ホームページ 隠された歴史 Lewis & Clark Corps of Discovery
第12章
政治的な考察、Walpole,
New Hampshire
我々が、皆様、市民一同に対し、キャプテンLewisと、彼と行動を共にした探検隊の一同が、St.
Louis に帰還したことを報告できることは、この上ない喜びである。
アメリカの大統領は彼から手紙を受け取った…その手紙のなかで、キャプテ
ンLewisは、彼の同僚であるキャプテンClarkについて、心から愛情のこもっ
た言葉を使い、この完遂の大成功に対して賛美されるどんな賞賛に対しても、
Lewisと対等のものを得る資格があることをとくとくと陳述した。
の発見のための冒険隊がSt.
Louisに戻ってきた日に、このことを公式に伝えるニュースが国中を駆け巡った。Philadelphiaに正式に届いた手紙には、興奮気味に太平洋岸の冬は非常に温暖であり、“知識人である隊員の1人は、コロナビアには、合衆国の他の地域と同様、沢山のインディアンは居住していると話している”と伝えた。他の新聞はロッキー山脈の西側のことについて、“そこには、たった三百頭の馬も居ないほどの実に貧困な生活をしているインディアンが居るようだ”というニュースを流した。そして、コネチカットの新聞は、この調査隊がSt.
Louisに持ち帰った80ポンドもある羊の角に驚きの言葉で、
“なんと不思議な。ロッキーの山々の羊は角のある蹄鉄を打っている。それも、中空の。”という見出しで報じた。
私は、いま、Albemarleに居る私の友人の声を、是非、聞きたいという心境です。とりわけ、私の母がまだ健在であるのかどうかを知りたいと思います。私は、何時でも、あなたの命令に忠実であり、そして、限りなく慎ましい僕であります。
Meriwether
Lewis
Lewisは直ぐに長し手紙をジェファーソンに送った。そのなかで、かれは、自分のパートナーを賞賛し、( 彼は意識してことあるごとに“キャプテンWilliam
Clark”と呼んだ) かれにこの探検隊の成功の栄誉を等しく与えるように訴え、そして、“十年か十二年もすれば、政府の助力で、この大陸を横断する旅が、今日、大西洋を航海しているのと同じようにたいした気兼ねをすることもなしに、個々の市民によって実施されるようになるだろう”と予測した。
悪いニュースも新聞の紙面を埋めていた。伝説的な北西部の経路は、誰もがこの大陸の分水嶺を越えて行くには半日程度の行程と考えていたが、実は、この陸路は340マイルもあるほどの長いものであることが分かった。そして、そのうちの140マイル程度は、“延々と繋がる山越えであり、しかも、そのなかの60マイルは、万年雪に覆われているのだ。”さらに、Lewisは続けざまに、この輸送には沢山の馬が必要であったが、大した金額ではなく、また、毛皮の90パーセントがこの膨大な広さの新しい領土からもたらされるものであり、“この地は、アメリカの最も価値有る毛皮の産出地である”と言うことを付け加えた。
Lewisの説明のほとんどは毛皮に関する“かなり儲かる取引”の可能性に関するものであった。彼は、この西部地域を流れる川は、“ビーバーと、いわゆるカワウソがこの大地のありとあらゆる川よりも沢山生息している”と公に宣言した。
ワシントン殿、 私の親愛なる閣下殿、私はいま、あなたの手紙を言い尽くし難いほどの喜びを持って受け取りました。…あなたが、これまで、是非とも見たいといい、そして、長い間、あなたのお耳に達することの無かった知らせが、今、身近に感じられるようになりました。…私は、あなたに、最愛の情を持って敬意を表します。
Thomas
Jefferson
彼らは彼らが探検するために送り込まれた領域と同じように、事実上何も分からない西部に残された。
彼らは野生の馬のように帰ってきたのだ。彼らが、東部に向かって旅をしている時に、キャプテンはSt.Louisのお祭り館で盛大な賞賛を受けた。インディアンで、ケンタッキーで、バージニアで、そして、最後に、ワシントンD.C.でも。1人の上院議員は、
彼らはあたかも月からの帰還者であるかのごとく褒め称えた。議会は、隊員達に対して約束の二倍の金と、320エーカーの土地を彼らへの報償として授与した;LewisとClarkは、それぞれ1,600エーカーの土地を手に入れた。彼らの偉業を称える詩が作られた。Lewisの銅像が作られ、これが独立記念会館に飾られた。
こうして実に、彼が大陸のもっとも遠いところに到達点であるClatsop砦で新年の日誌を寂しく書き始めた時から一年経ち、かれは再び、数年前に太平洋へと到達する発見のための冒険隊の夢を共に見た、あのホワイトハウスの同じ部屋に、彼の支援者であり、精神的な支柱でもあるトーマス・ジェファーソンと同席していた。このときどんな言葉が話されたかは知られていないが、しかし、ジェファーソンは後にこう語っていた。彼は、Lewisの描いた地図を床に広げ、“懸命に、この地図を自分で検証した”と。“彼が長い間信じて、興味を抱いていた北西の経路に住んでいる伝説の人が死んだといわれる場所 ――残念ながら、そこが明確にされだ。しかし、事実を明らかにするもとりの者として、ジェファーソンはいつも、伝説よりも事実のほうを好んだ。
地理学や、科学、インディアンの習慣、経済上の取引、そして、彼の若い国の将来の発展性などについて興味は尽きなかったが、と同時に、ジェファーソンは彼の被保護者達の面倒をみることに翻弄されていた。ジェファーソンは、この国の残りの地域もまた同じような問題を抱えているということを理解していたので、彼は、Lewisと同様、一刻も早く、この探検隊の公式な報告書を発行に取り掛かりたかった ――この世界を科学的に十分理解するために。
このようなことはこれまでにいろいろと実施されてきてはいるが、これほど合衆国を喜びで興奮させたものはいまだかってあったでしょうか。国民の皆様の熱心な気持ちがこの探検の実現に積極的な信念を持ち続けてくれさせたのです。そして、私は、大成功の情報をいつもやきもきして待っていました。
Thomas
Jefferson
それから、二三年の間にこの発見のための冒険隊の隊員たちは、それぞれの思うところに散っていった。比較的若い年で死んでしまったかと思われる以外は、彼らのほとんどのものについてあまりよく知られていない。
John
Ordwayは、New
Hampshireにいる両親に会いに行き、そして結婚をしてMissouriに移り、そこで政府から報償として授与された土地で農場を経営した。彼はそこで、1817年に死んだ。
Joseph
Whitehouseは1807年に悪い嫌疑をかけられ逮捕されたが、1812年の戦争のときに兵隊に志願した。しかし、それ以後は、世間から見限られ、辺鄙な土地を放浪していた。
この探検隊がもたらした、西部には膨大な量のビーバーや野生の動物が生息しているというニュースが、毛皮の取引の大ブームを起こす引き金となり、John
Colterに続いて、幾つかの探検隊が山の猟師となるために西に向かって行った。しかしながら、彼らの中の少なくとも三人がBlackfeetインディアンによって殺されたが、このなかに、Lewisと共に最初にその部族と戦ったGeorge
Drouillardも含まれていた。
Colter自信は、このBlackfeetの襲撃からかろうじて逃げることができた――彼は、なんと数百マイルを逃げまくり、たった一人で、ほとんど裸同然の状態でアメリカ軍砦に救いを求めて飛び込んできた。彼の話では、彼は大地から蒸気が立ち上り、表面の穴からは沸騰した泥水が噴出している地域に入り込んだとのことであった。それを聞いた人々は、その話を信じようとはせず、それは、“Colterの地獄”だと呼んだ。しかし、それは多分、後に世界で初めての国立公園に指定された場所 ――Yellowstone
であったのだろう。
若いGeorge
Shannonは、彼は探検隊から離れて生活する才覚を持っていたのが、それとも、自分達の足跡を忘れてしまったのか、法律学校に入り、Kentuckyの議員となり、やがて合衆国の上院議員となり、Missouri州で合衆国弁護士となった。
Alexander
Willardは、探検を続けるなかで歩哨の役目の時に居眠りをし、死刑の代わり鞭打ち百の刑に処せられたものであるが、Saukや,
Fox, Delaware、そして、
Shawneeなどのインディアンのためにいろいろな仲介人のところで、政府側の口利きやとなった。結婚して、十二人の子供とともに1852年には、家族全員をつれて幌馬車で大陸を横断しカリフォルニアに向かった。そして、そこで金を発見したのだった。
Patrick
Gassは、1870年にほぼ90歳で亡くなったが、誰よりも長生きをした。彼は1812年の戦争の戦いの中で片目を失ったが、彼の探検隊での経験を本にして出版し、West
VirginiaのWellsburgに定住した。南北戦争が勃発したのは彼が90歳の時だったが、なんと、彼はその時、合衆国のために志願して戦った。
A
New Frontier
( 新しい開拓者精神 )
未知のものを探検する ――そして、多分、そこを統制するという国際的な競争に参画するというのは、勇気をもった計画で彼の国に挑戦した大統領の思考の産物であった。ある意味においては、それは、科学の進歩のために必要なものとして引き出されたものであり、また、別の見方からすれば、議会がその商業的に生み出される副次的な利益に一層の興味を持っていたからである。それは、国家が主導している科学というものの専門的な知識に頼っていたし、結局は、依然として、彼らの生活を既存のラインの上においている探検隊の隊員を助ける軍事的な支援に頼っていたのである。隊員達はヒーローとしての喝采を浴びたが、しかし、彼らの何人かは、自分達の大目標が達成されたあとは、もっと世俗的と思われるような仕事に自分を合わせることが困難であった。最初の予算を大きく上回ってさえいたのである。
国家レベルの最初の調査隊であるLewisとClarkの探検隊の多くの要素は、絶えず心に浮かぶのであるが、ほとんど入れ替えができるくらい、1960年代の月への合衆国のレースとよく似ている。確かに、違いが無いわけではないが、しかし、一世紀半の隔たりを越えて、なおかつそこに類似点が存在するのである。
発見のための冒険隊が送り届けたプレーリードッグやアンテロープの骨格は、決して月の石ではないが、しかし、それらは大衆の興味を多いに引いた。Lewisが持っていったHarpers
Ferryのライフルは宇宙服やつきの探索用のモジュールとみなすことはできないが、その当時においてはその類の道具としては抜群に優れたものであった。“携帯用の石鹸”が鉛の箱に詰められていたが、これは宇宙旅行のTangではないが、他に何も手段がないときに、滋養を与えるために使われたものである。大きなキールボートはサターンのブースターロケットではないけれども、ともに、“文化的”な世界の精通したところから未知の世界の端に彼らの貴重な荷物を運びあげた。ただ、ブースターは宇宙の果てに使い捨てられたが、探検隊はそれをつかってさらに前進した。
地理学者であり、歴史家でもあるJohn
Logan Allenの言うように、“多くの観点から、探検隊は月に行くようなものであったといえる。” ただ、
“顕著な例外はあるが、つまり、私は沢山の人がそれを忘れてしまっているかもしれないとおもうのだが、それは、Apollo
13号が困難に遭遇しているときには、絶えず地球とコンタクトしていたということである。かれらはヒューストンと会話をし、そして、問題をどのように解決すればよいの、絶えずアドバイスを受けることができた。一方、LewisとClarkは、全てを自分達の責任において処理しなければならなかったのである。”
これに、もし、さらに異なる点を付け加えるなら、それは、:大平原、そして、ロッキーの山々、さらに延々と連なる大陸の大分水嶺は、月よりもずっと身近な存在であるけれども、それが計画された時点ではその情報は圧倒的に少なかったのである。LewisとClarkに当時の科学はなんの準備もしてくれなかった。大平原の広さ、ロッキーの山の高さや広がり、などは何も分からなかった。その代わり、彼らには、想像上の毛皮に覆われたマンモスであるとか、ウェールズ語を話すインディアンとか、ミズーリからコロンビアまでは半日の行程などという話しがなされた。Neil
Armstrongが1969年に「静かの海」に宇宙船を着陸させる以前に、月の荒野の地形は完全に研究され尽くしており、写真が撮られていた。彼はチーズでできた月の上を歩くことを想定して、人類にとって最初の偉大なる飛躍をしたわけではない。
Thomas
Jeffersonが発見のための冒険隊を太平洋に送り出したとき、彼は、今に至るまでずっと、その地域を探索するという軌道に国家を乗せたのである。それは、LewisとClarkを19世紀のZebulon
Pike から、John
C. Fremontへ、そして、John
Wesley Powellへと、さらには、20世紀の宇宙飛行士へも同じように繋げている伝統の始まりであった。それは、MonticelloとMission
Controlとも繋げているのである。そして、それは、1806年に太平洋の見える高台にある木の幹に、バッヂとともに刻まれた名前と月の表面に残されてきた国旗とを融合しているのである。
LewisとClarkは最初の、という栄誉を得た:彼らはかれらが最後でないと分かってもがっかりはしないだろうし、 ――また、驚きもしないだろう。“私は、アメリカの自然がいかに生まれたか、そして、いかに育ってきたかが、開拓という考えのいい実証であると思う”と、有名な宇宙飛行士のJames
Lovellが語っている。“我々は、若い国家であり、育ち盛りであって、そして、この開拓者であるという考えが、今世紀、今ここに、我々の魂のなかに根づいたものと考えている。私は、我々はこれからもずっと開拓者であり続けるものと思う。”
12月10日 1808年。
私は、[
York ] について、何とかよく扱いができないかと願っていた。しかし、彼は、自由と彼の限りない奉仕について彼なりの考えをもっていたので、彼が再び、私に対してどれだけ尽くしてくれるのかを予測することができなかった。
William
Clark
Yorkにとっては、西部からの帰還は、また、奴隷の世界に戻ることを意味していた。彼はClarkに自由になりたいと申し出たか、もしくは、少なくとも、別の家に奴隷としてつかえていた彼の妻の居るLouisvilleの近くで新しい主人に仕えたいと頼んだ。当初、この申し出は、いずれも拒絶されたようであるが、しかし、Clarkは1809年に、彼を、“多分、彼はいかほどかの奉仕をしている間に奴隷頭になるだろうから、…、そして、彼の妻も奴隷を辞めるだろうから”という希望を託して、ケンタッキーに送りだした。
こうして、探検隊から帰ってから少なくとも十年は経っていたが、ClarkはYorkに自由を与えた。彼は、テネシーとケンタッキーで運送業をはじめ、そして、1832年の少し前にコレラで死んだと言われている。(
Yorkが、彼が自分達と同じ人間であると認めたインディアンと一緒に余生を送るためにロッキーの山に戻ったという話は、ほとんどの歴史家は信用していない。彼らは、そうした話はYorkが他のアフリカ系のアメリカ人であると勘違いをされたためであろうと考えている。)
我々は、Charbon[neau]というフランス人、そして、彼の妻、Snake族[Shoshone族]の女であるが、彼らと共に乗船した。この2人は、LewisとClarkとともに太平洋まで同行し、本当によく尽くした。女のほうは、とても創造的で、温和であり、また穏やかな気質は、彼女がしぐさや衣装を真似しようとしたが白人達とも非常に強い絆を築き上げていた。しかし、彼女は病気になり、自分の生まれ故郷に戻ることを熱望した。:彼女の夫もまた、文明社会での生活にへとへと、疲れていたので、インディアンの生活にもどり、彼らのなかで何年も過ごしたのだった。
Henry
M. Brackenridge, 1811
Toussaint
Charbonneauは、その後の彼の生涯を、政府の公式な通訳として、また、探検家であり、芸術家とて、ミズーリ川の上流に住むインディアン達ととに暮した。Sacagaweaも彼と共にそこに残って一緒に生活した。1809年に彼らはミズーリ川を下り、St.
Louisに旅をした。そこには、彼らの息子であるBaptisteを、教育のためにClarkに預けたしたのだが、再び、故郷に帰る前に彼に会いに行った。
1812年、Manuel砦、ここは、今のサウス・ダコタにある毛皮の取引所であるが、ここでSacagaweaが娘のLisetteを産んだ。しかし、冬に、Sacagaweaは体を壊し、発熱で死亡した。“彼女は”と、Clarkが彼女の死んだ晩に書いている。“砦のなかでは、素晴らしい、最高の女であった。”( 彼女に関しては、彼女はもっと長生きをして、1884年にワイオミングにあるWind
RiverのShoshone族の居留地で、百歳近くで死んだのではないかという伝説があるが、これもYorkの時と同じように、ほとんどの歴史家は、まともに受け止めていない。Clarkが1820年に探検隊のメンバーたちのその後の情勢を整理し、報告した中でも、彼女はすでに死亡したと報告されている。)
彼のした約束に忠実に、ClarkはSacagaweaの子供を引き取り、その保護を引き受けた。
Baptiste
Charbonneau、かれは、人生の最初の二年間は探検隊とともに暮したわけだが、決して落ち着いては居なかった。St.
Louisで教育をうけたあと、旅行中のドイツの皇太子と仲良くなり、五年間ヨーロッパに渡った。そして、いくつかの言語を勉強してきた。彼はアメリカに戻って、山で生活する猟師になり、メキシコとアメリカが戦争した時には、アメリカ軍のガイド、ならびに、カリフォルニアのSan
Luis Rey 使節団の行政官として活躍した。1866年、彼が61歳の時に、モンタナで金が産出したことを聞いて、ワゴン車でこれを目指したが、その旅の途中で肺炎のために命を落とした。
The
“Writingest Explores”
( 記録を書きまくった探検隊の隊員たち
)
それらは、大草原でのキャンプファイヤーの近くで繰り広げられ、そして記録にされた。それらはノース・ダコタで過酷な冬でも生き残り、そして、モンタナではボートの事故に出会った。それらはミズーリ川のGreat
Fallsを迂回して、荒々しく、そして、揺れに揺れて運搬車で運ばれた荷物、そして、Bitterrootの山々を鞍袋のなかで、あるいは、巨大なコロンビア川の急流を突き抜けて行った掘り込みのカヌーで運ばれたもののなかでもとりわけ重要なものであった。それらは、St.
Louisへ発見ための冒険隊の大成功の帰還とともに戻ってきた。そして、彼が亡くなった時には、Meriwether
Lewisと一緒であった。
アメリカの歴史のなかでは、LewisとClarkの探検隊の日誌のように詳しく残されているものはほとんどない。キャプテンたちと隊員達は、歴史家のDonald
Jacksonの言葉を借りれば、“その時代の最も記録を残した探検隊の隊員たちだったのである。彼らは絶えず、そして、大量に、あるときは船に揺られながら、また、あるときは陸に上がって、読み読めるものもあれば、また、識別し難いものもありが、いつも、目的意識をしっかりと持って記録していた。”その結果が日誌して残されており、それは、別の歴史家であるPaul
Russell Cutrightが、“アメリカの歴史のなかの賞賛に値するもののなかで…発見と探検の数多くの書物のなかの古典”と呼ぶほどのものなのである。
キャプテンたちの日誌のほとんどは、現在、フィラデルフィアにあるAmerican
Philosophical Societyで見ることができる。一方、Missouri
Historical Societyにも、Yale大学と同じように、ここにClarkの何冊かの日誌と原稿が保管されている。他の隊員達の日誌も、様々なことが書かれておりこれまた非常に重要なものであるが、これらは、Chicagoとか;VirginiaのCharlottesville;Louisville
;
Washingto,D.C. ;
WisconsinのMandan に保管されている。彼らの日誌は最終的に発行されて公になるには、大陸を横断しそして、帰還してきた彼らの最初の旅と同じように非常に時間が掛かり、かつ、難儀なものであった。
Patrick
Gass軍曹は、その探検隊の出来事について最初に解説した本を出した隊員である。1807年に発行された彼の発見のための冒険隊の船と旅の日誌は、説明のためにかなりの想像力豊かな挿絵が織り込まれた探検隊の物語で、何回となく版が重ねられた。しかし、最初の版はすでにどこかに失われてしまった。
彼は、1807年に地図と探検隊の三冊の解説書を公に案内書を発行した
( 一冊は、“純粋な科学の研究のために独占的に”献上するために
) けれども、Lewisは、本の発行については一言も言及せずに1809年に亡くなってしまった。Clarkは彼の事業を引き継ごうとしたようである。しかし、彼は、自分が正式な教育を受けていないということでかなり自意識過剰になっていたようだった。(
彼の日誌のなかでも彼は、“mosquito”の19種類ものスペルで書いているし、重要な手紙の原稿を自分に代わってLewisにたびたび頼んでいた。
) そのため、Clarkは解説文を編集する編集者となったり、Dr.
Benjamin Smith Bartonには、あきれ返るほどの植物学とか、動物学、そして、他の科学的な事項の取り扱いを依頼していた。しかし、そこにはかなりの錯乱と時間的な遅れがあった。そして、二つの出版社が倒産した。
キャプテンたちの日誌の二冊分冊の本が最終的には1814年に発刊される運びとなった。が、Bartonは自分が約束したことを少しも実行しなかったので、そのなかには、Clarkが書いた西部の基本地図が含まれてはいたが、科学的な内容についてはほとんどなかった。
探検隊の100年祭の時までではないが、LewisとClarkの完璧な日誌が1904年に最終的に発行された。Reuben
Gold Thwaitesによって編集されたものであるが、この本は何分冊化になっており、Charles
Floyd軍曹やJoseph
Whitehouse隊員、これは、Thwaitesが探しだしたものであるが、これらも含まれたものである。1916年までに、John
Ordway軍曹の日誌が発見され、刊行された。以来、偶然にも次々にLewisとClarkの所持品が見つかり、主として沢山の手紙と記録であるが、そして、知られている全ての日誌の追補版と地図が、ネブラスカ大学のDr.Gary
E. Moulton氏により、最近、刊行された。
しかし、ウェールズインディアンの話とか、あるいは、次の地平線の向こうにある北西部への経路の伝説のように、思わせぶりの展望が今なお、発見のための冒険隊について回っているのである:もっと他の日誌、誰かの隊員のうちの屋根裏のトランクのなかとか、あるいは、家族の手紙のコレクションのなかに埋もれてはいないのだろうか。全ての軍曹は日誌を記録するように指示をされていた。Gassの、Floydの、そして、Ordwayたちのものはあきらかにされているが、 Nathaniel Pryor軍曹のものはどこにあるのだろうか ? もっと興味をそそるものはRobert Frazer隊員のものだ。探検隊がSt. Louisに戻ってきてから一ヶ月以内に、Frazerは“Missouriの…Columbia 川の…内陸の地域についての…多くのインディアンの部族についての…そして、野菜や動物、さらには、新しく発見された鉱物資源などについて、”書かれた400ページにものぼる本を発行すると公表していた。この本は発行されることはなかったが、Frazerの日誌はいまだに発見されていないのである。
1809年にLewisに当てた手紙では、Thomas
Jeffersonがその日誌の発行に非常に熱心であったようだ。“私は、貴方のなした仕事が何時おおやけにされるのかと非常に楽しみにしている”と彼は書いた。“誰もが、それを待ち望んでいるのです。”探検隊が記録を付けることを厳命したJeffersonは、日誌の重要性を十分に理解していたのである ――人類の知識のさらなる前進のためと、実際にはなかなか見えない動機のために。多くのアメリカ人は、大陸を横断するというとても信じられないような、そして、その国の将来へと繋がる旅についてもっと学びたいと思っていた。それは、200年経った今も全く変わっていない。
我々の先祖が最初に[LewisとClark]を見守って以来、十回の冬の、その七倍もの回数の雪が降り、そして、融けたことになる。・・・我々は[
白人が
] 最初に訪れたときは幸せだった。最初は、彼は光の国から来たものと思ったが、しかし、彼は、いまや、朝の曙ではなく、夕張の暗闇のような感じである。かれは、過ぎた昼間のように、彼と共に我々の将来は闇に入ろうとしている…
…われわれは彼を拒んだかもしれないが、天国の酋長達は、彼に拒絶する印をつけて彼を焼き払っただろうか。否。我々は彼が弱かったので彼を拒みはしなかった。我々は、瀕死に窮していた彼に食物を与え、やさしく世話をしたではないか…そのとおり、彼に親切にしてあげた…[
しかし
] 彼は我々の骨で墓を埋めつくした。
・・・彼は、どれほど来るのだろうか? あなた方は、彼が生きている限りここに来て、そして、彼が残していった汚点を、何回も、何回も運びだすことを知っている。
Charlot,
Salish の酋長 1876年
西部に住むインディアン達にとって、LewisとClarkの探検隊が来てからの何世紀かは、彼らの歴史のなかでも最も大混乱をし、そして、忘れられないくらい大きな精神的衝撃の時代でもあった。
ShoshoneのCameahwaitは、全ての部族が友好的に平和で暮すようにとのキャプテンたちの呼びかけにもかかわらず、部族間の争いが何時までも続き、Hidatsasとの戦いのさなかに殺された。
Arikara族の酋長は、探検隊がワシントンのジェファーソン大統領に会うように送った男であるが、彼はそこで病気のためになくなった。この部族は、ミズーリ川を遡って来るアメリカに対して、暫くの間冷酷無常な敵として存在していた。
発見のための冒険隊に非常に親密であったClatsops族の海岸沿いの部落は、毛皮商人との誤解がもとで、砲撃を受けて、焼き尽くされてしまった。
1837年、アメリカ人の貿易商の船によって運ばれた――天然痘がMandansとHidatsas族の間に蔓延した。彼らは、Lakotas族の戦闘集団が近くでキャンプを張っているということで、そのために恐ろしくて平原の中に逃げ込んでいくことができなかった。彼らの十人中九人がこの病気で死んだ。さらに、上流では、Blackfeetが同じ病気で多数の死者を出した。
西部地域の全ての部族のなかでは、Lakotas族が最も長く、そして、激しくアメリカ軍と戦った。Black
Buffaloが、LewisとClarkと、そして、アメリカを呪って、大地に向け彼の銃を放ってから70年が経過していたが、彼らは、Little
BighornでGeorge
Armstrong Custer将軍率いるアメリカ合衆国の軍隊を全滅させるという、西部の歴史のなかで最大の勝利を勝ち得た。しかし、その後、そのLakotas族も制服されてしまった。
我々の国にきた、あなた方、白人のなかで最初の人はLewisとClarkと言う名前であった。彼らは、当時、我々がまだ見たこともないようないろいろなものを持って来てくれた。彼らは、我々と率直に話しをして、我々も、彼らの気持ちが優しいものであるという証拠として、彼らに最大のもてなしをした。隊員達は非常に親切であった。彼らは我々の酋長にプレゼントを提供し、また、われわれの部族のものも彼らにプレゼントをした。Nez
Perces族のみんながLewisやClarkと親しくなり、彼らが自分達の土地を通ることに同意し、これらの白人に戦いを仕掛けるようなことはしなかった。この約束をNez
Percesの人間は決して破りはしない。…それが、白人と友達であるというNez
Perces族の永遠の誇りでもあるのだ。
酋長 Joseph
Nez
Perceの人々は、いつもこの探検隊のことを優しく思い出していた。彼らの何人かがSt.
Louisに居たClarkのもとに、彼が亡くなる前に尋ね、もっと白人のことについて知りたいと申し出た。彼らの訪問が、精神的な救済の申し立てであると教会の広報誌に誤解されて発表された後でも、この部族は、西部にきて彼らに先祖がとった方法は放棄しなければならないと説得するプロテスタントの宣教師達を暖かく迎えた。
そして、1877年、協約が守られなかったことと、誤った待遇に腹をたてて、決して望んでいたわけではないが、戦争に突入し、部族の一部がカナダの教会をめざした。彼らは、最初は、LewisとClarkが通ったのと同じ道を辿り、Bitterrootの山々を越える旅をして、放浪していた。15,00マイル後方で、17回もの戦闘を戦ったあと、国境から40マイルのところで、
彼らのリーダーである酋長Josephは、降参を強いられた。“太陽がいま昇る”、“もはやこれ以上、私には戦う力がない”と彼は言った。
Josephとともに降参した人々のなかにはTzi-kal-tzaという70歳になる老人がいた。Nez
Perceが軍の将校に話したところでは、彼はClarkの息子ということだった。次の年、彼は、故郷からほど遠い、オクラホマのインディアン領地の中で、とらわれの身で亡くなった。
12月15日 1825年 親愛なるジェファーソン様: インディアンに関する問題を管轄する今の私の立場で、私の喜びとするところは、私の管理下に置かれた不幸な人々の条件を少しでも良くなるようにしてあげる権限を与えていただくことであります。私は彼らが悲惨な目に合い、そして、たちまちのうちに元気をなくしていることをよく承知しています。これらのインディアンの嘆かわしい状況がもとで、もはやわが国の扱いに対して人間味を感じなくなっていると言うのはまことに嘆かわしいことであります。
William
Clark
探検隊の仕事を完遂し、直ぐに、William
Clarkは、彼がモンタナの川に彼女に敬意を表して名前をつけた、Virginia
のJulia
( “ Judith”) Hancockと結婚した。そして、彼らはSt.
Louisに移り、そこで、西部地域のインディアンを取り扱う政府の代理人としての仕事に従事した。
インディアン達は彼を“Red-Headed
Chief( 赤い頭をした酋長
)”と呼んで、彼を自分達の友人と認めていた。彼は、1820年代にジェファーソンに、これ以上彼らのために尽くしてあげることは何もないと言ってお詫びの手紙をかいた。ミズーリが合衆国の州となったときに、彼は知事の選挙に破れたが、その原因の一つは、彼が余りにもインディアンに対して“寛大”であったことが取りざたされたからである。
しかし、彼はビジネスの上では成功を納めた。そして、長い人生を通して、幅広く尊敬されていた。山で生活する猟師達、探検家、そして、旅行者がSt.
Louisを旅する時には彼のもとに表敬訪問をした。一方、彼は、彼らにアドバイスを与え、彼らが発見したものを西部のさらに詳しい地図の上に具体的に示した。この地図は、歴史家のなかでは、“地図製作の原型”と認められているものである。
彼は、1838年の9月1日に、彼の最年長の息子であるMeriwether
Lewis Clarkの家で、68歳で亡くなった。
役人であつたLewisは若い頃から、心気症という持病を持っていた。それは、彼の近い親戚のものみんなが持っている生まれつきの病気であった。…彼が西部を探検している間、体と精神的なもののあらゆる機能が必要としている鍛錬を定期的にしなければならないということが、いつも悩みの種として付きまとっていた。;しかし、St.
Louisで、座ってできる仕事に従事するようになってから、彼は、以前にも増して元気を取り戻し、彼の友達に本気で警告を与え始めるようにまでなっていた。彼が業務でどうしてもワシントンに行かなければならなかったときに、彼は、この病気で発作を起こしていた。
Thomas
Jefferson
この探検隊での彼の任務に対する報償として、Meriwether
Lewisはルイジアナ地域の知事に任命された。彼のバートナーであったClark、彼もまた、St.Louisに移り住んだ。
しかし、彼の友達とは違って、Lewisは直ぐに彼の新しい生活のなかでの問題に精神的に押しつぶされてしまった。彼は、何人かの女性と交際したが、結局、誰とも結婚をしなかった。彼は土地に投機をし、大きな損失をした。そして、負債が山のように積み重なっていった。そこで、彼は、政府の義務に拘わる悪さを思いついた。:当時は、土地の問題についての訴訟の文書が山のようにあった。これは、インディアンの貿易会社、ここは何時までも自分達に都合のよい政略ばかり考えていたが、そこと、彼にさからってワシントンに帰ることばかり考えていたこの地域の長官とのいさかいであった。
彼はとうとう深酒をあおるようになり、もともとはマラリヤを治療するために服用していたアヘンを大量に摂取するようになり、そのため、精神的な苦悩に悩まされるようになった。
こんな状況で、結局は、Jeffersonの励ましがあったにも拘わらず、彼は、出版社に執筆すると約束し、社会の熱心な人達が待ち望んでいた探検隊の報告書を仕上げることもしなかった。暫く経ってから、彼はジェファーソンの手紙に返事を書くことも止めてしまった。そして、ついに、1809年に、新しい管理当局が彼の探検についていくつかの質問をしたときに、彼は彼の名前と名誉を守るためにワシントンに行く決意をした。が、結局彼はそれを実行しなかった。
Clarkの助力を得て、財政上のいざこざを解決しようと試みたあと、かれは、船でミシシッピーに旅立った。“長い間、私は昨日のような日を過ごしたことが無かった。”Clarkは、Lewisの旅たちについて彼の兄弟に手紙を書いた。“彼が出発する間際まで、彼にまとわりついていた多くの債権者達が彼を非常に悩まし続けていた。彼はそれを私にたいし、まだ無くなっていない哀れみのもとのようなものだと説明した。
――私は、ルイジアナに、率直な動機をもった者よりももっと正直な者が居たなんてとても信じてもいない。…もし、彼の気持ちが安らかになるなら、私は彼を気持ちよく送ってあげるべきだった。”
旅の途中で、Lewisは手紙を出し、そして、二度ほど自殺をしようとした。川の管轄をする管理官が彼を救い、彼が1人で旅を続けられると、但し、今度は陸路であるが、係官達を説得するまで彼らの管理下におき、二週間ほど彼を注意深く見守った。テネシーに続く、Natchez
Traceと呼ばれる街道があるが、ここを旅して、10月10日に彼は、Nashvilleの南にある小さな宿のGrinder’s
Stand にたどり着いた。
宿のかみさんが後で言うには、このときLewisは、かなり心がかき乱されていたようだった。しかし、それから、彼はポーチに座り、西向きの彼の荷物を紐解きながら、そしてこう言った。“奥さん、今日はとても素晴らしい晩です。”彼は彼女に羽根布団のベッドを用意するのを拒んだ。代わりに彼は、彼の付き添いものに探検隊の時に使っていた熊の毛皮と、バッファローの毛皮でできた服をもってくるようにいい、それを床に広げた。
は彼の苦悩を良く知っていたが、Lewisが召使に確認したように、かれは、助ける途中であったのだ。
そして、10月の11日の午前3時を少し過ぎたとき、まだ、誰もが睡眠の最中であったが、Lewisはじぶんのピストルを取り出し、自分自身に向けて二発発射した。一発目はこめかみをめがけ、そして、二発目は胸に向けて撃たれていた。日が昇り、暫くしてから彼は息を引き取った。( 彼が死んでから数年たって、Lewisは殺されたという者が出てきた。しかし、彼らの誰もがその場にいた人々の説明に対して、説得できるような説明ができるものではないし、また、ClarkやJefferson、彼ら2人が一番良く彼を知って折り、確かに
Grinder’s Standに居たわけではないが、彼らも、また、決してLewisが自ら命を絶ったということを少しも疑ってはいないのであるが、彼らのとった迅速な行動とも異なっている。) “ なんということだ”そのニュースが届いたときClarkはこう書いた。“オーッ。なんと残念なことだ、彼の精神的な負担が彼には重荷過ぎたのだ”
今、我々がしなければならないことは、彼らが同じような方法で2度と繰り返してする必要がないような、我々が子孫のためにしたことを信頼することだ。・・・我々は、この偉大なる国の大動脈となるものを矯正しながら、これを正確に叙述するようにしよう:われわれの後に続く者たちが、…我々が描き始めたそのキャンバスを仕上げてくれるだろう。
Thomas
Jefferson
この発見のための冒険隊の最後の隊員が死んだ時には、合衆国の支配する領土はルイジアナの領域から、はるか遠くまで広がっていっていた。
テキサスは、合衆国に併合された。カリフォルニアと南西部はメキシコとの戦争の戦利品として手に入れた。そして、イギリスは、LewisやClarkが木の幹に彼らの名前を刻んだコロンビア川の河口の周辺である、オレゴンの領域に対する統治権の主張を放棄した。
南北戦争が勃発し、そして勝利を収めたことが、北と南は、合衆国を一つの国であるという気持ちをより強くし、そして、大陸横断鉄道の敷設は、東と西が合衆国と一緒になるという意識を芽生えさせた。このようなことは、かっては考えられなかったことである。同じ頃、LewisとClarkをあれほ
ど驚愕させた、非常に沢山のバッファローの群れが狩猟により絶滅の危機に瀕していた。グリズビーやエルクはとうに、大平原から人里はなれた山々の奥地に移されていた。そして、隊員達が“目の届く限りどこまでも”広がっていると表現した大平原は、いまや、家畜の放牧場となり、小麦の穂の垂れる農場となった。
この世紀の終りまでに、探検隊が通ったルートに当る州の全てが、一同に介し、組織が結成された。 ――Missouri,
Kansas, Iowa, Nebraska, North and South Dakota, Montana, Idaho, Washington, そして
Oregonの州である ――そして、これらの州にはすでに、16百万にものアメリカ人が住んでいるのである。
Jeffersonは、彼がLewisとClarkを調査のために派遣したその土地に人かすむようになるには百世代くらい掛かるのではないかと予測していた。ところが、アメリカ人は、なんと、五世代も掛からずにそれを成し遂げてしまったのである。
発見のための冒険隊は最初であり、また、最後でもある。彼らは、大陸を越えて彼ら追随する彼らの国の残りの地域の、それ以前の状態としての西部を見たのだった。
(
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PROCEEDED ON
数年前の1月のある日の午後のこと、私はノース・ダコタのStantonのちかくの、ある土作りの家のなかで、焚き火に当たりながら背中を丸めていた。外は零下3°という寒さであった。大草原を吹き抜けてくる北風が唸っていた。一日のうちの16時間は暗闇というほど、太陽は地平線の下を横に滑っていた。“寒い”という言葉は、たしかに、どこから夜になるというところを表すために使われてのではない。
私のそばには、Mandans―Hidatsasと国立公園委員会のパークレンジャーであるGerard
Bakerが、コットンウッドの蒔きを火にくべながら辛抱強く座っていた。彼は、Knife
River Indian Villages National Historic Site、ここには、LewisとClarkがこの場所で冬を越したときには、三つのHidatsasの部落があったところであるが、そこに、当時の“生活の歴史”を後世に伝えるために土の家を建てたのである。私は、その時、探検隊の体験と私自身の体験とを、ほとんど二世紀にもなる時間的な隔たりを越えて、結びつけようと思いながら、彼らの通ったルートを再び辿っていたのであるが、まるで草原の中のイグルーのように雪を被った土作りの家で、一晩過ごすことができるかどうか頼んだのであった。
Gerard は、私の申し出にすこし途方にくれたようであったが、それでも、とにかく私と一緒に過ごすことに同意をしてくれ、我々が必要とするものを用意さえしてくれた。彼は、まず、はじめに、新鮮な草の束を燃やして、その煙で家の中の四隅を隈なくいぶした。それは、“聖霊のためだ”と彼は説明した。そして、鉄でできたポットで、ジャガイモ、玉ねぎ、レッドペッパー、それに、バッファローの内臓とバッファローの柔らかい胃壁の部分を煮立て、 ――まるでゴムのような食事をつくり、それを手づかみで食べた。私は、彼に、私が
St. Louis からその上流にかけてしてきた旅のこと、そして、それとキャプテンたちが彼らの日誌のなかで書いているものとを比べ、気のついた変化について語った。かれは、彼の祖先のことを話してくれた。そして、Hidatsasの単調な旋律の歌をいくつか歌ってくれた。そとでは、気温がどんどん下がりはじめ、オーロラが踊り始めた。それは、寝る時間がきたことの記しであった。
Gerardは、5枚の大きなバッファローの毛皮を持ってきてくれ、そのうちの一枚を汚れた床の上に、柔らかい毛のあるほうを上にして敷くように私に促し、そして、残った4枚は、暖かくなるように今度は毛のほうを下にして重ね、そのなかにもぐりこむように言った。
まさしく馬鹿じみた男のために、インディアンの歓待のもてなしをしようとしている彼のことを思いながら、“しかし、貴方はどうするんですか”と私が尋ねた。その時、私はClarkの日誌の冒頭のところに出てくる二人のインディアンのことを思い出していた。彼らは、一晩中、凍りつくようなプレーリーのなかを彷徨い、そして生還したのであった。これこそ、彼らの“習慣と生活様式”が、我々が人間の耐えられる限界を超えて、なおかつ寒さに耐える体力を作り上げている証拠だと記録しているものだ。いぶす儀式、バッファローの食事、キャンプファイヤーを囲んで聞いた物語、そして、この現実をみて私は感じた。歴史は繰り返すのだ。
“貴方は、ほんとうに大丈夫なのでしょうか”と私は念を押した。
Gerardは、焚き火の光に目を輝かしながら、私に微笑みを浮かべた。“私はなんともないですよ”と彼は答え、そして、私のバッファローの毛皮の横に、上等なアヒルの羽毛の入った寝袋を広げた。“こいつは、20°くらい下がってもなんともないんです”
土作りの家でGerardとともに過ごしたその晩以来、私は、LewisとClarkの辿った経路と全く同じルートを三度ほど行き来した。そして、私が数えるそれ以上に、そのルートの途中にあるいろいろな場所を個々に尋ねた。私のルートは、いつも彼らのルートとほとんど一緒であったが、私は、2人のキャプテンが、もし、彼らが、何か魔法のようなものの力で、現代の世界の生活のなかに連れ戻されたら、そして、いうなれば、再発見のための冒険隊として、もう一度、この西部に送り出されたとしたら、どんな風に考えるだろうかと思い巡らしていた。彼らがどんなものに驚くのだろうか? 彼らの目を留めるものはなんなのだろうか?、何を彼らは否定するのだろうか? そして、彼らは何に感謝をするのだろうか?
確かに、北の大草原の極寒の夜に、彼らは苦しみながらもなれたかもしれない。かれらは、バージニア生まれの、温暖な冬になれた紳士達であった。私は、彼らが、Mandans砦での彼らの体験を忘れるはずはないと思う。そこで彼らは、この大陸で与える試練の最も厳しい天候の下にさらけ出されたのである。
そして、私もまた、ミズーリの土手の上に立って、情け容赦のない川の流れの中に浮かぶ莫大な量の氷を見て、まさに自然の力に畏敬の念を抱いたのである。次の日の朝になり、川は凍りついた巨大な塊となり、さらに麻痺をしているような状態を見た。そこは、自然が寒さにより支配されているかのごとくであった。それは、あなたも思い出す何かなのです。(
私の場合は、いつも温度計が零度以下に下がるといつも現われる私の鼻の穴にできるちょっとしたしもやけでその記憶が蘇えってくるのです。)
温度計の水銀柱の“いつも同じところに”、ミズーリの上流の冬の厳しさのしるしを大きくつけて置くようにしてあります。
キャプテンたちは、バッファローの肉も、あるいは、また、Mandans族が 訪問者を歓待することに、なにか新しい発見をしたわけではないだろう。しかし、私
が想像するに,Lewisも、Gerardの寝袋には感動したに違いない ――その軽さ、しかも、その暖かさ、それは、丁度、彼が探検のための装備を整えているときに、フィラデルフィアの町を探し回っていた科学的に見てとても優れた装備に匹敵するものである。キャプテンが、意外な展開、この場合、それは、白人に対して技術的に新しいものを見せびらかしたり、あるいは、また、取引のなかでのちょっとからかったりすることに感謝していたかどうかは、Lewisの気持ちをあなた自身がどのように見るかにかかっている。個人的には、私の場合には、それは疑問に思っている。想像して思うには、彼は、バッファローの毛皮の中に包まっていたときには、黙って、いらいらしていたのではないかと思う。一方、Clarkは、それが彼の場合であったにしても、彼は、冗談の分かる男だった。しかし、彼もまた、残り火が深紅の色に変わるときにGerardが私に話してくれた物語に最も困惑したものの1人だった。
1836年に、歳とったClarkは、尚も、その地域のインディアンの代理人としての仕事に携わっていたときに、政府は2人の医者を、ミズーリ川を遡らせて派遣してきた。その流域に住む全てのインディアンの部族に天然痘のワクチンの注射をするためである。彼らは、冬に彼らが帰る前にほとんどの部族の予防接種を終えていた。Mandans族、Arikaras族、そして、Hidatsas族に施すまえである。ところが何かの理由で、軍部の長官はつぎの年の春、その仕事を完結するために彼らを送り出すことをしなかった。(
そして、議会さえもだまされて、そのプロジェクトは完了しているものと信じ込んでいた。) 大惨事はその夏に襲ってきた。
毛皮商人のボートがその年の取引で支払済みとなっていた荷物を満載していた。そして、不幸にも、その荷物のなかに天然痘の病原菌が入り込んでいたのである。たちまちのうちに無抵抗のインディアン達の間に病気が蔓延したのだった。Gerardは、部族の間で何世代も口伝えに語り継がれているものと同じような、全ての目撃者の説明を読んだのだった。彼は言う、天然痘は、“それは、それは、沢山の死者をだした” ――患者の皮膚にできた分泌物とその避けた傷口、それが、腫れて、痛みを伴い、吐き気がすると、精神が錯乱状態になり、やがて、最後には死に至るという。インディアンの村では、一日に、8人から10人の割合で死んでいったのだそうだ。死体が山積みされ、腐敗したその悪臭が数マイルも離れたところまで臭った。
自分を守ろうという恐怖が、自分自身を見捨て、多くのMandansのものが自殺をして逃避した。死ぬための最も勇敢な行為は何かを討議し、そのあとで、1人の戦士は、自分の喉を掻き切った。また、その一方では、弓矢を自分の肺に突き刺す者もいた。そして、多くのものがミズーリ川に身を投げたのだ。
病気によるこうした悲惨なものをMandansの集中であるFour
Bearsが書き残している。ある戦士のように、彼は、他の部族の酋長と素手で戦い、5人を殺した。また、Cheyenne(
シャイアン
)の戦士からナイフを取り上げ、それで彼を殺した。また、多くのとらわれのものを救ったし、戦いで敵の矢や六発もの銃の弾の傷からも生還した男である。しかし、彼の部族のもののように、彼はいつも白人に対しては友情以外の感情は何も持っていなかった。発熱が最初に彼を襲った時に、彼は、自分の儀式で纏う衣装を身につけ、馬に乗り、彼の部落を神聖な歌を歌いながら駆け回った。そして、彼は、病気がだんだんひどくなり、弱り始めたときに、自分の部族のものに最後の言葉を残した。それを、毛皮商人の1人が書き写し、部族の歴史の本に保存されたのである。それを、Gerardは私に課してくれたのだ。
私は、自分の思い出す限り、ずっと白人を愛してきた。・・・私の知る限り、私は白人を決して悪くしたことはない。そればかりか、わたしは他のものが彼らを侮辱するときには彼らを守ってきた。このことは彼らも否定できるはずがない。
Four Bears は、お腹をすかした白人を見たことがないが、彼は、彼らか必要しているときには、食べ物を与え、飲むものを提供し、そして、寝るためのバッファローの毛皮を準備した。しかし、彼らはそれにどのように報いたかのか!
あまりにも恩知らずではないか!
私は決して白人を犬などと呼んだことはなかったが、しかし、今、私は、彼らに、貴方達は黒い心を持った犬の集団だと声を大きくして言おう。彼らは私を騙した。私がいつもともと認めていた彼らは、いまや、私の最悪な敵対者となったのだ。
私は多くの戦いを闘いぬいてきた。そして、たびたび傷付きもした。しかし、私は私の敵の負った傷も多いに賛美している。そして、私は、いま傷付けられた。誰に?
それは、私がいつも友達とみとめ、そのように付き合ってきた同じ白い犬たちによってである。
私は死を恐れたりしない。あなた方は、そのことをよく知っているはずだ。しかし、狼でさえも私の顔を見て恐ろしくて、ひるむような、そんな醜い顔で死ななければならない私は、彼らに言おう。“それは、Four
Bearsである。白人の友人であるのは”
Four
Bearsとともに、部族の90lのものが、流行病で倒れた。LewisとClarkの時代には、一度、繁栄を極めた部族の村は、大平原のなかで最も大きな町として存在し続けることができたのだが、この時には、ほとんど100人くらいの人口にまで減ってしまった。そして、Arikaras族とHidatsas族の残りの者と一緒に寄り集まって暮すようになった。荒廃という言葉が、St.
LouisにいるClarkのもとに、彼が亡くなる直前に届いたのであろう。彼は、友人を失うという経験はしていたであろうが、“”
Red-Headed Chief 赤い顔の酋長”
の死は、30年前に、探検隊を暖かく迎えてくれた人達の運命を考えると、彼を限りなく悲しませた。Gerardの建てた土作りの家のなかで、およそ2世紀の時間の隔たりのあと、こうしたことを明らかにすることは、疑いなく、彼に熱い思いを滾らわせるのであろう。外
以上は、嘗て三つの部族がともに生活を営んだところである。料理をする日の煙が、数百もの土作りの家の天辺から立ち上っていたのであろう。そして、隣の者どうし、あるいはまた、部落を訪れてきた訪問者達が、一緒に食べ物を味わい、音楽を奏で、そして、冬の寒さを吹き飛ばすような大きな笑い声で、生活していたことであろう。いまは、そこには、幾つもの家が建っていたことを示す大きな、丸いくぼ地が掘られているだけである。それは、丁度、不毛の平原に手をさし伸ばした物乞いをしている多くの手のようにしかみえないが。
私の想像では、Clarkも、私がその晩経験したような同じ不愉快な眠りを味わったのではないかと思う。それは、何時であろうとも、夜の風はシューシューと音を立てているし、コットンウッドは微風のなかでも揺れ動いているように、うなるような風をたてており、そのなかにFour
Bearsの言葉の反響が聞こえてくるような気がするのである。そして、彼もまた、無言の祈祷師に、Gerardがやったように新しい草の束をいぶして友情の聖霊をなだめるように語ったのではなかろうか。
“我々は、前進し続けた”という言葉は、LewisとClarkの探検の日誌のなかで最も多く繰り返されて使われた言葉だ。Floydが、彼が故郷を遠く離れて死ぬ前に、いつも持っていた簡単な日誌のなかで、何回もこの言葉を使った。 ――彼は、ミシシッピー川の西の地域で亡くなった合衆国の最初の軍人である。しかし、確かなことは、彼が最後の死者ではないということだ。彼の同僚のPatrick
Gassも、Joseph
Whitehouseも、そして、John
Ordwayもいつもこの言葉を使った。キャプテンたちにしても然りであった。
現実のことを表す三つの言葉で、彼らは毎朝起きる際の行動を言い表すことができた。ただ、確かなことは今日も又、苦しい仕事をしなければならない新しい日となる未知の地平線に対峙していること、そして、例え確信がなくても、ためらわずにどんどん進むこと、最後に、少なくとも、まだ、太陽があるうちにその地平線の向こうまでちょっとでも先へ行くという簡単には屈しない決意を守ることの三つである。
“我々は前進をし続けた” この言葉は、あらゆる障害に対面したときに、彼らをそれに立ち向かわせるような経典のようなものといってもよい、発見のための冒険隊の実に効果的なモットーとなったのである。それは、彼らの足跡を辿って旅をしている私自身についても同様なことが言えた。その言葉は、彼らは決して戻るなどという安易な選択はしなかったし、過ぎた過去のことに躊躇したり、瞑想にふけったりするようなことはして居なかったということを私に思い出させた。そして、その言葉が、彼らの精神を私の気持ちの中に容易に取り込ませてくれるので、彼らは、私とともに、私のいまの旅に加わることができるのである。キャプテンたちは、着実に発展をし続ける啓蒙主義的な国家という考えに満ちたJefferson主義の典型的な信望者であった。“われわれは前進し続ける”という言葉は、如何に世の中が働いていくかということについての彼らの考え方の象徴のようなものということができた。そして、その言葉は、今日、アメリカ大陸を横断していくルートに沿って見られるさまざまな激しい変化にたいしてとる彼らの行動に影響を及ぼしていくことだろう。
Lewisは、多くの時間を科学的な記録をとるために費やしていた。疑いもなく、かれは、ルイジアナの領域の農耕技術の移転についても興味をもっていたことだろう。Mandansの砦から彼の母宛にだした手紙に、ミズーリは、“この世界のなかでも最も豊富な水をたたえている川の一つだろう、信じたわけではないが、ここには、かなり肥沃な広大な土地がある。”と書いた。彼は、多分、合点したのではないかと思う。彼が、大地はいまや国家の、そして、世界にとって食料のバスケットであると学んだときに、“私が、そう言った筈だ”と、あたかも言うかのごとく。
Clarkは、地形について彼の鋭い観察力で、将来、砦とか、入植地として相応しいようなところを彼の地図の上に記しをつけていた。ミズーリが東の方に鋭く湾曲している、カンザス川の河口付近は、そのような代表的な場所だった。彼は、私が想像するに、彼の昔のキャンプサイトから見た展望を楽しんでいたのではなかろうか。大自然のなかで、二つの川が合流したところ、St.
Louisから西に向かったLewisとClarkのルートの中では最も大きな都市である、カンザスシティのシルエットを浮かびあがらせている。Omahaとか,
Bismarck 、そして、
Portlandといった都市が、当時Clarkが重要な戦略地点と認識していた地点で大きく発展を遂げている。“我々は前進し続けた”、と彼は言うだろう。
更なる変化がある。洪水を防ぐため、そして、灌漑と水力発電をするために多くのダムが建設され、それがミズーリのほとんどを、川というより湖のようにしてしまった。Great
Fallsの“威厳のある壮大な光景”は、Lewisがあれほど感激して表現したものが、今はミズーリ川を後ろに追いやるコンクリートの壁で占領されている。;異常に水量が多い時以外は、滝は枯れてしまっている。同じようなことがコロンビア川についても起こっている。Celilo
Falls、ここは、長短の渓谷があり、多段の滝となっている ――ここは、Clarkが、どっちに行くにしても、岩が盛り上がり、ゴツゴツしていて、激しく流が逆巻いているような、おぞましい光景の場所と言っていた場所 ――そこが、今は、貯水池の下にうずもれている。
探検隊の隊員たちは、この二つの神聖なる川の現状をみてどのように思うだろうか
? 彼らには、猛烈な勢いで流れる多段の滝など、とても考えられないような光景だったが、しかし、それは障害でもあった。わたしは、嘗て、彼らのその威厳が、その美しさをうまく表現するためのより適切な言葉を選ぼうと彼の気持ちを仕切りにそうさせたGreat
Fallsを残念がってみているLewisを想像することができた。 ―― そして、それから、タービンがどのように働いているのかを見るために、やや興奮して発電所の中に入って行った。コロンビア川では、
( そして、その三又の分岐点で、スネーク川が合流している
)、Clarkは、Clarkston
と
Lewistonという双子都市となっているところに荷物を運んでいる、底の深い引き舟の光景に目を丸くするのではないかと思う。いま、この町は、太平洋から400マイルも内陸に入り込んだところにあるのでだが、海への積み出し港として公式に活躍している。
コロンビア川を船の通行のために利用できるようにしているダム、そして、遠くカリフォルニアまで供給している電力発電のためのダムが実質的には鮭を消滅させてしまったいう事実は免れることはできないだろう。その鮭の膨大な量について、Clarkが1805年に日誌に書いているのは、“言葉では言い尽くせないほど”であったとのことである。鮭の量を推定しようという試みすら、実にばかげて見えたほどであった。彼は、もし、彼が私とともにBonneville
Damのずっと奥の方のあるところに行ったとしたら、やはり、今日でも同じように口にだす言葉がないと思う。そこでは、1人の雇い人がいとも簡単に、――そして、何のことはなく ――ダムの魚梯(ぎょてい)が見える窓ごしに、そこを通って泳いでいく成長した鮭を数えているのである。
LewisとClarkは野生生物にたいへん関心を持っていた。彼らは、バッファローの大群が川を渡っていくのをやり過ごすために数時間もカヌーを岸に止めたり、数ヶ月の間旅を続けている間は、グリズビーに遭遇することは日常茶飯事であったりしたこと;膨大な量のエルクの大群や狼達の群れを見たこと;ビーバーがしっぽで水面をたたく音がうるさくて眠れぬ夜を過ごした晩のこと;野性のかもの群れのために昼間の空が暗くなるほどの経験;彼らがそれまでに見たこともないような、想像をはるかにこえる数の自然の動物達についての記述が日誌に溢れていること、;彼らが、“この国では、あまりにもその数が多く、かつ、人を恐れたりしないので、狩猟などばかげていて、誰も自分達のやり方で棍棒を振り回したりするものはいなかった”と日誌に書いているような大自然を通り抜けていったことなどを思い出いているのだろう。
彼らが記録していた有る部分は全く消えてなくなってしまった;また、あるものは、消失する直前で何とかそれを免れている。国家に描かれている同じコインのもう片方は、“我々は、前進し続けた”なのである。
また、我々もほとんどインディアン達に会うことはないだろう。
LewisとClarkこそ、かれらに、自分達は新しい“偉大なる父”を持ったと言った最初の人たちであった。彼らのスビーチのなかで、キャブテンたちは、彼は、“貴方方の国から手をひくようなことは決してしない、かわらぬ友情の手を差し出した”のだと約束した。しかし、今日の、保留地から保留地にかけての旅をすれば、かれらからはそれとはすこし内容の違う自分達の土地を失ったことや、約束を破ったというような話を聞くことになるだろう。Lakotas族や、Nez
Perce族、Shoshone族、Blackfeet族、そして、コロンビア川の流域に居住する部族の人達には、差し出されたその手は拳骨となった。そして、これらの部族にとっては、彼らは、合衆国と決して戦闘をするようなことはなかったが、――SalishやHidatsas、そして、Mandans族のように――友情の握手は不利な状況の証となった。
“議会の決定に従うように”と、Lewisは彼の最初のスピーチの終りに西部のインディアン達に言った。“そして、あなた方は何も心配することはない。なぜなら、寛大な気持ちであなた方に微笑みかけ、そして、将来は、あなた方の子孫は森の木の数よりも多くなるだろう”と。バージニアの紳士の基準によって、Lewisは名誉ということについて鋭敏であった。彼の言葉がどれほど無神経に葬られるかということが、彼を早口にさせ、そして、多分、かれを暗い絶望の淵に落とした。私は、Clarkの顔は、怒りと恥ずかしさのあまり、彼の髪の毛のように赤くなるのではないかと思う。
彼らを慰めるために、私はキャプテンたちをモンタナの中央にあり、議会がダムを築いたり、開発したりすることから保護することに決めているミズーリのWhite
Cliffsにつれていくことだろう。ここは、Lewisがラプソディー風に、“幻のような素晴らしい光景”と日誌に記録した場所である。私は友達と私が何回もしたことを彼に紹介したいと思う。:彼の日誌から歩いた道を読み取り、我々のキャプサイトからそこを尋ね、あるいは、彼が書くのに必死になったことを正確に理解するためにカヌーに乗ったりしたことを。運が良ければ、私たちは、その崖っぷちでビッグホーンを見ることさえできるかもしれない。
われわれと旅をともにすることで、キャンプテンたちは、西部の空が、今もなお、発見のための冒険隊が見たものと同じように大きいこと、そして、地平線はなおもその時と同じように脅し、勇気を奮い立たせていることにきがつくだろう。大平原に照りつける夏の太陽の日差し、そして、まさに恐怖そのものの雹のあらしなど、昔とすこしも変わっていないのだ――ミズーリの川辺のどこもかもでも体験する気の狂いそうな蚊の襲来のことについては言うまでもないことであるが。そして、山々はといえば
? Clarkにとっては、それらは、“あまりにも膨大な量の…万年雪を抱いていた。” その雪は、真夏でさえも山々の頂き覆っているのである;その輝きは遠く離れたところから確認できるのだ。そして、さらに西に進むと、太平洋岸の冬は、雨でびしょびしょの状態なのだ。
発見のための冒険隊が、木の幹に名前を刻むという習慣に便乗したのは海岸の近くであった。日誌の説明から、彼らのナイフの刃の犠牲にならないような木はほとんどなかったようである。私は、彼らがある種の満足感と、安堵感と、そして、誇りを感じながら、自分達が実際に大陸を横断したのだということを実感できたその思いの証として、その日にちと彼らの名前と、そして、イニシャルを綺麗に彫りこんだのではないかと思っている。しかし、こうした気持ちの高まりとともに、恐怖の陰もうっすらと見え隠れしている――恐怖、それは、彼らが、二度と再び故郷に帰れないかも知れない、彼らは連絡が取れなくなるかもしれない、彼らと、そして、彼らのなした偉業が歴史から失われてしまうかも知れないというものである。木に刻んだというのは、自慢と、思い出して欲しいという願いとの両方の気持ちを示すものであった。
その木に刻まれた証が見失われてから久しくたった。しかし、他のものが今も彼らの名前をしっかりと残している。我々が急いでSt.
Louisに戻る途中で、私はそれらのいくつかを確認するだろう:町、村、そして、国立の森、川と峠、高等学校やカレッジ、キャンプサイトはカフェー、LewisとClarkの研究所や救急教会やLewis
and Clark 24-Hour Wrecking Serviceなど。彼らがウィスキーを振舞ったところには、いまはLewis
and Clark 醸造所がある。そして、彼らが馬の肉を食べることから犬の肉に切り替えた場所には、Lewis
and Animal Shelterが建っている。
国の高速道路には、太平洋岸からミシシッピーの東の川岸、そこは、彼らが英雄的なたびの始まりとして乗船した場所であるが、そこまで途絶えることなく、“LewisとClarkの旅程”という標識が立っている。St.
Louisの近くで、私は彼らを乗せLewis
Bridgeを渡り、そして、Clark
Bridgeを越えてドライブすることになるだろう。そして、イリノイ側にわたり、彼らをLewis
and Clark Motelでおろすのだ。“我々は前進しつづけた”と彼らの国の代表として彼らに話すだろう。“それでも、あなた方が忘れられることは決してないですよ。”と。
彼らには、ジェファーソン大統領に報告すべきことが沢山あったのだろう。いくつかはたいへんな誇りを持って、そして、いくつかは、深遠なお詫びの気持ちで。わたしは別れる前に、ノース・ダコタであのGerard
Bakerが作った土作りの家のなかで過ごした寒い夜の次の朝に起こったことを思い出してもう一つの物語を話すことだろう。
彼の寝袋に感謝して、Gerardは私より暖かく目覚めたのだった。私の足はまるで氷の塊のような感覚になり、それを火の近くで温めるのにかなりの時間が掛かった。Gerardは、私のこの経験に敬意を表して私にインディアンの名前をつけてあげるといいながら、私をからかった。“バッファローの毛皮で寝た男”とか“牛の胃袋のような匂いのする男”とは、一体、どんな風に理解したらよいのだろうか
? もう一度、我々は火を囲んで話をした。そして、彼は、ミズーリ川の土手に沿って、新鮮な草で造られた伝統的な家を見に行くという約束をして、もう一度、夏にここに来るように招待してくれた。ここに一つの友情が、一世代と半の間を経て新しい形で作られた ――御互いの住んでいるところの隔たり、人種の違い、あるいは、文化の違いというものを乗り越えて。
我々は、常識的に多くのことを学んだ。彼らは歴史に対する熱意が非常に高く、それは、知的な好奇心からでてくるようなものではなく、もっと現実的な考えから来たものである:素晴らしい将来への旅は、過去の探求とそこからなにかを学び取るというものでなくてはならないと考えである。そして、我々の試みがそのもやもやとしている時代をすっきりとした目で歴史を探求するということである限り、我々双方が、われわれの先達の精神に丁重に注意を払い、それを尊敬したいと思う。
Gerardの彼の先祖の誇りと彼の部族の伝統を生のままで残したいという願いが彼をLewisとClarkの日誌、それは、MandansとHidatsasについて、ほとんどその部族を消滅させてしまうほどの恐ろしい病が流行する前までの、最も詳しく書かれている記録の一つであるが、それに執着させていたのだった。地平線の向こうにある苦難を再確認しながら、自分の国の未知の部分についての私の探求も同じような思いによるものである。発見のための冒険隊の足跡に沿って、ほとんどそれと同じルートでわれわれも旅を進めたが、もし私が彼らの精神に出会うことができるなら、私は2人のキャプテンが私とともに来てくれたことに感謝をするだろう。
その日は、それまでの朝と同じように寒い朝であった。太陽は昇ってはいるが、気温は依然として零下の状態であった。北風の尚も冷たく吠えていた。我々はMandans砦まで歩いていく計画を立てたが、それは、間違いなく骨身に滲みる寒さと疲労を伴うものであった。一瞬、自分達が快い暖かさを感じさせてくれる火のまわりに立ちずさんでいるのに気がついた。しかし、LewisやClarkと同じように、われわれは探検の精神によって行動を開始したのだ。荷物を背にし、新しい日に向かって足を踏み出した。そして、それ以後、前進し続けたのである。