを心配し、気を配り、そして、いつでも、相手を助ける心構えができているものである。友情は、共に飢餓を味わい、共に寒さを感じ、そして、御互いのための死ぬことである。それは、到底、達成されるようなものではないが、しかし、その程度に応じて、友情関係は恍惚のものとなる。LewisとClarkにとって、友情はまさに恍惚の状態、そのものであったし、それが、彼らの大偉業達成の特異的な要因であったことに違いはない。