ホームページ 隠された歴史 Lewis & Clark Corps of Discovery

 

                

  

 

              Come Up Me

 

  いつの時代の川を冒険する者にとっても、ミズーリ川というのは、野獣のようで、長く、危険を潜めた、野生の美しい蛇のようなものである。それはあたかも生き物のようでもあり、その、丁度、北の平原の厳しい冬の寒さのなかでポプラの木がきしむような、あるいは、ポキンと折れたような音、さらには、破裂しているような響き、そして、その土手や川べりは針のように尖ったヒラウチワサボテンや無数のツツガムシを覆い隠している。その広大な草原と遠くの山々、そして、際限のないように思えるその長さは、川が曲がりくねるたびに我々の理解力をあたかもテストしているかのようだ。このあたりの気候は突然変わるし、照りつけるように太陽が出ているかと思えば、それが野球のボールほどもある雹を降らせたりする。かと思えば、驚くべき程荘厳な、牧歌的夕陽となったりする。それは、まさにEmily Dickinsonが、かって、「かなりわざとらしさが感じられる」と表現したほどのものである。その荒れ狂う流れは、木の幹や、倒木、さらには不運なバイソンやアンテロープの死骸などといった、源流近くで営まれるさまざまな過酷な情報を運んでいるのである。その仰天させるような瀑布や大きな滝、息を呑ませる様な山々の景色、そこにある猛烈な崖、あるいは見事に刻まれた入り組んだ絶壁の芸術は、絶え間なくかなりレベルの高い知性を響き渡らせているようだ。まさにミズーリ川は生き物なのである。

 「それは、まさに、私はお爺さんの精神をもったものであり、私は生き物なのですよと宣言しているのが川である」と、Lewis Clarkの冒険隊が200年前に辿ったものとほとんど同じルートでミズーリ川を最近ボートで遡上ったWilliam Least Heat-Moon が我々に告げている。Heart-Moonは、また、川はまるでそれがなにか偉大な霊を宿したものであるかのように、彼をからかい、脅し、そしてもてあそんでいるかのようだとも言っている。それが多くの障害を持ったものであるにも拘わらず、彼は「私は、一度として川が私を殺そうとしたとは思わなかった」と言った。Lewis Clarkにしたものの代わりに、川は彼を導き、招きよせたのである。「あなたは障害物やカミキリムシ、さらには、砂の浅瀬に立ち向かおうとしている。そして、なおもその川の裏切りにさえ挑戦しようとしているのだ」と。彼は、「しかし、あなたはまた、旅行者に“私のところにおいで”と手招きしているこの川に飛び込んで行こうとしているのだ」とも言っている。

 1804年の五月に、Meriwether Lewis William Clarkは、その声を聞いて、彼ら自身、冒険隊と呼んでいるおよそ50人の隊員とともにこの偉大なミズーリ川に入っていったのである。彼らは自分たちの大統領であるThomas Jeffersonのために旅を続けたのである。Lewisは秘書として彼のもとで働いていたのであるが、彼らこそ、国土を拡大することと、“これまでにない大切な家括”のように見てきた西の地域の多くの不思議な、そして、未知のものの目録を作ろうと懸命になって手に入れたばかりの、その土地の先駆者でもあった。彼らを川に引き出したものは、彼らの国の人をそこ根付かせようという漠然としたあまり明確でない意識であった。

 この本はLewis Clarkの冒険の記録映画をつくる途中で生まれたものである。その映画は、将来、公共のテレビジョンで放映されることになるであろうが、その注目に値するようなアメリカインディアンの膨大な伝記ものシリーズの一部でもある。そして、それらは、私の成人してからのほとんどすべての時を費やしてつくられたアメリカの歴史の映画の本体に順次追加されることになるはずである。これまでの仕事を振り返り、そして、これからの新しい出来事を予測すると、いたるところで私は同じフィルムを何度も何度も繰り返して製作していることが明白である。そしてそのどれもが一見やさしそうではあるが、その実、たいへん難しい質問を呈しているのである。「私たちはいったい誰なのだろう」。否、それはこういうべきかも知れない。「誰が、一体アメリカ人なのだろうか」。過去の歴史の研究は、我々がだれであるのか、そして私たちはどんな風になってきたのかということについてなにを教えてくれるのだろうか? それぞれの本映画(そして、著作物)は、この質問に対して新しい方法を追求するチャンスを提供してくれているし、またそれに対する完全な答えをしてくれているわけではないが、にもかかわらずその問題を継続的なテーマとしてますます意味の深いものにしてくれている。

 ドキュメンタリーの製作者(映画でも、また、本でもそうであるが)にとって、Lewis Clarkは特別な問題として存在している。アメリカの小学生で、この冒険者達が安全に帰還したということを知らない子供はいない。それだから、われわれは我々の物語が印象深いものになるように、そして、人をひきつけて離さない様に、物語のあらゆる転換点で見ている人や読んでいる人をその場面に引きとどめ、過去の出来事が何とか現実のものとして蘇ってくるように努力しなければならないのである。ミズーリ川の下流にいるテトン・スー族との緊張した出会い、ノース・ダコタの凍りつくような冬の初めての経験、Sacagaweaの息子の難しい誕生の時のLewis の苦悩、モンタナのWhite CliffGreat Fallを見たときの彼らの驚き、そしてロッキーを越えるときの夜を徹しての行軍、太平洋を始めてみたときの喜びの一瞬、帰り道でのBlackfeet Indiansとの死に物狂いの戦い、そして、ヒーローとしての歓喜に満ちた帰還、これらのどれもが、彼らが実行したものとして単に我々が知っているような方法では到底実現しなかったかもしれないということをよく理解しておかなければならない。

 これらのことは難しいけれども、南北戦争についての映像や本がそうしたように大量の写真の資料があれば決してできないことではない。が、しかし、Lewis Clarkの物語は写真の技術が出現するずっと前のことであり、あるものと言えば、当時の適当な当世風の絵がほんの一握り程度存在するだけである。そのような状況であるので、我々は映画の作成においてもまた本の著作においても非常に重要な空想的許可をとるように強いられた。他の冒険者たちが後の探検の時に描いたような絵と同じように、Lewes Clarkに遭遇してから数年経ってとられたインディアン部族の写真がいたるところで使われている。それらのいずれもが、信頼に溢れた過去の再構築に厳しく自分たちの偏見を無理強いするようなことをしなくても冒険隊が経験したような感覚を与えてくれている。聡明なる読者や観賞者は、疑いもなくちょっとした不合理があるということに気がつくであろう。

 われわれにとって幸運であったのは、われわれがこの冒険隊が活気にみちスリリングな、目で確認をすることができるような資質を持ち続けていたということを記したジャーナルを見つけたことである。まさしく、それらの書物をPhiladelphiaAmerican Philosophical Societyの保護のもとに我々の手元におくことができ、そこから、様々なもの疑問が何であるかを想像することができたのはまことに素晴らしい贈り物であった。信じられないくらい取り付きやすく手書きをしたものの中に彼らの身を切るような、実に英雄的な、白人にはそれまで見たこともないような自然の驚異、急いで走り書きしたような地図、彼らが書いた、単純ではあるけれども、それでいて正確な小鳥たちや魚、さらには、原住民を描いたものがある。「私の友達」とか「Hungery Creek.」とか、「目で確認することができるようなうっとりとさせるもの」、「Oh! The joy」、「トラブルだらけ」、あるいはまた、「われわれは前進しつづける」などといった単純な言葉や、文章を拾いながらわれわれのレンズを拡大し、ほとんど顕微鏡でみるように彼らがのこした風景の書かれた画を調べていく。

 そうではあるが、映画の製作者とおなじように、我々は貴重なジャーナルや「借りてきた」写真とか絵がその探検隊が苦労をしながらも生き生きとミズーリ川を遡っていったその感覚を正確には伝えていないということに気がついた。我々がしなければならないことは、この冒険隊の足跡をもう一度辿ることであり、彼らが見た時代のものと同じものをこの現代の映画のなかで生き生きと見せることである。そのために、三年間の間、われわれはその川の土手に滞在して、泥の中を這いずり回り、90(  華氏 )という温度のなかで辛抱し、そしてこれまでの記録映画を撮ってきた二十年間で経験したことのないような物理的な試練をも経験してきた。我々は、あらゆる季節のなかで、昼となく夜となくいかなる時でも映画を作り続けてきたし、また、考えうる可能な限りのよい状況から、眺め、努力をし、意識的にできるだけ冒険隊に近い現実性を表現するようにしてきた。

 われわれにとってとても残念であったのは、Lewis Clarkが見た多くのものをもはや我々は見ることができないということである。社会の進歩というものが、この畏敬の念に溢れる冒険者たちの、川の曲がり角のいたるところで偶然にも出くわした自然の崇高な働きを一生懸命表現しようとした言葉を理解しようとする純真な心をなくさせてしまい、あるいは、抑制し、さらには、あいまいな分かりにくいものにしてしまった。我々はミズーリ川のグレートフォールの澄んだ景観をさえぎっている水力発電のダムを迂回しなければならなかった。びっくりしたのは、注意深く構図を決めて撮影したにもかかわらず、映像のなかに時々送電線やら、壁、あるいは、後々になってManifest Destinyに入植してきた人が作ったような廃墟のあとが写っていたことである。時には、ハイウェイが映像の中に出てきたこともある。我々自身の会社がこの平原に放り出した埃だらけの汚い車の跡、陸軍の兵士、彼はLewis Clarkが合衆国のために領土であることを明確にしたその土地に転々と築かれた数百発のミサイル基地に勤める軍人であったが、その彼の不吉な黒塗りの車も時々写っていたのである。探検隊が遠く地平線までにも続いているバッファローの群れを見つけた場所では、われわれはただ、彼らの放牧場で札をつけられ、気持ちよさそうにモーとうなっているほんのわずかの牛の群れを見ただけである。

 しかし、どうしたものか、われわれがミズーリ川のそばを歩いているとき( そして、あとでその姉妹川であるコロンビア川にそって )、そのお爺さんの気持ちが川にそってわれわれを導いてくれたし、また、これから決して忘れることのないであろう素晴らしい景観と経験、そして、その感動を思い起こさせてくれた。われわれは、モンタナにあるGates of the  Mountainの脇の険しい崖をヤギが子供をつれて、彼らを暗い雨と靄が渦を巻いて上に下にぐるぐる回っている中を上っていくのを見た。われわれはコロンビア川の河口で立ち入り禁止となっているcrab-boatのなかでスコールを難なくやり過ごすことができたが、その時に、冒険隊が使った出入り口の狭いカヌーでどうやってこの気ままな危険な川を下り、横切って言ったのか不思議に思った。またわれわれはGreat FallsではMeriwether Lewisと全く同じようにまことに壮大な虹を見ることができ、暫し立ち止まって、ルイスのみならず、自分たちがその美しさを表現するのにどんなに無能なのかということを思い知らされた。われわれはそれを百回となく見ることができたし、それは、あたかも夕陽がしずむように―――大きく、広がりを持った劇的な現象が、夏では、夕方の十時を遥かに回ってもまだ続いているような、そんな光景を確かに見たのだ。我々は50マイルも離れたところに光り輝いているところを見ることができたし、White Cliffsの近くでは、丁度、頭上にそれが出現したので、雨でずぶぬれの状態になり思わずすくんでしまった。

 川のガイド、彼は我々が自分たちのことをそう考えているのと比べるとはねるかにJeffersonびいきであったが、その彼とともに土地の使い方や西部開拓の政策、そして、大きな政府について議論をした。われわれはStephen Ambroseのしわがれ声でまるでマシンガンの心地よい小刻みのごとく語る、そしてLewis Clarkがこの世に生き返ったかのように語るその物語に夢中になっていた。われわれはサウス・ダコタのLower brile Sioux居留地で、もう落ち目になってほとんど人影のないカジノ、そこでは後になってバッファローを食べたが、そのカジノからすこし道をくだったミズーリ川のほとりの本物のテント小屋の集落をさっと通り抜けたつもりだったが、それでもそこで2日間を費やした。Hidatsa Indianの、Little Bighorn Battlefield National Monumentの管理者でもあるGerard Baker氏と話をし、この冒険隊の「発見」を違った観点、明らかにほろ苦い見方からであるが、それを理解することができた。

 Kansas City あるいは Bismarck、そして HelenaStevensonWashington、さらには、GeraldineMontanaMonowi, Nebraskaといったどこの行程でもお爺さんの精神、それは、ミズーリ川そのものであったし、また、いまもそうであるが、その精神が我々を呼んでいたのである。そして直ぐに、我々の映画や本の中の本当の「スター」というものは、とにかく注目を引く探検隊や彼らの勇敢なクルーとはちょっと違い、それらの対象となった 壮大な大地そのものであり、その将来性であると言うことが明白になった。そして、ミズーリが、偉大なる道へのハイウェイのように、冒険隊と現代のわれわれを夢の実現に向けて導いてくれるのである。

 Lewis Clarkは最初に、1984年の秋のことであるが、歴史的なレーダースクリーンに現われる映像以上のものとなって映し出された。それは、いうなれば、追い求めたものの、なかなか難しい高等な学校での歴史もののように。「American Heritage」マガジンという本がその30周年記念としてお祝いをしていた時で、700名にもおよぶ名立たる歴史学者に対して、アメリカの歴史のなかでもっとも自分が、ことわざでおなじみの「壁に止まったハエ」のようにその出来事の証言者として目撃したい出来事は何なのかを尋ねる質問状をだした。

 そのマガジンの編集長であるByron Dobellは、私の友達でもあり、そしてある日、ともにした昼食のときに彼は論文の発行を企画しているといい、どの出来事がもっとも反響を呼ぶものと考えているかと私に尋ねた。そして、私は即座に南北戦争だ、我々の国の歴史のなかでもっとも精神的にショッキングな忘れられない出来事はこれしかないし、それは、私の映画の対象でもあると応えた。否。なら、1776年のフィラデルフィアでの出来事か?

否。第二次世界大戦? 否。世界大恐慌? 否。月への人類始めての着陸? 否、月に人間が到達することよりももっと重要なことがあるよとDobellは言った。私は観念した。答えはLewis Clarkであった。多くの歴史学者が彼らに進軍命令を下したジェファーソンと同じようにこの2人と共にしたいと考えており、また、ある人たちは彼らが1804年にSt. Louisからミシシッピー川を横切り彼らのベースキャンプから出発したその日を彼らとともに暮らしたいと考えているという。他の人たちは大分水嶺を跨いで越したいと思っているし、Lewis の立場になって、その前に立ちはだかっている困難な行程を再現して確認したいと思っている。ある人は、彼らと共に太平洋を見ることを望み、また、ある人は冒険隊の発見により目を覚まされたミズーリを西に向かって遡る新しい入植者たちの最初のブームを引き起こした彼らの帰還と同行したいと考えているとも言った。私は強い衝撃を受けた。そして、私はもっと知らなければならないと思った。

 それから二・三年ほどして私は、Dayton Duncanという、彼は丁度「Out West」という冒険隊の足跡を見直すというちょっと風変わりな本を出したばかりであったが、人物に会った。それは、華麗に書かれた、そして普通とはすこし違った形で展開して行く、まさしく最高傑作のものであった。それは、Lewis Clarkがした経験と著作者であるDuncan自身がユーモアと深い理解とを持ってした旅の経験とが複雑に絡み合う見事なものである。

そして、その本を読み終えたとき私はDayton Duncan以上の彼の田舎を愛しているものはいないと思った。それは、また、私がLewis Clarkについて映画を作りたいということが鮮明になったことでもあった。

 私にとってたいへん幸運であったのは、Dayton が親しい友達になってくれたことである。そして、ついには私が20年近くも住んでいたNew Hampshireの小さな田舎町に彼の家族と共に移ってきてくれたことである。ここで私たちは大冒険隊について、共に映画を作る計画を立てた。それは疑いもなく、それまで私がした経験の中でもっとも満足すべき共同作業の一つとなっていった。2人の完全に性格のことなる冒険者たちと同じように、言葉の持つもっとも適した感覚を御互いが補完しあうような形で、我々は御互いに違った技能を持っていたし、また、そのプロジェクトに対して違った感覚を持っていた。Lewis Clarkがそうであったように、我々もまた、仕事をする時には友情という強い絆で結ばれていたし、私は彼を完全に信頼していた。

 この素晴らしい本は、我々が映画を作るなかで、ほとんどがDaytonの冒険隊に関するこれまでの仕事の中から出来上がったものである。ここには,一度、Lewis Clarkの冒険旅行について貴方が肌で感じたら手放せない何かがある。それは、偉業と悲劇、失ったものと計り知れないほどの収穫、発展とその対価というような痛みを伴う組み合わせである。われわれの民主主義的な理想についての将来性であり、我々の国がどのようなものであるかという、その奥にある未開の大自然のなかでの試練を与えるものであり。友情というものについての何か、信頼ということについての何か、そして、愛というものについてのなにかがそこにある。同じ時期にあるすべての始まりと終わりについてのなにかがある、Lewis Clarkは貴方の肌のしたにいるのである。Dayton Duncan はそれを取り払うことはできない。私もそれを感じたのである。それは明らかに、只単に新しい道の場所を経験してみたいというだけものではなく、持続的な知恵と我々が強く答えを求めている宗教的な領域についての疑問から発したような趣旨のものに対する旅への牽引的な役割をするものである。ミズーリ川とその流域を旅していると、幽霊や言葉ではいい表しがたい過去からわきあがってきた響きが貴方を包み混んでしまう。それはその川が、近くに来た者が誰であろうとすべての人に対して、「私のところにおいで、私のところにおいで」と言いながら、手招きをしているのである。

 

                     

 

1995年の夏のある晩のことであるが、私のカメラマン助手であるRoger Haydockと私はモンタナにあるBig Sandyの小さな町から、Judith River ( William Clarkが後になって結婚した相手の女性にちなんで付けられた名前であるが)の河口のMissouri川に掛かる橋306Bにどうやってたどり着くか、われわれのChevy Suburbanに沿ってレースをしていた。そして、夕陽がしずむ前に、その大きな川の南側にある見晴らしのよい崖に付けるかどうか、Big Sandyからの深いわだちのあるぬかるんだ道を70マイル以上のスピードを出して必死に走っていたのである。そこから、われわれはDayton、ならびに、そのほかの同僚と会う約束をしていたモンタナのWinifredに向かったのである。

 Big Sandyの町は、Rhode Island よりも広さが3倍もあり、合衆国の中でも小麦と大麦の生産がもっとも多いChouteau 郡にある。が、人口は、全体で5,452人程度だし、Big Sandyには850人しか住んでいない。そのBig Sandy,Judith Landing bridgeからは45マイルのところにある。また、そこからWinifredまでは別の方角になるが25マイルほどであるが、そこに至るにはほとんど泥道を走らなくてはならない。このモンタナのWinifredという町も素敵な町で、ここも小麦の町ではあるが、Missouriの南側の風が吹きさらしの高原に住んでいるひとは175人足らずである。

  1時間に70マイルのスピードで走っても、70マイルとちょっとのこの二つの町の距離はとても離れているように思えるし、また、退屈で、とてつもない距離のような気がする。どんな人がそこには住んでいるのだろうか?Lewis Clarkはこのまがりくねった川の流れに立ち向かって、そして、時には、一日にほんのわずかしか進むことができなかったのだが、どんな風にして克服していったのだろうか?。空の大きさと静寂が無限な感じがするし、また、それがトラブルの元となっている。Roger と私は、車のスピードを上げた時、われわれは、道からかなり高いところの荒れた丘の上にただ一軒だけ孤立した小さな家があることに気付いた。キチンと整理されたその家の周りには何本かの木が植えられており、これは、冬にカナダから吹き降ろしてくる猛烈な嵐をさえぎり、そして、夏には、うだるような太陽から守るために木陰をつくり、できるだけその孤独感を和らげるためのものであると自分たちなりに納得したのだった。

 家々に電灯がともり始まると、われわれは、10マイルも離れたところからそれを確認することができた。そこに生活している人がいるという証拠だ。そこに生活しているということか我々と同じように重要であるということをわれわれは知っている。しかし、彼らはどんな生活を営んでいるのだろうか。ひとびとは隔離という残酷なものからどのように蘇ってきたのだろうか。私たちは猛烈なスピードで走っているときは、われわれには事故の恐怖のようなものさえあったのだ。それは、われわれは1時間以内に自分たちの同僚と会い、一緒に食事をし、快適なモーテルで睡眠をとることができるということがわかっていたのにも拘わらず、広い荒野に置かれた一種の恐怖のようなものである。昼の光が弱まってくると、我々は道を迷いそうであることに気がついた。雲は近づくにつれて長くなり、なにか、そこには、かなりわざとらしいといえるような何かが仕組まれているようであった。そして、青-灰色のくすんだ夕闇が我々を包んだ。私は、車のアクセルを踏みながら、Rogerと話始めた。

  我々はLewis Clarkについて話をした。彼らに対して、そして、この厳しい自然の景色を通して簡単に得られるものに強く心から賞賛していた。この星の下に横たわっているものについて彼らはどんな思いを寄せたのであろうか。Rogerは不思議に思っていた。彼らの明日は一体どんな風になるのか。私の疑問は、映画を作る人がそうであるように、いつも一体、我々は何者なのだろうか、ということであった。ただ、その質問はここのように、距離という過酷なものによって支配されているようなところでは、全くというわけではないが、その見方はなぜか異常に割り切った、見せ掛けの質問のように思われる。ちらちらと光っている農家の家の光と一緒になって、地平線あたりの暗闇で完全に見分けがつかないような感じでごくわずかの星が雲の間で輝いていた。

 政治的な自由に関する誇り高い宣言のために、アメリカは、と私は突然Rogerに話かけた。すべてのものと同じように精神的な追求や、魂の蘇りについての意味を持っている。そして、矛盾しているように思われるかもしれないが、この畏敬な程の静けさに囲まれて物理的な存在というものは全く消滅しているようなここでは、魂の蘇りという質問はもっとも大きな響きをもっていて、それは、シェーカー教徒の人々やモルモン教徒の人々にはまぎれもないことであり、彼らは、開拓精神ということではまさに成功者なのである、と彼に言った。それは、この質問をさらに前に進めてくれるようなこの厳しい大地については一体なんなのであろうか。何百世代という長い年月をここで生活してきた先住民の人にとって、Lewis にとって、 Clarkにとって、そして、彼らに続いてここにきた人にとって、さらには、我々にとってそれはなんなのであろうか。何かがわれわれすべてを呼び続けているのである。

  頭上に広がる広大な夜空にそれはたくさんの星と惑星が耀いており、その光で暗い川の谷のJudith Landingのあたりの橋が見下ろせるようになった時、Rogerと私は再び沈黙していた。それから、私の心のなかには実際、正直にいって、これまでにも感じたことのあるようなはっきりとした不思議な思いが湧きあがってきた。暫くたってから、私は、なぜJeffersonがこの大地を必要としたのか、なぜ、冒険隊はそれほどまでに問題意識と目標とをもって、過酷なまでに厳しい状況のなかで、ミズーリのサイレンのような響きに導かれて進んでいったのだろうか、そして、人々はここに住もうとしなければならなかったのか、一体、私はここでなにをしようとしているのだろうかということが分かった。その瞬間、私のこれまでに持っていた疑問の内容が変わったのだ。それは、私の仕事のよりどころであった「私たちは一体、何者なのだろうか?」という疑問ではなくて、「私は一体、何者なんだろう?」ということが問題となった。そしてその疑問は、さらに、谷を照らし、夜空に広がっていき、ほとんど静寂の流れに乗って、その峡谷と大地の割れ目に響きわたり、その先に広がる果てしない草原に広がっていったのだ。それは、また、誰でもが持っている疑問とも融和して、そして我々の車のほうに静かに再び忍び込んで、我々の回りに何事もなく存在していたのだ。我々の上に広がるLewis Clarkが見た大空とともに、我々は墨のように薄汚れたMissouriの川を横切り、ひどく荒れた道沿いにWinifredへと向かった。

 

                    

 その大地の大きさには重大な疑問がある。と、Henry Adamsは、Lewis Clarkが彼らの祝福された旅を完結した二・三年後に書いたことがある。一つの政府が、そこの全体を統治できるものであるかどうかという問題を提起した。それは、Adamsの彼自身の国というものについての造詣の深い懸念を完璧に表現したものであった。つまり、かれは、その当時、さまざまな考えというものがそのうちに市民戦争に繋がるような狭い地域でおこる仲たがいが増長されているということ、そして、そこには、平等というアメリカの理想をなじるような争いの結末が横たわっているということを、誰にでもはっきりと分かるような途方もない偽善であるということを誇張しながら心配しているのである。しかし、もっと端的にいうならば、かれは、我々がもう始めてしまったなにか、つまり、国がこれまで推し進めてきた植民地の拡大というものがわれわれの統治の能力以上のところにきており、それがまた、巣立ちをしたばかりの若い国家の前途と可能性を損ねているという、アメリカの恐れを徹底的に告白したのだった。要は、Adamsは、われわれがやろうとしていることはすこし大きすぎるのではないかと、疑問を投げかけたのである。

  そして、事実、南北戦争が勃発したし、アメリカ社会の中心にある誤りの判断基準のところにも依然として争いが残っていくのであろう。この大陸は、瞬く間に飼いならされてしまったのである、――― つまり、統治されてしまったのである。―――、まさに、ほんのわずか、二・三世代の間に、である。国家という意味と統一ということの疑問がAdamsの激しい苦悩の言葉のなかに自ずと潜んでいるが、アメリカというものの独自の定義を見出すこと、そして、われわれの広大で美しい大地がある種の自己定義と国家の持つ目的についての意識を与えてくれるであろうという認識がずっと持ち続けられてきたし、それが育ってきたのである。われわれはすでに、人間の歴史のなかに存在する経験の向こうにある、と言ってThomas Jeffersonが冒険隊への助言として贈った、当惑と成功というものに出発したのだった。ともかくも、緊張と対話と、外面的な自然の景色と何面的なわれわれの思考上の景色との調和がわれわれ、国家の発展の推進役である者の心の中に存在し続けているのである。

 アメリカはゼロの大陸であると、哲学者のJacob Needlemanが言っている。われわれはゼロから出発した。我々は無からの出発をしたのだ。われわれが出発したのは我々自身の理由からであり、我々自身の憧れからであり、探求から出発したのである。この記録映画のプロジェクトとその解説書への挑戦は、ある意味では、この異常な社会の神秘的な何面の働きと、自分たち自身をアメリカ人と呼ぶことが好きな、不思議な、かつ、複雑な人々について探求ということでもあった。こうして、われわれは、まさに自分で体験するということ、そのものが必要であること、そして、発見とはすでに知られていることを見出だすことではなく、発見そのものがなんであるかということを見出すことであるということを理解した。発見の冒険隊は彼ら自信以外の何者をも発見しているわけではない。そうしているなかで、彼らは我々を見出したのである。

 

                 Ken Burns

                                    Walpole , New Hampshire

 

 

 

 

 

          

   私は、今、私がどこにいるのか、そして、いまどこに行こうとしているのかをお知らせする機会を得たことに非常に感謝しています。心から、神に感謝し、そして、充実した気持ちでおります。私はいま、合衆国の大統領の指示をうけたキャプテンLewis キャプテンClarkとともに、北アメリカ大陸の中央部を通り、西部地域の探検を続けています。Missouri川を進路が確認できる限りはボートで遡り、陸路を辿り、もし、さえぎるものさえなければ西海岸まで行くつもりでおります。・・・・

  私たちは、すでに出発してから18ヶ月、もしくは、二年が過ぎているのではと思っています。帰還した時には、この冒険に対して多大の見返りを頂けるはずです。私自身は、月に15ドルの報酬と、少なくとも400エーカーの一等地を頂けることになっており、そして、もし我々が偉大なる大発見をした時には、そうなると私は予測していますが、その時には、合衆国はさらに我々を偉大なる報償の対象者として取り扱うことを約束しております・・・・。生存しているかどうかご心配でしょうから、私が、現金で200jをKaskaskiasに残してきたことをお知らせします。・・・そして、もし、私が生きて帰れなかったようにことになった場合には、私の相続人はそれらと合衆国・・・政府が私に対して支払うべきすべての対価を受け取ることができるようになっています。

 もし、機会があれば、この次の冬にもう一度手紙を書きます

      

                      John Ordway軍曹

     

 

 

 

             はじめに

 

     

   1804年の春のある日の午後に、ゆっくりとおもそうに動くキールボートと二つの大きなカヌーに乗って、およそ50人の男たちがMississippi川を横切り、Missouri川の大きな泥水の流れに挑んでその中に入っていった。

 彼らは、合衆国でも、未開の地への最初の公式な冒険隊として、そして、この若い国家の将来を垣間見る、アメリカの歴史の中でももっとも重要といわれる冒険に出発したのであった。

 彼らは、偉大なる大地、その大空の計り知れない広さと、自然の豊かな広がり、そして、そこの冬の過酷なまでに厳しさを体験した合衆国の最初の市民となったのである。

 また、人の気力をくじくようなRocky の山々の頂きを見て、それを苦難の末、乗り越え、そこからは川の水が西に流れるという大陸の大分水嶺を越えた最初のアメリカ人なのである。

 そして、――寒さと、飢えと、危険と、信仰の向こうにあるさ迷いを克服した後、――陸路で太平洋に到達したわが国の最初の人たちとなったのである。

 それは、その時代の人々にとって最も偉大な冒険となったのである。

 

  もっとも信頼の置ける説明が我々になされた。それは、我々が、野蛮で、体が大きく、獰猛で、裏切りと不誠実に満ちた、そして、冷酷無比であるうえに白人に対して敵意を持っているような、強力で争い好きの多くの部族が居住している地域を通り抜けなければならないということであった。

                        Patrick Gass 軍曹

 

 彼らはその時代ではもっとも進んだ武器を携えていったが、しかし、彼らが最も必要としたときには、おんなたちが彼らの仲間として活躍し、いつも、彼らはその不思議な人たちの親切によって救われるのである。

 彼らは、そこの土地に数百世代もの間住んでいた人々に、西部はいまや、別の人によって統治されているところであると話したが、其れでも、人々は軍隊に対するものとは違って友好的に会ったし、怒りのために鉄砲を使ったのはたったの一度きりであった。

 彼らは、2人の指導者に導かれていた。独立したばかりの祝福すべき新しい国家の代表者でもこの2人は全く異なる性格であったが、その代わりに御互いの協力とチームワークを信頼していた。

 彼らは彼ら自身のことを大発見の冒険隊と呼んでいたが、しかし、まだ、彼らが発見すべきものとして与えられているもののほとんどは見出せずにいた。彼らの実の発見は大陸そのものであり、――そして、その約束は依然として残っている。

  それは、西部という、丘のずっと向こうの夕陽が沈むところよりももっと遠いところの合衆国、アメリカの将来の国に関する最初の報告だったのである。こんなに素晴らしく、大きな影響を与えるところは、これまでに存在したことがない・・・それは願望を満足させ、そしてまた新しい願望を生み出す。それは西の国へという願望である。

                          Bernard DeVoto